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花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


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3/10

深川長屋の小さな嘘

伊織を匿うことにしたお紺たち。

しかし、深川の長屋で秘密を隠すのは簡単ではありません。

隣人たちの目、噂好きな町の声、そして近づいてくる黒羽玄馬の影。

小さな嘘が、やがて大きな真実へつながっていきます。

長屋で秘密を隠すのは、ざるで水をすくうようなものだ。


 戸板一枚向こうでは隣の咳払いが聞こえ、薄い壁の向こうでは夫婦喧嘩の声まで筒抜けになる。朝になれば井戸端に女たちが集まり、昼になれば子どもたちが路地を走り回り、夕方になれば誰かしらが「味噌を貸して」「火を分けて」と戸を叩く。


 そんな場所で、傷を負った若侍を隠し通せるはずがなかった。


 伊織を連れ帰った翌日の昼には、もう長屋中がその存在に気づいていた。


「お紺ちゃん、昨夜の男前は誰だい」


 井戸端で水を汲んでいたおとら婆さんが、目を細めて尋ねてきた。おとら婆さんは魚屋の隠居で、耳が遠いふりをしているが、長屋の噂だけは誰より早く聞きつける。


 お紺は桶を持つ手に力を込めた。


「遠縁の兄さんだよ」


「へえ、遠縁ねえ」


「田舎から江戸へ出てきた途中で、転んで怪我したの」


「転んで刀傷ができるものかねえ」


「派手に転んだんだよ」


 おとら婆さんは、しわだらけの顔をくしゃりとさせて笑った。


「まあ、そういうことにしておいてやるよ」


「そういうことなの」


「はいはい。遠縁の兄さんね」


 まったく信じていない顔だった。けれど、それ以上は追及しなかった。おとら婆さんは桶の水を半分ほどお紺の桶へ分けてくれた。


「病人と怪我人がいるんだろう。水はいくらあっても困らないからね」


 お紺は一瞬、言葉を詰まらせた。


「……ありがとう」


「礼なんかいらないよ。その代わり、今度いい花が入ったら一本おくれ。仏壇に飾るから」


「うん。綺麗なの、持っていく」


 お紺は桶を抱えて家へ戻った。


 部屋では、伊織が布団から起き上がろうとしていた。顔色はまだ悪いが、昨日よりは目に力が戻っている。お久は奥で横になりながら、そんな伊織を心配そうに見ていた。


「寝てなきゃ駄目でしょ」


「少し動かねば、体が鈍る」


「その傷で動いたら、体じゃなくて命が鈍るよ」


 お紺が叱ると、伊織は困ったように目を伏せた。


「すまぬ」


「すぐ謝る」


「癖だ」


「よくない癖」


 その時、戸口から新助の声がした。


「お紺、いるか」


「いる」


 戸が開き、新助が古い板と道具箱を抱えて入ってきた。彼は伊織を見ると、相変わらず気に入らない顔をした。


「戸の建て付けが悪い。外から覗かれたら困るだろ」


「新助……」


「別に侍のためじゃねえ。お久さんのためだ」


 新助はぶっきらぼうに言って、戸の修理を始めた。


 伊織はその背中へ頭を下げた。


「世話になる」


「侍に礼を言われる覚えはねえよ」


「それでも、礼を言う」


「……調子狂うな」


 新助は小さく舌打ちしたが、手は止めなかった。


 その日のうちに、長屋の人々はそれぞれ小さな嘘を覚えた。


 伊織は、お紺の遠縁の兄。


 田舎から出てきたばかり。


 怪我は、道中で転んだせい。


 侍のように見えるのは、昔武家奉公をしていたから。


 誰が考えたのか分からないほど、嘘は少しずつ形を変えながら長屋に広がっていった。おかしなことに、その嘘を長屋の者たちは誰も信じていないのに、外の人間には皆で同じように話した。


 紙屑買いの佐平は、古い布を持ってきた。


「怪我人の包帯にでもしな」


 豆腐屋の女房は、売れ残りの豆腐を分けてくれた。


「遠縁の兄さんに食べさせてやんな。武士でも腹は減るだろう」


 子どもたちは戸口から伊織を覗き込み、「お侍さまだ」「違うよ、遠縁の兄さんだよ」とひそひそ笑った。


 伊織は戸惑っていた。


 お紺はそれが少し可笑しかった。


「江戸の長屋、変でしょ」


「変というより……不思議だ」


「何が?」


「皆、貧しいのに、人へ分けるものを持っている」


 伊織は佐平が置いていった布を見つめながら言った。


「私のいた場所では、多く持つ者ほど、人に分けようとはしなかった」


 お紺は少し黙った。


「貧しいからだよ」


「貧しいから?」


「足りない苦しさを知ってるから、少しだけ分けるの。たくさん持ってる人は、足りない気持ちを知らないんじゃない」


 伊織は何かを考えるように、目を伏せた。


 その横顔は、まだ若いのにずいぶん遠くを見ている人のようだった。


 お紺は胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。伊織を助けたのは、ただ見捨てられなかったからだ。そう思っていた。けれど、こうして同じ部屋にいる時間が増えるほど、この人の沈黙の奥を知りたいと思ってしまう。


