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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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7/10

母の涙と過去の罪

黒羽の追っ手が花市に現れ、お紺の身にも危険が迫り始めました。

それでも近江屋へ行く決意を変えないお紺。

その夜、母のお久は、これまで隠してきたもう一つの過去を語り始めます。

清兵衛の死の裏にあった母の後悔と、娘を守るためについた嘘が明かされます。

その夜、深川の長屋には、妙に静かな風が吹いていた。


 昼間の花市で黒羽玄馬と出くわしたせいか、お紺の耳には、いつもの長屋の音さえ遠く聞こえた。隣の家で鍋の蓋が鳴る音。子どもが叱られて泣く声。誰かが咳き込む声。井戸端で女たちが笑う声。どれも確かに聞こえているのに、薄い紙一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。


 お紺は部屋の隅で、花籠の底をもう一度確かめていた。


 二重に縫った布の隙間。紹介状を入れる場所。もし帳面の一部を持ち出せた時に隠す場所。何度も何度も指でなぞり、針目の甘いところがないか確かめる。


 怖い。


 そう思うたびに、父の名が浮かぶ。


 紺屋清兵衛。


 病で死んだと聞かされていた父。けれど本当は、不正を暴こうとして黒羽に消された人。お紺に恥じない世の中を残したいと願ってくれた人。


 会った記憶もない父の想いが、今は確かに胸の奥で息をしていた。


「お紺」


 布団の中から、お久が呼んだ。


 お紺は顔を上げる。


「母さん、起きてたの」


「眠れるわけがないよ」


 お久の声は弱かった。けれど、いつもよりも澄んで聞こえた。咳を堪えるように胸元を押さえながら、母はゆっくり体を起こす。


 伊織は戸口の近くに座っていた。新助も、帰ると言いながら結局そのまま外に残っている。黒羽が花市に現れた以上、長屋も安全とは言えなかったからだ。


「お紺、少しこっちへおいで」


 母の声に逆らえず、お紺は花籠を置いて布団のそばへ座った。


 お久はしばらく、お紺の顔を見つめていた。まるで、赤ん坊だった頃の面影を探すように。あるいは、これから送り出さなければならない娘の顔を、目に焼きつけているように。


「母さん?」


「お前に、もう一つ話さなきゃいけないことがある」


 お紺の胸が小さく鳴った。


「父さんのこと?」


「清兵衛さんのことでもあり、私の罪のことでもある」


「罪……?」


 その言葉が重く落ちた。


 お久は枕元の古い箱を引き寄せた。前に父の櫛が入っていた箱だ。箱の底には、もう一枚、小さく折りたたまれた紙が隠されていた。ずいぶん古いものらしく、端は茶色く変色している。


 お久は震える指でそれを取り出した。


「これは、清兵衛さんが捕まる前の晩に書いたものだよ」


「父さんの手紙?」


「そう。お前が大きくなったら読ませてくれと渡された。でも私は、今日まで隠していた」


 お紺は息を呑んだ。


 父の手紙。


 そんなものがあるなど、今まで一度も聞いたことがなかった。


「どうして……」


 責めるつもりはなかった。けれど声には、どうしても震えが混じった。


 お久は目を伏せた。


「読ませるのが怖かった。お前が清兵衛さんの想いを知れば、いつか真実を追いかけるんじゃないかと思った。そうなれば、お前まで奪われる。そう思うと、どうしても渡せなかった」


