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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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9/10

明け六つの別れ道

近江屋の裏蔵は燃え、帳面そのものは失われてしまいました。

けれど、お紺の花籠の底には、伊織が写した証の一部が残されています。

黒羽玄馬を裁くには、もう時間がありません。

伊織は最後の手段として、命を懸けて真実を届ける決意をします。

近江屋の蔵が燃えた夜、江戸の空は赤く染まった。


 火の粉は夜風に乗って舞い、川面に落ちては小さく消えた。遠くでは半鐘が鳴り、人々の叫び声が絶え間なく続いている。火事と喧騒に紛れ、お紺、伊織、新助の三人は裏道を駆け抜けた。


 お紺は花籠を胸に抱いていた。


 籠の底には、伊織が書き写した証がある。帳面そのものではない。燃え落ちた蔵の中で失われたものに比べれば、あまりにも心細い紙切れだった。けれどそこには、黒羽玄馬の名があった。近江屋が横流しした米の量があった。そして、紺屋清兵衛が証人として関わっていた記録の一部が残っていた。


 全部は消えていない。


 そう何度も自分に言い聞かせなければ、お紺は走りながら泣き崩れてしまいそうだった。


 お蝶の茶屋「春霞」にたどり着いた時、三人は息も絶え絶えだった。戸を叩くと、お蝶は驚くほど早く顔を出した。まるで、こうなることを半ば予想していたかのようだった。


「早く中へ」


 お蝶は三人を奥の部屋へ押し込み、すぐに戸を閉めた。


 伊織は座るなり、肩を押さえて顔を歪めた。近江屋の蔵の中で傷が開いたのだ。布の下から血が滲み、着物を赤黒く染めている。


「伊織!」


 お紺が駆け寄ると、伊織は首を振った。


「騒ぐな。大したことはない」


「大したことある顔してる」


「慣れている」


「慣れないでよ、そんなの」


 お蝶は素早く薬箱を取り出し、伊織の肩を見た。


「傷が開いているわね。無茶をするから」


「今は手当てより証だ」


「手当てしなければ、その証を届ける前に倒れるわ」


 お蝶の声は静かだが、有無を言わせなかった。


 伊織は黙って肩を出した。


 お紺は花籠の底を開き、写しの紙を取り出した。煤の匂いがする。端は少し焦げていたが、文字は読める。


 お蝶がそれを覗き込む。


「……帳面そのものは?」


「燃えました」


 お紺の声は震えた。


「でも、伊織が一部を書き写してくれていて」


 お蝶は紙を手に取り、目を細めた。


「黒羽の名。近江屋の名。米の量。証人の名。完全ではないけれど、ただの噂よりはずっと強い」


「これで裁ける?」


 お紺が尋ねると、お蝶はすぐには答えなかった。


「相手がただの悪党ならね。でも黒羽は武家の中にも金を流している。近江屋の主人も、藩の重役も、同じ穴の狢よ。普通に町方へ持ち込んでも揉み消される可能性が高い」


「じゃあ、どうすれば」


 伊織が低く言った。


「江戸城へ届ける」


 部屋の空気が変わった。


 新助が眉をひそめる。


「江戸城って、そんな簡単に行ける場所じゃねえだろ」


「簡単ではない」


「じゃあ何だよ」


「目安箱へ訴える。さらに、父の旧知であった御用筋の役人に直に渡す」


 お蝶の顔が険しくなる。


「直訴に近いわ。捕らえられるかもしれない」


「承知している」


「殺されるかもしれない」


「それも承知している」


 お紺は息を呑んだ。


 伊織の声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。それが怖かった。


「何でそんな言い方するの」


 お紺の声が震えた。


「まるで、死んでもいいみたいに」


 伊織はお紺を見た。


「死にたいわけではない」


「でも、死ぬかもしれないって分かってて行くんでしょ」


「誰かが行かねばならぬ」


「それが伊織じゃなきゃ駄目なの?」


