明け六つの別れ道
近江屋の裏蔵は燃え、帳面そのものは失われてしまいました。
けれど、お紺の花籠の底には、伊織が写した証の一部が残されています。
黒羽玄馬を裁くには、もう時間がありません。
伊織は最後の手段として、命を懸けて真実を届ける決意をします。
近江屋の蔵が燃えた夜、江戸の空は赤く染まった。
火の粉は夜風に乗って舞い、川面に落ちては小さく消えた。遠くでは半鐘が鳴り、人々の叫び声が絶え間なく続いている。火事と喧騒に紛れ、お紺、伊織、新助の三人は裏道を駆け抜けた。
お紺は花籠を胸に抱いていた。
籠の底には、伊織が書き写した証がある。帳面そのものではない。燃え落ちた蔵の中で失われたものに比べれば、あまりにも心細い紙切れだった。けれどそこには、黒羽玄馬の名があった。近江屋が横流しした米の量があった。そして、紺屋清兵衛が証人として関わっていた記録の一部が残っていた。
全部は消えていない。
そう何度も自分に言い聞かせなければ、お紺は走りながら泣き崩れてしまいそうだった。
お蝶の茶屋「春霞」にたどり着いた時、三人は息も絶え絶えだった。戸を叩くと、お蝶は驚くほど早く顔を出した。まるで、こうなることを半ば予想していたかのようだった。
「早く中へ」
お蝶は三人を奥の部屋へ押し込み、すぐに戸を閉めた。
伊織は座るなり、肩を押さえて顔を歪めた。近江屋の蔵の中で傷が開いたのだ。布の下から血が滲み、着物を赤黒く染めている。
「伊織!」
お紺が駆け寄ると、伊織は首を振った。
「騒ぐな。大したことはない」
「大したことある顔してる」
「慣れている」
「慣れないでよ、そんなの」
お蝶は素早く薬箱を取り出し、伊織の肩を見た。
「傷が開いているわね。無茶をするから」
「今は手当てより証だ」
「手当てしなければ、その証を届ける前に倒れるわ」
お蝶の声は静かだが、有無を言わせなかった。
伊織は黙って肩を出した。
お紺は花籠の底を開き、写しの紙を取り出した。煤の匂いがする。端は少し焦げていたが、文字は読める。
お蝶がそれを覗き込む。
「……帳面そのものは?」
「燃えました」
お紺の声は震えた。
「でも、伊織が一部を書き写してくれていて」
お蝶は紙を手に取り、目を細めた。
「黒羽の名。近江屋の名。米の量。証人の名。完全ではないけれど、ただの噂よりはずっと強い」
「これで裁ける?」
お紺が尋ねると、お蝶はすぐには答えなかった。
「相手がただの悪党ならね。でも黒羽は武家の中にも金を流している。近江屋の主人も、藩の重役も、同じ穴の狢よ。普通に町方へ持ち込んでも揉み消される可能性が高い」
「じゃあ、どうすれば」
伊織が低く言った。
「江戸城へ届ける」
部屋の空気が変わった。
新助が眉をひそめる。
「江戸城って、そんな簡単に行ける場所じゃねえだろ」
「簡単ではない」
「じゃあ何だよ」
「目安箱へ訴える。さらに、父の旧知であった御用筋の役人に直に渡す」
お蝶の顔が険しくなる。
「直訴に近いわ。捕らえられるかもしれない」
「承知している」
「殺されるかもしれない」
「それも承知している」
お紺は息を呑んだ。
伊織の声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。それが怖かった。
「何でそんな言い方するの」
お紺の声が震えた。
「まるで、死んでもいいみたいに」
伊織はお紺を見た。
「死にたいわけではない」
「でも、死ぬかもしれないって分かってて行くんでしょ」
「誰かが行かねばならぬ」
「それが伊織じゃなきゃ駄目なの?」
伊織は少しだけ目を伏せた。
「これは私の父の名誉のためでもある。そして、武士であった私が最後まで背負わねばならぬ役目だ」
