65話 your name Peace
「忘れ物はないかのぉ?」
「うん!多分大丈夫!」
玄関で靴紐を結びながらそう答えた。
あれから2週間ほど滞在した。その間に新居も東京から中部地方の片田舎へ引っ越すことが決まり、役所の手続きも済ませ終わっていた。東京から出るのは元々母の希望で田舎に住むことに憧れがあったそうだったが、桃子の就職活動に悪影響が出ると考えていたため引っ越せずにいたようだったため、今回を機に引っ越すことに決めた。
「なんだか寂しいのぉ。もう少しここにおれんのかぁ?」
「ワガママ言ったらダメよあなた・・・あっちにはあっちの事情があるのよ」
ケイコがコウジへ注意している様子を見て、つい笑ってしまった。
「ふふっ♪私はそれでも良いんだけどほら、お母さんもいるし・・・もう少ない人生だから2人でゆっくり過ごしたいの・・・」
「そうか・・・まぁ何かあったら遠慮なく遊びに来なさい」
「うん・・・2人も元気でね・・・」
そう言うと、玄関の戸を横にスライドして開くと、桃子がレンタカーで借りてきた車が停めてあり、その助手席にはすでに母親が座っていた。先ほど母親とコウジ、ケイコがすでに別れの挨拶を済ませてはいたが、目が合うと再び挨拶をするかのように会釈をこちらにしていた。
「じゃあ・・・もう行くね?」
そう言うと、レンタカーの方へ歩いて向かった。
「待て!桃子!」
「え?」
「そういえばお主に返すのを忘れてたわい・・・」
そう言うと渡されたものは財布だった。
「山で生活していた時に必要ないからって預かっていたんじゃが、返しそびれててのぉ」
「確かに・・・こっちにいると財布なんて使わないもんだから忘れてた・・・」
「あとで中身も確認するんじゃぞ?」
「うん・・・ありがとう!」
そう言うと、再びレンタカーの方へ歩いて向かおうとしたその時、
「・・・P!」
「えっ?」
急に大きな声でケイコがこちらに声をかけ、それに驚き、またくるりと振り返った。
「・・・これよりあなたからの依頼、プロジェクトは完了したこととし、コードネーム「P」も剥奪されるものとする」
そう言うと、ゆっくりと右手を目の上に上げて敬礼のポーズを取った。
「・・・ご苦労だったわ」
そう言うと、ケイコは無表情のまま桃子に向かって敬礼をしたままで、その様子をただジッと見つめていた。軍隊のルールも敬礼の意味も自分自身よく分かってはいなかったが、これはケイコから送られる最大の賛辞なのだろうということはなんとなくニュアンスとして伝わっていた。
「・・・」
言葉が何も出てこなかった。そこから自然と込み上げてくる理由の分からない涙が流れていた。そこには悲しいといった負の感情もなく、ケイコから賛美が送られたことによる喜びでもなく、何か自分自身にとってそれ以上の言葉にできない特別な意味が含まれているような気がしてならなかった。
「はい・・・ありがとうございました・・・!」
涙を堪えながらも、なんとかそう言葉にするように言うと車に乗り込んでは、急いで離れるようにしてアクセルを踏んで車を発進させた。これ以上ここにいると大声で泣いてしまいそうだったからだ。
「・・・大丈夫?」
母が隣で泣いている様子を見て心配し、そう声をかけていた。
「うん・・・もう大丈夫・・・」
涙を拭いてそう返事をした。
「お母さん、私ね・・・前よりも強くなった気がする・・・」
「・・・そうね。私もそんな気がするわ・・・」
どうやら悲しくて泣いたわけではなかったようだと分かり、安心してそう答えた。
「旅行・・・どこ行こっか・・・」
「私は・・・桃子と一緒ならどこでも良いわ」
「だ、ダメだよ!そうやっていつも自分の意志を二の次にして〜!ちゃんと自分が行きたいところを選んでよ〜!」
「別に譲ってるわけでもなくて本心でそう思ってるのよ?」
「本心でもダメ!今回くらいは自分の意志で旅行に行くの!ね?」
「頑固な子ね〜・・・」
「そりゃそうよ!お母さんの子なんだから」
威張るようにそう胸を張って答えた。
「頑固といえば・・・ケイコさんも、あの人も中々気が強そうだったわね。コウジさんは多分・・・尻に引かれてるんじゃないかしら?」
