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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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5/10

茶屋のお蝶と闇の噂

父の死の真実を知ったお紺は、伊織と共に日本橋へ向かいます。

二人が訪ねるのは、江戸の裏事情に詳しい茶屋の女・お蝶。

華やかな茶屋の奥で語られる噂は、近江屋、黒羽玄馬、そして消された者たちの闇へつながっていました。

日本橋の町は、深川とはまるで違う匂いがした。


 深川が湿った土と川風と味噌汁の匂いなら、日本橋は銭と香と人の欲の匂いがする。道の両側には立派な店が並び、反物屋の軒先には色鮮やかな布が揺れ、魚河岸の方からは威勢のいい声が飛んでくる。荷を担ぐ男たち、駕籠を急がせる武家の使い、上等な着物を着た商人、髪を美しく結った女たち。誰もが忙しそうで、誰もが何かを隠しているように見えた。


 お紺は花籠を抱え直した。


 籠の中には、今日売るための花だけではなく、父の櫛と、伊織が持つ密書の写しが隠されている。昨日までなら、花籠はお紺にとって生活の道具だった。けれど今は違う。父の無念と、伊織の覚悟と、お紺自身の決意が詰まったものになっていた。


 隣を歩く伊織は、町人の着物を着て笠を深くかぶっていた。侍の姿を隠しているつもりなのだろうが、背筋の伸び方や歩き方までは隠しきれていない。お紺はちらりと見上げ、少し呆れた。


「伊織」


「何だ」


「もっと猫背に歩けないの?」


「猫背?」


「そんなにまっすぐ歩いてたら、いかにも武士ですって言ってるようなものだよ」


 伊織は一瞬困った顔をしたあと、ぎこちなく背を丸めた。


「こうか」


「……変」


「では、どうすればいい」


「もういい。余計目立つ」


 お紺が小さく笑うと、伊織は真面目な顔で黙り込んだ。その不器用さが少し可笑しくて、少しだけ胸が温かくなる。けれどすぐに、お紺は気を引き締めた。


 遊びに来たわけではない。


 父の名を闇から取り戻すために来たのだ。


 伊織が向かったのは、大通りから少し外れた路地の奥だった。華やかな店先から離れるほど、人の声は低くなり、道行く者の目つきも変わる。表では言えない話が、こういう路地の奥で売り買いされるのだろう。


 やがて二人は、小さな茶屋の前で足を止めた。


 軒先には「春霞」と書かれた行灯が下がっている。派手ではないが、どこか目を引く店だった。戸の隙間からは、茶の香りと、かすかな白粉の匂いが流れてくる。


「ここ?」


「ああ」


「お蝶さんって、どんな人?」


「江戸の噂に詳しい女だ」


「それは聞いた」


「それ以上は、私もよく知らぬ」


「本当に?」


 お紺がじっと見ると、伊織はわずかに目を逸らした。


「父の知己だった。私自身は、数度会っただけだ」


「ふうん」


「なぜ不満そうなのだ」


「別に」


 お紺はそう言って、先に戸を開けた。


 店の中は、外から見るよりも奥行きがあった。手前では旅人らしい男が茶を飲み、奥の座敷では商人たちが小声で話し込んでいる。茶屋というより、噂が行き交う隠れ家のようだった。


 その奥から、一人の女が現れた。


 年は二十代半ばほどだろうか。艶やかな黒髪を結い、薄紫の着物をさらりと着こなしている。派手すぎないのに、人の目を引く。笑っているのに、心の奥までは見せない。まさに蝶のような女だった。


