第二十四話 一文字が覚えていたもの
禁書庫の扉は内側から封鎖されていた。
「下がって!」
ミルが蝶番を短槌で砕く。ヴァレンが剣を差し込み、二人で扉をこじ開けた。
煙の向こうに、メモリアーナがいた。
「追わないとは言った。見捨てるとは言ってない!」
その言葉を、メモリアーナはスキルを使わずに覚えた。忘れるかもしれない、普通の記憶として。
床には本が積まれ、その中心で一冊の古文書を抱えている。
「何をしてる!」
「これだけは燃やせません」
「持って出ろ!」
「棚が崩れて、足を」
倒れた書棚に左脚を挟まれている。
セレスが隙間を一パーセント圧縮し、ミルとヴァレンが棚を持ち上げた。クロエがメモリアーナを引き出す。
窓の外に黒い影が並んだ。
魔王軍の弓兵だ。
「伏せろ!」
矢が禁書庫へ降り注ぐ。
レインは《時止爆炎領域》を展開した。矢が空中で止まる。
三秒。
仲間も炎も止まる。領域の外にいる弓兵だけが次の矢をつがえていた。
時間が動く前に、レインは火球を敵の足元へ配置する。
三秒後、爆発。
弓兵が屋根から落ちる。
だが、同じ敵が立ち上がった。
黒い鎧の内側から、青い膜が広がっている。
「前の戦いを記録して、防御術を変えてる」
ノクティリアが言った。
「ゼノグラードの解析部隊だ」
二度目の火球も青い膜に吸われた。
「同じ攻撃は通じない」
ヴァレンが窓辺で矢を弾く。
「なら、違う攻撃を作る!」
「今から?」
メモリアーナが古文書を開いた。
「違います。前と同じ敵なら、前の弱点を使えばいい」
「覚えてるのか?」
「私が覚えた一文字は、『継』です」
古文書の一節を指す。
そこには、世界管理神に関する古い記録があった。大部分は消されている。唯一、墨が残っている文字が「継」だった。
「この文字を見た時、書かれていた頁すべてを覚えました」
「一文字だけじゃないの?」
「文字そのものだけです。でも、紙の傷、墨の濃さ、周囲の余白まで完全に覚えている。何百年も考えて、消された文章を形から復元しました」
メモリアーナは文章を暗唱した。
「神は危険な権能を十九に裂き、継ぐ力を持つ核から遠ざけた――」
レインの胸が熱くなる。
「十九?」
「続きは生きて出てからです」
メモリアーナは弓兵を見る。
「あの青い膜は、発動のたび左肩の宝石から広がっています」
「一度見ただけで?」
「位置は書き留めました。移し方の癖は、今から読みます」
レインは左肩へ火球を撃つ。
宝石が位置を変えた。弓兵も弱点を隠すことを学んでいる。
「次は腰!」
メモリアーナが叫ぶ。
二発目。宝石は胸へ。
「右胸!」
三発目が宝石を砕いた。
防御膜が消える。
だが敵は十人いる。全員、宝石の位置を変え続けていた。
「一人ずつでは間に合わない」
「私の記憶を、あなたの火へ追わせられますか」
メモリアーナが聞いた。
「できる」
「また即答ですね」
「疑う時間がない」
「私はあなたを危険人物だと思っています」
「それでもいい」
「三日間、追わなかった」
「約束したからな」
「なのに、今は来た」
「助けを求められてなくても、火事は消す」
メモリアーナは古文書を胸へ抱いた。
「あなたを信じるのではありません。あなたが守った約束を記憶します」
胸の奥で十一個目の音が鳴る。
【共鳴を確認】
【《時止爆炎領域》と《一文字記憶》を連結します】
【スキル連結成功】
【《記録追跡時空砲》を獲得】
敵十人の動きが、レインの意識へ記録される。
踏み込み。呼吸。宝石を移す癖。
一度目は腰、二度目は胸、三度目は兜。
火球は現在の位置を狙わない。敵が次に移す場所へ先回りして転移した。
十個の宝石が同時に砕ける。
防御膜が消えた瞬間、時間領域が敵だけを包む。
弓兵は止まり、ヴァレンが一人ずつ弓を斬り落とした。
「殺さないのか?」
時間が戻った後、メモリアーナが聞く。
「話を聞きたい」
「甘いですね」
「よく言われる」
「だから、誰にも言われてないでしょう」
燃えた禁書庫から運び出せた本は一冊だけだった。
宿で開くと、頁の端に別の文字が浮かび上がった。
神の名。
オルディナス。
そして、十九に裂かれた力を示す図。
中央の核から、十八本の線が伸びている。
「これ、俺の《連結》だ」
レインが言う。
「結論を急がないでください」
メモリアーナは本を閉じた。
「記録が一つでは、真実とは限りません」