 伊織は少しだけ目を伏せた。


「これは私の父の名誉のためでもある。そして、武士であった私が最後まで背負わねばならぬ役目だ」


「また武士」


 お紺は思わず言った。


「武士だから、父の名誉だから、役目だから。そうやって伊織は自分の命をどこかへ置いていこうとする」


 伊織は何も言わなかった。


 お蝶も新助も黙っていた。


 お紺は花籠を握りしめた。


「母さんが言ってた。死んで守ったつもりになるのは、残された者には残酷だって」


 伊織の瞳が揺れた。


「お紺」


「私は、伊織に死んでほしくない」


 言ってから、お紺は自分の言葉の重さに気づいた。


 ただの仲間だから。


 父の真実を一緒に追っているから。


 そう言い訳することもできた。


 けれど、それだけではなかった。


 雨の橋で出会ってから、伊織はお紺の日常を壊した人だった。危険を持ち込んだ人だった。母の嘘を暴き、父の死を教え、お紺を江戸の闇へ連れてきた人だった。


 それなのに、今はその人を失うことが怖かった。


 伊織は静かに言った。


「必ず戻る」


「それ、約束?」


「ああ」


「武士の言葉?」


「いや」


 伊織は少しだけ迷ってから言った。


「一人の男としての約束だ」


 お紺は顔が熱くなるのを感じた。


 新助が小さく舌打ちした。


「こういう時に、そういう顔すんな」


「新助」


「分かってるよ。今はそれどころじゃねえ」


 新助は腕を組み、壁にもたれた。


「で、その江戸城だか役人だかに行くなら、いつ動くんだ」


「夜明け前だ」


 伊織は言った。


「明け六つの鐘が鳴る頃、人の流れが変わる。火事の騒ぎもまだ残っている。その隙に動く」


「黒羽は?」


 お蝶が尋ねる。


「必ず追ってくる。近江屋の帳面が燃えたことで安心するかもしれぬが、私たちが写しを持っている可能性も考えるはずだ」


「なら、茶屋も危ないわね」


「すまない」


「謝らなくていいわ。あなたのお父上には借りがあるもの」


 お蝶はそう言って、奥から古い羽織と笠を出した。


「伊織さま、この姿では目立つ。町医者の使いに見えるようにしましょう。お紺さんは……」


「私も行く」


 お紺は即座に言った。


 伊織も即座に首を振った。


「駄目だ」


「また?」


「今度ばかりは本当に駄目だ。証を届ける役は私が担う。お前は深川へ戻れ」


「嫌」


「お紺」


「私の父さんの証でもある」


「だからこそ、お前は生きて母上のもとへ帰らねばならぬ」


 その言葉に、お紺は黙った。


 母。


 お久の顔が浮かぶ。


 行っておいで。そして、帰っておいで。


 母はそう言った。お紺が帰ることを信じて、送り出してくれた。


 伊織は続けた。


「お久殿は、お前を待っている。清兵衛殿も、お前が命を投げることを望まぬはずだ」


「それは、伊織のお父さんだって同じでしょ」


「……そうだな」


「なら、伊織も生きて帰らなきゃ」


「ああ」


 伊織はもう一度頷いた。


「だから、お前は私が戻る場所を守ってくれ」


 お紺は息を止めた。


「戻る場所?」


「深川の長屋だ。お久殿がいて、新助がいて、長屋の人々がいて、お前がいる」


 伊織は少しだけ目を細めた。


「雨の橋で倒れていた私には、もう帰る場所などないと思っていた。だが今は、戻りたい場所がある」


 お紺の胸が熱くなった。


 お蝶が静かに目を伏せた。新助はまた舌打ちしたが、今度は何も言わなかった。


 夜が白み始めるまで、四人はほとんど眠らなかった。


 お蝶は伊織の傷を縛り直し、道筋を教えた。新助は裏道を確認し、もし追っ手が来た時に逃げる道を考えた。お紺は写しの紙を乾かし、破れた部分を布で補強した。


 薄明かりが障子を染める頃、伊織は立ち上がった。


 町医者の使いに見えるよう、地味な羽織をまとい、笠を深くかぶっている。だが、その背筋はやはり伊織だった。


 お蝶が紙を小さな油紙に包み、伊織へ渡す。


「濡らさないで。奪われそうになったら、飲み込む覚悟で」


「心得た」


