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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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6/10

追っ手、花市に現る

近江屋へ潜り込む準備を進めるお紺。

しかし、黒羽玄馬はすでにお紺の存在を探り始めていました。

いつもの花市に現れた追っ手たち。

花売り娘としての日常が、少しずつ危険に塗り替えられていきます。

花市の朝は、夜明けより早く動き出す。


 まだ空が薄青く、江戸の町が完全には目を覚ましていない時刻から、花を扱う者たちは籠を並べ、桶に水を張り、萎れかけた花の茎を切り直す。菊、撫子、桔梗、女郎花。季節の花が狭い通りに並ぶと、まだ眠たげな町までも少しだけ明るく見えた。


 お紺はいつもの場所に腰を下ろし、花籠の中を整えていた。


 白菊は奥へ。撫子は手前へ。桔梗は少し高く見えるように。花を美しく見せることは、貧しい暮らしの中でお紺が覚えた小さな知恵だった。どんなに気持ちが沈んでいても、花だけは明るく見せなければならない。買う人は、花と一緒に少しの慰めを買っていくのだから。


 けれど今朝のお紺の手は、いつもより少し鈍かった。


 三日後、近江屋の宴に花売りとして入る。


 茶屋のお蝶から渡された紹介状は、家の床板の下に隠してある。花籠の底は、昨夜のうちに二重に縫った。密書の写しや帳面の一部を隠せるよう、布の合わせ目も自然に見えるようにした。針仕事は得意ではないが、母のお久に教わりながら、夜遅くまでかけて仕上げた。


 だが、準備が整うほど、怖さも形を持ちはじめた。


 近江屋。


 裏蔵。


 帳面。


 黒羽玄馬。


 その名を思うだけで、雨の橋の上から見下ろしてきた冷たい目がよみがえる。余計なものを見た者は長生きできぬ。あの声が、耳の奥にこびりついていた。


「お紺ちゃん、今日は顔が硬いねえ」


 隣で花を並べていた年上の女が声をかけてきた。


「そうかな」


「花売りがそんな顔してちゃ、花まで怯えるよ」


「花も怯えるの?」


「そりゃ怯えるさ。売り主の心持ちは、花の首の向きに出るもんだよ」


 女はそう言って笑った。


 お紺も笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


 その時、背後から聞き慣れた声がした。


「やっぱり変な顔してるじゃねえか」


 振り返ると、新助が立っていた。仕事道具を肩にかけ、眠そうな顔をしている。桶職人の朝も早い。だが今日は、仕事へ向かう途中というより、お紺を見に来たように見えた。


「新助。仕事は?」


「行くところだ」


「じゃあ行きなよ」


「人の顔見て、すぐ追い払うな」


 新助はお紺の隣にしゃがみ、花籠を覗き込んだ。


「ずいぶん綺麗に並べたな」


「売らなきゃいけないからね」


「それだけか」


「何が」


「近江屋に行く準備じゃねえのか」


 お紺の手が止まった。


「……誰から聞いたの」


「聞かなくても分かる。お前、隠し事が下手なんだよ」


「長屋のみんなには黙ってて」


「黙っててどうする。お前、本気であんな危ねえところへ行くつもりか」


 新助の声は低かった。


 お紺は周囲を見回した。花市は少しずつ人が増え始めている。ここで言い争うわけにはいかない。


「声、落として」


「落としたら危なくなくなるのか」


「新助」


「俺は反対だ」


 新助ははっきり言った。


「あの侍の事情も、お前の父親のことも、少しは分かった。けどな、お紺。死んじまったら終わりだろ」


 お紺は唇を噛んだ。


「死ぬつもりなんてない」


「死ぬつもりで死ぬ奴なんかいねえよ」


 その言葉に、お紺は返せなかった。


 新助は昔から、こういう時だけ妙にまっすぐだった。普段はぶっきらぼうで、口も悪くて、優しいことをする時ほど不機嫌な顔をする。それなのに、大事なところでは逃げない。


「お紺」


 新助の声が少しだけ柔らかくなった。


「俺じゃ駄目なのか」


「え?」


「困った時、頼る相手が俺じゃ駄目なのかって聞いてる」


 お紺は息を止めた。


 新助はお紺の幼なじみのような存在だった。母が寝込んだ時は井戸水を運んでくれた。雨漏りがすれば戸を直してくれた。米が切れそうな時、何も言わず握り飯を置いていったこともある。


 けれど今、新助の目は、ただの隣人のものではなかった。


「新助……」


「俺なら、お前のそばにずっといた。あの侍より前から、お前とお久さんを見てきた。だから余計に腹が立つんだよ。ぽっと出の侍のために、お前が危ねえ橋を渡ろうとしてるのが」


