表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花明かりの籠に、嘘を隠して  作者: あーちゃん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

名を隠した若侍

雨の橋で倒れていた若侍・伊織を助けたお紺。

彼を深川の長屋へ連れ帰ったことで、静かだった暮らしに小さな波紋が広がり始めます。

伊織は名を告げても、素性は明かそうとしません。

その沈黙の奥には、武士として背負った罪と、消せない悲しみが隠されていました。

深川の長屋は、雨の日になると、いつもより少しだけ狭く感じる。


 湿った木の匂い。土間に染み込んだ雨水の匂い。どこかの家から漂ってくる薄い味噌汁の匂い。子どもの泣き声と、女房たちの叱る声。雨漏りを受ける桶の音。貧しい暮らしの音が、細い路地の中で重なり合っていた。


 お紺はその路地へ、若侍の伊織を支えながら戻ってきた。


 伊織はほとんど歩けていなかった。肩口の傷から流れる血は、手拭いで押さえていてもじわじわと滲み出してくる。雨に濡れた髪は頬に張り付き、顔色は死人のように白い。けれど彼は、倒れそうになるたびに歯を食いしばり、自分の足で立とうとした。


「無理しないで。重いんだから」


 お紺が低く言うと、伊織は苦しげに息を吐いた。


「……すまぬ」


「謝るなら、軽くなって」


「それは……難しい」


「冗談を返す元気はあるんだね」


 そう言いながらも、お紺は少し安心した。意識がある。声も出る。まだ命はここにある。


 長屋の入口まで来たところで、隣の桶職人・新助が戸口から顔を出した。雨音に混じって足音を聞きつけたのだろう。新助はお紺の姿を見るなり目を見開き、次にお紺が支えている男を見て、さらに顔をしかめた。