 それが危ういことだと、頭では分かっていた。


 昼過ぎ、お紺は花籠を持って町へ出た。伊織を一人にはできないので、新助に見張りを頼んだ。


「頼まれてやるわけじゃねえからな」


「じゃあ、何で来てくれるの」


「お久さんが心配だからだ」


「うん。ありがとう」


「……素直に礼を言うな」


 新助は面倒くさそうに顔を背けた。


 お紺はその様子に少し笑い、花市へ向かった。


 雨上がりの町は、泥の匂いと人の声で満ちていた。橋の上には昨日の血の跡などもう見えない。川は何事もなかったように流れている。人の命が消えかけた場所も、朝になればただの道になる。それが少し怖かった。


 花市では、いつもより噂話が多かった。


「聞いたかい。昨夜、日本橋の辺りで侍が斬られたってよ」


「藩のお家騒動らしいねえ」


「黒羽さまの手の者が走り回ってるって話だよ」


 黒羽。


 その名を聞いた瞬間、お紺の手から撫子が一本落ちた。


 隣の花売りが不思議そうに見る。


「どうしたい、お紺ちゃん」


「ううん、何でもない」


 お紺は慌てて花を拾った。


 黒羽玄馬。


 橋の上から自分を見下ろしていた、あの冷たい目の男。余計なものを見た者は長生きできぬと言った男。伊織の父を罠にかけたかもしれない男。


 その名が、町の噂の中にまで広がっている。


 つまり、伊織が追われていることは、もう江戸の裏側で大きな動きになっているのだ。


 お紺は花を売りながら、耳を澄ませた。


「近江屋の裏蔵に、役人が出入りしてるらしいよ」


「近江屋? あの廻船問屋の?」


「表向きは羽振りがいいが、裏では藩の米を扱ってるとか」


「しっ。そういう話は声を落としな」


 近江屋。


 お紺はその名も胸に刻んだ。


 夕方、花を売り終えたお紺は急いで長屋へ戻った。今日の稼ぎは悪くない。だが、銭の重みより噂の重みのほうがずっと大きかった。


 家に戻ると、伊織はまだ布団の上にいた。新助は戸口で腕を組み、退屈そうに座っている。


「戻ったか」


「うん。町で黒羽の噂を聞いた」


 伊織の顔が険しくなる。


「どんな噂だ」


「昨夜、日本橋の辺りで侍が斬られたって。黒羽の手の者が走り回ってるって。それと、近江屋の裏蔵に役人が出入りしてるって話も」


 近江屋の名を出した瞬間、伊織の目が鋭くなった。


「近江屋……」


「知ってるの?」


「ああ。私が探しているもう一つの証が、そこにある可能性が高い」


「もう一つの証?」


 伊織は懐から油紙を取り出した。昨日よりも少し落ち着いた手つきだった。お紺、お久、新助が見守る中で、彼は油紙を開いた。


 中には、細かい字で書かれた書き付けが入っていた。米の量、金の流れ、人の名前らしきもの。お紺には難しい文字も多かったが、ところどころ読める言葉があった。


「これは証の一部にすぎぬ。本当の帳面は、近江屋の裏蔵に隠されているらしい。そこに年貢の水増し、米の横流し、賄賂の流れがすべて記されている」


「それがあれば、黒羽を裁けるの?」


「簡単ではない。だが、戦える」


 新助が低く言った。


「戦うって、誰がだよ。お紺まで巻き込む気か」


「そのつもりはない」


「もう巻き込んでるだろ」


 新助の言葉に、伊織は返せなかった。


 お紺は二人の間に入るように、油紙へ目を落とした。


 そこに並んだ名前の中に、一つだけ、妙に目に引っかかるものがあった。


 ――紺屋清兵衛。


 お紺は瞬きをした。


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


「ねえ、伊織」


「何だ」


「この名前……」


 お紺は震える指で、その文字を指した。


「紺屋清兵衛って、誰?」


 伊織は書き付けを覗き込み、少し考えた。


「蔵の帳面を写した証人の一人だ。町人だったと聞いている。だが、その後、行方が分からなくなった」


 お紺の喉が乾いた。


 母のお久が、奥の布団の中で小さく息を呑む音が聞こえた。


 お紺はゆっくり振り返った。


「母さん」


 お久の顔は、紙のように白くなっていた。


 新助も異変に気づき、黙り込んだ。


 お紺はもう一度、書き付けの文字を見る。


 紺屋清兵衛。


 幼い頃、母が一度だけ教えてくれた父の名。


 病で死んだと聞かされていた、顔も知らない父の名。


「伊織」


 お紺の声は震えていた。


「それ、私の父さんの名前だよ」


 部屋の中の空気が、一瞬で変わった。


 長屋の外では、誰かが笑っている。子どもが走る音もする。夕餉の支度をする匂いも流れてくる。


 けれど、お紺の小さな家の中だけ、時間が止まったようだった。


 小さな嘘で守っていた日常。


 遠縁の兄さん。


 転んで怪我をした男。


 何も知らない花売り娘。


 その嘘の下から、父の名が現れた。


 お紺は母を見つめた。


「母さん、知ってたの?」


 お久は唇を震わせた。


 長い沈黙のあと、母は小さく目を閉じた。


 そして、逃げ場を失った人のように、静かに言った。


「……お紺。話さなきゃならない時が、来たんだね」


 お紺の胸が、強く痛んだ。


 伊織が持ち込んだ密書は、ただの武士の争いではなかった。


 それは、お紺の家族の過去へつながる扉だった。


 そしてその扉は、もう開き始めていた。

長屋の人々は、小さな嘘で伊織を守ろうとしました。

しかし、伊織の密書の中には、お紺の父・紺屋清兵衛の名が記されていました。

病で死んだはずの父は、本当に何者だったのか。

次の第4ページでは、母のお久が隠してきた過去と、父の死の真実が明かされます。

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