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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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8/10

燃える蔵、消えた密書

父の手紙と母の涙を胸に、お紺は近江屋へ向かいます。

花売り娘として宴の屋敷へ入り込んだお紺。

裏蔵に眠る帳面を見つければ、清兵衛と伊織の父の無念を晴らせるかもしれません。

しかしそこには、黒羽玄馬の罠が待っていました。

近江屋の屋敷は、町人の家とは思えないほど立派だった。


 高い塀。磨かれた門。軒先に吊るされた大きな提灯。庭には手入れの行き届いた松があり、飛び石の一つ一つにまで銭の匂いがした。深川の長屋とは違う。雨漏りの跡も、傾いた戸も、湿った畳の匂いもない。


 けれどお紺には、その美しさがひどく冷たく見えた。


 ここに、奪われた米が流れ込んだのかもしれない。

 ここで、父の命を奪った闇が育ったのかもしれない。


 そう思うと、立派な門も、白い壁も、まるで嘘で塗り固められたもののようだった。


 お紺は花籠を抱え直し、門番に頭を下げた。


「春霞のお蝶さんより参りました。今夜の宴の花を届けに」


 門番は紹介状を受け取ると、面倒くさそうに目を通した。お紺の心臓は早鐘のように鳴っている。少しでも手が震えれば怪しまれる。顔に恐怖が出れば終わりだ。


 花売り娘として。


 ただの花売り娘として。


 お紺は自分に言い聞かせた。


「入れ」


 門番が顎をしゃくった。


「へえ、失礼いたします」


 お紺は深く頭を下げ、屋敷の中へ足を踏み入れた。


 背後で門が閉まる音がした。


 その音は、お紺が日常から切り離された合図のように聞こえた。


 屋敷の中は慌ただしかった。女中たちが盆を運び、下男たちが酒樽を動かし、番頭らしい男が帳面を片手に指示を飛ばしている。今夜の宴には、藩の重役と近江屋の主人、そして黒羽玄馬に近い者たちも集まるという。