「あら」


 女は伊織を見るなり、目を細めた。


「生きていらしたのね、伊織さま」


 伊織は慌てて声を低くした。


「お蝶、名を呼ぶな」


「死んだと思っていた人が生きていたのですもの。少しくらい驚かせてくださいな」


 お蝶はくすりと笑い、次にお紺へ視線を移した。


「こちらの可愛らしい花売りさんは?」


「お紺だ。私を助けてくれた」


「まあ。雨の夜に若侍を拾った娘さんね」


 お紺は眉を寄せた。


「もう知ってるんですか」


「江戸の噂は、雨水より早く流れるものよ」


「怖いですね」


「ええ。だから、使い方を知っている者だけが生き残るの」


 お蝶は笑っていたが、その言葉には冷たさがあった。


 二人は奥の小部屋へ通された。障子が閉められ、店の喧騒が少し遠くなる。お蝶は茶を淹れながら、さっきまでの柔らかな顔を消した。


「黒羽玄馬が、あなたを探しているわ」


 伊織の目が鋭くなった。


「やはりか」


「花売りの娘のことも探っている。雨の橋で手負いの侍を見た娘。深川にいるらしいところまでは、もう嗅ぎつけているかもしれない」


 お紺の手が、膝の上で小さく震えた。


 お蝶はそれを見逃さなかった。


「怖い?」


「怖いです」


 お紺は正直に答えた。


「でも、知らないふりをするほうが、もっと怖いです」


 お蝶は少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。


「いい目をしているわね。泣きそうなのに、折れていない」


 お紺は何も言えなかった。


 伊織が口を開いた。


「近江屋の裏蔵について聞きたい」


「でしょうね」


 お蝶は茶碗を置いた。


「近江屋は表向き、廻船問屋。米、塩、木材、反物、何でも扱う大店よ。でも裏では、藩の年貢米を預かる仕事もしている。帳面をごまかすには、うってつけの場所ね」


「帳面はあるのか」


「あるわ」


 お紺は息を呑んだ。


 お蝶は声を落とす。


「裏蔵の二階。古い米俵の奥に、表の帳面とは別の帳面が隠されていると聞いている。そこには、実際に納められた米の量、横流しされた分、黒羽へ渡った金、近江屋が受け取った取り分まで記されているそうよ」


「誰から聞いた」


「昔、近江屋で働いていた男」


「その男は今どこに」


 お蝶の表情が、ほんの少し暗くなった。


「川に浮いたわ」


 部屋の空気が冷えた。


「事故として片づけられた。でも、体には殴られた跡があったそうよ。黒羽はそういう男。証を持つ者、見た者、聞いた者、邪魔になる者を、静かに消す」


 お紺の脳裏に、父の名が浮かんだ。


 紺屋清兵衛。


 父も、そうして消されたのだろうか。


 拳を握るお紺を見て、お蝶は静かに言った。


「あなたのお父上のことも、少しだけ聞いたことがあるわ」


 お紺は顔を上げた。


「父を?」


「紺屋清兵衛。腕のいい職人で、まっすぐすぎる人だったと聞いている。あの人が写した帳面の一部が、今の密書につながっているの」


「父さんは……最後、どうなったんですか」


 お蝶はすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、お紺は胸が痛くなった。


「ごめんなさい。詳しい最期までは分からない。ただ、清兵衛さんが捕まった夜、黒羽の手の者が深川から一人の男を連れ去ったという話は残っている。盗人として処分されたと噂されたけれど、遺体は戻らなかった」


 お紺の視界が滲んだ。


 遺体も戻らなかった。


 母は、夫の亡骸に手を合わせることもできなかったのだ。


 伊織が低く言った。


「清兵衛殿の無念は、必ず晴らす」


 その声には、伊織自身の父への想いも重なっていた。


 お蝶は二人を見比べ、少しだけため息をついた。


「二人とも、危ない顔をしているわね」


「危ない顔?」


 お紺が尋ねると、お蝶は茶を一口飲んだ。


「死ぬ覚悟をした人の顔よ。でもね、死ぬ覚悟なんてものは、時に役に立たない。大事なのは、生きて証を届ける覚悟よ」


 その言葉は、お紺の胸に深く刺さった。


 父は死んだ。


 伊織の父も死んだ。


 だからこそ、自分たちは生きて届けなければならない。


「近江屋へ入る方法はありますか」


 お紺が尋ねた。


 伊織がすぐに口を挟む。


「お紺」


「聞くだけ」


「聞くだけで済む顔ではない」


「伊織だって同じ顔してる」


 お蝶はくすりと笑った。


「仲がよろしいこと」


「違います」


 お紺が即座に言うと、なぜか伊織が少しだけ黙った。


 お蝶は棚から一枚の紙を取り出した。


「三日後、近江屋で宴があるわ。藩の重役と商人たちが集まる。座敷を飾る花を頼む話が出ているの」


 お蝶はその紙をお紺に差し出した。


「花売りとして入るなら、怪しまれない」


 お紺は紙を受け取った。


 近江屋宛の紹介状だった。


「私が……」


「そう。中へ入れるのは、あなたが一番自然。伊織さまは外で待つしかないわ。侍の匂いが強すぎるもの」


 お紺はちらりと伊織を見た。


「やっぱり」


「お紺、駄目だ」


 伊織は強い声で言った。


「近江屋へ入るということは、黒羽の懐へ入るようなものだ。危険すぎる」


「でも、他に方法はあるの?」


「私が忍び込む」


「その傷で? それに伊織は目立つって、お蝶さんも言ってる」


「それでも」


「父さんのことでもある」


 お紺は紹介状を胸に抱いた。


「私が行く」


 伊織は苦しそうに眉を寄せた。


 お蝶は静かに二人を見ていたが、やがて口を開いた。


「お紺さん。これは勇ましさだけでできることではないわ。怖くなっても、顔に出してはいけない。見つかっても、知らないふりをしなければならない。逃げる時は、正義より命を選ばなければならない」


