燃える蔵、消えた密書
父の手紙と母の涙を胸に、お紺は近江屋へ向かいます。
花売り娘として宴の屋敷へ入り込んだお紺。
裏蔵に眠る帳面を見つければ、清兵衛と伊織の父の無念を晴らせるかもしれません。
しかしそこには、黒羽玄馬の罠が待っていました。
近江屋の屋敷は、町人の家とは思えないほど立派だった。
高い塀。磨かれた門。軒先に吊るされた大きな提灯。庭には手入れの行き届いた松があり、飛び石の一つ一つにまで銭の匂いがした。深川の長屋とは違う。雨漏りの跡も、傾いた戸も、湿った畳の匂いもない。
けれどお紺には、その美しさがひどく冷たく見えた。
ここに、奪われた米が流れ込んだのかもしれない。
ここで、父の命を奪った闇が育ったのかもしれない。
そう思うと、立派な門も、白い壁も、まるで嘘で塗り固められたもののようだった。
お紺は花籠を抱え直し、門番に頭を下げた。
「春霞のお蝶さんより参りました。今夜の宴の花を届けに」
門番は紹介状を受け取ると、面倒くさそうに目を通した。お紺の心臓は早鐘のように鳴っている。少しでも手が震えれば怪しまれる。顔に恐怖が出れば終わりだ。
花売り娘として。
ただの花売り娘として。
お紺は自分に言い聞かせた。
「入れ」
門番が顎をしゃくった。
「へえ、失礼いたします」
お紺は深く頭を下げ、屋敷の中へ足を踏み入れた。
背後で門が閉まる音がした。
その音は、お紺が日常から切り離された合図のように聞こえた。
屋敷の中は慌ただしかった。女中たちが盆を運び、下男たちが酒樽を動かし、番頭らしい男が帳面を片手に指示を飛ばしている。今夜の宴には、藩の重役と近江屋の主人、そして黒羽玄馬に近い者たちも集まるという。
お紺は通された座敷に花を飾り始めた。
床の間には白菊と桔梗。廊下の角には撫子。客の目につく場所には華やかに、目立たない場所には控えめに。花を生ける手つきだけは、いつも通りに動いた。
けれど頭の中では、お蝶から聞いたことを何度も繰り返していた。
裏蔵は中庭の奥。
鍵は番頭の甚兵衛。
見張りは二人。
亥の刻前に交代の隙がある。
帳面は二階、古い米俵の奥。
お紺は廊下を歩くふりをして、屋敷の造りを目に焼きつけた。台所から中庭へ出る戸。裏へ続く細い廊下。蔵の位置。逃げ道。水桶の場所。
もし火が出たら。
そこまで考えて、お紺は自分で自分の考えにぞっとした。
火など出るはずがない。
そう思いたかった。
だが、黒羽玄馬なら何をしてもおかしくない。帳面を守るためなら、人ごと蔵を燃やすことさえためらわないかもしれない。
夕暮れになると、屋敷に客が入り始めた。
笑い声。酒の匂い。絹の衣擦れ。武士たちの低い声。商人たちのへつらう声。表の座敷は華やかだった。三味線の音まで聞こえてくる。
お紺は廊下の陰で花籠を抱え、番頭の甚兵衛を探した。
甚兵衛は小柄な男だった。腰に鍵束を下げ、忙しそうに廊下を行き来している。顔には愛想笑いを貼りつけていたが、目だけは常に周囲を探っていた。
鍵を取るのは難しい。
そう思った時、座敷の方から酔った商人の声が響いた。
「甚兵衛、酒が足りぬぞ!」
甚兵衛が慌てて座敷へ向かう。女中が盆をぶつけ、徳利が倒れた。騒ぎの中で、甚兵衛は腰の鍵束を外し、柱の脇の小棚へ一瞬置いた。
今だ。
お紺は花籠から撫子を数本取り出し、廊下に落とした。
「あっ、いけない」
花を拾うふりをして、小棚へ近づく。指先が鍵束に触れた。冷たい鉄の感触。心臓が喉まで上がってくる。
お紺は鍵束の中から、一番古い蔵鍵らしいものを素早く抜き取った。
手が震えた。
だが、誰も気づかなかった。
お紺は鍵を袖の中へ滑り込ませ、何食わぬ顔で花を拾った。
その時、背後から低い声がした。
「花売り」
お紺の体が固まる。
振り返ると、そこに黒羽玄馬はいなかった。立っていたのは、近江屋の主人らしい太った男だった。
「その花、座敷にも少し足しておけ」
「へえ」
お紺は頭を下げた。
黒羽ではなかった。
それだけで膝から力が抜けそうになる。
しかし安心している暇はなかった。
