第二話 裏通りの宿泊客
「一泊、銅貨二枚だよ」
宿屋の娘は申し訳なさそうに言った。
長い黒髪を背中で結び、生成りの前掛けをつけている。名はアリア。レインがラグナへ来てから、毎晩食事を少し多めによそってくれた娘だ。
レインは掌の銅貨を数えた。
七枚あったはずが、今は一枚しかない。受験料、昼の黒パン、脇腹に塗る薬。銅貨は驚くほど簡単に消えた。
「一枚で床を借りるのは?」
「父さんに怒られる」
「だよな」
「でも、物置なら――」
「それも怒られるだろ」
アリアは返事をせず、カウンターの傷を指でなぞった。
彼女を困らせたいわけではない。
レインは残った銅貨を置いた。
「夕飯を一つ。なるべく腹にたまるやつ」
「宿は?」
「星が見える部屋を見つけた」
「それ、外だよね」
「風通しもいい」
「外だよね?」
出てきた皿には、豆の煮込みと厚いパンが二切れ載っていた。銅貨一枚の量ではない。
「多いぞ」
「鍋の底に残ってたから」
「まだ鍋いっぱいあるけど」
「底の気持ちになれば底なの」
妙な理屈だった。
レインは礼を言い、ゆっくり食べた。急げば、今夜の楽しみがすぐ終わってしまう。
「試験、どうだった?」
アリアが聞いた。
「十八秒」
「合格まで?」
「不合格まで」
「早いね」
「記録を狙えるかもしれない」
アリアは笑わなかった。
「村へ帰るの?」
豆を噛む歯が止まった。
帰れば畑仕事がある。父も母も、きっと責めない。だからこそ帰りづらい。
十五歳の授技能式で《微火》を授かってから、村人はレインを慰め続けた。
火が出るだけいい。
生活には便利だ。
危ない仕事をせずに済む。
どれも優しい言葉だった。その優しさが、レインには「お前には何も期待していない」と聞こえた。
「帰らない」
「次はどうするの?」
「仕事を探す。荷運びでも皿洗いでも、再試験料を稼げればいい」
「また受けるんだ」
「十八秒なら、あと四十二秒伸ばせば受かる」
「ずいぶん伸ばすね」
「前向きだろ」
「計算が雑なだけじゃない?」
今度は二人とも笑った。
食事を終え、レインは立ち上がった。アリアが空の皿を下げようとして、袖を木のささくれに引っかける。
ぷつり、と糸が切れた。
「あ」
アリアは袖口をつまんだ。淡い光が指の間を走り、ほどけた二本の糸が触れ合う。
切れ目が消えた。
「今の、スキルか?」
「《糸接ぎ》。切れた糸を少しだけ繋ぐの。すぐ戻っちゃうけど」
言い終わる前に糸は離れ、袖口がまた開いた。
アリアは肩をすくめる。
「針で縫ったほうが早いよ」
「便利そうに見えた」
「レインの火も、夜道では便利そうに見えるよ」
「三秒で暗くなる」
「私の糸も三秒くらい」
二人は顔を見合わせた。
「神様、もう少し奮発してくれてもいいのにな」
「本当にね」
アリアは針箱をカウンターへ置き、その場で袖を縫い始めた。
針へ糸を通す手つきは速い。《糸接ぎ》がなくても困らないよう、何年も練習したのだろう。
「いつ、そのスキルをもらった?」
「十五歳の時。授技能式で」
「周りは何て?」
「母さんは裁縫に向いてるって。父さんは宿のシーツを直せるって」
「俺の家と同じだな」
「優しく困った顔?」
「そう」
アリアは針を止めた。
「みんな、悪くないんだよね」
「分かってる」
「だから怒れない」
「それも分かる」
二人とも、家族へ感謝していた。
同時に、役に立たない子供を励ます声を聞くたび、自分の将来が狭くなるのを感じていた。
「私は宿が好き」
アリアは縫い目を確かめた。
「父さんと母さんの仕事を継ぐのも嫌じゃない。でも、それを自分で選んだのか、スキルを見た周りに選ばされたのか、時々分からなくなる」
「旅に出たい?」
「分からない」
「俺は出た」
「それで、十八秒?」
「そこへ戻すなよ」
アリアが笑う。
笑ったあと、真面目な顔でレインを見た。
「帰る場所がなくなるほど、無理しないでね」
「帰る場所、まだあるのか?」
「宿代を払えば」
「厳しいな」
「商売だから」
アリアは針箱の底から、小さな糸巻きを一つ出した。紺色の丈夫な糸だ。
「持っていって」
「何に使う?」
「服が破れた時」
「縫えない」
「覚えなさい」
「スキルで繋いでくれれば?」
「三秒後に裸になるよ」
「それは困る」
糸巻きを受け取る。
その後、レインは何度もその糸を借り、服や荷袋を直した。
最後の一人を探して世界中を回る頃には、最初にアリアからもらった糸だったことすら忘れていた。
ただ、旅の間ずっと、切れたものを繋ぐ道具は彼の荷物の中にあった。
レインは宿を出た。
夜のラグナは昼より冷える。石壁に囲まれた町には風の逃げ道が少なく、細い路地を冷気が駆け抜けていた。
裏通りで、雨の当たらない軒下を見つけた。木箱を背もたれにして座る。脇腹が痛み、横になる気にはなれない。
「《微火》」
指先に火が灯る。
三秒だけ、辺りが見えた。
積まれた樽。壊れた椅子。壁際のゴミ袋。そして、こちらを見ている二つの目。
火が消えた。
暗闇で何かが動いた。
「誰だ?」
返事はない。
レインは立ち上がり、拳を構えた。十秒待つ。もう一度、火を出す。
「《微火》」
照らされたのは、古びた箒の先だった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
箒がレインの額を突いた。
火が消える。
「ちょっと、動かないで!」
暗闇から、若い女の声がした。
「動くなって、いきなり箒で――」
「ゴミ袋が喋った……」
「人間だ!」
「先に言ってよ!」
「喋った時点で分かれよ!」
これが、レイン・クロフォードと最初の仲間との出会いだった。
レインがそう言うたび、フィオは「最初は大きな生ゴミだと思った」と訂正した。