「また武士」
お紺は思わず言った。
「武士だから、父の名誉だから、役目だから。そうやって伊織は自分の命をどこかへ置いていこうとする」
伊織は何も言わなかった。
お蝶も新助も黙っていた。
お紺は花籠を握りしめた。
「母さんが言ってた。死んで守ったつもりになるのは、残された者には残酷だって」
伊織の瞳が揺れた。
「お紺」
「私は、伊織に死んでほしくない」
言ってから、お紺は自分の言葉の重さに気づいた。
ただの仲間だから。
父の真実を一緒に追っているから。
そう言い訳することもできた。
けれど、それだけではなかった。
雨の橋で出会ってから、伊織はお紺の日常を壊した人だった。危険を持ち込んだ人だった。母の嘘を暴き、父の死を教え、お紺を江戸の闇へ連れてきた人だった。
それなのに、今はその人を失うことが怖かった。
伊織は静かに言った。
「必ず戻る」
「それ、約束?」
「ああ」
「武士の言葉?」
「いや」
伊織は少しだけ迷ってから言った。
「一人の男としての約束だ」
お紺は顔が熱くなるのを感じた。
新助が小さく舌打ちした。
「こういう時に、そういう顔すんな」
「新助」
「分かってるよ。今はそれどころじゃねえ」
新助は腕を組み、壁にもたれた。
「で、その江戸城だか役人だかに行くなら、いつ動くんだ」
「夜明け前だ」
伊織は言った。
「明け六つの鐘が鳴る頃、人の流れが変わる。火事の騒ぎもまだ残っている。その隙に動く」
「黒羽は?」
お蝶が尋ねる。
「必ず追ってくる。近江屋の帳面が燃えたことで安心するかもしれぬが、私たちが写しを持っている可能性も考えるはずだ」
「なら、茶屋も危ないわね」
「すまない」
「謝らなくていいわ。あなたのお父上には借りがあるもの」
お蝶はそう言って、奥から古い羽織と笠を出した。
「伊織さま、この姿では目立つ。町医者の使いに見えるようにしましょう。お紺さんは……」
「私も行く」
お紺は即座に言った。
伊織も即座に首を振った。
「駄目だ」
「また?」
「今度ばかりは本当に駄目だ。証を届ける役は私が担う。お前は深川へ戻れ」
「嫌」
「お紺」
「私の父さんの証でもある」
「だからこそ、お前は生きて母上のもとへ帰らねばならぬ」
その言葉に、お紺は黙った。
母。
お久の顔が浮かぶ。
行っておいで。そして、帰っておいで。
母はそう言った。お紺が帰ることを信じて、送り出してくれた。
伊織は続けた。
「お久殿は、お前を待っている。清兵衛殿も、お前が命を投げることを望まぬはずだ」
「それは、伊織のお父さんだって同じでしょ」
「……そうだな」
「なら、伊織も生きて帰らなきゃ」
「ああ」
伊織はもう一度頷いた。
「だから、お前は私が戻る場所を守ってくれ」
お紺は息を止めた。
「戻る場所?」
「深川の長屋だ。お久殿がいて、新助がいて、長屋の人々がいて、お前がいる」
伊織は少しだけ目を細めた。
「雨の橋で倒れていた私には、もう帰る場所などないと思っていた。だが今は、戻りたい場所がある」
お紺の胸が熱くなった。
お蝶が静かに目を伏せた。新助はまた舌打ちしたが、今度は何も言わなかった。
夜が白み始めるまで、四人はほとんど眠らなかった。
お蝶は伊織の傷を縛り直し、道筋を教えた。新助は裏道を確認し、もし追っ手が来た時に逃げる道を考えた。お紺は写しの紙を乾かし、破れた部分を布で補強した。
薄明かりが障子を染める頃、伊織は立ち上がった。
町医者の使いに見えるよう、地味な羽織をまとい、笠を深くかぶっている。だが、その背筋はやはり伊織だった。
お蝶が紙を小さな油紙に包み、伊織へ渡す。
「濡らさないで。奪われそうになったら、飲み込む覚悟で」