「お紺、お前……その侍は何だ」


「拾った」


「犬猫じゃあるまいし」


「犬猫より重いよ」


「そういうことを聞いてるんじゃねえ」


 新助は呆れたように言いながらも、すぐに駆け寄ってきた。伊織の反対側に回り、腕を支える。その手つきは荒っぽいが、力は確かだった。


「怪我してるじゃねえか」


「だから連れてきたの」


「だからって、武士を長屋に連れ込む奴があるか。面倒事の匂いしかしねえぞ」


「橋の下で死なせるよりはいいでしょ」


「お前は昔から、こういう時だけ妙に肝が据わる」


「褒めてる?」


「呆れてる」


 新助はそう言いながらも、伊織をお紺の家まで運ぶのを手伝ってくれた。


 お紺の家は、長屋の端にある六畳一間の小さな部屋だった。戸を開けると、薄暗い室内の奥で、母のお久が布団から身を起こそうとしていた。


「お紺……遅かったね。雨がひどいから心配して……」


 言葉は途中で止まった。


 お久の目が、伊織に向けられる。血に濡れた肩。腰の刀。濡れた着物。どう見ても、ただの通りすがりではない。


「この方は……?」


「雨の橋の下で倒れてたの。傷の手当てをしたら、すぐ出ていってもらうから」


 お紺はできるだけ軽く言った。だが、お久の目はごまかせなかった。母は昔から、言葉よりも沈黙を読む人だった。


 それでもお久は、何も問い詰めなかった。ただ、細い手で布団の端を整えた。


「そこへ寝かせておやり。濡れたままでは、傷より先に熱が出る」


「母さん、起きなくていいよ」


「人が死にかけている時に、寝てばかりもいられないよ」


 その声は弱かったが、不思議と芯があった。


 伊織を布団に寝かせると、お紺はすぐに湯を沸かした。長屋の井戸から汲んできた水を小鍋に入れ、火にかける。部屋の中に、かすかな湯気が立ち始めた。


 新助は戸口で腕を組んでいた。


「お紺、こいつは何者だ」


「伊織って名前」


「苗字は」


「言えないんだって」


「ますます怪しいじゃねえか」


 伊織は目を閉じたまま、かすかに言った。


「迷惑をかける。動けるようになれば、すぐに出ていく」


「そうしてくれると助かるね」


 新助の声は冷たかった。だが、お紺はその冷たさが本当の意地悪からではないことを知っていた。新助は、お紺とお久を心配しているのだ。


 お紺は湯で濡らした布を絞り、伊織の肩口にあてた。傷は思っていたより深い。刃物で斬られた傷だった。血を洗い流すと、伊織の体が小さく震えた。


「痛い?」


「痛くない」


「嘘」


「……痛い」


「最初からそう言えばいいのに」


 お紺は手を動かしながら呟いた。


「武士って、痛い時も痛いって言っちゃいけないの?」


「弱みを見せれば、つけ込まれる」


「ここは戦場じゃないよ」


「私には、どこも戦場のようなものだった」


 その言葉に、お紺の手が止まった。


 伊織は目を開けていなかった。けれど、その声には雨よりも冷たい疲れが滲んでいた。


 お紺は何も言わず、傷口を布で押さえた。お久が奥から薬草を混ぜた軟膏を差し出す。


「これを使いなさい。効き目は強くないけれど、ないよりはいい」


「母さんの薬なのに」


「私は今夜すぐ死ぬわけじゃないよ」


「そういうこと言わないで」


 お久は小さく笑った。


 伊織は、そんな二人のやり取りを不思議そうに見ていた。まるで、目の前で交わされる何気ない親子の会話が、自分の知る世界とは違うもののように。


「温かい家だな」


 ぽつりと伊織が言った。


 お紺は思わず部屋を見回した。


 薄い布団。欠けた茶碗。雨漏りの跡が残る天井。壁には古い花売りの道具と、母の着古した羽織。決して立派な家ではない。むしろ、貧しさならどこにも負けないような部屋だった。


「これが?」


「ああ」


「伊織の家は、よほど寒いんだね」


 お紺がそう言うと、伊織は答えなかった。


 夜が深くなるにつれ、伊織の熱は上がっていった。お紺は何度も手拭いを替え、額を冷やした。お久は布団から起き上がれないながらも、薬湯の作り方を教えた。新助は「俺は関係ねえ」と言いながらも戸口に座り、外を見張っていた。