 お紺は通された座敷に花を飾り始めた。


 床の間には白菊と桔梗。廊下の角には撫子。客の目につく場所には華やかに、目立たない場所には控えめに。花を生ける手つきだけは、いつも通りに動いた。


 けれど頭の中では、お蝶から聞いたことを何度も繰り返していた。


 裏蔵は中庭の奥。

 鍵は番頭の甚兵衛。

 見張りは二人。

 亥の刻前に交代の隙がある。

 帳面は二階、古い米俵の奥。


 お紺は廊下を歩くふりをして、屋敷の造りを目に焼きつけた。台所から中庭へ出る戸。裏へ続く細い廊下。蔵の位置。逃げ道。水桶の場所。


 もし火が出たら。


 そこまで考えて、お紺は自分で自分の考えにぞっとした。


 火など出るはずがない。


 そう思いたかった。


 だが、黒羽玄馬なら何をしてもおかしくない。帳面を守るためなら、人ごと蔵を燃やすことさえためらわないかもしれない。


 夕暮れになると、屋敷に客が入り始めた。


 笑い声。酒の匂い。絹の衣擦れ。武士たちの低い声。商人たちのへつらう声。表の座敷は華やかだった。三味線の音まで聞こえてくる。


 お紺は廊下の陰で花籠を抱え、番頭の甚兵衛を探した。


 甚兵衛は小柄な男だった。腰に鍵束を下げ、忙しそうに廊下を行き来している。顔には愛想笑いを貼りつけていたが、目だけは常に周囲を探っていた。


 鍵を取るのは難しい。


 そう思った時、座敷の方から酔った商人の声が響いた。


「甚兵衛、酒が足りぬぞ!」


 甚兵衛が慌てて座敷へ向かう。女中が盆をぶつけ、徳利が倒れた。騒ぎの中で、甚兵衛は腰の鍵束を外し、柱の脇の小棚へ一瞬置いた。


 今だ。


 お紺は花籠から撫子を数本取り出し、廊下に落とした。


「あっ、いけない」


 花を拾うふりをして、小棚へ近づく。指先が鍵束に触れた。冷たい鉄の感触。心臓が喉まで上がってくる。


 お紺は鍵束の中から、一番古い蔵鍵らしいものを素早く抜き取った。


 手が震えた。


 だが、誰も気づかなかった。


 お紺は鍵を袖の中へ滑り込ませ、何食わぬ顔で花を拾った。


 その時、背後から低い声がした。


「花売り」


 お紺の体が固まる。


 振り返ると、そこに黒羽玄馬はいなかった。立っていたのは、近江屋の主人らしい太った男だった。


「その花、座敷にも少し足しておけ」


「へえ」


 お紺は頭を下げた。


 黒羽ではなかった。


 それだけで膝から力が抜けそうになる。


 しかし安心している暇はなかった。


 亥の刻前。


 見張りの交代。


 お紺は台所の裏口から中庭へ出た。夜の空気が肌に冷たい。宴の音は遠くなり、代わりに蔵の方から見張りの低い話し声が聞こえた。


 蔵の前には二人。


 お紺は庭石の陰に身を潜めた。


 その時、反対側の塀の陰から、小さな音がした。


 伊織だった。


 町人姿ではなく、動きやすい黒い着物に身を包んでいる。傷はまだ完全には癒えていないはずなのに、目だけは鋭く澄んでいた。


「どうして中に」


 お紺が小声で言うと、伊織も小声で返した。


「外で待つつもりだったが、嫌な気配がした」


「また無茶して」


「お前に言われたくない」


「それはそう」


 こんな状況なのに、二人は一瞬だけ笑いそうになった。


 見張りが交代のために一人ずつ離れる。そのわずかな隙に、伊織が石を投げて物音を立てた。残った見張りがそちらへ向かう。


「今だ」


 お紺は蔵の戸へ走った。


 袖から鍵を取り出し、錠前に差し込む。手が震えてうまく回らない。


「落ち着け」


 伊織が背後で囁く。


「分かってる」


「息を吐け」


 お紺は短く息を吐いた。


 かちり、と錠が開いた。


 二人は蔵の中へ滑り込む。


 中は暗く、米俵と木箱の匂いが満ちていた。お紺は持ってきた小さな行灯に火を入れた。弱い光が、積み上げられた米俵を照らす。


 ここに、父の真実がある。


 お紺は喉を鳴らした。


「二階だ」


 伊織が言った。


 二人は梯子を上がった。蔵の二階には、古い米俵がいくつも積まれている。埃っぽく、息をするだけで喉が痛い。お紺は花籠を背負ったまま、米俵の奥を探った。


「これじゃない」


「こっちも違う」


 時間がない。


 宴の音はまだ遠く聞こえるが、見張りが戻れば終わりだ。


 お紺は焦りで手元が乱れた。その時、父の手紙の言葉が胸に浮かんだ。


 嘘に負けない娘になりなさい。


 お紺は深く息を吸った。


 落ち着け。


 花を生ける時と同じだ。


 一つずつ、見る。


 米俵の奥。壁際。古い木箱。蓋に薄く積もった埃。その一つだけ、最近動かされた跡があった。


「伊織、これ」


 伊織が駆け寄り、木箱を開ける。


 中には、古い帳面が三冊入っていた。


 伊織の手が震えた。


「これだ」


 帳面を開くと、細かい字がびっしり並んでいる。年貢米の量、実際に納められた高、差し引かれた分、近江屋へ渡った金、黒羽の名。そして、過去に証人となった者たちの名。


 その中に、紺屋清兵衛の名もあった。


 お紺の視界が滲む。


「父さん……」


 伊織は素早く必要な頁を破り取ろうとした。


 その時だった。


 下から声が響いた。


「そこにいるのは分かっている」


 黒羽玄馬の声だった。


 お紺の血の気が引いた。


 伊織が帳面を懐に入れ、刀に手をかける。


 蔵の戸が開く音。


 複数の足音。


 そして、黒羽が行灯を掲げて現れた。


「花売り娘。やはりお前だったか」


 黒羽の目は、あの雨の夜と同じ冷たさをしていた。


「黒羽……」


 伊織が低く言う。


「伊織殿。生き延びた鼠は、結局蔵へ入り込むものだな」


「父の名誉と、民の無念を返してもらう」


「名誉? 無念? くだらぬ」


 黒羽は笑った。


「世は力ある者が動かす。米も金も命も、握る者が握ればよい。町人一人、下級武士一人が騒いだところで、何が変わる」


 お紺は帳面を抱きしめた。


「変わるよ」


 黒羽の目が、お紺へ向いた。


「何?」


「父さんは殺された。伊織のお父さんも消された。村の人たちも苦しんだ。そういう一つ一つを、あんたたちは小さいと思ってるんでしょう。でも、小さいものが集まって、いつか大きな声になる」


