6話 半真半偽
意識が逆巻く。
なんとも奇妙な感覚だった。ビデオの逆再生のような光景が目の前を通り過ぎていく。見た目どおり時間に逆行しているのか、それともただの演出か。漠然とした風景のなか、俺はただ立ちすくんでいた。少なくとも体に異変は無い。
なにかが繋がった。
そんな感覚はあった。南戸の予測は的を射たのだろう。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというけど、そもそも俺は鉄砲の撃ち方すら教わってない。当たってしまった的をどうするか……その予想すらすることすらなかったからか、背筋に緊張感が走る。
世界の逆再生は、唐突に終わった。
「……歌音」
俺が立っていたのは、白い壁に白い天井――病室だった。
ベッドで寝ている歌音は、血色の良い顔をしていた。置かれてある時計を見てみると、事故が起こった翌日。
歌音のベッドの横では、母が座って眠っていた。目の下がクマになっている。そういえば、俺も母も徹夜で歌音につきっきりだったはずだ。そして明け方になり歌音は一度目を覚まして、そのことに安堵して俺は床で寝たのだ。
はっきりと蘇った記憶。
……こんな記憶はいままでなかった。
これが正しい記憶なら、さっきまで俺がいたあの世界は、まさしく幻だったのか。
つまり、だから、歌音は、死んでなんてなかった……。
「――はたしてこれが夢か現か。兄ちゃんはどう判別するのかな?」
安堵の息を漏らす俺に、後ろから声がかけられた。
病室の隅。
なにもないその空間に、歌音がもうひとり座っていた。
膝を折り曲げて、体を縮めて見上げてくる歌音。
俺はベッドですやすや眠る歌音をちらっと見て――察した。
「……おまえ、〝獏〟だな?」
「半分正解半分間違いだよ。ツムギ兄ちゃん」
そいつは、にこりと笑う。
まるで、歌音の笑みをそのまま模写したように。
「〝果たして誰か〟……ねえ兄ちゃん、個人を個人たらしめる最大の要因って、なにかわかる?」
「……なんの話だ?」
「いきなりでわかりにくいかな。質問変えるね。兄ちゃんが兄ちゃんである最大の理由はなに?」
「ん? そんなもん、俺が久栗ツムギだからだ」
話題の跳躍についていけずに、首をひねる。
歌音の姿をしたそいつは、笑ってうなずく。
「そう。兄ちゃんを久栗ツムギたらしめてるのは、それは〝自我〟っていう認識だよ。個人であることっていうのは、ひとつの認識問題なの。歌音が歌音なのは、それは歌音が自分を歌音だと知ってるから。みんなが歌音だと知ってるから。たとえば記憶喪失になった身元不明の女性がいるとして、もちろん彼女は自分のことがわからない。そのなかで、生きていかなければならなくなる。そこで彼女はみんなから〝アイ〟という名をもらう。そうすると、彼女のなかにあった元の彼女は、そこで〝アイ〟にとってかわるの」
「……記号論か?」
「そうだよ。兄ちゃんのくせに理解が早いね」
「ちょっと経験があってな」
すこしだけなら神様のときに学んだ。
「つっても記号論がおまえの正体に関係あんのか、獏」
「だから大事なのは認識なんだよ。たしかにツムギ兄ちゃんが察したとおり、こっちの歌音は獏だよ。獏が歌音に姿と形をもらったもの。ただし、知らざる者には見えない不可視なもの……まだまだ半分妖怪なんだけどね」
「ほらみろ、獏じゃねえか」
「でも半分は歌音なの」
獏は、俺のすぐそばまで歩いてくると、嬉しそうに腰に抱きついてきた。
「ふふふ、証明が欲しいなら、いくらでもベッドのなかでしてあげるよ? まあ初めてが病室のベッドっていうのもまったくもってマニアックだけど、歌音はそれでも――」
「よくない!」
叫んで、思わずハッとする。
「ぐっ……偽物はこんなこと言わない……っ!?」
「ほらね?」
くそう。こいつ歌音だ。
「わかった? 体は獏だけど、自我は歌音なの。だから半分歌音なんだよ?」
「……そうか」
まあ、いい。
ここにこだわっている場合でもない。
「じゃあ、おまえが半分歌音だとすると、だ。なんであんなことをした? なんで獏を使って現実喰いなんてことしたんだ?」
「それを獏に聞くなんて、ちょっと間抜けだね兄ちゃん」
獏はくすりと鼻を鳴らした。
「あと間違えてるよ。獏は現実を喰べたんじゃないの、夢を喰べただけなんだよ。べつに現実が書き変わったわけでもなければ、幻を魅せていたわけでもない」
「は? でも俺は、さっきまで――」
「獏は夢喰い。歌音がいくら望もうが、現実そのものを食べてぜんぶ夢に置きかえることなんてできやしない。本当にそんなことができたら世界征服くらい余裕じゃない。ただ獏がしたのは、歌音の夢を食べただけ。歌音の夢を食べてしまっただけなの。兄ちゃんが巻きこまれたのは、歌音の夢のひとつに兄ちゃんがいたから……ただそれだけなの。現実が書き代わってたのは、兄ちゃんひとりだけ……巻きこんでごめんなさい」
なんと、俺だけだったのか。
ってことは待てよ。
さっきの世界にいた南戸は……偽物?