「ふふっ♪よく見てるわねお母さん。大体合ってるよ」
「あらやっぱりそうだったのね。でもいい夫婦って感じがしたわ」
「うん・・・そうだね・・・」
母の言葉を聞いて、再び胸が詰まるような感情になり、声のトーンが下がっていた。
「あの2人にはその・・・ちゃんと聞けたの?」
母が気を遣うようにこちらへそう問いかけた。
「玄関で聞こうと思ったんだけど、ケイコさんのその・・・よく分からないけど敬礼で泣かされちゃって・・・そしたらもう聞く余裕もなかったわ・・・」
「このまま本当に帰っていいの?後悔しない?」
「うん・・・あっちにはあっちの事情があると思うし、それに・・・自分がここで聞いちゃうとこれまで頑張って隠そうとした2人に申し訳ないなと思って・・・少なくともあっちから言う前は待つつもり」
「そう・・・」
レンタカーは十字路の信号でゆっくりと止まり、青になるのを待った。
「あなたが後悔しないならそれで良いんだけど・・・」
「うん・・・それに事実がどうであれ、お母さんはお母さんだし、コウジさんはコウジさんで、ケイコさんはケイコさんであることは変わりないからさ・・・それだけで私はもう十分に幸せなの」
「それなら良いけど・・・ところで行く前にコウジさんから何を渡されたの?」
話を変えるかのように母からそう尋ねられた。
「ああ、あれは私の財布・・・あれ?」
急にふと思い出したかのように、バックに入れた財布を取り出した。
「中身を確認しろって言ってたけど・・・」
よく聞くセリフだったが、なんとなく気になっていたため、赤信号のタイミングで改めて財布を開いて確認した。
「・・・特に何もない」
何の変哲もない、いつもの自分の財布だった。何か増えているものも、減っているものもなかった。
「あなた・・・その御守り、まだ持ってたのね」
「・・・え?」
母が指を指して、財布に入っていた御守りを懐かしむように見ていた。
「・・・」
母からそう言われると、何となくその御守りの中身を開いて、中にある紙を急いで確認した。すると紙はススだらけで汚れていたものが綺麗に拭き取られており、シワシワだった状態が、綺麗な紙となっていた。
まるで違う紙に入れ替えられたかと思うほどだったが、微かに以前のシワなども残っていたので、間違いなく以前から入れられている紙であることはわかった。
「・・・っ!」
紙を捲ると英語で書かれている文章が一部違っていた。いや、元々がこの文章であるようで、以前読んでいた文章はススで汚れていたため違う文章になっていたようだった。ススとシワシワの折り目がない紙にはこう書かれていた。
「your name Peace」(あなたの名前は平和)
「あら、懐かしいわね。その紙・・・あら?確か、Peaceじゃなくて、Peachって書いてあったはずだけど。それにススも取れてすごく綺麗になってるわね」
横目で母がそう言った。
「多分、ススの汚れでPeace(平和)って書いてあったのが、Peach(桃)に見えてたのよ。この紙で私に名前を付けたんでしょ?」
「ええ、そうよ。でも本当はPeace(平和)って書かれてたのね。じゃあ、もしかしたら桃子じゃなくて、和子・・・とかになってたかもしれないわね」
「・・・やっぱりそうだったんだ」
信号が青になったためアクセルを踏み、レンタカーを走らせた。空は雲一つない晴天だったが湿気もそこまでないカラッとした晴れだったため気持ちよかった。この空を見ながら静かにレンタカーを走らせる。
約3ヶ月間、いや本当は1年ほどいたのではないかと思えるほど長く感じていた、この期間での出来事を思い出していた。その結果、自分自身に課していた理想というものがなくなっていた。もはやどうでもよくなっていた。今はただ自分にとって大切な人のそばにいて、自分がしたい事をやれれば良い。それだけで十分幸せであることを教わったような気がした。
一面、田園風景の中、目的地へ焦らずゆっくりとレンタカーは進んでいる。その光景に飽きることなくただただジッと眺めていた。
「(ありがとう・・・お父さん、お母さん)」