 お紺は紙を見つめた。


 古い紙なのに、急に熱を持ったもののように見えた。


「母さんは、ずっとこれを持ってたの?」


「ああ」


「私に隠して?」


「ああ」


 お久は、逃げなかった。


 お紺は胸の奥に怒りが湧くのを感じた。どうして隠していたの。父の声を、父の想いを、どうして今まで奪っていたの。そう叫びたかった。


 けれど、目の前の母はあまりにも小さく見えた。


 病で痩せた肩。長年の苦労で荒れた手。夫を失い、娘だけを抱えて生き延びてきた人の顔。


 お紺は、怒りを飲み込んだ。


「読んでもいい?」


 お久は頷いた。


 お紺は慎重に紙を開いた。


 そこには、少し癖のある字で短い文が書かれていた。


 ――お紺へ。

 お前がこの手紙を読む頃、父はそばにいないかもしれない。

 けれど、父はお前を置いて逃げたのではない。

 お前が生きる世に、少しでも恥ずかしくない明かりを残したかった。

 母を責めてはいけない。

 お久は誰よりお前を守ろうとする人だ。

 花を愛し、人を恨みすぎず、それでも嘘に負けない娘になりなさい。

 父は、お前の笑う顔を一度でも多く見られたことを、幸せに思う。


 読み終えた瞬間、お紺の目から涙が落ちた。


 父の顔は知らない。


 声も知らない。


 けれど、手紙の中の父は、確かにお紺へ語りかけていた。


 お紺が生きる未来を案じ、母を責めるなと言い、嘘に負けるなと言っていた。


「母さん……」


 お紺が顔を上げると、お久はすでに泣いていた。


「私はね、お紺。清兵衛さんを止めたんだよ」


 その言葉は、前にも聞いた。


 けれど今夜の母の声には、もっと深い痛みがあった。


「止めたって……正しいことをするなって言ったの?」


「そうだよ」


 お久は頷いた。


「何度も言った。帳面の写しなんて燃やしてしまえって。武家の不正なんて町人の私たちには関係ないって。あなたが死んだら、私とお紺はどうなるのって、泣いてすがった」


 お紺は黙っていた。


「清兵衛さんは、それでもやめなかった。『関係ない顔をしていたら、同じ苦しみがお紺の時代にも残る』と言った。私は腹が立った。そんな立派なことより、生きていてほしかった。正義なんていらないから、ただ帰ってきてほしかった」


 お久の声が震えた。


「だから私は、清兵衛さんが写しを渡しに行く日を、止めようとした。あの人の着物の袖を掴んで、行かないでくれと泣いた。お前を抱かせて、この子を置いて行けるのかと責めた」


「母さん……」


「清兵衛さんは、お前を抱いて泣いたよ。泣きながら、それでも行った」


 お久は両手で顔を覆った。


「あの時、私はあの人を信じて送り出せなかった。最後にかけた言葉が、『あなたは家族より正義が大事なのか』だったんだよ」


 お紺の胸が締めつけられた。


 それが、母の罪。


 父を止めようとしたことではない。


 最後の言葉を、後悔のまま残してしまったこと。


「その晩、清兵衛さんは帰らなかった。翌朝、盗みの罪で捕らえられたと聞いた。人づてに、もう戻らないと知らされた。私は、あの人に謝ることもできなかった」


 お久は泣きながら続けた。


「そのあと、黒羽の手の者が来た。清兵衛さんは罪人だ。余計なことを口にすれば、お前も同じ目に遭うと脅された。私は怖くて、何も言えなかった。清兵衛さんは病で死んだことにした。お前に父親の誇りを伝えることもできず、ただ隠して、隠して、今日まで来た」


