第一話 火打石以下
指先に、火が灯った。
橙色の、小さな火だった。
一秒。
二秒。
三秒。
ふっと消える。
レイン・クロフォードは右手を握り、もう一度だけ念じた。
「《微火》」
何も起きない。
一度使うと、次に火を出せるまで十秒ほどかかる。薪に火を移すなら十分だ。だが、目の前にいる試験官は薪ではなかった。
「終わりか?」
傷だらけの革鎧を着た男が、机の向こうで頬杖をついている。
「はい」
「熱は?」
「普通の火と同じです」
「大きくは?」
「なりません」
「飛ばせるか?」
「飛ばせません」
「三秒より長くは?」
「無理です」
試験官は羽根ペンを置いた。
「火打石以下だな」
広間の後ろで、誰かが吹き出した。
ここは城塞都市ラグナの冒険者ギルド。朝から二十人ほどの志願者が集まり、順番に固有スキルを披露していた。
石の的を砕く《剛腕》。十歩先の音まで拾う《遠耳》。傷口を塞ぐ《治癒》。名前を聞いただけで役割が分かる能力ばかりだ。
その中で《微火》は、見事なまでに何もできなかった。
「便利ではあります」
レインが言うと、試験官は片眉を上げた。
「何に?」
「朝、竈に火をつける時とか」
「ここは料理人組合じゃない」
今度は広間のあちこちから笑い声が上がった。
レインも一緒に笑えればよかった。けれど喉の奥が固まり、うまく息が出ない。
「実技試験を受けるだけなら止めん。ただし、魔物役は手加減しないぞ」
「受けます」
「忠告はしたからな」
試験官は受験票に赤い線を引いた。
不合格を示す線ではない。まだ。
それでも、その色は結果を先に書かれたように見えた。
レインは受験票を受け取り、訓練場へ向かった。
田舎を出て十二日。路銀は銅貨七枚。今夜の宿代には二枚かかる。今日落ちたら、明日の朝食を諦めても再試験料には足りない。
だから、勝たなければならなかった。
訓練場の中央には、木剣を持ったギルド職員がいた。大柄な男だ。兜には二本の角がつき、ゴブリンを真似た緑色の面をかぶっている。
「規則は簡単だ!」
審判役の女が声を張った。
「制限時間は一分。魔物役に一撃入れるか、一分間生き残れば合格。降参するなら地面を三度叩け。では――始め!」
木剣が、いきなり顔へ来た。
レインは身を沈めた。頭の上で風が鳴る。そのまま前へ踏み込み、相手の腹を殴ろうとする。
膝で止められた。
「ぐっ」
息が潰れる。
男は容赦なく木剣を振り下ろした。レインは横へ転がる。肩をかすめただけなのに、腕が痺れた。
「逃げるだけじゃ受からんぞ!」
観客の声が飛ぶ。
分かっている。
レインは立ち上がり、指先を男の目へ向けた。
「《微火》!」
小さな炎が灯る。
男の足が一瞬だけ止まった。
その隙に飛び込む。拳が革鎧に届く――直前、木剣の柄が脇腹へめり込んだ。
地面が跳ねた。
違う。自分が転がったのだと気づくまで、少しかかった。
「終わり!」
審判の声が響いた。
「受験者レイン・クロフォード、不合格!」
鐘が鳴る。
開始から、十八秒だった。
地面に頬をつけたまま、レインは消えた火の匂いを嗅いでいた。
焦げたものは何もない。
自分の指すら、温まっていなかった。
控室へ戻ると、次の受験者が立ち上がった。
栗色の髪を短く刈った少年だ。待ち時間に少し話した。鍛冶屋の次男で、名をダンという。
「見てろよ。俺は一分もいらない」
ダンは緊張を隠すように笑い、訓練場へ出た。
固有スキルは《硬化》。両腕の皮膚を鉄のように変える。攻撃にも防御にも使える、誰が聞いても当たりと分かる力だった。
開始の鐘。
ダンは魔物役の木剣を腕で受けた。
鈍い音がする。木剣が跳ね返る。
見物人から歓声が上がった。
そのまま腹へ拳を入れ、七秒で合格した。
「受験者ダン・ロッソ、合格!」
ダンは拳を掲げた。
控室へ戻る途中、レインの前で足を止める。
「悪いな」
「何が?」
「俺だけ受かって」
「謝ることじゃない」
「お前も鍛えれば何とかなるって」
善意だった。
だから、余計に痛かった。
「そうだな。おめでとう」
レインは手を差し出した。ダンは握り返し、仲間に囲まれて去った。
七秒の合格と、十八秒の不合格。
十一秒しか違わない。
けれど、その間には越えられない壁があるように見えた。
受付で返された書類には、スキル適性の欄があった。
攻撃、不可。
防御、不可。
探索、不可。
補助、最低。
推奨職、炊事係。
「炊事係も立派な仕事ですよ」
受付の女性が言った。
「分かってます」
「冒険者だけが仕事ではありません。生活魔法の登録所なら、《微火》でも雇い先があるかもしれません」
「ありがとうございます」
書類を畳む。
受付の女性は親切だった。試験官よりずっと。
それでも、レインがここへ来た理由は炊事の仕事を探すためではない。
三年前の授技能式を思い出す。
村の神殿で、十五歳になった子供が一人ずつ水晶へ触れた。
幼なじみのハルトは《豊穣》。畑の実りをわずかに増やす力だった。村中が喜び、彼の家にはその日のうちに縁談が三つ来た。
レインが触れると、水晶の中に小さな火が浮かんだ。
神官はしばらく黙り、聞き返した。
「これだけか?」
自分で与えたわけでもないのに、神官は残念そうな顔をした。
母は夕食で言った。
「竈に火をつけてもらえるから、母さんは助かるよ」
父は畑道で肩を叩いた。
「危ないことをしなくて済む」
二人とも優しかった。
レインはその優しさに甘え、三年間、毎朝竈へ火をつけた。
ある冬の夜、山から灰狼が下りてきた。
家畜小屋の前で、父と村人たちが槍を持つ。レインも外へ出ようとしたが、母に腕をつかまれた。
「あなたの火では戦えない」
責める声ではなかった。
事実だった。
父は脚を噛まれ、春まで畑に出られなかった。灰狼は、ハルトが呼んだ町の冒険者に倒された。
その日から、レインは竈へ火をつけるたびに考えた。
本当に、これだけなのか。
三年考えても答えは出なかった。
だから村を出た。
世界のどこかに、《微火》を戦う力へ変える方法があると信じたわけではない。ただ、村の竈と畑の間を歩いているだけでは、答えがないことだけは分かった。
ギルドを出ると、夕方の風が脇腹へ染みた。
合格した志願者たちが、向かいの酒場で乾杯している。窓の向こうでダンが笑っていた。
レインは立ち止まらなかった。
宿へ向かいながら、受験票の赤い線を破ろうとした。
指に力を入れる。
それでも破れなかった。
不合格だった記録まで捨てたら、本当に何も残らない気がした。
紙を畳み直し、胸の内側へしまう。
「次は十九秒だ」
誰にも聞こえない声で言った。
一分生き残るには足りない。
それでも十八秒よりは先だった。




