第五話 遅すぎるスリ
冒険者になって三日目、レインの財布が消えた。
「右の路地!」
フィオが叫ぶ。
赤茶色の髪が角を曲がるのが見えた。小柄な少女だ。人混みを縫う足取りは軽いが、驚くほど速いわけではない。
「待て!」
「待てと言われて待つ泥棒がいる?」
少女は振り返り、舌を出した。
次の瞬間、その姿がわずかにぶれた。
一歩だけ距離が開く。
だが、それだけだった。
少女はすぐに元の速度へ戻った。しかも振り返ったせいで荷車にぶつかり、積まれた籠へ頭から突っ込む。
「痛ったあ!」
レインは追いつき、籠から出た足首をつかんだ。
「捕まえた」
「今のなし! 荷車は道じゃないでしょ!」
「道に止まってる荷車に言え」
少女を引き出すと、年は十六ほどだった。擦り切れた上着に短いズボン。腰の袋から、レインの財布が半分出ている。
フィオが遅れて追いついた。
「私のパン代!」
「俺の財布だ」
「中身の使い道は私のパン」
「勝手に決めるな」
少女は二人の言い争いを見て、そっと財布を地面へ置いた。
「じゃ、返したから」
「待て」
「まだ何か?」
「衛兵へ行く」
少女の顔から笑みが消えた。
「それは困る」
「俺も盗まれると困る」
「一回だけ」
「手つきが一回目じゃなかった」
「今日一回目」
言い訳にもなっていない。
少女はクロエリア・スプリントベル・ナイトランナーと名乗った。長い名のわりに、身分証も住所もない。
「クロエでいいわ。孤児だから家名は自分でつけたの」
「夜を駆ける者、か」
「格好いいでしょ」
「荷車には負けたけどな」
「あれは不意打ち」
衛兵詰所へ向かう途中、クロエは三度逃げた。
一度目は魚屋の屋台へ突っ込み、二度目は犬の尾を踏み、三度目はフィオに箒で足を払われた。
「あなた、本当にスリ?」
フィオが呆れて聞く。
「今日は調子が悪いの」
「さっき一瞬だけ速くなったのは、スキルか?」
レインが聞くと、クロエは唇を尖らせた。
「《瞬速》。すごそうな名前でしょ」
「実際は?」
「ほんの少し速くなる」
「何秒?」
「零・一秒」
フィオが指を折って数えようとした。
「数える前に終わるわよ」
クロエが言う。
「発動した勢いで障害物に突っ込むから、使わないほうが速い時もある」
「それでナイトランナー?」
「名前くらい速そうにしたかったの!」
詰所まであと一つ角を曲がるところで、痩せた男の子が駆けてきた。
「クロエ!」
息を切らし、彼女の服をつかむ。
「院長が連れていかれる!」
クロエの目つきが変わった。
男の子から事情を聞くと、彼女はレインへ向き直った。
「財布は返した。殴るならあとで好きなだけ殴られる。だから今だけ放して」
「どこへ行く?」
「あんたには関係ない」
「そう言われると気になる」
「捨て子院よ。税を払えなくて、建物を取られる」
クロエはレインの手を振りほどこうとした。
「あの財布で、何を買うつもりだった?」
「……食べ物」
「自分の?」
「あそこには十一人いる」
レインは手を放した。
クロエが走り出す。
「行くぞ、フィオ」
「衛兵は?」
「その前に、財布を盗まれた理由を見る」
「甘いわね」
「嫌なら来なくていい」
「誰が嫌だって言った?」
フィオは箒を担ぎ、レインを追い越した。
捨て子院の前には、黒塗りの馬車が止まっていた。
玄関で白髪の女が二人の男に腕をつかまれている。庭では子供たちが泣いていた。
「待ちなさい!」
クロエが門を飛び越えた。
馬車のそばに立つ太った男が、帳簿から顔を上げる。
「ようやく戻ったか、泥棒娘」
「院長を放して」
「滞納は銀貨三十枚。今日中に払えなければ、この土地はガルバ商会のものだ」
「そんな金額、昨日は言ってなかった!」
「延滞利息だ」
男は笑い、馬車の扉を叩いた。
中から鎖の音がした。
