9話 とどかない
珍しく早起きして登校してみると、教室には梔子がいた。
いつも登校するのはホームルームぎりぎりで、梔子の登校時間なんて知らなかった。意外に早い。静かな教室で、梔子は自分のロッカーにかばんを仕舞っているところだった。
ロッカーは教室のうしろに備えつけられてある。出席番号順に並んでいるので、梔子のロッカーは俺の隣の列の一番上だった。
梔子は、懸命に背伸びをしてロッカーにかばんを押し込んでいたのだ。
「……おまえ、ほんとにチビだな」
手が届く気配がなかった。
梔子はちらりと振り返ったが、すぐに作業を再開する。
無表情のまま懸命にかばんを押し上げている梔子をみているといたたまれない気持ちになってきた。
……まったく。
俺は梔子のかばんを取り上げると、それを俺のロッカーのなかに押し込んだ。ついでにロッカーの名札を入れ換えておいた。
視線を感じて横を見ると、梔子が俺をじっと見つめていた。
「……良かったな、俺のロッカーが一番下で」
コクリ、とうなずくと、何度か新しいロッカーを明け閉めする梔子。最後に名札を撫でるように触ると、自分の席に戻って行った。
満足してなによりだ。
俺も自分の席に座っていると、クラスメイトが何人か入ってくる。
適当に挨拶していたら、加減を知らない笑顔を貼っつけた澪がやってきた。
「おはよう、ツムギくん」
「おはよ」
「梔子さんもおはよう」
澪は梔子にも声をかける。
もちろん梔子は何も答えなかった。
しかし澪は気にすることなく、ほかのやつらにも声をかけていく。とくに梔子について思ったことはないようだった。
梔子にも順応するとは、なかなかの器だった。
放課後の図書室当番はべつのクラスのやつらだった。
新学期二日目は午前のホームルームと身体測定だけで解散となったので、俺は澪に図書委員の仕事を教えるために図書館へおもむいた。図書委員の邪魔をしないよう、澪に仕事をある程度教えると、澪がおなかがすいたと言い出した。
ちょうど昼時だったのでそろそろ帰ろうかということになり、俺は澪と並んで歩いていた。
きのうと同じように自転車を押していると、
「日本語ってむずかしいよね」
ニコニコしながらも澪は腕を組んだ。
「動詞が最後にくるから、聞いてるほうは最後までドキドキして聞かなきゃならないの。ひょっとすれば主語よりも動詞が大事なときだってあるのに、なんで日本のひとは動詞を最後に言うの?」
「さあ、なんでだろうな」
言語学者でない俺は、そんなこと知らない。
「たとえば『貞子が井戸にダイブした』っていうときにね、貞子が井戸に……の途中で話しかけられて止まるときあるでしょ? そうすると、わたしは『ええ? 貞子が井戸にどうしたのっ!?』ってなっちゃうの。なんだか焦らされてるみたいだよね」
「そうかもな」
「予想がつかないってけっこうドキドキだよね」
「まあ貞子は井戸にダイブしないけどな」
「そうかな」
「そうだろ」
「じゃあ帰っていくときどうしてるんだろうね。梯子もないのに」
「……すまん。ダイブだな」
サダコ・ダイブ・インザ・ウェル。
アクロバットな映画になった。
「あとね、ドキドキとかワクワクとか、そういうのも難しいよね。とくにシトシトとかピカピカとか。光に音なんてないのにね」
「それは俺も思ってた。擬声語ってのは感覚に近いからな。日本で育たないとわからないかもしれない」「じゃあ『ズルズルと貞子は這い寄り、ぴょーんと井戸に……』で止まったらまったくなにがなんだかわからなくなるよね」
「貞子はぴょーんと井戸に……ウサ耳をつけた!」
「うん! それはわかる!」
理解されてしまった。
俺の日本語力もまだまだのようだ。
「貞子はぴょーんと井戸に……フライングニードロップを極めた!」
「足が折れちゃうよ」
「貞子は幽霊だから大丈夫なんじゃないか」
「物理的にはね。でもスネだから、思い込みでショック死するかも」
「安心しろ。すでにご臨終済みだ」
「じゃあ安心してニードロップできるね」
「幽霊のことをあんじるなんておまえは優しいな」
「そんなことないよ」
「優しくて可愛くて面白くて賢くてみんなから愛されてるな」
「そ、そんなことっ」
澪は恥ずかしそうに否定した。
「あるかもっ」
「あるのかよっ!」
わりと素直だった。俺はずっこけた。
作り笑いだけなんとかすれば、好きになってしまうかもしれんクオリティだった。
「これは平穏の難敵が現れたかもしれん……」
ひとりごとを言いながら起き上がる俺。
どこでそのノリを覚えたのか訊こうと澪に顔を向けた。
いつのまにか。
澪の顔から笑顔が消えていた。
わずか二日だが、ずっとニコニコしていた澪。その表情をやめたことが異常だとは思わない。
だが、顔が青ざめていれば異常だ。
澪は表情を凍らせて、正面を注視していた。
道の先に、黒い外套の男が立っていた。黒いストローハットを深くかぶり顔を隠し、しかし顔をじっとこっちに向けている男。
きのうも居たやつだ。
「……澪、知り合いか?」
澪は答えなかった。からだも硬直させている。
知り合いだろうか。
わからないが、ただならぬ空気を感じた。
このまま無視して帰る……ことはできそうにない。
しかもその澪の表情にひとつだけ思い当たる感情があった。
“恐怖”
ただし現実味を帯びた恐怖というより、理解できないものへの嫌悪感を伴った類の畏れだ。白々雪曰く「それは人間が持つすべての感情のなかで唯一、理性では抑圧できない感情ッス」だとか。どれほど知性があり自己を制御できる人間でも、どれほど腕力があり他者を制圧できる人間でも、その恐怖だけはぬぐえない。
それが、澪の顔に縫い付けられている。
「……っ。」
俺の心の平和のために、安寧のために、穏和のために。
やることができてしまった。
めんどうだが。
「……澪、逃げるか?」
澪は、いつもの梔子のように、首だけでうなずいた。
俺はその首肯を確認すると、すぐさま自転車に乗った。うしろの荷台を叩く。
「ほら、乗れ」
自動人形のように従う澪。
それがどれほどのことなのか、俺にはわからなかった。
わからないまま強くペダルを踏みしめて、その場を離れた。
黒い外套の男は追いかけてくることなく、後ろに消えていった。