「心得た」
「本当に飲み込めと言っているわけではないわよ」
「分かっている」
お紺は思わず少し笑った。
伊織も微かに笑った。
茶屋の裏口を出ると、朝の冷たい空気が流れ込んできた。まだ町は完全には起きていない。遠くで、明け六つの鐘を待つような静けさが広がっていた。
新助が伊織に小さな包みを渡した。
「何だ」
「握り飯だ。腹が減ってちゃ、正義も通らねえだろ」
伊織は驚いたように新助を見た。
「かたじけない」
「勘違いすんな。お紺を泣かせたら許さねえって意味だ」
「心得た」
「絶対に分かってねえ顔だな」
新助は不機嫌そうに顔を背けた。
お紺は花籠から白菊を一本取り出した。
昨夜の火で少し煤けていたが、花びらはまだ白かった。
「伊織」
伊織が振り返る。
「これ、持っていって」
「白菊か」
「父さんにも、伊織のお父さんにも、恥ずかしくないように」
伊織は両手で受け取った。
「必ず届ける」
「違う」
お紺は首を振った。
「必ず帰ってくる」
伊織は息を呑んだ。
そして、深く頷いた。
「必ず帰る」
遠くで、明け六つの鐘が鳴った。
江戸の朝を告げる音。
それは、別れの音にも聞こえた。
伊織は歩き出した。
一歩、また一歩。
お紺はその背中を見つめた。追いかけたい。隣を歩きたい。自分の父の証なのだから、一緒に届けたい。そう思う気持ちが胸の中で暴れた。
けれど足は動かなかった。
伊織が戻る場所を守ってくれと言ったから。
母が待っているから。
新助が隣で、何も言わず立っていてくれたから。
お紺は花籠を抱きしめた。
中は空に近い。
証は伊織が持っていった。
父の手紙と櫛だけが残っている。
けれど、お紺の胸の中には、もっと重いものが残っていた。
それは、信じて待つという覚悟だった。
伊織の背中が角を曲がって見えなくなった時、お紺は初めて涙をこぼした。
声は出さなかった。
泣き声を出せば、伊織の足を引き止めてしまう気がしたから。
新助がぽつりと言った。
「行っちまったな」
「うん」
「泣くくらいなら止めればよかっただろ」
「止めたら、伊織はもっと苦しむ」
「お前も大概、面倒くさい女だな」
「知ってる」
新助は小さくため息をついた。
「帰るぞ。お久さんが待ってる」
お紺は頷いた。
茶屋のお蝶が裏口に立ち、静かに二人を見送っていた。
「お紺さん」
「はい」
「待つのも、戦いよ」
お紺は涙を拭った。
「はい」
深川へ戻る道は、朝の光に包まれていた。昨日の火事が嘘のように、江戸の町は少しずついつもの顔を取り戻していく。魚売りが声を張り、女たちが戸を開け、職人が道具を担いで歩き出す。
人の暮らしは続く。
真実が闇に隠されていても、誰かが泣いていても、朝は来る。
だからこそ、朝に負けないように生きなければならない。
お紺は花籠を抱え直した。
明け六つの別れ道。
そこで伊織は証を届ける道を選び、お紺は帰りを待つ道を選んだ。
どちらが正しいのかは分からない。
けれど、二つの道はきっと同じ場所へつながっている。
清兵衛の真実へ。
伊織の父の名誉へ。
そして、嘘に沈んだ江戸の闇を照らす、小さな花明かりへ。
お紺は振り返らなかった。
振り返れば、走り出してしまいそうだったから。
ただ、胸の中で何度も繰り返した。
帰ってきて。
必ず、帰ってきて。
その願いを抱いたまま、お紺は新助と共に、深川の長屋へ向かって歩き出した。
伊織は、残された証を江戸城へ届けるため、危険な道へ進みました。
お紺は共に行きたい想いを抑え、伊織が戻る場所を守るため深川へ帰ります。
明け六つの鐘と共に分かれた二人。
次の最終ページでは、伊織の訴えが届くのか、そしてお紺の花籠に真実が戻るのかが描かれます。