「一緒に調べてくれるか?」
「あなたが危険人物かどうかも含めて」
「それでいい」
メモリアーナは一行へ加わった。
同じ夜、魔王城ではゼノグラードが焼け残った禁書庫の写しを読んでいた。
「オルディナス」
その名を口にすると、七つの水晶眼の一つが砕けた。
仮面の下から血が流れる。
「神は、読まれることすら拒むか」
ゼノグラードは初めて、自分の上にいる存在を疑った。
メモリアーナが「継」の一文字を選んだのは、偶然ではない。
長命族の成人式では、一生覚える文字を自分で決める。
王の名を一字選び、忠誠の証にする者。
愛する者の名を選ぶ者。
学者は「知」や「真」を選ぶことが多い。
若いメモリアーナは、どれも選べなかった。
一文字を決めれば、残りすべてを忘れる可能性が怖かった。
成人式を百年延ばした。
周囲から臆病者と呼ばれ、大書庫の整理係として暮らした。
ある日、廃棄予定の古文書で、墨を削られた頁を見つけた。
残っていたのは「継」の一字だけ。
誰かが消そうとして、消しきれなかった文字。
メモリアーナはその場で《一文字記憶》を使った。
一文字を完全に覚えた。
最初の百年は、形を写した。
次の百年は、墨の成分を調べた。
さらに百年、削られた紙の繊維から周囲の文字を推測した。
一生で一文字しか覚えられない能力を、一文字から一頁を取り戻す研究へ変えた。
「あなたは一文字を覚えただけではありません」
禁書庫の火が消えた後、レインが言った。
「何百年も、忘れなかった」
「同じことです」
「違う。スキルが覚えたのは一瞬だ。その後、調べ続けたのはお前だ」
メモリアーナは焼けた頁を布で包んだ。
「あなたは、何でも本人の努力へ戻したがるのですね」
「駄目か?」
「危険です。努力できなかった者を、今度は責めることになる」
レインは言葉に詰まった。
「弱い能力にも価値がある。それは正しい。でも、価値を証明するため誰もが何百年も努力できるわけではありません」
「そうだな」
「素直ですね」
「お前が正しいから」
メモリアーナは少し驚き、焼けた本を抱え直した。
「なら、こう記録します。《一文字記憶》が入口を作り、私の時間が頁を開いた。どちらが欠けても復元できなかった」
「それがいい」
レインは、その違いを忘れないようメモリアーナの記録へ残してもらった。
弱い力へ価値を見つけることと、役立つことを強制しないこと。
似ているようで、違う二つだった。
一方、魔王城のゼノグラードは、砕けた水晶眼を机に置いた。
オルディナスの名を読んだだけで、解析眼の一つが壊れた。
偶然ではない。
七つの眼は魔王から授かったと教えられてきた。だが魔王自身も、神殿の儀式を通じて力を得ている。
なら、この目が見せなかったものは何か。
ゼノグラードは過去の報告書を読み返した。
ゴミスキル保持者の出生地。
全員、互いに遠く離れている。
年齢も種族も違う。
それなのにレインの旅路へ、順番どおり現れる。
「偶然ではない」
彼自身が仕向ける前から、出会いは始まっていた。
ゼノグラードは新しい命令書を書いた。
――保持者を殺すな。
今までの「確保せよ」より一歩進んだ命令。
配下は理由を尋ねた。
「十九が揃った時、神が何を恐れたか分かる」
それは魔王軍への忠誠ではなかった。
世界の上にいる者へ向けた、最初の反逆だった。
火事の翌日、メモリアーナは町の清掃詰所を訪れた。
入口で見落とした記号の意味を知るためだ。
フィオは煤のついた地図を広げた。
「三本線は見張りあり。丸が一つなら入口危険。箒の向きが逃げ道」
「正式な暗号ですか」
「清掃員の連絡記号。酔客、壊れた下水、危ない犬を知らせるために使うの」
「大書庫で危険な犬は?」
「魔王軍」
「分類が広すぎませんか」
「危なくて噛むものは同じ」
メモリアーナは記号を紙へ写した。
「次は読めます」
「次がないほうがいいけどね」
「記録は、使われなかった時に最も成功したと言えるのかもしれません」
フィオは首を傾げた。
「難しい言い方」
「あなたの印で命が助かる者がいなければ、それは危険がなかったということです」
「なるほど。じゃあ毎日、無駄になるよう書くわ」
この日から、各地の清掃員、宿屋、鉱夫、行商人が簡単な記号で情報を繋いだ。
戦う力ではない。それでも、離れた町の危険を一つの道へ繋げられる。