「命を?」


「そう。帳面を見つけても、死んだら終わり。あなたが生きて戻ることが、一番大事なの」


 お紺は父の櫛を思い出した。


 母の涙を思い出した。


 清兵衛が残したかったものを思い出した。


「分かりました」


 お紺は静かに言った。


「私は、生きて戻ります」


 お蝶は満足そうに頷いた。


「なら、教えてあげる。近江屋の裏蔵の鍵は、番頭の甚兵衛が持っている。宴の最中、甚兵衛は酒の相手をさせられて油断する。蔵の見張りは二人。交代の隙は、亥の刻前」


 伊織が低く確認する。


「亥の刻前か」


「ただし、黒羽が来れば話は別。あの男は人の嘘に敏い」


 お紺は思わず息を止めた。


 黒羽の冷たい目がよみがえる。


 お蝶は続けた。


「それから、花籠は役に立つわ。紙を隠すなら底を二重にしなさい。帳面ごと運ぶのは難しいでしょうから、必要な箇所だけ破り取るか、写しを取ること。火打ち道具は持たない。疑われるから。短刀もできれば持たないほうがいい」


「でも、何かあったら」


「何かあった時、素人が刃物を持つと、かえって命を落とすわ」


 お紺は頷いた。


 自分は武士ではない。戦えない。なら、花売り娘としてできることをするしかない。


 話が終わる頃には、外の空が少し赤くなっていた。


 茶屋を出る前、お蝶はお紺を呼び止めた。


「お紺さん」


「はい」


「伊織さまを信じすぎないこと」


 お紺は驚いた。


「どういう意味ですか」


「伊織さまは悪い人ではないわ。でも、武士というものは、時に自分の命を軽く扱う。父の名誉、主家への忠義、民への責任。そういう言葉のために、平気で自分を捨てようとする」


 お蝶は優しいような、悲しいような目をした。


「あなたまで、それに巻き込まれてはいけない。誰かを守りたいなら、まず自分が生きなさい」


 お紺は何も言えなかった。


 店を出ると、伊織が待っていた。


「何を話していた」


「女同士の話」


「そうか」


 伊織はそれ以上聞かなかった。


 夕暮れの日本橋を、二人は並んで歩いた。人混みの中で、誰も二人を気に留めない。花売り娘と、町人姿の若い男。ただそれだけに見える。


 けれど二人は、江戸の闇の中心へ少しずつ近づいていた。


「お紺」


「何」


「私は、お前を巻き込んだことを後悔している」


 お紺は足を止めなかった。


「私は、伊織を助けたことを後悔してない」


「だが、危険だ」


「知ってる」


「黒羽は、お前を殺すかもしれない」


「それも、お蝶さんに言われた」


「ならば」


「でも、何もしなかったら、父さんはずっと罪人のままかもしれない。伊織のお父さんも、村で苦しんでる人たちも、誰も救われない」


 お紺は花籠を抱きしめた。


「怖いよ。すごく怖い。でも、怖いからこそ、終わらせたい」


 伊織は何も言わなかった。


 ただ、歩幅を少しだけお紺に合わせた。


 その優しさに、お紺は気づいてしまった。


 気づきたくなかった。


 伊織は危険な人だ。追われている。命を投げ出す覚悟をしている。近づけば、自分まで傷つくかもしれない。


 それでも、雨の橋で見たあの笑みが忘れられない。


 温かい粥を食べた時の、ほっとした横顔が忘れられない。


 父の名を聞いた時、静かに頭を下げてくれた姿が忘れられない。


 お紺は自分の胸に生まれた小さな揺れを、まだ恋とは呼ばなかった。


 呼んでしまえば、怖くなるからだ。


 深川へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 長屋の明かりが見える。母が待っている。新助がきっと不機嫌な顔で戸口に座っている。いつもの場所へ帰ってきたはずなのに、お紺にはもう、そこが以前と同じ場所には思えなかった。


 茶屋のお蝶が教えてくれた闇の噂。


 近江屋の裏蔵。


 帳面。


 黒羽玄馬。


 三日後の宴。


 すべてが、お紺の花籠の中で重く揺れていた。


 その夜、お紺は花籠の底を二重に縫った。


 針を進めるたびに、父の名が胸に浮かぶ。


 清兵衛。


 父さん、見ていて。


 私は、花を売るだけの娘じゃ終わらない。


 あなたが残そうとした真実を、必ずこの籠に入れて帰る。


 外では、夜風が長屋の戸を小さく鳴らしていた。


 まるで、江戸の闇がすぐそこまで近づいていることを知らせるように。

お紺と伊織は、茶屋のお蝶から近江屋の裏蔵に帳面があることを聞きました。

三日後の宴に花売りとして入り込む方法を知ったお紺は、危険を承知で真実を取りに行く決意をします。

しかし黒羽玄馬は、すでにお紺の存在にも気づき始めています。

次の第6ページでは、花市に黒羽の追っ手が現れ、お紺の身に危険が迫ります。

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