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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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4/10

密書に眠る父の名

伊織の密書に記されていた、お紺の父・紺屋清兵衛の名。

病で死んだはずの父は、本当に何者だったのか。

母のお久が長年隠し続けてきた過去が、静かな長屋の一室でついに語られます。

お紺は、父の死と自分の運命が、伊織の戦いと深く結びついていることを知っていきます。

お紺は、父の顔を知らない。


 思い出そうとしても、浮かぶものは何もなかった。大きな手も、笑った声も、背中の広さも、何ひとつ覚えていない。父という人は、お紺にとって最初からこの世にいない人だった。


 母のお久は、父のことを多く語らなかった。


 幼い頃のお紺が「父さんはどんな人だったの」と聞くと、お久はいつも同じように答えた。


 優しい人だったよ。


 働き者だったよ。


 お前をとても可愛がっていたよ。


 けれど、その先を尋ねると、母は必ず咳き込み、話を終わらせた。だからお紺は、子どもながらに悟った。父の話は、母を悲しませるものなのだと。


 それ以来、お紺は父のことをあまり聞かなくなった。


 だが今、その名が伊織の密書の中にあった。


 紺屋清兵衛。


 細い筆で書かれたその文字は、古びた紙の上でひっそりと息をしているように見えた。お紺は震える指でその名をなぞり、もう一度母を見た。


「母さん。これ、父さんの名前だよね」


 お久は布団の上で、何も答えなかった。


 顔色は悪かった。病のせいだけではない。長い年月、胸の奥に押し込めてきたものが、突然目の前に突きつけられた人の顔だった。


「母さん」


 お紺はもう一度呼んだ。


「父さんは、病で死んだんじゃなかったの?」


 部屋の中に、重い沈黙が落ちた。


 外では、長屋の子どもたちが水たまりを踏んで笑っている。隣の家では鍋の蓋が鳴り、どこかの女房が亭主を叱っていた。いつもの深川の夕暮れだった。なのに、お紺の家の中だけ、別の世界になってしまったようだった。


 伊織は密書を手にしたまま、言葉を挟まずにいた。新助も戸口で黙り込んでいる。


 やがて、お久はゆっくりと息を吐いた。


「……お前には、ずっと嘘をついてきたね」


 その声は、今にも消えそうだった。


 お紺の胸がきゅっと縮む。


「嘘……?」


「清兵衛さんは、病で死んだんじゃない」


 お久は唇を震わせた。


「殺されたんだよ」


 お紺は言葉を失った。


 殺された。


 その言葉は、頭の中に入ってきても、すぐには意味にならなかった。父は病で死んだ。そう聞かされて育った。だから父のいない寂しさはあっても、そこに怒りはなかった。


 けれど、殺されたのなら。


 奪われたのなら。


 お紺の胸の奥に空いていた穴へ、熱いものが流れ込んできた。


「誰に」


 自分の声が、知らない人の声のように低く聞こえた。


 お久は目を伏せた。


「直接手を下した者の名は分からない。でも、清兵衛さんを追い詰めたのは、黒羽玄馬という武士だった」


 黒羽。


 橋の上でお紺を見下ろしていた男。


 余計なものを見た者は長生きできぬと言った男。


 伊織の父を罠にかけた男。


 その名が、父の死にも繋がっていた。


 お紺は膝の上で拳を握った。


 お久は静かに語り始めた。


 清兵衛は、深川では少し名の知れた紺屋だったという。腕がよく、誠実で、仕事を頼まれれば相手が貧しい者でも手を抜かなかった。お久はそんな清兵衛に嫁ぎ、小さいながらも温かな暮らしをしていた。


