8話 くれない
図書委員は始業式初日から会議が行われる。
ほかの委員会と違って初日から活動するのは、図書室の会館日が明日から、という至極まっとうな理由だ。学年ごとに分かれることもなく、各々自由に座った椅子で前期――我が冨士吉高校は前後期制だ――の役割分担を行った。仕事の担当もまた均一的なものではなく有志で、俺は去年と同じく週に三度、放課後担当を買って出た。
同じクラスの白々雪と澪は異論を挟むことなく、あっさりと決まった。
委員会が終わると、時刻はすでに十二時を回っていた。始業式の日なので弁当はなく、俺は白々雪と澪と並んで、校門をくぐった。
「じゃあ、ウチはこっちッスから」
家が逆方向の白々雪とはすぐに別れた。
澪はどうやら俺の家の近所に引っ越してきたらしく、しばらく道を同じくした。自転車通学なので、徒歩の澪と歩調を合わせるために自転車を押す。前輪のカゴにはふたりぶんの鞄が寄り添うようにして入っていた。
「久栗くん。あのね、ツムギくんって呼んでいい?」
小動物のような視線を向けて、澪が言った。
ウィトゲンシュタインは長いので心の中では勝手に澪と呼んでいる手前、拒否する権利は持ってない。「いいぞ」とうなずくと、澪はまた大袈裟なほど頬を緩ませた。
「ツムギくんツムギくん。すっごく良い音だよね。わたしの母親はね、わたしの澪って名前をつけるときにかなり悩んだの。ほら名前って、いちばん多く使う固有名詞でしょ。だから名前をつけるときに、なるべく綺麗で、言いやすい日本語を選んだらしいの」
「……なるほど。だから〝ミオ〟か。ドイツ語の発音でも、簡単だもんな」
「そうなの。〝ツムギ〟は良い名前だけど……ちょっとオーストリア向けじゃないね」
もっとも、俺がドイツ語圏に行くことはないだろうが。
それにしても『名前は一番多く使う固有名詞』か。俺は感心した。
「わたしはね、名前ってすごく大事だと思うの。母親と父親がじっくり悩んでつけてくれた名前なんだもの。だからね、わたしはね、澪って呼ばれたい。ツムギくんはわたしのこと、澪って呼んでくれる?」
「ああ。わかったよ、澪」
とっくに心の中ではそう呼んでいた。苗字は長いから。
首肯すると、澪は満足そうにはにかんだ。
「ありがとう。それで、ツムギっていうのはどういう意味の日本語なの? わたしひらがなは覚えたけど、漢字はあまり覚えてなくって……。どういう漢字で、どういうニュアンスなのかな?」
「紡ぐっていう漢字だよ。その一文字で紡。なんでその名前にしたのかは訊いたことがないからわからん。けど、俺の両親はふたりとも歌手だから、言葉とか声とか、そういうものを繋げるっていう意味で〝紡ぎ〟なんだと思う。妹はそのまま歌と音で〝ウタオ〟だしな」
「へえ! そうだったらすっごく素敵な由来だね! 綺麗な名前!」
「あ、ありがと」
澪は手を合わせて笑った。その反応はやはり幾分オーバーだが、いままで名前を褒められたことなんてなかったので、ふつうに嬉しかった。
「ツムギくんは、じゃあ、オーストリアだと〝シュピネン〟だね。妹さんは〝スティム〟だよ。どっちも可愛い名前になるね」
「可愛い、か……不本意だな。〝ミオ〟はドイツ語じゃどういう意味なんだ?」
「たくさんっていう意味合いだよ。そのせいで小学校の四年間は、みんなアジア系のを見るとミオミオ!って言ってたよ。……楽しかったなぁ」
澪は故郷を想い出しているのか、誰にでもなく微笑んでいた。心なしか、どこか慈愛に満ちた視線で空を見上げている。童心に帰っているのではなく、小学生時代に精神を帰結させたような、そんな懐かしむ様子だった。
遠い地へ想いを馳せるとは、こんな表情を言うのだろうか。
だとすれば随分と遠いところへ来たもんだ。日本とオーストリアは、歌音何人分の距離があるんだろうか。フランスよりは近いんだっけ?