亥の刻前。
見張りの交代。
お紺は台所の裏口から中庭へ出た。夜の空気が肌に冷たい。宴の音は遠くなり、代わりに蔵の方から見張りの低い話し声が聞こえた。
蔵の前には二人。
お紺は庭石の陰に身を潜めた。
その時、反対側の塀の陰から、小さな音がした。
伊織だった。
町人姿ではなく、動きやすい黒い着物に身を包んでいる。傷はまだ完全には癒えていないはずなのに、目だけは鋭く澄んでいた。
「どうして中に」
お紺が小声で言うと、伊織も小声で返した。
「外で待つつもりだったが、嫌な気配がした」
「また無茶して」
「お前に言われたくない」
「それはそう」
こんな状況なのに、二人は一瞬だけ笑いそうになった。
見張りが交代のために一人ずつ離れる。そのわずかな隙に、伊織が石を投げて物音を立てた。残った見張りがそちらへ向かう。
「今だ」
お紺は蔵の戸へ走った。
袖から鍵を取り出し、錠前に差し込む。手が震えてうまく回らない。
「落ち着け」
伊織が背後で囁く。
「分かってる」
「息を吐け」
お紺は短く息を吐いた。
かちり、と錠が開いた。
二人は蔵の中へ滑り込む。
中は暗く、米俵と木箱の匂いが満ちていた。お紺は持ってきた小さな行灯に火を入れた。弱い光が、積み上げられた米俵を照らす。
ここに、父の真実がある。
お紺は喉を鳴らした。
「二階だ」
伊織が言った。
二人は梯子を上がった。蔵の二階には、古い米俵がいくつも積まれている。埃っぽく、息をするだけで喉が痛い。お紺は花籠を背負ったまま、米俵の奥を探った。
「これじゃない」
「こっちも違う」
時間がない。
宴の音はまだ遠く聞こえるが、見張りが戻れば終わりだ。
お紺は焦りで手元が乱れた。その時、父の手紙の言葉が胸に浮かんだ。
嘘に負けない娘になりなさい。
お紺は深く息を吸った。
落ち着け。
花を生ける時と同じだ。
一つずつ、見る。
米俵の奥。壁際。古い木箱。蓋に薄く積もった埃。その一つだけ、最近動かされた跡があった。
「伊織、これ」
伊織が駆け寄り、木箱を開ける。
中には、古い帳面が三冊入っていた。
伊織の手が震えた。
「これだ」
帳面を開くと、細かい字がびっしり並んでいる。年貢米の量、実際に納められた高、差し引かれた分、近江屋へ渡った金、黒羽の名。そして、過去に証人となった者たちの名。
その中に、紺屋清兵衛の名もあった。
お紺の視界が滲む。
「父さん……」
伊織は素早く必要な頁を破り取ろうとした。
その時だった。
下から声が響いた。
「そこにいるのは分かっている」
黒羽玄馬の声だった。
お紺の血の気が引いた。
伊織が帳面を懐に入れ、刀に手をかける。
蔵の戸が開く音。
複数の足音。
そして、黒羽が行灯を掲げて現れた。
「花売り娘。やはりお前だったか」
黒羽の目は、あの雨の夜と同じ冷たさをしていた。
「黒羽……」
伊織が低く言う。
「伊織殿。生き延びた鼠は、結局蔵へ入り込むものだな」
「父の名誉と、民の無念を返してもらう」
「名誉? 無念? くだらぬ」
黒羽は笑った。
「世は力ある者が動かす。米も金も命も、握る者が握ればよい。町人一人、下級武士一人が騒いだところで、何が変わる」
お紺は帳面を抱きしめた。
「変わるよ」
黒羽の目が、お紺へ向いた。
「何?」
「父さんは殺された。伊織のお父さんも消された。村の人たちも苦しんだ。そういう一つ一つを、あんたたちは小さいと思ってるんでしょう。でも、小さいものが集まって、いつか大きな声になる」
黒羽の笑みが消えた。
「町娘が、ずいぶん吠える」
「花売り娘だから分かるんだよ。踏まれた花だって、根が残ればまた咲く」
一瞬、蔵の中が静まり返った。
次の瞬間、黒羽が手を上げた。
「燃やせ」
お紺は耳を疑った。
黒羽の部下が、蔵の隅へ火を放った。
乾いた藁に火が移り、あっという間に煙が上がる。お紺は咳き込んだ。伊織が叫ぶ。
「黒羽、貴様!」
「証もろとも焼ければよい。火事となれば、町娘も若侍も、ただの焼け死にだ」
黒羽は刀を抜いた。
伊織も刀を抜く。