 お紺が生まれた日、清兵衛は泣いたらしい。


「男親があんなに泣くなんてねえ。お前を抱いて、何度も何度も『この子に恥じない父になる』って言っていたよ」


 お久は懐かしむように微笑んだ。


 その微笑みは、すぐに悲しみに沈んだ。


 清兵衛はある時、藩の蔵へ出入りする仕事を請けた。反物や染め物を納める仕事だった。そこで彼は、米の帳面に不審な点があることに気づいた。


 納められた年貢米の量と、帳面に書かれた量が合わない。


 飢えた村から搾り取った米が、どこかへ消えている。


 はじめは、見間違いだと思ったらしい。町人が武家の帳面に口を出すなど、本来ならできることではない。余計なことを見たと知られれば、仕事を失うどころでは済まない。


 けれど清兵衛は、黙っていられなかった。


「清兵衛さんは、夜な夜な帳面の写しを取っていた。怖い顔をしてね。私がやめてくれと言っても、聞かなかった」


「どうして……」


 お紺の声は震えていた。


「どうして父さんは、そんな危ないことを」


 お久はお紺を見た。


「お前がいたからだよ」


「私?」


「あの人は言っていた。この子が大きくなる江戸が、嘘と飢えでできた場所であってはいけないって」


 お紺は息を呑んだ。


「清兵衛さんはね、正義のためだけに動いたんじゃない。お前のために動いたんだよ。お前に、胸を張って生きられる世の中を残したかったんだ」


 お紺の目に涙が滲んだ。


 知らない父。


 顔も声も覚えていない父。


 けれど、その人は確かに、自分を想っていた。


 伊織が静かに口を開いた。


「私の父は、紺屋清兵衛殿のことを知っていました」


 お紺とお久が伊織を見る。


「父の日記に、その名がありました。民のために危険を承知で証を集めた、勇気ある町人だと」


 お久は口元を押さえた。


「お武家さまが……清兵衛さんを、そんなふうに」


「はい。父は、清兵衛殿から帳面の写しを受け取るはずでした。ですが、その前に密告があり、二人とも罠にかけられた」


 伊織の声は静かだったが、その手は強く握られていた。


「私の父は、藩の金を横領した罪を着せられ、切腹を命じられました。清兵衛殿は、盗みの罪を着せられ、行方を消されたと聞いていました」


「行方を消された……」


 お紺は震える声で繰り返した。


 殺されたと母は言った。


 けれど、その最期がどんなものだったのか、誰も知らない。父はどれほど怖かっただろう。母と幼い自分を残して、どれほど無念だっただろう。


 お久の涙が頬を伝った。


「私は、清兵衛さんを止めたんだよ」


「母さんが?」


「ああ。怖かった。お前はまだ赤ん坊で、私は毎日、お前の小さな手を握りながら、どうかこのまま何も起きませんようにって祈っていた。正しいことなんてどうでもいい、ただ三人で生きていたいって思った」