「……澪は、なんで日本に来たんだ?」
俺はとくに深く考えず訊いた。ほかに訊くこともなく、会話が途切れるのは初対面の同級生との空気がぎこちなくなるから避けたい。そんな軽い気持ちで言った。
すると澪は「ないしょ」と片目を瞑った。
「女の子にはね、七つの秘密があるのよ」
「……それ、オーストリアのことわざ?」
「そうじゃないんだけどね、おばあちゃんが口癖みたいに言ってたの」
「学校の七不思議みたいなもんか。あるいは学校の怪談」
「階段?」
「いやなんでもない」
どうやらオーストリアにはそういう都市伝説はないらしい。
「たぶん、おばあちゃんはモーリスルブランの小説が好きだったから、ルブランの『七つの秘密』になぞらえて言ってただけだと思うんだけどね」
「それなら俺も読んだことあるぞ。怪盗リュパンのシリーズだろ? たしか短編集の」
「そうなの。『七つの秘密』っていうのは、ルブランが使ってたトリックの手法をまとめたものなの。だから、その七つの秘密を理解することは、つまりルブランを理解するってことになるって。女の子にも秘密が多いから、おばあちゃんはそれをひっかけてそんなことを言ったんだと思うの」
「へえ。澪のばあちゃんにも七つ秘密があったのか?」
「うん。いつも三十歳後半って言い張ってたけど、じつは七十歳とか」
「そりゃ秘密でもなんでもねえよ!」
秘密のハードルは低そうだった。
「ほかにはないのか?」
「七十歳になって身体が柔らかくなって、自分のお尻を舐められるようになった」
「なぜそれがわかった!?」
おそるべき七十歳。
「あとは……そうね。前を向いてても後ろも見えるとか、あと何本か腕を隠し持ってるとか、怒ると手がつけられないとか」
「阿修羅マンかよ!?」
「アシュラマンのモデルはおばあちゃんなのでした」
「嘘つき大会じゃねえよ」
「ごめんなさい。じつはラーメンマンの――」
「ラーメンマンは『女の子には七つの秘密があるぞ☆』とは言わねえ!」
しかしキン肉マンが通じるとは。
「でも、おばあちゃんが怒ると怖いのはほんとうだよ。近所のこどもたちは“雷の魔女”って呼んでたくらいだし」
「雷ジジイの海外版みたいなもんか」
「必殺技は十万ボルトだよ」
「物理的!? そしてポケモンだったのか!?」
「おばあちゃんは雷とエスパータイプだよ」
「も、モンスターボールを買い込んで会いに行ってやる……」
「そんなものじゃ捕まえられないよ。自慢のおばあちゃんだもの」
澪は嬉しそうに答えた。
どうでもいい雑談になってしまった。
そのまましばらく歩いていくと、小さな交差点にぶつかった。
「じゃあ、わたしこっちだから。今日は靴のことか、図書委員とか、いろいろありがとう。ツムギくんが隣で図書委員で助かったよ。これから仲良くしてね」
「ああ。もちろん。それじゃあまた」
澪はかばんをかごから取り出すと、さっと小走りになって走っていく。
銀色の髪がふわりと舞いながら、道のむこうに消えていく。
「さて帰るか……ん?」
俺が自転車にまたがったとき、すぐ先の道に誰かが立っていることに気付いた。
そいつは黒い外套を纏って黒い帽子を深くかぶっていた。そして澪が駆けて行った先をじっと見つめているかのようだった。見るからに怪しい雰囲気だった。
さっき、あんなやついたっけ?
俺はしばらくその場でそいつを眺めていたが、そいつは俺には目もくれずにじっと佇んでいるだけだった。
まあ、いいか。
とくに気にすることなく、俺は帰宅した。