二人の刃が暗い蔵の中でぶつかった。火花が散る。燃え広がる炎の赤と、刀の白い光が、狭い空間を狂ったように照らした。
お紺は帳面を花籠へ入れようとした。
だが煙で目が痛い。息ができない。手元が見えない。炎が梁へ移り、ばちばちと音を立てる。
「お紺、外へ!」
伊織の声。
「でも帳面が!」
「命が先だ!」
お紺は帳面を抱えて梯子へ向かった。しかし下から黒羽の部下が上がってくる。もみ合ううちに、帳面の一冊が手から滑り落ちた。
「あっ!」
帳面は燃え始めた床へ落ちた。
お紺が手を伸ばす。
伊織も走ろうとした。
しかし、燃えた梁が轟音とともに落ちた。
炎が帳面を包んだ。
「いや……!」
お紺の叫びが煙の中に消える。
父の名が燃える。
清兵衛が命をかけた証が、赤い火に食われていく。
お紺は膝から崩れそうになった。
その時、外から声がした。
「お紺!」
新助だった。
蔵の戸が外からこじ開けられ、水をかぶった戸板が炎の中へ突っ込まれる。
「早く出ろ!」
「新助!」
「いいから来い!」
どうしてここにいるのか、聞いている暇はなかった。新助は顔を煤だらけにして、必死に入口を開いている。
伊織が黒羽を押し返し、お紺の腕を掴んだ。
「走れ!」
お紺は花籠を抱え、炎の中を駆けた。
背後で黒羽の怒声が響く。
「逃がすな!」
伊織が部下を斬り伏せる。だが傷が開いたのか、彼の肩口から血が滲んでいた。
「伊織!」
「振り返るな!」
お紺は新助の腕に引かれ、蔵の外へ転がり出た。
夜空が赤く染まっている。
屋敷は騒然としていた。宴の客たちが逃げ惑い、女中たちが悲鳴を上げ、水桶が運ばれている。近江屋の主人は顔を真っ青にして叫んでいた。
伊織も遅れて飛び出した。
だが、黒羽の姿は炎と煙の向こうに消えていた。
「帳面が……」
お紺は花籠を開いた。
帳面はない。
火の中へ落ちた。
証は燃えた。
その現実に、お紺の胸が押し潰されそうになる。
「父さんの……証が……」
涙が溢れた。
ここまで来たのに。
母の涙を背負ってきたのに。
父の手紙を胸に入れてきたのに。
真実はまた、火の中に消えてしまった。
だが伊織が、お紺の花籠の底へ手を伸ばした。
「まだだ」
「え……?」
伊織は花籠の二重底から、数枚の紙を取り出した。
「蔵に入ってすぐ、帳面の要所を写しておいた。お前が米俵を探している間に」
お紺は紙を見つめた。
そこには、黒羽の名。近江屋の名。横流しされた米の量。そして、紺屋清兵衛が証人として関わった記録の一部が書き写されていた。
完全ではない。
帳面そのものではない。
けれど、真実の欠片は残っていた。
「伊織……」
「清兵衛殿の真実は、まだ燃えていない」
お紺の涙がこぼれた。
新助が息を切らしながら言った。
「感動してる場合か。追っ手が来るぞ」
その言葉に、三人は我に返った。
遠くで黒羽の部下らしい男たちがこちらへ走ってくる。
伊織は写しをお紺の花籠へ戻した。
「逃げるぞ」
「どこへ」
「お蝶の茶屋だ。あそこなら一度身を隠せる」
新助が頷いた。
「俺が裏道を知ってる。ついてこい」
三人は燃える近江屋を背に走り出した。
夜の江戸を、火の粉が舞っていた。
お紺は走りながら、胸の中で父に叫んだ。
ごめん、父さん。
帳面は守れなかった。
でも、全部は消えていない。
花籠の底に、まだ真実は残っている。
だから、私は諦めない。
炎の赤が、川面に映っていた。
黒羽は逃げた。
帳面は燃えた。
密書も一部は失われた。
けれど、花売り娘の籠の中には、まだ消えない小さな明かりが残っていた。
それは、父が残した真実の火種だった。
そしてその火種は、やがて江戸の闇を照らす最後の光になる。
お紺と伊織は近江屋の裏蔵で帳面を見つけましたが、黒羽玄馬の罠により蔵は燃やされてしまいました。
帳面そのものは失われたものの、伊織が写した一部の証は花籠の底に残りました。
完全ではない証を抱え、三人は追っ手から逃げます。
次の第9ページでは、伊織が最後の手段として真実を訴え出る決意をします。




