呪われ王子と異国の姫⑪
「オーティス……貴方はどうか、愛などという馬鹿げた選択はしないように」
母の言葉は、彼の心臓に深く突き刺さった。
母にとって「愛」は、地獄そのものだったのである。
中立国家レクラム国は、隣国と善隣友好の関係を築き、他国の戦争に関与することを禁じられている。
そのため戦火に巻き込まれることもなく、穏やかで豊かな国として知られていた。
南部の温暖な気候は農業や産業に適し、民は安定した暮らしを享受している。
ただひとつ、財政難に苦しむのは王室だけである。
二十年前──当時王太子だった現国王が、上位貴族の反対を押し切って下級貴族の令嬢と結婚した。
身分を越えた恋愛結婚は国中を沸かせ、民の多くは彼らの恋を祝福した。
しかし、貴族社会ではその選択が大きな波紋を呼んだ。
本来、王太子妃には婚約者候補であった侯爵家の令嬢が内定していた。
公爵家に若い娘がいなかったため、侯爵家が最有力とされていたのだ。富と軍を併せ持ち、王太子妃に選ばれれば、公爵家へと引き上げられるはずだった。
だが、王太子が選んだのは、商家から男爵家へ取り立てられた家の娘──権力も後ろ盾も持たぬ、ただひとりの愛する人だった。
結婚式は盛大に行われ、民衆は新たな王妃を歓声で迎えた。
だが、社交界の視線は冷ややかだった。
王妃は孤立し、やがて心を閉ざした。表向きの華やかさの裏で、陰口と嫉妬が彼女を蝕んでいったのである。
とりわけ彼女を敵視したのは、かつて王太子の婚約者候補だった侯爵令嬢である。
選ばれなかった彼女は三十歳年上の子爵へと嫁ぎ、以後、王妃に執拗な嫌がらせを続けた。
夫である国王が庇うことはあったが、王妃の心労は重く、やがて病に伏す。最後は寝台の上から、空を見つめるだけの日々を過ごしていた。
「……王室を傾けた悪女として、私の名は歴史に残るのでしょうね。こんな結末を望んだわけではないのに……どうして陛下は、私を選ばれたのかしら」
それは、オーティスがまだ十歳にも満たぬ頃のことだった。
★ ★
「母上……」
それでも、愛してしまった。
理性では抗えぬほど、狂おしく。
両公爵家の均衡を保ち、中立派に属する伯爵家の令嬢を正妃に迎えたのも、すべては国の安定を願ってのことだった。
だが、その選択は何ひとつうまくいかず、結局、守りたかった人を傷つける結果に終わった。
手に入れたものなど、何もない。
「王太子殿下、ウ・ランカ国の王女殿下がお越しになりました」
ペンの走る音だけがしていた執務室に、侍従の声が響いた。
謹慎処分がようやく緩和され、表向きには以前の生活に戻りつつある。仕事に没頭していれば、考えずに済む――そう自分に言い聞かせていた。
次第に「王太子殿下は正気を取り戻された」と囁かれるようにもなった。
けれど、それは勘違いだ。
今でもあの日の悪夢がよみがえり、まともに眠ることもできなかった。
この苦痛と罪悪感から解放されるなら、どんな犠牲を払ってでも構わない。そう思えるほど、限界に達しようとしていた。
そんな時、ウ・ランカ国から派遣された使節団が、レクラム国にやって来ることを聞かされた。
本来なら王太子として出迎えるべきところだが、体調不良を理由に辞退していた。
大勢の人が集まる場に、彼女がいる。
それを思うだけで、胸が締めつけられる。
──君に逢いたい。
──声が聞きたい。話がしたい。
──あの笑顔を、もう一度見たい。
逢うこともできなくなって初めて、無償の愛をくれる彼女に甘えていたのだと分かった。
もうすべてが手遅れなのに。
どうすることもできないやるせなさを募らせていると、父である国王がウ・ランカ国の王女と会うことを勧めてきた。他国との友好を考えれば当然の申しつけだ。だが今のオーティスに、別の女性など考えられるはずもない。
それでも、王命には逆らえなかった。
婚約が白紙となった今、一度の謁見や茶会で何かを疑われることもないだろう。
オーティスは目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、しぶしぶながらも従うことにした。
貴賓室に足を踏み入れると、黒髪の女性がソファーに腰を下ろして待っていた。
この国では稀な髪色と装いが、異国の香りをほのかに漂わせる。
『レクラム国の若き太陽にお目にかかれ、光栄に存じます。ウ・ランカ国第六王女、蕾玲と申します』
彼女はスッと立ち上がり、胸元に咲く鮮やかな花の刺繍の前で、左の拳を右の掌に包み、深く一礼した。背後の護衛もまた頭を下げたが、彼女とは拳をつくった手が真逆だった。一瞬の所作の違いさえ、異文化の息遣いを感じさせる。
最初こそ他国の王女と対面することに気が進まなかったが、彼女には不思議と引き寄せられた。
『ようこそ、我が国へ。歓迎いたします。私はオーティス・エナン・ド・レクラムです。ウ・ランカ語は拙いながら、王女殿下は気楽にお話ください』
そう言いながら近づいたオーティスは、彼女の手を取り、その甲に口づけの仕草を添えた。彼女の後ろから微かに舌打ちのような音が聞こえてきたが……気のせいだろうか。
顔を上げ、蕾玲の瞳を見たとき、胸の奥がかすかに震えた。
深い翠の瞳が、静かな炎を宿していたのだ。
──決して逃がさない。
──必ず手に入れてみせる。
──誰にも渡さない。
そんな強い意思が瞳の奥で光り、オーティスの背筋に冷たいものが走った。
それと同時に、かつて同じ眼差しを向けてきた女性を思い出す。
自らの手で手放してしまった、唯一の人。
他の誰を見ても、彼女の面影がちらつく自分に、苦笑がこぼれた。
初めて会う蕾玲との茶会は、通訳を介しながらも穏やかに過ぎていった。
ウ・ランカ国の文化や制度を語る彼女の声は澄んでおり、その語り口には聡明さと王族らしい節度があった。
オーティスにとって、そのすべてが新鮮だった。
純粋に他人の話を楽しみ、過去の痛みを忘れられた時間が、どれほど久しいことだっただろう。
それは、一時でも彼女を忘れられるほどだった。
とくに、国王から下賜される宝珠を持つ者が、弱者を守るために「群れ制度」と呼ばれる複婚を許される──その話にオーティスは思わず聞き入っていた。
文化の違いは、時に人の心を隔てる。
だが彼女は、誇りと哀しみの両方を受け入れて生きているように見えた。
『王女とは名ばかり、何一つ自由になるものはございません』
『それはどこの王族も同じですね』
毎日豪奢な食事をとり、絢爛な衣に身を包もうと、心の自由という意味では、平民のほうが遥かに恵まれている。
──好きな相手に、そのままの想いを告げられる自由があるのだから。
オーティスの顔に切なげな笑みが浮かぶ。
すると、蕾玲はわずかに目をみはり、胸元に右手を当てて真っすぐに見つめてきた。
『殿下は……今抱えておられる苦しみから、解放されたいと願われますか?』
「……な、にを……?」
その声音は穏やかだったが、彼女の瞳はどこまでも透徹していた。
まるで心の最奥を見透かされるようで、オーティスは息を呑んだ。
コミカライズ・講談社マンガアプリPalcy▼
https://palcy.jp/comics/2261





