追っ手、花市に現る
近江屋へ潜り込む準備を進めるお紺。
しかし、黒羽玄馬はすでにお紺の存在を探り始めていました。
いつもの花市に現れた追っ手たち。
花売り娘としての日常が、少しずつ危険に塗り替えられていきます。
花市の朝は、夜明けより早く動き出す。
まだ空が薄青く、江戸の町が完全には目を覚ましていない時刻から、花を扱う者たちは籠を並べ、桶に水を張り、萎れかけた花の茎を切り直す。菊、撫子、桔梗、女郎花。季節の花が狭い通りに並ぶと、まだ眠たげな町までも少しだけ明るく見えた。
お紺はいつもの場所に腰を下ろし、花籠の中を整えていた。
白菊は奥へ。撫子は手前へ。桔梗は少し高く見えるように。花を美しく見せることは、貧しい暮らしの中でお紺が覚えた小さな知恵だった。どんなに気持ちが沈んでいても、花だけは明るく見せなければならない。買う人は、花と一緒に少しの慰めを買っていくのだから。
けれど今朝のお紺の手は、いつもより少し鈍かった。
三日後、近江屋の宴に花売りとして入る。
茶屋のお蝶から渡された紹介状は、家の床板の下に隠してある。花籠の底は、昨夜のうちに二重に縫った。密書の写しや帳面の一部を隠せるよう、布の合わせ目も自然に見えるようにした。針仕事は得意ではないが、母のお久に教わりながら、夜遅くまでかけて仕上げた。
だが、準備が整うほど、怖さも形を持ちはじめた。
近江屋。
裏蔵。
帳面。
黒羽玄馬。
その名を思うだけで、雨の橋の上から見下ろしてきた冷たい目がよみがえる。余計なものを見た者は長生きできぬ。あの声が、耳の奥にこびりついていた。
「お紺ちゃん、今日は顔が硬いねえ」
隣で花を並べていた年上の女が声をかけてきた。
「そうかな」
「花売りがそんな顔してちゃ、花まで怯えるよ」
「花も怯えるの?」
「そりゃ怯えるさ。売り主の心持ちは、花の首の向きに出るもんだよ」
女はそう言って笑った。
お紺も笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「やっぱり変な顔してるじゃねえか」
振り返ると、新助が立っていた。仕事道具を肩にかけ、眠そうな顔をしている。桶職人の朝も早い。だが今日は、仕事へ向かう途中というより、お紺を見に来たように見えた。
「新助。仕事は?」
「行くところだ」
「じゃあ行きなよ」
「人の顔見て、すぐ追い払うな」
新助はお紺の隣にしゃがみ、花籠を覗き込んだ。
「ずいぶん綺麗に並べたな」
「売らなきゃいけないからね」
「それだけか」
「何が」
「近江屋に行く準備じゃねえのか」
お紺の手が止まった。
「……誰から聞いたの」
「聞かなくても分かる。お前、隠し事が下手なんだよ」
「長屋のみんなには黙ってて」
「黙っててどうする。お前、本気であんな危ねえところへ行くつもりか」
新助の声は低かった。
お紺は周囲を見回した。花市は少しずつ人が増え始めている。ここで言い争うわけにはいかない。
「声、落として」
「落としたら危なくなくなるのか」
「新助」
「俺は反対だ」
新助ははっきり言った。
「あの侍の事情も、お前の父親のことも、少しは分かった。けどな、お紺。死んじまったら終わりだろ」
お紺は唇を噛んだ。
「死ぬつもりなんてない」
「死ぬつもりで死ぬ奴なんかいねえよ」
その言葉に、お紺は返せなかった。
新助は昔から、こういう時だけ妙にまっすぐだった。普段はぶっきらぼうで、口も悪くて、優しいことをする時ほど不機嫌な顔をする。それなのに、大事なところでは逃げない。
「お紺」
新助の声が少しだけ柔らかくなった。
「俺じゃ駄目なのか」
「え?」
「困った時、頼る相手が俺じゃ駄目なのかって聞いてる」
お紺は息を止めた。
新助はお紺の幼なじみのような存在だった。母が寝込んだ時は井戸水を運んでくれた。雨漏りがすれば戸を直してくれた。米が切れそうな時、何も言わず握り飯を置いていったこともある。
けれど今、新助の目は、ただの隣人のものではなかった。
「新助……」
「俺なら、お前のそばにずっといた。あの侍より前から、お前とお久さんを見てきた。だから余計に腹が立つんだよ。ぽっと出の侍のために、お前が危ねえ橋を渡ろうとしてるのが」
「伊織のためだけじゃない」
「分かってる。お前の父親のことだろ。正しいことだってのも、分かる」
新助は悔しそうに目を伏せた。
