第三十三話 今までの全部
アリアドネ・スレッドリンク・エターナルノット。
長い本名を、レインは初めて聞いた。
「宿帳にはアリアとしか書いてなかった」
「宿帳へ店員の本名は書かないよ」
「手紙にも?」
「差出人に長い名前を書くと、紙がもったいないでしょ」
食堂の卓に、十八人が一度には座れない。
そのためアリアへの説明は、三組に分けて行われた。
最初はレイン、フィオ、メモリアーナ、サンドラ。
次はクロエ、セレス、ベル、ネーミ。
最後は、途中で話を聞きたくなった全員が扉や窓から顔を出し、アリアに追い払われた。
「宿を壊さないで」
「まだ何もしてない」
「あなたたちが全員入ったら床が抜ける」
ミルが床板を踏んだ。
「この梁なら大丈夫」
「そういう問題じゃないよ」
説明が終わる頃には夜になっていた。
アリアは空になった皿を重ねる。
「つまり、レインの《微火》と、みんなのスキルが元は一つだったかもしれない。それで、最後の欠片が私の《糸接ぎ》?」
「古文書と連結核の反応は、そう示してる」
「でも私、宿屋から出たこともないよ」
「出る必要はない」
「力だけ貸して、ここへ残れって?」
「違う。決めるのはお前だ」
アリアはレインを見た。
「昔から、その言い方だった?」
「旅に出て覚えた」
「少しは変わったんだね」
彼女は窓の外へ目を向けた。
宿の前では、フィオとクロエがどちらが最初の仲間かで揉めている。フィオが最初。クロエは最初の犯罪者。話はそこから逸れていた。
「怖いよ」
アリアが小さく言った。
「戦ったこともない。町の外も知らない。みんなみたいに、レインの隣へ立てない」
「立たなくていい」
「十八人目なんでしょう」
「順番の話だ。役割は自分で決めればいい」
「私の能力なんて、本当に何にも使えないよ?」
「違う」
レインは、ずっと言えなかった答えを口にした。
「お前がいないと――今までの全部が繋がらない」
アリアの目から、涙が一滴落ちた。
笑いながら、前掛けで拭う。
「それ、ずるいよ」
「最近よく言われる」
「昔は言えなかったくせに」
「昔なら、役に立たない者同士だって笑ってた」
「私も」
アリアは自分の袖口をつまんだ。何度も縫い直され、糸の色が少しずつ違う。
「旅には行かない」
「分かった」
「この宿を守りたい。父さんも母さんもいるから」
「それでいい」
「でも、必要な時は呼んで」
アリアは切れかけた糸へ指を当てた。
「三秒だけなら、繋げるから」
その返事を出すまで、アリアは三日考えた。
一日目、宿を出る自分を想像した。
レインたちと馬車に乗り、知らない町へ行く。魔物と戦い、世界を救う。昔、旅人から聞いた物語のようだった。
胸が高鳴った。
二日目、宿へ残る自分を想像した。
朝にパンを焼き、客室を整え、夜になれば帰ってきた旅人へ食事を出す。昨日までと同じ暮らしだった。
以前なら、それを退屈と呼んだかもしれない。
だがレインが帰ってきた夜、疲れた十八人へ皿を出し、眠れる部屋を作った。旅をする者には、戻る場所がいる。
三日目、両親へ話した。
「行ってもいい」
父は言った。
「宿は私たちで続ける」
母も頷いた。
引き止められなかったことが、少し寂しかった。
同時に、スキルを見て進路を決められた十五歳の頃とは違うと気づいた。
今度は本当に、自分で選べる。
アリアは宿へ残った。
怖いからだけではない。
ここが好きだと、自分で決め直したからだ。
「宿に残るのも、戦いから逃げることになるかな」
レインへ聞いた。
「俺は戦うほうを選んだ。でも、それが全員の正解じゃない」
「本当は一緒に来てほしい?」
「本当はな」
レインは正直に答えた。
「でも、俺が寂しいことと、お前が決めることは別だ」
アリアは笑った。
「少しは大人になったね」
「十八歳に言う?」
「私は十九歳」
「年上だったのか?」
「今まで何歳だと思ってたの」
「同じくらい」
「女の年齢を適当に見ると、十八人全員に怒られるよ」
「肝に銘じる」
アリアは旅立たない。
それでも彼女の選択は、誰より弱いものではなかった。
淡い光が走る。
胸の奥で、最後の音が鳴りかけた。
だが完成しない。
アリアの力が拒んだのではない。
空が拒んだ。
町中の鐘が、同時に鳴る。
夜空が碁盤の目のように割れた。
【分割権能十九系統の接近を確認】