 お久は両手で顔を覆った。


「でも清兵衛さんは、私に言った。『見て見ぬふりをしたら、この子に顔向けできない』って。あの人は、最後までそういう人だった」


 お紺は母を責めたかった。


 どうして嘘をついたの。


 どうして父の本当のことを教えてくれなかったの。


 自分だけ知らずに、何も知らない娘として生きてきたことが悔しかった。


 けれど、母の涙を見ていると、その言葉は喉の奥で止まった。


 お久は一人で抱えてきたのだ。


 夫を奪われた悲しみ。


 娘を守らなければならない恐怖。


 父が罪人だと噂されるかもしれない不安。


 真実を語れば、お紺の人生まで危険に晒すかもしれないという怯え。


 母の嘘は、お紺を騙すためだけの嘘ではなかった。


 守るための嘘でもあった。


 それが分かるからこそ、お紺は余計に苦しかった。


「母さん」


 お紺は母のそばへ膝を進めた。


「ずっと一人で苦しかったね」


 その言葉を聞いた瞬間、お久は子どものように泣き崩れた。


「ごめんよ、お紺。ごめんよ。お前には何も背負わせたくなかったんだ」


「うん」


「清兵衛さんのことを忘れたわけじゃないんだよ。ただ、怖かった。お前まで奪われるのが、怖かったんだよ」


「分かってる」


 本当にすべて分かったわけではない。


 怒りも悲しみも、まだ胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。


 それでも、お紺は母の背を撫でた。


 幼い頃、熱を出すと母がそうしてくれたように。


 しばらくして、お久は枕元の古い箱へ手を伸ばした。細い指で蓋を開け、中から小さな布包みを取り出す。


「これは、清兵衛さんが最後に残したものだよ」


 布を開くと、そこには古い櫛があった。


 紺色の塗りに、小さな白い花が描かれている。何度も手に取られ、大切にしまわれてきたものだと分かった。


「お前が大きくなったら渡してくれって」


 お紺は櫛を受け取った。


 軽いはずなのに、とても重かった。


「父さんが……私に」


「花が好きな娘になるだろうから、花の櫛がいいって。お前はまだ赤ん坊だったのにね」


 お紺は櫛を胸に抱いた。


 知らない父が、少しだけ近くなった気がした。


 その夜、お紺は眠れなかった。


 伊織は布団の上で目を閉じていたが、おそらく眠ってはいない。新助は戸口に座ったまま、黙って外を見ていた。お久は泣き疲れて眠っている。


 お紺は密書を見つめた。


 そこにある父の名。


 父が命をかけて残そうとした真実。


 それを見つけたのが、自分であることに、運命のようなものを感じずにはいられなかった。


「伊織」


 お紺は小さく呼んだ。


 伊織が目を開ける。


「何だ」


「私も手伝う」


 伊織の表情が険しくなった。


「危険だ」


「知ってる」


「黒羽は容赦しない。町娘だから見逃すなどということはない」


「それも知ってる」


「ならば」


「でも、これは私の父さんのことでもある」


 お紺は櫛を握りしめた。


「父さんは、私に恥じない世の中を残したかったんでしょう。なら私は、父さんが残そうとしたものを見なかったことにしたくない」


 伊織は黙った。


 お紺は続けた。


「それに、これは武士だけの話じゃない。奪われた米の話でしょ。泣かされた人たちの話でしょ。だったら、町人の私にだって関係ある」


 伊織は長くお紺を見つめた。


 初めて会った雨の橋では、彼の目は死にかけた獣のようだった。けれど今は違う。迷いと痛みと、ほんの少しの敬意がそこにあった。


「お前は、清兵衛殿の娘なのだな」


「顔も知らないけどね」


「血は、受け継がれている」


 お紺は少しだけ笑った。


「武士って、そういう言い方好きだよね」


 伊織も、ほんのわずかに笑った。


 だが、すぐに表情を引き締める。


「近江屋の裏蔵に、帳面があるはずだ。だが、簡単には近づけぬ。黒羽も警戒している」


「じゃあ、どうするの」


「まず、情報を集める」


「誰から?」


 伊織は少し迷ったあと、答えた。


「茶屋のお蝶という女がいる」


「女?」


 お紺の眉がぴくりと動いた。


「父の旧知の者だ。江戸の裏事情に詳しい」


「ふうん。きれいな人?」


「……知らぬ」


「今の間は何」


「本当に知らぬ」


 こんな時なのに、お紺は少しだけむっとした。自分でもなぜか分からない。その感情に名前をつけるには、まだ早すぎた。


 伊織は真面目な顔で続ける。


「お蝶なら、近江屋の動きも知っているかもしれぬ」


「じゃあ、その人に会いに行こう」


「お前は残れ」


「嫌」


「お紺」


「私も行く。花売りなら、町を歩いても怪しまれない。伊織一人のほうが目立つでしょ」


 伊織は反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。


 実際、その通りだった。


 傷を負った若侍が一人で動けば、すぐに目につく。だが花籠を持った町娘と一緒なら、いくらか紛れられるかもしれない。


「無茶はするな」


「それ、伊織にだけは言われたくない」


 お紺が言うと、伊織は困ったように目を伏せた。


 夜明け前、長屋は静かだった。


 お紺は父の櫛を布に包み、懐へ入れた。母にはまだ何も言わない。言えば止められると分かっていた。けれど、何も告げずに行くのも違う気がした。


 お久が目を覚まし、お紺を見た。


「行くんだね」


 お紺は息を呑んだ。


「母さん……」


「止めたいよ。本当は、足にすがってでも止めたい」


 お久は細い声で言った。


「でも、お前はもう知ってしまった。清兵衛さんの娘として、黙っていられないんだろう」


 お紺は頷いた。


「帰ってくるよ」


「必ずだよ」


「うん」


 お久は震える手で、お紺の頬に触れた。


「真実なんて、時に人を傷つける。でも、嘘だけでは人は生きられない。お前が行くなら、どうか生きて真実を持って帰っておいで」


 お紺の目に涙が滲んだ。


「行ってきます」


 外へ出ると、朝の空はまだ薄暗かった。


 伊織が戸口で待っていた。町人の着物に着替え、笠を深くかぶっている。傷はまだ痛むはずだが、背筋はまっすぐだった。


「行けるか」


「うん」


「怖くないか」


「怖いよ」


 お紺は正直に答えた。


「でも、怖いからって何もしなかったら、父さんがまた闇の中に戻される気がする」


 伊織は静かに頷いた。


 二人は並んで歩き出した。


 深川の朝は、まだ眠たげだった。川には白い靄がかかり、遠くで魚売りの声がする。江戸の町は今日も何事もなかったように動き出す。


 だが、お紺の中では、もう何も昨日と同じではなかった。


 花売り娘だった自分。


 父を知らずに生きてきた自分。


 母の嘘に守られていた自分。


 そのすべてを胸に抱えながら、お紺は歩く。


 密書に眠る父の名は、ただの文字ではなかった。


 それは、過去から差し出された手だった。


 お紺はその手を取ると決めた。


 たとえ、その先に黒羽玄馬の闇が待っていたとしても。


 たとえ、自分の小さな日常が二度と元に戻らないとしても。


 花籠の底に、父の櫛と密書の写しを隠して。


 お紺は、伊織とともに茶屋のお蝶を訪ねるため、日本橋の方角へ歩き出した。

お紺は、父・清兵衛が不正を暴こうとして殺されたことを知りました。

母のお久が隠していた嘘は、娘を守るための嘘でもありました。

父の想いを受け取ったお紺は、伊織と共に真実を追う決意をします。

次の第5ページでは、茶屋のお蝶が登場し、近江屋と黒羽玄馬にまつわる闇の噂が明かされます。

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