「でも、分かってても嫌なんだよ。お前が傷つくのは」
お紺の胸が痛んだ。
新助の気持ちを、知らなかったわけではない。けれど、見ないふりをしていた。家族みたいだから。幼なじみみたいだから。そう言い訳して、ずっと曖昧にしてきた。
今ここで何かを答えることはできなかった。
お紺自身、自分の心がどこへ向かっているのか分からなかったからだ。
「ごめん」
お紺は小さく言った。
「今は、それしか言えない」
新助は苦しそうに笑った。
「一番聞きたくねえ言葉だな」
その時だった。
花市の入り口の方が、不自然に静かになった。
朝の市は本来、騒がしい。花を呼び売る声、値切る客の声、桶の水音、笑い声。それらが、まるで誰かに首を絞められたように一つずつ消えていった。
お紺はゆっくり顔を上げた。
黒い羽織を着た男たちが、花市へ入ってきた。
三人。いや、後ろにもう二人いる。武士とも町方ともつかない男たちだった。だが、ただの客でないことは一目で分かった。目つきが違う。花を見る目ではなく、人を探す目をしていた。
その先頭に、黒羽玄馬がいた。
お紺の喉が凍った。
雨の橋の上で見た、あの男。
鋭い目。感情のない口元。人の命を、邪魔な紙切れのように扱いそうな冷たさ。
黒羽はゆっくりと花市を見渡した。
「花売りの娘を探している」
静かな声だった。
だが、その場にいた者たち全員の背筋を冷やすには十分だった。
「深川の辺りで花を売る若い娘だ。雨の夜、手負いの侍を見た可能性がある」
お紺の指先が震えた。
逃げてはいけない。
逃げたら、疑われる。
顔を上げてもいけない。
目が合えば、終わる。
お紺は花籠の撫子を整えるふりをした。自分の手が震えているのが分かる。花の茎まで震えている。隣の女が小さく息を呑んだ。
黒羽たちは一軒ずつ、花売りの顔を確かめていく。
「おい、お前。顔を上げろ」
「へ、へえ」
「昨夜、一昨日、この辺りで怪しい侍を見なかったか」
「見ておりません」
「本当か」
「本当でございます」
黒羽は少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。彼自身はあまり動かない。ただ、部下たちに探らせ、人の反応を眺めている。
お紺には、それがかえって恐ろしかった。
やがて、一人の男がお紺の前に立った。
「娘」
お紺は息を止めた。
「顔を上げろ」
お紺はゆっくり顔を上げた。
目の前の男は黒羽ではなかった。だが、その背後で黒羽がこちらを見ている。
「名は」
「……お紺でございます」
「深川か」
「へえ」
「雨の夜、橋の下で侍を見なかったか」
お紺の心臓が激しく鳴る。
嘘をつくなら、いつもの調子で。
花を売る時の顔で。
何も知らない町娘として。
「侍さまなら、毎日たくさん見ます。花を買ってくださる方は少ないですけど」
男の目が細くなった。
「ふざけているのか」
「めっそうもないことでございます」
お紺は白菊を一本持ち上げた。
「お侍さまには、こちらの白菊などいかがでしょう。雨の日にも強い花でございます」
その時、黒羽が一歩近づいてきた。
お紺の背筋に冷たいものが走る。
「その声」
黒羽が言った。
「どこかで聞いたな」
お紺は笑みを浮かべた。
「花売りの声は、みな似たようなものでございます」
「そうか」
黒羽はお紺の顔をじっと見た。
雨の橋で見られたのは、暗がりだった。羽織も濡れていた。顔もはっきり見えなかったはずだ。そう自分に言い聞かせる。だが黒羽の目は、記憶の底を探るようにお紺を見つめていた。
「その籠を見せろ」
お紺の体が固まった。
花籠の底は二重になっている。今日はまだ密書は入れていない。けれど見られれば、不自然な縫い目に気づかれるかもしれない。
黒羽の部下が手を伸ばす。
その瞬間、新助が前に出た。
「お武家さま」
新助はお紺の肩を抱くようにして、少し乱暴に自分の方へ引き寄せた。
「うちの女房に、何かご用で?」
お紺は目を見開いた。
「新助……」
新助は小声で言った。
「黙ってろ」
黒羽の目が、新助へ移る。
「女房?」
「へえ。まだ祝言は先ですが、所帯を持つ約束で」
「その娘が、探している者かもしれぬ」
「こいつは気が小さくてね。血なんか見たら腰を抜かします。侍を助ける度胸なんざありませんよ」
お紺は内心で少しだけむっとした。だが今は反論できない。
黒羽は新助を見た。
「名は」
「新助。桶職人です」