 黒羽の笑みが消えた。


「町娘が、ずいぶん吠える」


「花売り娘だから分かるんだよ。踏まれた花だって、根が残ればまた咲く」


 一瞬、蔵の中が静まり返った。


 次の瞬間、黒羽が手を上げた。


「燃やせ」


 お紺は耳を疑った。


 黒羽の部下が、蔵の隅へ火を放った。


 乾いた藁に火が移り、あっという間に煙が上がる。お紺は咳き込んだ。伊織が叫ぶ。


「黒羽、貴様!」


「証もろとも焼ければよい。火事となれば、町娘も若侍も、ただの焼け死にだ」


 黒羽は刀を抜いた。


 伊織も刀を抜く。


 二人の刃が暗い蔵の中でぶつかった。火花が散る。燃え広がる炎の赤と、刀の白い光が、狭い空間を狂ったように照らした。


 お紺は帳面を花籠へ入れようとした。


 だが煙で目が痛い。息ができない。手元が見えない。炎が梁へ移り、ばちばちと音を立てる。


「お紺、外へ!」


 伊織の声。


「でも帳面が!」


「命が先だ!」


 お紺は帳面を抱えて梯子へ向かった。しかし下から黒羽の部下が上がってくる。もみ合ううちに、帳面の一冊が手から滑り落ちた。


「あっ!」


 帳面は燃え始めた床へ落ちた。


 お紺が手を伸ばす。


 伊織も走ろうとした。


 しかし、燃えた梁が轟音とともに落ちた。


 炎が帳面を包んだ。


「いや……!」


 お紺の叫びが煙の中に消える。


 父の名が燃える。


 清兵衛が命をかけた証が、赤い火に食われていく。


 お紺は膝から崩れそうになった。


 その時、外から声がした。


「お紺!」


 新助だった。


 蔵の戸が外からこじ開けられ、水をかぶった戸板が炎の中へ突っ込まれる。


「早く出ろ!」


「新助!」


「いいから来い!」


 どうしてここにいるのか、聞いている暇はなかった。新助は顔を煤だらけにして、必死に入口を開いている。


 伊織が黒羽を押し返し、お紺の腕を掴んだ。


「走れ!」


 お紺は花籠を抱え、炎の中を駆けた。


 背後で黒羽の怒声が響く。


「逃がすな!」


 伊織が部下を斬り伏せる。だが傷が開いたのか、彼の肩口から血が滲んでいた。


「伊織!」


「振り返るな!」


 お紺は新助の腕に引かれ、蔵の外へ転がり出た。


 夜空が赤く染まっている。


 屋敷は騒然としていた。宴の客たちが逃げ惑い、女中たちが悲鳴を上げ、水桶が運ばれている。近江屋の主人は顔を真っ青にして叫んでいた。


 伊織も遅れて飛び出した。


 だが、黒羽の姿は炎と煙の向こうに消えていた。


「帳面が……」


 お紺は花籠を開いた。


 帳面はない。


 火の中へ落ちた。


 証は燃えた。


 その現実に、お紺の胸が押し潰されそうになる。


「父さんの……証が……」


 涙が溢れた。


 ここまで来たのに。


 母の涙を背負ってきたのに。


 父の手紙を胸に入れてきたのに。


 真実はまた、火の中に消えてしまった。


 だが伊織が、お紺の花籠の底へ手を伸ばした。


「まだだ」


「え……?」


 伊織は花籠の二重底から、数枚の紙を取り出した。


「蔵に入ってすぐ、帳面の要所を写しておいた。お前が米俵を探している間に」


 お紺は紙を見つめた。


 そこには、黒羽の名。近江屋の名。横流しされた米の量。そして、紺屋清兵衛が証人として関わった記録の一部が書き写されていた。


 完全ではない。


 帳面そのものではない。


 けれど、真実の欠片は残っていた。


「伊織……」


「清兵衛殿の真実は、まだ燃えていない」


 お紺の涙がこぼれた。


 新助が息を切らしながら言った。


「感動してる場合か。追っ手が来るぞ」


 その言葉に、三人は我に返った。


 遠くで黒羽の部下らしい男たちがこちらへ走ってくる。


 伊織は写しをお紺の花籠へ戻した。


「逃げるぞ」


「どこへ」


「お蝶の茶屋だ。あそこなら一度身を隠せる」


 新助が頷いた。


「俺が裏道を知ってる。ついてこい」


 三人は燃える近江屋を背に走り出した。


 夜の江戸を、火の粉が舞っていた。


 お紺は走りながら、胸の中で父に叫んだ。


 ごめん、父さん。


 帳面は守れなかった。


 でも、全部は消えていない。


 花籠の底に、まだ真実は残っている。


 だから、私は諦めない。


 炎の赤が、川面に映っていた。


 黒羽は逃げた。


 帳面は燃えた。


 密書も一部は失われた。


 けれど、花売り娘の籠の中には、まだ消えない小さな明かりが残っていた。


 それは、父が残した真実の火種だった。


 そしてその火種は、やがて江戸の闇を照らす最後の光になる。

お紺と伊織は近江屋の裏蔵で帳面を見つけましたが、黒羽玄馬の罠により蔵は燃やされてしまいました。

帳面そのものは失われたものの、伊織が写した一部の証は花籠の底に残りました。

完全ではない証を抱え、三人は追っ手から逃げます。

次の第9ページでは、伊織が最後の手段として真実を訴え出る決意をします。

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