第三話 紙一枚ぶんの風
清掃員の名は、フィオレンティーナ・ヴァンデル・ブリーズハートといった。
「長い」
「初対面でそれ言う?」
「悪い。でも長い」
「フィオでいいわ。みんなそう呼ぶし」
街灯の下へ出ると、淡い金髪を二つに束ねた少女が、腰に手を当てていた。レインと同じくらいの年に見える。灰色の作業着には埃がつき、背丈より大きな箒を持っていた。
「それで、なんでゴミの間にいたの?」
「宿代がない」
「ああ」
一言で納得された。
「もっと驚いてくれ」
「私も三日前にそこで寝たから」
「先輩だったか」
「敬っていいわよ」
フィオは胸を張り、すぐに腹を押さえた。
きゅう、と小さな音がする。
「腹、減ってるのか?」
「今のは靴の音」
「立ってるだけだろ」
「お腹じゃない」
「何も聞いてないぞ」
フィオの目が細くなった。
レインは両手を上げて降参し、ポケットを探った。夕飯のパンを少し残していた。明日の朝用だったが、半分に割って差し出す。
「いるか?」
「いらない」
言葉とは逆に、視線はパンへ吸いついていた。
「そうか」
「待って。捨てるなら食べる」
「捨てない」
「清掃員として食品廃棄を見過ごせないの」
「食べたいなら食べたいと言え」
「食べたい」
あまりに真っ直ぐ言われ、レインは笑った。
フィオはパンを受け取ると、半分を二口で食べた。
「助かった。今日、一食目」
「仕事してるのに食えないのか」
「今月、箒を二本折ったから給金から引かれた」
「使い方が荒いんじゃないか?」
「違うわよ。魔物が出た時に殴ったの」
「二回も?」
「一匹に二本」
「勝ったのか?」
「箒が?」
「君が」
「逃げたに決まってるでしょ」
フィオは残ったパンを大切そうに布で包んだ。
「あなた、冒険者?」
「志願者。今日落ちた」
「スキルは?」
レインは指を立てた。
「《微火》」
小さな火が灯り、フィオの顔を照らした。
「おお」
初めて、笑われなかった。
「いい反応だな」
「パンを焼き直せる」
「やっぱり戦闘には使えないか」
「私のよりましよ。見せてあげる」
フィオは足元から紙くずを拾い、木箱の上へ置いた。両手で髪を押さえ、真剣な顔で息を吸う。
「《微風》!」
紙の端が、かすかに浮いた。
それだけだった。
「今、動いたか?」
「動いた」
「もう一度」
「連続では無理。次は一分後」
「掃除には?」
「箒を使ったほうが千倍速い」
二人はしばらく紙を見つめた。
先に笑ったのはフィオだった。
「すごいでしょ。神様から頂いた、紙一枚ぶんの風」
明るい声だった。
その明るさに、レインは何も言えなくなった。何度も笑われた人間は、先に自分を笑うようになる。それなら傷つかずに済む。
自分にも覚えがあった。
「俺は好きだけどな」
「何が?」
「その風」
フィオが眉を寄せた。
「パン半分で口説けると思ってる?」
「違う。俺の火は三秒で消える。でも、風があれば少しは大きくなるかもしれない」
「火事になったら私の責任?」
「ならないように試す」
「どこで?」
路地の奥から、低いうなり声が聞こえた。
フィオの表情が消える。
「今から場所を選んでる余裕、なさそう」
暗闇から、犬に似た魔物が姿を現した。
犬より一回り大きい。背中から黒い棘が伸び、口の端には泡が浮いている。
「あれ、知ってるか?」
「路地喰らい。夜のゴミを漁る魔物」
「強い?」
「箒を二本折った相手」
「その一匹かよ」
「感動の再会ね」
路地喰らいが飛びかかった。
フィオの箒が横から叩きつけられる。穂先が鼻面を打ち、魔物の軌道をわずかに逸らした。
「走って!」
「君は?」
「仕事道具を三本も折ったら、今月の給金がなくなる!」
「心配する順番がおかしい!」
レインは木箱を蹴った。箱が倒れ、路地を半分塞ぐ。二人は並んで走った。
背後で木が砕ける。
足音が迫った。
大通りまでは遠い。このままでは追いつかれる。
「フィオ、風はまだ使えないのか!」
「あと二十秒!」
「長いな!」
「一分って長いのよ!」
曲がり角の先は行き止まりだった。
高い石壁。左右には鍵のかかった倉庫。隠れる場所もない。
フィオが箒を構えた。
「先に言っとくけど、これを折ったら弁償を半分お願い」
「生き残ったらな」
レインも拳を構える。
路地喰らいがゆっくり近づいてきた。もう獲物が逃げないと分かっている。
「火を出して」
フィオが言った。
「目くらましにもならない」
「さっき言ったでしょ。風があれば大きくなるかもって」
「試したことはない」
「私もないわよ」
フィオは笑った。強がりだとすぐに分かった。箒を握る手が震えている。
「でも、箒よりは夢がある」
路地喰らいが地面を蹴る。
レインは指先を向けた。
「《微火》!」
橙色の火が灯る。
同時に、フィオが叫んだ。
「《微風》!」
紙一枚しか動かせない風が、小さな火へ触れた。
その瞬間。
二人の間で、何かが噛み合った。
音ではない。光でもない。
ばらばらだった二つのものが、初めから一つだった形へ戻るような感覚。
レインの胸の奥で、見えない鎖が鳴った。
【共鳴を確認】
【《微火》と《微風》を連結します】
【スキル連結成功】
【《火弾》を獲得】
【潜在スキル《連結》の発現を確認】
「え?」
指先の火が丸く膨らんだ。
拳ほどの火球が、轟音とともに飛び出す。
