深川長屋の小さな嘘
伊織を匿うことにしたお紺たち。
しかし、深川の長屋で秘密を隠すのは簡単ではありません。
隣人たちの目、噂好きな町の声、そして近づいてくる黒羽玄馬の影。
小さな嘘が、やがて大きな真実へつながっていきます。
長屋で秘密を隠すのは、ざるで水をすくうようなものだ。
戸板一枚向こうでは隣の咳払いが聞こえ、薄い壁の向こうでは夫婦喧嘩の声まで筒抜けになる。朝になれば井戸端に女たちが集まり、昼になれば子どもたちが路地を走り回り、夕方になれば誰かしらが「味噌を貸して」「火を分けて」と戸を叩く。
そんな場所で、傷を負った若侍を隠し通せるはずがなかった。
伊織を連れ帰った翌日の昼には、もう長屋中がその存在に気づいていた。
「お紺ちゃん、昨夜の男前は誰だい」
井戸端で水を汲んでいたおとら婆さんが、目を細めて尋ねてきた。おとら婆さんは魚屋の隠居で、耳が遠いふりをしているが、長屋の噂だけは誰より早く聞きつける。
お紺は桶を持つ手に力を込めた。
「遠縁の兄さんだよ」
「へえ、遠縁ねえ」
「田舎から江戸へ出てきた途中で、転んで怪我したの」
「転んで刀傷ができるものかねえ」
「派手に転んだんだよ」
おとら婆さんは、しわだらけの顔をくしゃりとさせて笑った。
「まあ、そういうことにしておいてやるよ」
「そういうことなの」
「はいはい。遠縁の兄さんね」
まったく信じていない顔だった。けれど、それ以上は追及しなかった。おとら婆さんは桶の水を半分ほどお紺の桶へ分けてくれた。
「病人と怪我人がいるんだろう。水はいくらあっても困らないからね」
お紺は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……ありがとう」
「礼なんかいらないよ。その代わり、今度いい花が入ったら一本おくれ。仏壇に飾るから」
「うん。綺麗なの、持っていく」
お紺は桶を抱えて家へ戻った。
部屋では、伊織が布団から起き上がろうとしていた。顔色はまだ悪いが、昨日よりは目に力が戻っている。お久は奥で横になりながら、そんな伊織を心配そうに見ていた。
「寝てなきゃ駄目でしょ」
「少し動かねば、体が鈍る」
「その傷で動いたら、体じゃなくて命が鈍るよ」
お紺が叱ると、伊織は困ったように目を伏せた。
「すまぬ」
「すぐ謝る」
「癖だ」
「よくない癖」
その時、戸口から新助の声がした。
「お紺、いるか」
「いる」
戸が開き、新助が古い板と道具箱を抱えて入ってきた。彼は伊織を見ると、相変わらず気に入らない顔をした。
「戸の建て付けが悪い。外から覗かれたら困るだろ」
「新助……」
「別に侍のためじゃねえ。お久さんのためだ」
新助はぶっきらぼうに言って、戸の修理を始めた。
伊織はその背中へ頭を下げた。
「世話になる」
「侍に礼を言われる覚えはねえよ」
「それでも、礼を言う」
「……調子狂うな」
新助は小さく舌打ちしたが、手は止めなかった。
その日のうちに、長屋の人々はそれぞれ小さな嘘を覚えた。
伊織は、お紺の遠縁の兄。
田舎から出てきたばかり。
怪我は、道中で転んだせい。
侍のように見えるのは、昔武家奉公をしていたから。
誰が考えたのか分からないほど、嘘は少しずつ形を変えながら長屋に広がっていった。おかしなことに、その嘘を長屋の者たちは誰も信じていないのに、外の人間には皆で同じように話した。
紙屑買いの佐平は、古い布を持ってきた。
「怪我人の包帯にでもしな」
豆腐屋の女房は、売れ残りの豆腐を分けてくれた。
「遠縁の兄さんに食べさせてやんな。武士でも腹は減るだろう」
子どもたちは戸口から伊織を覗き込み、「お侍さまだ」「違うよ、遠縁の兄さんだよ」とひそひそ笑った。
伊織は戸惑っていた。
お紺はそれが少し可笑しかった。
「江戸の長屋、変でしょ」
「変というより……不思議だ」
「何が?」
「皆、貧しいのに、人へ分けるものを持っている」
伊織は佐平が置いていった布を見つめながら言った。
「私のいた場所では、多く持つ者ほど、人に分けようとはしなかった」
お紺は少し黙った。
「貧しいからだよ」
「貧しいから?」
「足りない苦しさを知ってるから、少しだけ分けるの。たくさん持ってる人は、足りない気持ちを知らないんじゃない」
伊織は何かを考えるように、目を伏せた。
その横顔は、まだ若いのにずいぶん遠くを見ている人のようだった。
お紺は胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。伊織を助けたのは、ただ見捨てられなかったからだ。そう思っていた。けれど、こうして同じ部屋にいる時間が増えるほど、この人の沈黙の奥を知りたいと思ってしまう。
それが危ういことだと、頭では分かっていた。
昼過ぎ、お紺は花籠を持って町へ出た。伊織を一人にはできないので、新助に見張りを頼んだ。
「頼まれてやるわけじゃねえからな」
「じゃあ、何で来てくれるの」
「お久さんが心配だからだ」
「うん。ありがとう」
「……素直に礼を言うな」