「伊織のためだけじゃない」


「分かってる。お前の父親のことだろ。正しいことだってのも、分かる」


 新助は悔しそうに目を伏せた。


「でも、分かってても嫌なんだよ。お前が傷つくのは」


 お紺の胸が痛んだ。


 新助の気持ちを、知らなかったわけではない。けれど、見ないふりをしていた。家族みたいだから。幼なじみみたいだから。そう言い訳して、ずっと曖昧にしてきた。


 今ここで何かを答えることはできなかった。


 お紺自身、自分の心がどこへ向かっているのか分からなかったからだ。


「ごめん」


 お紺は小さく言った。


「今は、それしか言えない」


 新助は苦しそうに笑った。


「一番聞きたくねえ言葉だな」


 その時だった。


 花市の入り口の方が、不自然に静かになった。


 朝の市は本来、騒がしい。花を呼び売る声、値切る客の声、桶の水音、笑い声。それらが、まるで誰かに首を絞められたように一つずつ消えていった。


 お紺はゆっくり顔を上げた。


 黒い羽織を着た男たちが、花市へ入ってきた。


 三人。いや、後ろにもう二人いる。武士とも町方ともつかない男たちだった。だが、ただの客でないことは一目で分かった。目つきが違う。花を見る目ではなく、人を探す目をしていた。


 その先頭に、黒羽玄馬がいた。


 お紺の喉が凍った。


 雨の橋の上で見た、あの男。


 鋭い目。感情のない口元。人の命を、邪魔な紙切れのように扱いそうな冷たさ。


 黒羽はゆっくりと花市を見渡した。


「花売りの娘を探している」


 静かな声だった。


 だが、その場にいた者たち全員の背筋を冷やすには十分だった。


「深川の辺りで花を売る若い娘だ。雨の夜、手負いの侍を見た可能性がある」


 お紺の指先が震えた。


 逃げてはいけない。


 逃げたら、疑われる。


 顔を上げてもいけない。


 目が合えば、終わる。


 お紺は花籠の撫子を整えるふりをした。自分の手が震えているのが分かる。花の茎まで震えている。隣の女が小さく息を呑んだ。


 黒羽たちは一軒ずつ、花売りの顔を確かめていく。


「おい、お前。顔を上げろ」


「へ、へえ」


「昨夜、一昨日、この辺りで怪しい侍を見なかったか」


「見ておりません」


「本当か」


「本当でございます」


 黒羽は少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。彼自身はあまり動かない。ただ、部下たちに探らせ、人の反応を眺めている。


 お紺には、それがかえって恐ろしかった。


 やがて、一人の男がお紺の前に立った。


「娘」


 お紺は息を止めた。


「顔を上げろ」


 お紺はゆっくり顔を上げた。


 目の前の男は黒羽ではなかった。だが、その背後で黒羽がこちらを見ている。


「名は」


「……お紺でございます」


「深川か」


「へえ」


「雨の夜、橋の下で侍を見なかったか」


 お紺の心臓が激しく鳴る。


 嘘をつくなら、いつもの調子で。


 花を売る時の顔で。


 何も知らない町娘として。


「侍さまなら、毎日たくさん見ます。花を買ってくださる方は少ないですけど」


 男の目が細くなった。


「ふざけているのか」


「めっそうもないことでございます」


 お紺は白菊を一本持ち上げた。


「お侍さまには、こちらの白菊などいかがでしょう。雨の日にも強い花でございます」


 その時、黒羽が一歩近づいてきた。


 お紺の背筋に冷たいものが走る。


「その声」


 黒羽が言った。


「どこかで聞いたな」


 お紺は笑みを浮かべた。


「花売りの声は、みな似たようなものでございます」


「そうか」


 黒羽はお紺の顔をじっと見た。


 雨の橋で見られたのは、暗がりだった。羽織も濡れていた。顔もはっきり見えなかったはずだ。そう自分に言い聞かせる。だが黒羽の目は、記憶の底を探るようにお紺を見つめていた。