「桶職人が、なぜ花市にいる」
「女房になる女を迎えに来るのに、理由がいりますかね」
新助の声は震えていなかった。
だが、お紺には分かった。肩を抱く手に、わずかな震えがある。怖いのだ。新助も怖い。それでも前に出てくれた。
黒羽はしばらく二人を見つめたあと、ふっと口元を歪めた。
「町人風情が、よく喋る」
「口だけは達者でして」
「なら、その口でよく言い聞かせておけ」
黒羽はお紺を見た。
「余計なものを見た娘は、長生きできぬとな」
お紺は唇を噛みそうになるのを必死で堪えた。
黒羽は手を振り、部下たちを連れて花市を去っていった。
足音が遠ざかった瞬間、花市にいた者たちが一斉に息を吐いた。誰かが小さく「怖かったねえ」と呟く。いつもの朝の声が、少しずつ戻ってくる。
お紺はその場に座り込みそうになった。
新助が支えてくれた。
「大丈夫か」
「……うん」
「大丈夫な顔じゃねえよ」
新助の声も、少し掠れていた。
「ありがとう」
「礼はいらねえ」
「でも」
「俺は、お前に死んでほしくないだけだ」
その言葉は、さっきよりもまっすぐだった。
お紺は何も言えなかった。
昼過ぎ、花を売るどころではなくなったお紺は、長屋へ戻った。
新助も仕事を休んでついてきた。道中、二人はほとんど話さなかった。黒羽の言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
余計なものを見た娘は、長生きできぬ。
長屋へ戻ると、伊織が戸口に立っていた。顔色はまだ悪いが、目だけは鋭い。
「早かったな」
お紺が答える前に、新助が言った。
「花市に黒羽が来た」
伊織の表情が一瞬で変わった。
「何だと」
「お紺を探してた。雨の夜に侍を見た娘だってな」
伊織はお紺を見る。
「怪我は」
「ない」
「何かされたか」
「籠を見せろって言われたけど、新助が助けてくれた」
伊織は新助へ深く頭を下げた。
「感謝する」
新助は気まずそうに顔を背けた。
「侍に頭下げられても、嬉しくねえ」
「それでも、礼を言う」
「……本当に調子狂う奴だな」
伊織はお紺へ向き直った。
「近江屋へ入る話は中止だ」
「嫌」
お紺は即座に言った。
「お紺」
「ここまで来て逃げたら、父さんのことも、伊織のお父さんのことも、全部また闇に戻る」
「命のほうが大事だ」
「命を守るために、真実が必要なんでしょう」
伊織は言葉を失った。
新助が苦しげに言った。
「お前、まだ行く気なのか」
「行く」
「黒羽はもうお前の顔を見たんだぞ」
「うん」
「怖くねえのか」
「怖いよ」
お紺は花籠を抱きしめた。
「怖い。足が震えるくらい怖い。でも、黒羽が私を探してるってことは、あの人も真実を恐れてるってことでしょ。だったら、なおさら見つけなきゃ」
部屋の奥で、お久が目を覚ましていた。
母は何も言わなかった。ただ、布団の上で両手を握りしめている。
伊織は長い沈黙のあと、低く言った。
「ならば、私も近くまで行く」
「駄目。目立つ」
「お前一人では行かせられぬ」
「でも」
「私は、お前を守る」
その声は静かだったが、強かった。
お紺の胸が小さく揺れた。
新助が顔を背けた。
部屋の中に、言葉にできない空気が流れる。お紺はそれに気づかないふりをした。今、誰かの想いに答える余裕などなかった。
その夜、お紺は花籠の底をもう一度確かめた。二重に縫った布。隠し口。紹介状。父の櫛。すべてが、明日ではなく三日後の近江屋へ向けて整えられていく。
けれど黒羽は、もうお紺を見ていた。
逃げ道は少しずつ狭くなっている。
お久が布団の中から言った。
「お紺」
「母さん?」
「今夜、話しておきたいことがある」
その声は震えていた。
「清兵衛さんのことだけじゃない。私が隠してきた、もう一つのことを」
お紺は針を持つ手を止めた。
母の目には、涙が浮かんでいた。
外では、夜風が長屋の戸を揺らしている。
追っ手は花市に現れた。
黒羽の影は、もうすぐそこまで来ている。
そしてその夜、お紺は母の口から、過去に犯されたもう一つの罪を聞くことになる。
花市に現れた黒羽玄馬は、お紺の存在に近づいていました。
新助の機転でその場は逃れたものの、危険はさらに深まります。
それでもお紺は、近江屋へ行く決意を変えません。
次の第7ページでは、母のお久が涙ながらに、清兵衛の過去と自分が抱えてきた罪を語ります。




