花売り娘と雨の橋
江戸の深川。花売り娘のお紺は、病の母を支えながら静かに暮らしていた。
けれど雨の夜、橋の下で倒れていた若侍を助けたことで、彼女の日常は大きく動き出す。
これは、花籠に隠された小さな秘密から始まる物語。
江戸の雨は、貧しい者から先に濡らしていく。
深川の外れにかかる古びた橋の上で、お紺は肩から提げた花籠をぎゅっと抱きしめた。籠の中には、売れ残った白菊と撫子、それから少しだけ色の褪せた桔梗が入っている。朝にはしゃんと背筋を伸ばしていた花たちも、夕方から降り出した雨に打たれ、今ではまるで人に忘れられたように首を垂れていた。
「ごめんねえ。今日は、あんたたちを誰かの家に飾ってやれなかった」
お紺は花に向かって小さく呟いた。返事などあるはずもない。けれど、花に話しかけると、胸の中に溜まった寂しさが少しだけ外へ逃げていく気がした。
お紺は十七だった。深川の長屋で、病がちな母のお久と二人で暮らしている。父は、幼い頃に亡くなったと聞かされていた。どんな顔だったのか、どんな声だったのか、お紺は知らない。ただ母が時折、古い櫛を見つめながら涙ぐむことがあり、そのたびに父という人は母の心の中でまだ生きているのだと感じていた。
今日の稼ぎは、たったの十六文。
米を買えば薬が買えない。薬を買えば味噌が切れる。そんなことばかり考えながら歩いていると、雨はますます強くなった。お紺の草履は泥を吸い、裾は重く足にまとわりつく。橋の向こうには、ぼんやりと長屋の明かりが見えた。
早く帰らなければ、母が心配する。
そう思って橋を渡りかけた時だった。
橋の下から、低いうめき声が聞こえた。
お紺は足を止めた。
最初は、雨風の音かと思った。けれど二度目は、はっきりと人の声だった。苦しそうな、喉の奥から絞り出すような声。
「……誰か、いるの?」
返事はなかった。
夜の橋の下など、若い娘が一人で近づく場所ではない。酔いどれが寝ているのかもしれないし、盗人が潜んでいるのかもしれない。あるいは、関わっただけで厄介事に巻き込まれるような何かかもしれなかった。
お紺は一度、長屋の方を見た。
帰ろう。
そう思った。
けれど、また声がした。
「……水……」
それは、今にも消えそうな声だった。
お紺は唇を噛み、橋の脇のぬかるんだ坂を下りた。雨水で滑りそうになりながら、どうにか川岸へ降りる。暗がりに目を凝らすと、橋脚の陰に人が倒れていた。
若い男だった。
上等な着物を着ている。町人ではない。腰には刀があり、雨に濡れた髪が額に張り付いていた。肩口から血が流れ、着物の色をさらに濃く染めている。
「ちょっと、あんた。生きてる?」
お紺が近づくと、男のまぶたがわずかに動いた。
「……水を」
「水より先に、血を止めなきゃ駄目でしょ」
自分でも驚くほど、声は強く出た。怖くないわけではない。むしろ、怖かった。血の匂いも、男の腰にある刀も、橋の上に誰かが来るかもしれない気配も、全部が怖かった。
それでも、お紺の手は動いた。
花籠を地面に置き、腰に挟んでいた手拭いを引き抜く。雨で濡れてはいたが、ないよりはましだった。お紺は手拭いを裂き、男の肩口に強く押し当てた。
「痛いだろうけど、我慢して。声出すと誰か来るよ」
男は眉を寄せたが、叫ばなかった。ただ、荒い息を吐きながら、お紺の顔を見た。
「……娘」
「娘で悪かったね」
「逃げろ」
「助けてもらっておいて、いきなりそれ?」
「追われている」
お紺の手が止まった。
「追われてるって、誰に」
男は答えようとしたが、その前に激しく咳き込んだ。そして懐へ震える手を入れる。お紺は思わず身を引いた。刀ではないかと思ったのだ。
だが、男が取り出したのは、小さく折られた油紙だった。
雨に濡れないよう何重にも包まれたそれを、男は血のついた指で握りしめている。
「これを……誰にも……渡すな」
「何なの、それ」
「知らぬほうがいい」
「だったら、私の前で倒れないでよ」
お紺がそう言うと、男は苦しげな顔のまま、ほんの少し笑った。
不思議な笑みだった。
雨に打たれ、血に濡れ、命さえ危ういというのに、その笑みだけはどこか澄んでいた。お紺は一瞬、言葉を忘れた。
「名は」
「人に名を聞くなら、自分から名乗るものでしょ」
「……伊織」
「伊織?」
「ああ」
「苗字は?」
「言えぬ」
「言えないことばっかりだね」
お紺はため息をついた。
「私は、お紺。深川の花売り」
「お紺……」
伊織はその名を確かめるように呟いた。
その時だった。