新助は面倒くさそうに顔を背けた。
お紺はその様子に少し笑い、花市へ向かった。
雨上がりの町は、泥の匂いと人の声で満ちていた。橋の上には昨日の血の跡などもう見えない。川は何事もなかったように流れている。人の命が消えかけた場所も、朝になればただの道になる。それが少し怖かった。
花市では、いつもより噂話が多かった。
「聞いたかい。昨夜、日本橋の辺りで侍が斬られたってよ」
「藩のお家騒動らしいねえ」
「黒羽さまの手の者が走り回ってるって話だよ」
黒羽。
その名を聞いた瞬間、お紺の手から撫子が一本落ちた。
隣の花売りが不思議そうに見る。
「どうしたい、お紺ちゃん」
「ううん、何でもない」
お紺は慌てて花を拾った。
黒羽玄馬。
橋の上から自分を見下ろしていた、あの冷たい目の男。余計なものを見た者は長生きできぬと言った男。伊織の父を罠にかけたかもしれない男。
その名が、町の噂の中にまで広がっている。
つまり、伊織が追われていることは、もう江戸の裏側で大きな動きになっているのだ。
お紺は花を売りながら、耳を澄ませた。
「近江屋の裏蔵に、役人が出入りしてるらしいよ」
「近江屋? あの廻船問屋の?」
「表向きは羽振りがいいが、裏では藩の米を扱ってるとか」
「しっ。そういう話は声を落としな」
近江屋。
お紺はその名も胸に刻んだ。
夕方、花を売り終えたお紺は急いで長屋へ戻った。今日の稼ぎは悪くない。だが、銭の重みより噂の重みのほうがずっと大きかった。
家に戻ると、伊織はまだ布団の上にいた。新助は戸口で腕を組み、退屈そうに座っている。
「戻ったか」
「うん。町で黒羽の噂を聞いた」
伊織の顔が険しくなる。
「どんな噂だ」
「昨夜、日本橋の辺りで侍が斬られたって。黒羽の手の者が走り回ってるって。それと、近江屋の裏蔵に役人が出入りしてるって話も」
近江屋の名を出した瞬間、伊織の目が鋭くなった。
「近江屋……」
「知ってるの?」
「ああ。私が探しているもう一つの証が、そこにある可能性が高い」
「もう一つの証?」
伊織は懐から油紙を取り出した。昨日よりも少し落ち着いた手つきだった。お紺、お久、新助が見守る中で、彼は油紙を開いた。
中には、細かい字で書かれた書き付けが入っていた。米の量、金の流れ、人の名前らしきもの。お紺には難しい文字も多かったが、ところどころ読める言葉があった。
「これは証の一部にすぎぬ。本当の帳面は、近江屋の裏蔵に隠されているらしい。そこに年貢の水増し、米の横流し、賄賂の流れがすべて記されている」
「それがあれば、黒羽を裁けるの?」
「簡単ではない。だが、戦える」
新助が低く言った。
「戦うって、誰がだよ。お紺まで巻き込む気か」
「そのつもりはない」
「もう巻き込んでるだろ」
新助の言葉に、伊織は返せなかった。
お紺は二人の間に入るように、油紙へ目を落とした。
そこに並んだ名前の中に、一つだけ、妙に目に引っかかるものがあった。
――紺屋清兵衛。
お紺は瞬きをした。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
「ねえ、伊織」
「何だ」
「この名前……」
お紺は震える指で、その文字を指した。
「紺屋清兵衛って、誰?」
伊織は書き付けを覗き込み、少し考えた。
「蔵の帳面を写した証人の一人だ。町人だったと聞いている。だが、その後、行方が分からなくなった」
お紺の喉が乾いた。
母のお久が、奥の布団の中で小さく息を呑む音が聞こえた。
お紺はゆっくり振り返った。
「母さん」
お久の顔は、紙のように白くなっていた。
新助も異変に気づき、黙り込んだ。
お紺はもう一度、書き付けの文字を見る。
紺屋清兵衛。
幼い頃、母が一度だけ教えてくれた父の名。
病で死んだと聞かされていた、顔も知らない父の名。
「伊織」
お紺の声は震えていた。
「それ、私の父さんの名前だよ」
部屋の中の空気が、一瞬で変わった。
長屋の外では、誰かが笑っている。子どもが走る音もする。夕餉の支度をする匂いも流れてくる。
けれど、お紺の小さな家の中だけ、時間が止まったようだった。
小さな嘘で守っていた日常。
遠縁の兄さん。
転んで怪我をした男。
何も知らない花売り娘。
その嘘の下から、父の名が現れた。
お紺は母を見つめた。
「母さん、知ってたの?」
お久は唇を震わせた。
長い沈黙のあと、母は小さく目を閉じた。
そして、逃げ場を失った人のように、静かに言った。
「……お紺。話さなきゃならない時が、来たんだね」
お紺の胸が、強く痛んだ。
伊織が持ち込んだ密書は、ただの武士の争いではなかった。
それは、お紺の家族の過去へつながる扉だった。
そしてその扉は、もう開き始めていた。
長屋の人々は、小さな嘘で伊織を守ろうとしました。
しかし、伊織の密書の中には、お紺の父・紺屋清兵衛の名が記されていました。
病で死んだはずの父は、本当に何者だったのか。
次の第4ページでは、母のお久が隠してきた過去と、父の死の真実が明かされます。




