第十九話 一滴を探す軍隊
魔王軍が次に狙う相手は、向こうから知らせてきた。
ラグナを出て三日目。街道沿いの村で、すべての井戸が黒い布に覆われていた。
「水が腐ったのか?」
レインが聞くと、村長は首を振った。
「魔王軍が水を探しているんです」
「井戸を?」
「水を増やせる娘を」
娘の名は、アクアレイナ・ドロップコピー・ミラージュ。
村外れの粉挽き小屋に隠されていた。
長い水色の髪を頭巾へ押し込み、木桶の前に座っている。年はレインと同じくらい。服も手も粉まみれで、どう見ても普通の村娘だった。
「《一滴複製》」
桶の底へ、雫が一つ増えた。
増やせるのは一日に一度、一滴だけだ。
アクアは木札へ一本線を引く。
「今ので二千九百八十二滴」
「何をしてるんだ?」
レインが尋ねると、アクアは桶を抱えて後ろへ下がった。
「水を増やしてます」
「それは見れば分かる」
「干ばつの時に役立つと思って。十年続けたら、一杯くらいになるかもしれないから」
エスメが桶を覗く。
「蒸発するほうが早いわね」
「言わないでください」
アクアは桶をかばった。
「この子を魔王軍が探してる理由は?」
ベルが村長へ聞く。
「分かりません。三日前、黒い鎧の兵が来て、固有スキルを一軒ずつ聞いて回りました」
「村人は教えなかったのか?」
「アクアは毎朝、全員の家へ水を一滴ずつ配るんです。役に立たないと笑う者もいた。でも、あの子が誰より村を大事にしていることは知っています」
粉挽き小屋の外で鐘が鳴った。
一度ではない。敵襲を知らせる連打だった。
窓から見ると、黒い鎧の兵が村を囲んでいる。
先頭には七つ目の仮面。
ゼノグラード本人だった。
「アクアレイナを渡せ」
拡声魔法が村中へ響く。
「従えば、他の者には危害を加えない」
村人は武器を持って広場へ集まった。農具、薪割り斧、古い槍。戦える者などほとんどいない。
それでも誰も、粉挽き小屋を指さなかった。
アクアは桶を置いた。
「私が行きます」
「何をされるか分からないぞ」
「私が行かなければ、村が焼かれます」
「行っても約束を守る保証はない」
「では、どうすれば?」
レインは仲間を見た。
「俺たちが正面へ出る。クロエとエスメはアクアを連れて裏から――」
「嫌です」
アクアが遮った。
「逃げるだけは嫌です。ここは私の村です」
「戦ったことは?」
「鶏を捕まえたことなら」
「魔王軍は鶏より強い」
「知ってます」
アクアは震えていた。それでも視線を逸らさない。
「私のせいで来たなら、私も何かします」
セレスが彼女の隣へ立った。
「あなたのせいではありません。狙った側が悪いのです」
「でも――」
「それでも戦いたいなら、一緒に行きましょう」
広場へ出ると、ゼノグラードの七つの水晶眼が一つずつ光った。
「九つ目が揃ったか」
「お前が仕向けたんだろ」
レインはアクアを背にかばう。
「私は可能性を置いただけだ。選んだのはお前たちだ」
「町を襲っておいて、よく言う」
「城塞の件か。増幅が有効であることは証明された」
ベルがリュートの弦へ手をかける。
「人の命を実験材料にしたのね」
「命に価値の序列をつけているのは、人間も同じだろう。強いスキルを持つ者を上へ、弱い者を下へ。私はお前たちの制度を利用しただけだ」
反論できない言葉ほど腹が立つ。
「だから壊す」
レインが言った。
「何を?」
「お前の計画も、弱い力には価値がないって考えもだ」
ゼノグラードは仮面の奥で目を細めた。
「やってみろ」
黒い兵たちが一斉に武器を抜いた。
最初に動いたのは村人だった。
粉挽き小屋の老人が鐘楼へ登り、鐘の打ち方を変える。敵襲の連打から、火事を知らせる三打へ。
女たちは井戸へ集まり、桶を一列に並べた。子供は家畜を北の石小屋へ追い、大人は水を含ませた毛布を屋根へかける。
アクアは誰の脚が悪く、どの家に幼児がいて、どの井戸が浅いか知っていた。
「東の三軒を先に! 粉挽き小屋の水車を止めて、流れを防火溝へ回して!」
「戦えるのか?」
レインが聞く。
「鶏しか捕まえたことはありません。でも、この村なら誰より知っています」
黒い兵が納屋へ火矢を放つ。
フィオの《微風》では矢を止められない。だが吊るされた濡れ布を少し揺らし、火矢の落ちる場所へ重ねた。
火が消える。
「一枚ぶんで十分!」
クロエは家々の間を走り、取り残された幼児を石小屋へ運ぶ。《瞬速》は抱いた子供へ使えない。零・一秒の加速は、空の道を戻る時だけ使った。
ミルは石臼を割り、破片で街路へ低い壁を作る。セレスが壁を一パーセント圧縮し、隙間を狭めた。ベルの声が屋根越しに避難経路を伝える。
合成前から、弱い力は村の被害を減らしていた。
ゼノグラードはそのすべてを見る。
「素材が、自分で配置を選ぶか」
七つの眼の一つが明滅した。
彼の最初の計算違いだった。
アクアが村の家へ一滴ずつ水を配り始めたのは、十歳の夏だった。
雨が二か月降らず、畑はひび割れた。
井戸の水位が下がり、村では一人一日、桶半分までと決められた。
授技能式を終えたばかりのアクアは、自分なら水を増やせると言った。
村人は期待した。
大きな桶が広場へ運ばれた。
アクアが《一滴複製》を使う。
桶の底で、水が一滴増えた。
笑った者はいなかった。
誰もが、どんな顔をすればいいか分からなかったからだ。
その日の夕方、アクアは増やした一滴を隣家の赤ん坊へ持っていった。
「一滴でも、ないよりいいでしょう」
次の日は、畑で倒れた老人へ。
その次は、熱を出した友人へ。
干ばつが終わっても、一滴を配る習慣だけが残った。
村人は役に立つとは言わなかった。
それでも毎朝、戸口に小さな杯を置いた。
アクアが来るのを待つためだった。
「今日の一滴は、誰へ渡すつもりだった?」
レインが聞く。
「粉挽き小屋のおばあさんです。腰を痛めていて、井戸まで歩けないから」
「一滴じゃ足りない」
「分かってます。桶の水は別に運びます」
「なら、その一滴は?」
「今日も忘れていません、という印です」
アクアは空の木匙を握った。
彼女の力は水不足を解決しなかった。
それでも、誰かを毎日思い出す理由になった。
村人が魔王軍へ居場所を教えなかったのは、強いスキルを隠すためではない。
毎朝、自分を忘れずに来た娘を、今度は村全体が忘れなかったからだ。