「その籠を見せろ」


 お紺の体が固まった。


 花籠の底は二重になっている。今日はまだ密書は入れていない。けれど見られれば、不自然な縫い目に気づかれるかもしれない。


 黒羽の部下が手を伸ばす。


 その瞬間、新助が前に出た。


「お武家さま」


 新助はお紺の肩を抱くようにして、少し乱暴に自分の方へ引き寄せた。


「うちの女房に、何かご用で?」


 お紺は目を見開いた。


「新助……」


 新助は小声で言った。


「黙ってろ」


 黒羽の目が、新助へ移る。


「女房?」


「へえ。まだ祝言は先ですが、所帯を持つ約束で」


「その娘が、探している者かもしれぬ」


「こいつは気が小さくてね。血なんか見たら腰を抜かします。侍を助ける度胸なんざありませんよ」


 お紺は内心で少しだけむっとした。だが今は反論できない。


 黒羽は新助を見た。


「名は」


「新助。桶職人です」


「桶職人が、なぜ花市にいる」


「女房になる女を迎えに来るのに、理由がいりますかね」


 新助の声は震えていなかった。


 だが、お紺には分かった。肩を抱く手に、わずかな震えがある。怖いのだ。新助も怖い。それでも前に出てくれた。


 黒羽はしばらく二人を見つめたあと、ふっと口元を歪めた。


「町人風情が、よく喋る」


「口だけは達者でして」


「なら、その口でよく言い聞かせておけ」


 黒羽はお紺を見た。


「余計なものを見た娘は、長生きできぬとな」


 お紺は唇を噛みそうになるのを必死で堪えた。


 黒羽は手を振り、部下たちを連れて花市を去っていった。


 足音が遠ざかった瞬間、花市にいた者たちが一斉に息を吐いた。誰かが小さく「怖かったねえ」と呟く。いつもの朝の声が、少しずつ戻ってくる。


 お紺はその場に座り込みそうになった。


 新助が支えてくれた。


「大丈夫か」


「……うん」


「大丈夫な顔じゃねえよ」


 新助の声も、少し掠れていた。


「ありがとう」


「礼はいらねえ」


「でも」


「俺は、お前に死んでほしくないだけだ」


 その言葉は、さっきよりもまっすぐだった。


 お紺は何も言えなかった。


 昼過ぎ、花を売るどころではなくなったお紺は、長屋へ戻った。


 新助も仕事を休んでついてきた。道中、二人はほとんど話さなかった。黒羽の言葉が、何度も胸の中で繰り返される。


 余計なものを見た娘は、長生きできぬ。


 長屋へ戻ると、伊織が戸口に立っていた。顔色はまだ悪いが、目だけは鋭い。


「早かったな」


 お紺が答える前に、新助が言った。


「花市に黒羽が来た」


 伊織の表情が一瞬で変わった。


「何だと」


「お紺を探してた。雨の夜に侍を見た娘だってな」


 伊織はお紺を見る。


「怪我は」


「ない」


「何かされたか」


「籠を見せろって言われたけど、新助が助けてくれた」


 伊織は新助へ深く頭を下げた。


「感謝する」


 新助は気まずそうに顔を背けた。


「侍に頭下げられても、嬉しくねえ」


「それでも、礼を言う」


「……本当に調子狂う奴だな」


 伊織はお紺へ向き直った。


「近江屋へ入る話は中止だ」


「嫌」


 お紺は即座に言った。


「お紺」


「ここまで来て逃げたら、父さんのことも、伊織のお父さんのことも、全部また闇に戻る」


「命のほうが大事だ」


「命を守るために、真実が必要なんでしょう」


 伊織は言葉を失った。


 新助が苦しげに言った。


「お前、まだ行く気なのか」


「行く」


「黒羽はもうお前の顔を見たんだぞ」


「うん」


「怖くねえのか」


「怖いよ」


 お紺は花籠を抱きしめた。


「怖い。足が震えるくらい怖い。でも、黒羽が私を探してるってことは、あの人も真実を恐れてるってことでしょ。だったら、なおさら見つけなきゃ」


 部屋の奥で、お久が目を覚ましていた。


 母は何も言わなかった。ただ、布団の上で両手を握りしめている。


 伊織は長い沈黙のあと、低く言った。


「ならば、私も近くまで行く」


「駄目。目立つ」


「お前一人では行かせられぬ」


「でも」


「私は、お前を守る」


 その声は静かだったが、強かった。


 お紺の胸が小さく揺れた。


 新助が顔を背けた。


 部屋の中に、言葉にできない空気が流れる。お紺はそれに気づかないふりをした。今、誰かの想いに答える余裕などなかった。


 その夜、お紺は花籠の底をもう一度確かめた。二重に縫った布。隠し口。紹介状。父の櫛。すべてが、明日ではなく三日後の近江屋へ向けて整えられていく。


 けれど黒羽は、もうお紺を見ていた。


 逃げ道は少しずつ狭くなっている。


 お久が布団の中から言った。


「お紺」


「母さん?」


「今夜、話しておきたいことがある」


 その声は震えていた。


「清兵衛さんのことだけじゃない。私が隠してきた、もう一つのことを」


 お紺は針を持つ手を止めた。


 母の目には、涙が浮かんでいた。


 外では、夜風が長屋の戸を揺らしている。


 追っ手は花市に現れた。


 黒羽の影は、もうすぐそこまで来ている。


 そしてその夜、お紺は母の口から、過去に犯されたもう一つの罪を聞くことになる。

花市に現れた黒羽玄馬は、お紺の存在に近づいていました。

新助の機転でその場は逃れたものの、危険はさらに深まります。

それでもお紺は、近江屋へ行く決意を変えません。

次の第7ページでは、母のお久が涙ながらに、清兵衛の過去と自分が抱えてきた罪を語ります。

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