路地喰らいの鼻先へ直撃した。
魔物の体が宙で反転し、石畳を滑る。焦げた毛の匂いが路地に満ちた。
火球は消えた。
路地喰らいは動かない。
静けさの中、折れた箒の柄だけが石畳を転がった。
フィオはそれを見下ろした。
「三本目……」
「先にそっちか?」
「給金……」
「今のを見ただろ!」
「見たわよ! だから混乱してるの!」
フィオはレインの襟をつかんだ。
「何したの、今!」
「分からない!」
「私の風、あんなに強くない!」
「俺の火だって飛ばない!」
二人は同時に黙った。
レインは自分の指を見る。
そこにはもう火はない。だが胸の奥に、今まで存在しなかった熱が残っていた。
「《連結》って出た」
「何、それ」
「分からない。授技能式では《微火》しか表示されなかった」
胸の熱へ意識を向けると、二つの力を収める核の形がぼんやり分かった。レインは、それを連結核と呼ぶことにした。
弱い火と、弱い風。
どちらも一人では何の役にも立たなかった。
それなのに、繋げた途端、魔物を倒した。
フィオが恐る恐る口を開く。
「もう一回、出せる?」
「たぶん」
「じゃあ、その前に逃げましょう」
「どうして?」
フィオは倒れた魔物の向こうを指さした。
暗闇の中に、いくつもの目が浮かんでいた。
路地喰らいの群れが、焦げた仲間の匂いを嗅いでいる。
「あれ全部、倒せると思う?」
レインは胸の熱へ意識を向けた。
新しい力の形が、はっきりと分かる。
ただし使えるのは一発。次に撃てるまで、かなり時間がかかる。それもなぜか分かった。
「一匹なら」
「残りは?」
「十五匹くらい」
「よし、逃げるわよ!」
二人は同時に駆け出した。
その夜、レインは初めて魔物を倒した。
同時に、自分の人生を変える力を手に入れた。
けれど彼とフィオが安全な大通りへ転がり込み、衛兵に不審者として捕まるまで、あと三分ほどかかった。
逃げる途中、《火弾》をもう一度使おうとした。
胸の奥に新しい形はある。そこへ意識を向ければ、火球の輪郭まで分かる。
だが、出ない。
「どうしたの!」
フィオが走りながら叫ぶ。
「次が撃てない!」
「一発限定!?」
「知らない!」
「自分のスキルでしょ!」
「できてから一分も経ってない!」
路地喰らいの群れが角を曲がる。先頭の一匹が壁を蹴り、二人の頭上へ飛んだ。
フィオが箒を振る。
折れた柄しか残っていない。それでも牙の横へ差し込み、噛みつく方向を逸らした。
「左!」
レインはフィオの肩を抱き、横道へ飛び込む。
行き止まりではない。洗濯物の間を抜け、共同井戸を一周し、眠っていた猫を三匹起こした。
「この町、道が分かりづらすぎる!」
「清掃員の私に任せて!」
フィオが先へ出る。
二つ目の角を右へ。樽の山を飛び越え、細い階段を上がる。
その先も行き止まりだった。
「任せろって言ったよな?」
「夜は景色が違うの!」
背後から群れが来る。
レインは胸の熱を探った。
何かが足りない。
火ではない。風でもない。
さっき二つの力が重なった時、互いを信じる暇などなかった。ただ、生き残りたいという意思だけが同じ方向を向いた。
今はどうだ。
レインは自分だけで新しい力を再現しようとしている。
「フィオ、手を貸してくれ」
「箒なら折れた!」
「そうじゃない。もう一度、《微風》を俺へ」
「まだ使えない!」
「あと何秒?」
「十!」
長い。
路地喰らいが階段を上がる。狭い場所で互いにぶつかり、一列になった。
レインは石を拾い、先頭へ投げる。鼻に当たり、少しだけ足が止まる。
「九!」
フィオも石を投げた。
「八、七、六!」
「途中を省くな!」
「数えてる場合じゃない!」
先頭が飛びかかる。
レインは折れた箒を横に構え、牙を受けた。木が軋み、掌が裂ける。
「今!」
「《微風》!」
風が届く。
胸の熱が戻った。
《火弾》はレイン一人の所有物ではなかった。形は彼の中に残る。それでも、元になった者がそばにいて、力を貸す意思を向けた時に最も強くなる。
「《火弾》!」
二発目が先頭の足元へ当たる。
倒しきれない。だが爆風で群れが階段を転がり落ちた。
「走れ!」
二人は路地へ戻り、今度こそ大通りへ出た。
夜警の槍が二人へ向いた。
「止まれ!」
「後ろ!」
衛兵たちが群れを見て、警笛を鳴らす。
一本の捕縛網が路地へ広がり、先頭の魔物を絡め取った。残りは松明と槍で追い返される。
安全になった途端、レインの脚から力が抜けた。
フィオも隣へ座り込む。
「生きてる?」
「たぶん」
「私も」
二人の間には、折れた箒の柄がある。
「弁償、半分だったな」
「覚えてたの?」
「生き残ったから」
衛兵が近づき、二人を見下ろした。
「夜間の路上で無許可の攻撃魔法。事情を聞かせてもらう」
「魔物を倒したんです」
レインが言う。
「冒険者証は?」
「今日、十八秒で落ちました」
「自白が早いな」
衛兵はレインを立たせ、次にフィオの作業着を見た。
「町の清掃員が何をしている」
「ゴミを片づけてました」
フィオは焦げた路地喰らいを指す。
「大きくて、牙があって、ちょっと手間のかかるゴミです」
衛兵は笑いそうになり、咳でごまかした。
詰所へ連れていかれる間、レインは自分の掌を開いた。
傷の上に、小さな煤がついている。
火打石以下の火が、初めて何かを守った跡だった。