橋の上から、複数の足音が聞こえた。
雨音に混ざって、草履ではない硬い足音が近づいてくる。男たちの声。提灯の明かり。お紺は反射的に顔を上げた。
伊織の表情が変わった。
「追っ手だ」
「え……」
「逃げろ。今なら、お前だけは」
「無理」
「なぜ」
「もう見つかる」
お紺は花籠を掴み、伊織の体の上に半ばかぶせるように置いた。売れ残りの花を広げ、濡れた自分の羽織をその上に垂らす。人が倒れているようには見えない。せいぜい、雨除けした荷物に見えるはずだった。
「黙って。息も小さくして」
「お紺」
「いいから」
橋の上から、男の声が降ってきた。
「おい、そこの娘」
お紺は心臓が跳ねるのを感じた。それでも顔を上げ、できるだけ間の抜けた声を出した。
「へえ、何でございましょう」
「この辺りに手負いの侍が来なかったか」
提灯の明かりが揺れる。橋の下を覗き込んでいるのは三人。どれも武士のようだった。先頭の男は鋭い目をしていて、お紺の顔から足元まで舐めるように見た。
「侍さまですか? こんな雨の夜に?」
「見たか、見ていないのか」
「見ておりません。見たのは、雨でしおれた花と、川の水くらいでございます」
「その籠は何だ」
お紺の背筋が凍った。
けれど、お紺は笑った。
「花でございます。売れ残りでよろしければ、おひとつ買ってくださいまし。雨の日の白菊は、なかなか風情がございますよ」
お紺は白菊を一本持ち上げた。
先頭の男は目を細めた。その視線は、お紺の嘘を一枚ずつ剥がそうとしているようだった。お紺は笑みを崩さなかった。足は震えていた。けれど暗くて見えないはずだと、自分に言い聞かせた。
「娘」
「へえ」
「余計なものを見た者は、長生きできぬぞ」
その言葉は、雨より冷たかった。
「貧乏人は、毎日長生きするのに必死でございます」
お紺がそう返すと、男の後ろにいた一人が苛立ったように言った。
「黒羽さま、先へ。血の跡は向こうへ続いております」
黒羽。
お紺はその名を胸に刻んだ。
先頭の男――黒羽はしばらくお紺を睨んでいたが、やがて舌打ちした。
「行くぞ」
男たちの足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなった瞬間、お紺はその場にへたり込んだ。膝が笑っていた。手も震えている。
「……ああ、怖かった」
羽織の下から、伊織の声がした。
「なぜ、助けた」
「今さら?」
「私を見捨てれば、お前は何事もなく帰れた」
「何事もなくなんて無理だよ」
お紺は濡れた髪を耳にかけた。
「雨の日に橋の下で死にかけた人を見捨てたら、明日から花なんて売れない。どの花を見ても、あんたの顔を思い出す」
「変わった娘だ」
「よく言われる」
伊織は苦しげに息を吐いた。顔色がさらに悪くなっている。血も完全には止まっていない。
「歩ける?」
「少しなら」
「じゃあ、うちに来て。傷の手当てくらいならできる」
「迷惑をかける」
「もうかけてる」
お紺はそう言って、伊織の腕を自分の肩に回した。思ったより重い。武士とは、こんなにも重いものなのかと思った。刀の重さなのか、背負っているものの重さなのか、お紺には分からなかった。
橋の上へ戻る坂はぬかるんでいて、何度も滑りそうになった。そのたびに伊織が低く謝り、お紺が「謝る暇があるなら足を動かして」と叱った。
雨はまだ降っている。
けれど不思議と、さっきまでの冷たさとは違って感じた。
お紺の花籠には、売れ残りの花が入っていた。白菊、撫子、桔梗。そして今は、その花の下に、誰にも渡してはいけない油紙が隠されている。
お紺はまだ知らない。
その油紙に、自分の亡き父の名が眠っていることを。
母が長年隠し続けた過去が、そこに繋がっていることを。
そして、今肩を貸している名を隠した若侍が、自分の人生にとって忘れられない人になることを。
長屋の明かりが、雨の向こうにぼんやりと揺れていた。
お紺は伊織を支えながら、濡れた道を一歩ずつ進んだ。
花売り娘と雨の橋。
それは、江戸の片隅で誰にも知られず始まった、小さな出会いだった。
けれど小さな出会いほど、人の運命を大きく変えることがある。
その夜、深川の雨は、花の香りと血の匂いを混ぜながら、静かに降り続いていた。
雨の橋で、お紺は若侍・伊織を助けました。
彼が持っていた油紙と、追っ手の男・黒羽。
まだ何も分からないまま、お紺は伊織を長屋へ連れ帰ります。
次の第2ページでは、伊織が少しずつ自分の事情を語り始めます。