 雨はまだ降っている。


 その音に混じって、伊織は時折うわ言を漏らした。


「父上……私は……」


 お紺は手拭いを絞る手を止めた。


「父上?」


「間違って……おりませぬ……」


 苦しげな声だった。悔しさと悲しみを、夢の中でも握りしめているような声。


 お紺は伊織の横顔を見つめた。


 この人は、一体何を背負っているのだろう。


 追っ手に追われ、血を流し、名も身分も隠して、それでも懐の油紙だけは離さなかった。普通の侍ではない。だが、悪人にも見えなかった。


 明け方近く、伊織はようやく深く眠った。


 お紺は疲れて壁にもたれたまま、うとうとした。少し眠ったと思った時、障子の破れ目から差し込む薄い光で目が覚めた。


 雨は上がっていた。


 長屋の路地には、水たまりがいくつも残っている。遠くから、朝の魚売りの声が聞こえた。江戸の一日は、どんな夜の後でも始まってしまう。


 伊織は目を覚ましていた。


「世話になった」


 開口一番、彼はそう言った。


「すぐに出ていく」


 お紺は眠気の残る目で伊織を睨んだ。


「その傷で?」


「歩ける」


「昨日もそう言って倒れてた」


「今度は倒れぬ」


「信用できない」


 お紺は立ち上がり、鍋に残っていた粥を温めた。米粒は少ない。水のほうが多い粥だ。それでも、空腹の体には温かいはずだった。


 椀によそって差し出すと、伊織はしばらくそれを見つめた。


「食べて。出ていくなら、それから」


「かたじけない」


「粥にそんな丁寧な顔しなくていいよ」


「人から温かいものを出されたのは、久しぶりだ」


 お紺は返す言葉を失った。


 伊織は静かに粥を口へ運んだ。その仕草は武士らしく整っていたが、どこか不慣れにも見えた。空腹を隠しているのだと、お紺は気づいた。


「ねえ、伊織」


「何だ」


「あんた、本当に何者なの」


 伊織の手が止まった。


 部屋の空気が、少しだけ重くなる。


 お紺は続けた。


「苗字も言えない。追っ手に追われてる。油紙を命より大事そうに持ってる。これで何も聞くなっていうほうが無理だよ」


 伊織は黙っていた。


 お久も新助も、口を挟まなかった。


 しばらくして、伊織は椀を置いた。


「すべては話せぬ」


「またそれ」


「だが、少しだけなら話す」


 お紺は息を呑んだ。


 伊織は懐から油紙を取り出した。昨日、お紺が花籠の下に隠したものだ。雨に濡れないよう厳重に包まれていたが、端には血の跡がついている。


「これは、ある藩の不正を示す証の一部だ」


「不正?」


「年貢を水増しし、民から米と金を搾り取っている者たちがいる。帳面をごまかし、余った分を懐に入れ、逆らった者には罪を着せる」


 お紺の眉が寄った。


「ひどい」


「ひどいだけでは済まぬ。飢えた村では、子を売る家も出た。病の親を捨てる者もいた。だが、江戸の屋敷では酒宴が開かれ、奪った米で腹を満たしている」


 伊織の声は静かだった。


 けれど、お紺にはその静けさが怒りなのだと分かった。


「それを暴こうとしてるの?」


「ああ」


「一人で?」


「信じていた者は、もう多くがいない」


 その言葉のあと、伊織は少しだけ目を伏せた。


「私の父も、その不正を正そうとして死んだ」


 お紺は息を止めた。


 父。


 伊織が熱に浮かされながら呼んでいた人。


「殺されたの?」


「表向きは、罪を犯したための切腹だ」


「表向きは?」


「本当は違う。父は民を救おうとした。だが、黒羽玄馬という男に罠をかけられた」


 黒羽。


 橋の上で、お紺を睨みつけた男の名だった。


 あの冷たい目を思い出し、お紺は背筋が寒くなった。


「黒羽玄馬……」


「知っているのか」


「昨日、追っ手の一人がそう呼ばれてた」


 伊織の表情が硬くなった。


「奴は危険だ。目的のためなら、町人の命など虫けらほどにも思わぬ」


「じゃあ、なおさら伊織をここに置いておけないじゃない」


 新助が低い声で言った。


「お紺とお久さんまで巻き込まれる」


 伊織は新助を見た。


「その通りだ。だから私は出ていく」


「駄目」


 お紺の声が、思ったより強く響いた。


 三人の視線が、お紺に集まる。


「今出ていったら、すぐ捕まる。傷も塞がってない。そんな状態で何ができるの」


「だが」


「ここにいれば安全ってわけじゃないのは分かってる。でも、死ぬために出ていくなら、それは助けた意味がない」


 伊織は言葉を失った。


 お紺は花籠に目を落とした。


 昨日まで、そこに入っていたのは売れ残りの花だけだった。今日からは違う。そこには、人の命と、誰かの無念と、江戸の闇が入ってしまった。


 見なかったことにはできない。


 そう思った瞬間、お紺は自分がもう元の場所には戻れないのだと知った。


「傷が治るまで、うちにいなさい」


 お紺は言った。


「ただし、嘘は少なくして。私たちを巻き込んだ以上、何も知らないままにはしないで」


 伊織は長く黙っていた。


 やがて、深く頭を下げた。


「承知した。恩に着る」


「堅いなあ」


 お久が小さく笑った。


「武士だからね」


 その時、長屋の外から子どもたちの声がした。水たまりを跳ねる音。朝餉の支度をする音。江戸の一日が、何も知らずに動き出している。


 お紺は伊織の椀に、残り少ない粥をもう少し足した。


「食べて。話はそれから」


 伊織は椀を受け取り、今度は少しだけ柔らかな顔をした。


「お紺」


「何」


「お前は、強いな」


 お紺は目を逸らした。


「強くないよ。貧乏だと、弱いままでいる暇がないだけ」


 伊織はその言葉を聞いて、静かに頷いた。


 名を隠した若侍。


 花売り娘の小さな家。


 雨上がりの朝。


 まだすべての秘密は明かされていない。


 けれど、お紺は確かに感じていた。


 伊織が持ってきたものは、ただの厄介事ではない。


 父を知らずに育った自分の人生にも、どこかで繋がっている何かだと。


 その予感は、やがて密書の中に眠る一つの名前によって、現実になる。


 けれど今はまだ、お紺は何も知らない。


 ただ、温かい粥を食べる伊織の横顔を見ながら、この人を橋の下に置いてこなくてよかったと、心の奥で静かに思っていた。

伊織は、藩の不正を暴くために追われている若侍でした。

黒羽玄馬という危険な男の存在、伊織の父の死、そして油紙に隠された証。

お紺はまだ、自分の父の名がその秘密に関わっていることを知りません。

次の第3ページでは、伊織を匿うために長屋の人々が小さな嘘を重ねていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