「本当に飲み込めと言っているわけではないわよ」


「分かっている」


 お紺は思わず少し笑った。


 伊織も微かに笑った。


 茶屋の裏口を出ると、朝の冷たい空気が流れ込んできた。まだ町は完全には起きていない。遠くで、明け六つの鐘を待つような静けさが広がっていた。


 新助が伊織に小さな包みを渡した。


「何だ」


「握り飯だ。腹が減ってちゃ、正義も通らねえだろ」


 伊織は驚いたように新助を見た。


「かたじけない」


「勘違いすんな。お紺を泣かせたら許さねえって意味だ」


「心得た」


「絶対に分かってねえ顔だな」


 新助は不機嫌そうに顔を背けた。


 お紺は花籠から白菊を一本取り出した。


 昨夜の火で少し煤けていたが、花びらはまだ白かった。


「伊織」


 伊織が振り返る。


「これ、持っていって」


「白菊か」


「父さんにも、伊織のお父さんにも、恥ずかしくないように」


 伊織は両手で受け取った。


「必ず届ける」


「違う」


 お紺は首を振った。


「必ず帰ってくる」


 伊織は息を呑んだ。


 そして、深く頷いた。


「必ず帰る」


 遠くで、明け六つの鐘が鳴った。


 江戸の朝を告げる音。


 それは、別れの音にも聞こえた。


 伊織は歩き出した。


 一歩、また一歩。


 お紺はその背中を見つめた。追いかけたい。隣を歩きたい。自分の父の証なのだから、一緒に届けたい。そう思う気持ちが胸の中で暴れた。


 けれど足は動かなかった。


 伊織が戻る場所を守ってくれと言ったから。


 母が待っているから。


 新助が隣で、何も言わず立っていてくれたから。


 お紺は花籠を抱きしめた。


 中は空に近い。


 証は伊織が持っていった。


 父の手紙と櫛だけが残っている。


 けれど、お紺の胸の中には、もっと重いものが残っていた。


 それは、信じて待つという覚悟だった。


 伊織の背中が角を曲がって見えなくなった時、お紺は初めて涙をこぼした。


 声は出さなかった。


 泣き声を出せば、伊織の足を引き止めてしまう気がしたから。


 新助がぽつりと言った。


「行っちまったな」


「うん」


「泣くくらいなら止めればよかっただろ」


「止めたら、伊織はもっと苦しむ」


「お前も大概、面倒くさい女だな」


「知ってる」


 新助は小さくため息をついた。


「帰るぞ。お久さんが待ってる」


 お紺は頷いた。


 茶屋のお蝶が裏口に立ち、静かに二人を見送っていた。


「お紺さん」


「はい」


「待つのも、戦いよ」


 お紺は涙を拭った。


「はい」


 深川へ戻る道は、朝の光に包まれていた。昨日の火事が嘘のように、江戸の町は少しずついつもの顔を取り戻していく。魚売りが声を張り、女たちが戸を開け、職人が道具を担いで歩き出す。


 人の暮らしは続く。


 真実が闇に隠されていても、誰かが泣いていても、朝は来る。


 だからこそ、朝に負けないように生きなければならない。


 お紺は花籠を抱え直した。


 明け六つの別れ道。


 そこで伊織は証を届ける道を選び、お紺は帰りを待つ道を選んだ。


 どちらが正しいのかは分からない。


 けれど、二つの道はきっと同じ場所へつながっている。


 清兵衛の真実へ。


 伊織の父の名誉へ。


 そして、嘘に沈んだ江戸の闇を照らす、小さな花明かりへ。


 お紺は振り返らなかった。


 振り返れば、走り出してしまいそうだったから。


 ただ、胸の中で何度も繰り返した。


 帰ってきて。


 必ず、帰ってきて。


 その願いを抱いたまま、お紺は新助と共に、深川の長屋へ向かって歩き出した。

伊織は、残された証を江戸城へ届けるため、危険な道へ進みました。

お紺は共に行きたい想いを抑え、伊織が戻る場所を守るため深川へ帰ります。

明け六つの鐘と共に分かれた二人。

次の最終ページでは、伊織の訴えが届くのか、そしてお紺の花籠に真実が戻るのかが描かれます。

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