「ただし、お前がうちで働くなら話は別だ。身軽な娘には向いた仕事がある」
クロエの肩が強張る。
レインは彼女の前へ出た。
「帳簿を見せろ」
「誰だ、お前は」
「財布を盗まれた冒険者」
男が笑った。
「なら、その娘をこっちへ渡せ。被害分も払ってやる」
「断る」
「なぜだ?」
「まだ俺への借りを返してない」
クロエが横から睨んだ。
「格好つけるなら、もう少しましな言い方ないの?」
「急だったから思いつかなかった」
捨て子院へ着いたクロエは、門をくぐるなり別人のように動いていた。
泣く子供の頭を撫で、転んだ幼児を抱き上げ、院長の腕をつかむ男へ噛みつく勢いで怒鳴る。
「その人から手を離して!」
「泥棒娘が帰ったぞ」
商会の男は笑った。
「今度は何を盗んできた?」
クロエは答えず、子供たちを数えた。
一、二、三。
視線だけで庭、玄関、二階の窓を追う。
「十一人、いる」
小さく息を吐いた。
レインはその横顔を見た。
彼女が財布を盗んだ理由を信じたわけではなかった。盗まれた側として腹も立っている。ただ、ここで子供を数える速さだけは嘘ではない。
「いつからここに?」
フィオが院長へ尋ねる。
「クロエが? 七年前です」
院長は痛む腕を押さえながら答えた。
「最初は誰とも話さず、食事のたびにパンを隠しました。次の日も食べられると分かるまで、半年かかった」
「その話しないで!」
クロエが振り返る。
「今も隠してるでしょ」
男の子が言った。
「あれは非常食!」
「枕の下で固くなってた」
「食べようと思ってたの!」
子供たちが少し笑った。
クロエは安心させるため、わざと大きな声を出していた。
商会の男が帳簿を閉じる。
「家族ごっこは終わりだ。金がないなら建物を渡せ」
「この土地は町から借りているはずです」
フィオが言った。
「清掃区域の台帳で見たことがあります」
「借地権は商会が買った」
「町の印章がないわ」
男の手にある書類を指す。
「清掃員が法律を語るな」
「ゴミの分別には詳しいの。紙くずと公文書の違いくらい分かる」
男の顔が歪んだ。
レインは初めて、フィオがこの町で働いてきた時間を見た。
紙一枚動かせない風しかなくても、フィオは毎日通りを歩き、人と場所を覚えた。
清掃員として積んだ知識が、偽造を見抜いた。
スキル以外のものも、連結できるのかもしれない。
人の経験。暮らした場所。誰かを守ろうとする意思。
その考えが形になる前に、馬車の扉が砕けた。
鎖を巻かれた灰色の獣が庭へ転がり出る。
クロエは子供たちへ叫んだ。
「いつもの場所! 小さい子から中へ!」
十一人が一斉に動く。
彼女は何度も危険を想定し、逃げる練習をさせていたのだ。
零・一秒しか続かない速さより、その準備のほうがずっと多くの命を救っていた。
馬車の中で、再び鎖が鳴った。
扉が内側から膨らむ。
太った男の笑みが引きつった。
「おい、薬が切れるには早いぞ」
扉が砕けた。
鎖を巻かれた灰色の獣が、庭へ転がり出る。熊に似た体。額には赤黒い角。商会が違法に運んでいた麻酔中の魔物だった。
子供たちの悲鳴が上がる。
商会の男たちは院長を放し、門へ逃げた。
「クロエ、子供を中へ!」
レインは魔物の前に立った。
「命令しないで!」
「じゃあ頼む!」
「それなら聞く!」
クロエの姿が一瞬ぶれた。
零・一秒だけの加速で、獣の足元を抜ける。子供を一人抱え、玄関へ転がり込んだ。
その速さを見て、レインの胸の連結核が震えた。
火に、速さを足す。
まだ形にはならない。
クロエがこちらを信じていないからだ。
当然だった。会って一時間も経っていない。
「フィオ!」
「分かってる!」
風が指先へ届く。
「《火弾》!」
火球は獣の肩へ当たった。
焦げ跡がついただけだ。
獣がこちらを向く。
太い前脚が振り上げられた。