【管理者権限により回収します】
白い手が、空の亀裂から降りてきた。
大きさは町全体を覆うほど。
指先が地上へ触れる前に、ゼノグラードが宿の扉を開けた。
七つあった水晶眼は、残り一つ。
「見つけるのが遅い」
「お前、今までどこにいた」
「神の目を六つ潰していた」
ゼノグラードは空を見上げる。
「世界管理神オルディナスが来る」
オルディナスが降りるまで、ゼノグラードの計算では一刻あった。
十九人は宿の食堂へ集まった。
戦術会議を始めようとしたが、アリアが先に夕食を出す。
「食べて」
「神が来るんだぞ」
「空腹で戦う気?」
クロエが最初に椅子へ座った。
「アリアが正しい」
「お前は朝から食べてないだけだろ」
「だから正しい」
豆の煮込み、硬いパン、塩漬け肉。
特別な料理ではない。
レインが宿代を払えなかった夜と、ほとんど同じ献立だった。
全員が食べ始める。
会話は少なかった。
フィオはいつもよりゆっくり噛み、ミルは二杯目を断った。ヴァレンは剣を手の届く場所へ置き、アルティシアは窓から空を確認している。
「怖い人」
アリアが聞いた。
全員の手が上がった。
「私も」
アリアも手を上げる。
「逃げたい人」
今度は、フィオ、クロエ、シェアの手が上がった。少し遅れてレインも上げる。
「逃げてもいいのよ」
エスメが言う。
「三百年生きて分かった。逃げることと、負けることは同じじゃない」
「でも逃げる場所がない」
クロエは窓の白い手を見る。
「なら戦う」
ノクティリアが答えた。
「選択肢が二つしかないのは気に入らないがな」
フェリは金貨を卓上へ置いた。
「表なら戦う、裏なら逃げる。投げたい人は?」
誰も手を上げない。
「よかった」
フェリは金貨をしまった。
「私も投げたくなかった」
サンドラは砂の小瓶を中央へ置く。
「《概念創造》を最大まで使えば、神を消す武器を作れるかもしれない」
「お前が消える」
「全員で代価を払えば?」
「出会った記憶を失う可能性がある」
メモリアーナが古文書から計算する。
「勝っても互いを忘れる。それは最後の手段です」
一人ずつ、使いたくない手段を口にした。
ネーミリアは、人へ《死ぬ》と名づけない。
ノクティリアは、仲間を領域へ残したまま時間を止めない。
リネアリスは、住民の意思を聞かず町の境界を変えない。
レインも言った。
「《万象連結》が完成しても、誰かの気持ちを勝手に繋がない」
「まだ存在しない能力の禁止事項?」
ベルが聞く。
「強くなってから考えたら、都合よく変えるかもしれない」
「なら記録する」
メモリアーナが一枚の紙へ全員の条件を書いた。
十九人が署名する。
アリアは本名をすべて書き、紙の幅が足りなくなった。
「長い」
クロエが言う。
「今それを言う?」
笑いが起きた。
恐怖は消えない。
それでも、自分が何をしないかを決めたことで、戦う理由の輪郭ができた。
最後の食事を終え、アリアは皿を重ねた。
「帰ってきたら、続きを食べよう」
鍋には一杯ぶんだけ残っている。
アリアの理屈なら、底の気持ちになれば底だ。
最初の夜と同じ、帰るための約束だった。
「なぜ助ける」
レインはゼノグラードへ火を向けたまま聞いた。
「魔王軍へ戻る場所がなくなったから、では足りないか」
「足りない」
「お前たちを実験へ使った。城塞を襲わせ、候補者を危険へ置き、何人も死なせた」
「忘れたと思うか?」
「思わない。許しも求めない」
ゼノグラードは壊れかけた仮面を外した。
「私は秩序を信じていた。強い者が上に立ち、弱い者を役割へ収める。それが世界を安定させると」
「オルディナスと同じだな」
「だからこそ、奴の結論が分かる。十九人は個人ではない。管理不能な機能だ。揃った瞬間、世界ごと消す」
「お前はどうする」
「私自身が管理されていたと知った。七つの眼が見せた情報、魔王から届いた命令、候補者を見つける順番。すべて神が用意した可能性がある」
ゼノグラードは杖を地面へ置いた。
「自分で選んだ最初の行動として、神へ背く」
「それで死んだ人は戻らない」
「ああ」
「戦いが終わったら裁きを受けろ」
「その未来があればな」
レインは火を下ろした。
仲間として許したのではない。
必要だから過去を消すのでもない。
罪を残したまま、今の選択だけを受け取った。