 お紺は父の手紙を握りしめた。


 母を責めたい気持ちは、まだ消えない。


 でも、母がただ弱かっただけだとは思えなかった。


 母は生き延びたのだ。


 お紺を守るために。


 真実を飲み込み、誇りを隠し、夫の名を胸の中だけで呼び続けながら。


「母さんは、父さんを裏切ったと思ってるの?」


 お紺が尋ねると、お久は涙に濡れた顔で頷いた。


「思っているよ。ずっと」


「でも、父さんの手紙には、母さんを責めるなって書いてある」


「だから余計に苦しいんだよ」


 お久は泣き笑いのような顔をした。


「清兵衛さんは、最後まで優しい人だった。私が弱いことも、怖がりなことも、きっと分かっていた。それなのに私は、あの人の願いをお前に伝えなかった」


 お紺はゆっくり母の手を取った。


 骨ばった細い手だった。


「母さん」


「何だい」


「私、怒ってる」


 お久の顔が小さく強張った。


「うん」


「父さんの手紙を、今まで隠してたこと。父さんが病で死んだって嘘をついたこと。全部、悲しいし、悔しい」


「うん」


「でも」


 お紺は涙を拭った。


「母さんが私を守ろうとしてくれたことも、分かる」


 お久の涙がまた溢れた。


「お紺……」


「許すとか、許さないとか、まだ分からない。でも、母さんを嫌いにはならない」


 その言葉を聞いた瞬間、お久はお紺の手を強く握った。


 細い手とは思えない力だった。


「ごめんよ。ごめんよ、お紺」


「謝るなら、生きてて」


 お紺は母の手を握り返した。


「私が帰ってくるまで、ちゃんと待ってて」


 お久は泣きながら頷いた。


 戸口で、伊織が静かに頭を下げた。


「お久殿」


 お久は顔を上げた。


「何でしょう」


「清兵衛殿の手紙を、私にも見せていただけませぬか」


 お紺は少し迷ったが、手紙を伊織へ渡した。


 伊織は一字一字を噛みしめるように読んだ。読み終えると、深く目を閉じた。


「私の父も、同じようなことを言っておりました」


「伊織さんのお父上も?」


「はい。民を守れぬ武士に、刀を差す資格はないと。私は幼い頃、その言葉の意味が分かりませんでした。ただ厳しい父だと思っていた。ですが今は、分かる気がいたします」


 伊織は手紙を丁寧に畳み、お紺へ返した。


「清兵衛殿と私の父は、同じものを守ろうとしていたのです」


 お紺は手紙を胸に抱いた。


 町人と武士。


 身分は違う。


 暮らしも違う。


 けれど、二人の父は同じ闇に立ち向かい、同じように消された。


 そして今、その娘と息子が、同じ真実を追っている。


 それは偶然なのかもしれない。


 けれど、お紺には父たちが遠い場所から二人を引き合わせたようにも思えた。


 その時、外にいた新助が低い声で言った。


「お紺」


 戸が少し開き、新助が顔を出した。


「長屋の外に、見慣れねえ男がいた。すぐ消えたが、たぶん見張りだ」


 部屋の空気が張り詰めた。


 伊織が立ち上がろうとする。


「黒羽の手の者か」


「分からねえ。でも、花市の後だ。そう考えるのが自然だろ」


 お久の顔色がさらに悪くなった。


「お紺……」


「大丈夫」


 お紺はできるだけ穏やかに言った。


「大丈夫じゃねえだろ」


 新助が苛立ったように言う。


「もうここにいても危ねえ。近江屋へ行く前に見つかったら終わりだ」


 伊織は静かに頷いた。


「明日の朝、動く。近江屋の宴まで待てぬかもしれぬ」


「え?」


 お紺が振り返る。


「黒羽に先手を打たれている。三日後では遅い可能性がある。お蝶にもう一度会い、近江屋へ入る手を早められないか確かめる」


「私も行く」


「もちろんだ」


 伊織は今度は止めなかった。


 その代わり、真剣な目でお紺を見た。


「ただし、命を第一にする。帳面より、お前の命だ」


「分かってる」


「本当に分かっているか」


「分かってるよ」


 お紺は父の手紙を懐にしまった。


 そして、母の櫛も一緒に入れた。


 お久が震える手で、お紺の頬に触れた。


「行くんだね」


「うん」


「止めたいよ」


「うん」


「でも、止めても行くんだろうね」


「うん」


 お久は涙をこぼしながら笑った。


「清兵衛さんに似たんだね」


 その言葉は、お紺の胸に温かく刺さった。


「母さんにも似てるよ」


「私に?」


「怖くても、大事なものを守ろうとするところ」


 お久は驚いた顔をしたあと、顔を歪めて泣いた。


 お紺は母を抱きしめた。


 痩せた体。細い肩。けれど、この腕に守られて自分はここまで生きてきたのだ。


 母の嘘に傷ついた。


 母の弱さに泣いた。


 それでも、母の愛に生かされてきた。


「帰ってくる」


 お紺は母の耳元で言った。


「父さんの真実を持って、ちゃんと帰ってくる」


 お久は何度も頷いた。


 夜が更けていく。


 長屋の外では、新助が見張りに立ち、伊織は刀の手入れをしていた。お紺は花籠を膝に置き、底の隠し口をもう一度確認する。


 花籠には、父の手紙。


 父の櫛。


 近江屋への紹介状。


 そして、お紺自身の覚悟。


 母の涙は、お紺の胸に重く残っていた。


 過去の罪は消えない。


 隠された嘘も、失われた命も、なかったことにはできない。


 けれど、それを抱えたまま進むことはできる。


 お紺はそう信じたかった。


 夜明け前、少しだけ眠ったお紺は、夢を見た。


 顔の分からない父が、雨の橋の向こうに立っていた。隣には若い頃の母がいて、二人は何も言わず、お紺を見つめている。


 父の手には、白い花があった。


 お紺が近づこうとすると、父は静かに首を振った。


 まだ来るな。


 そう言われた気がした。


 目が覚めると、障子の向こうが薄く明るくなっていた。


 お紺は起き上がり、花籠を背負った。


 外では伊織が待っている。


 新助も、腕を組んで立っていた。


「行くのか」


 新助が聞いた。


「行く」


「止めても無駄か」


「うん」


「じゃあ、俺もできることをする。お久さんは任せろ」


 お紺は深く頭を下げた。


「ありがとう」


 新助は顔を背けた。


「帰ってこい。それだけだ」


「うん」


 お紺は母の眠る部屋を振り返った。


 お久は起きていた。布団の中から、涙をこらえるように微笑んでいる。


「行っておいで」


 母が言った。


「そして、帰っておいで」


 お紺は頷いた。


 母の涙と過去の罪を背負い、父の手紙を胸に入れ、花籠を肩にかける。


 もう、ただの花売り娘ではいられなかった。


 それでも、お紺は花売り娘として歩く。


 花を売る娘だからこそ、江戸の町に紛れ、真実を取りに行ける。


 朝の深川に、薄い光が差していた。


 その光は頼りないけれど、確かに夜を押し返していた。


 お紺は伊織と並び、近江屋へ向かう道へ踏み出した。

お久は、清兵衛の手紙を隠していたこと、そして夫を止めきれなかった後悔をお紺に打ち明けました。

母の嘘は、お紺を守るための愛でもありました。

父の手紙と母の涙を受け取ったお紺は、真実を持ち帰る決意をさらに強くします。

次の第8ページでは、いよいよ近江屋の裏蔵へ入り、帳面を見つけるための危険な夜が始まります。

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