「そうだよ。みんなみんな、兄ちゃんの心が見せた夢だよ。……でも、巻きこまれた世界から脱出するためにさっきのひとを選ぶなんて、随分あのひとを信頼してるんだね?」
「俺があいつを? ありえねえ」
「兄ちゃんはツンデレだからね」
「納得すんな!」
認めない認めない。
俺が南戸を信頼してるなんて天地転覆。
「でも」
獏は静かにほほ笑んだ。
「変だと思わないの兄ちゃん? この状況を見て、この状況を理解して。歌音が死んだ未来を見てたんでしょ? それが獏のせいだと思ったんでしょ? ならどうして気付かないの?」
笑みは、物悲しいほど弱かった。
いつもの歌音らしい表情じゃない。
「……どういうことだ?」
「その未来が、歌音の望んだことだって」
「歌音がいない未来が……か?」
「そうだよ」
そんな馬鹿な。
歌音はそんなに悲観的なやつじゃない。事故に逢って死にかけたくらいで、未来を閉ざしたくなるような思考の持ち主じゃない。
毅然と笑って、いつもの妄想を膨らませるようなやつだ。
「……兄ちゃんって、ほんと鈍いんだね」
でも。
俺はまだわかってなかった。
「歌音は失ったの。夢を失ったの」
歌音のことを、まだわかってなかったんだ。
「兄ちゃんが好きだって気持ちを――兄ちゃんと結婚するって夢を、ママに否定されたんだよ。それだけならまだなんとかなったかもしれないの。でもそれだけじゃなくて――」
獏は、死んだように眠る歌音を眺めた。
「――事故のせいでね、左手、動かないの」
「っ!?」
「動かそうと思っても、ぴくりとも動かない……歌音はね、兄ちゃんと結婚するって夢を否定されて、クレープ職人になる夢もほとんど奪われた。だから歌音は願ったんだよ。獏に祈ったんだよ。『こんな空虚になった夢なら……食べてくれ』ってね」
口 口 口 口 口
夏も終わりに近づいていた。
夕暮れには過ごしやすい気温になる。開け放した窓から、秋の気配がかすかに風にのって運ばれてくる。眠っている歌音の布団の上に、黄色がほんのりと交じった銀杏の青葉が落ちた。
「……それじゃあ、母さん仕事あるから行くね。あんたもそろそろ夏休みの宿題、終わらせなよ」
「おう」
母は病室から出ていった。
歌音が眠ってから数日。まだ目は覚めていない。
医者がいうには、命にかかわるような傷ではないらしい。一度目が覚めていることもあり、意識そのものに問題があるわけでもないようだ。眠ったまま起きないのは原因が特定できない――そう医者は言っていた。
目の前には、穏やかに寝息をたてる歌音。
「……ママが帰った病室……目の前には可愛い妹の寝顔が……兄ちゃんは周りをきょろきょろと見回し、誰も見ていないことを入念に確認すると、音を立てないように愛らしい妹の唇にそっと口づけを――」
「してたまるか」
部屋の隅っこで座るもうひとりの歌音に怒鳴ると、歌音は頬をふくらませた。
「兄ちゃんのいけずぅ。いいんだよ歌音はむしろしてほしいんだよ。王子様のくちづけが歌音の目を覚ますかもしれないんだよ?」
「じゃあクラスメイトの隆平くんとやらを呼んできてやる」
「やだよっ!? ファーストキスがあいつなんて死んでもやだよ!?」
「可哀そうだな隆平くん。泣くぞ」
「泣いてもあいつは歌音に従うからいいの」
見たことはないけど、こんなこと言われても歌音と友達でいてくれるなんて、いい子なんだろうな隆平くん……
「てか従者いるとか、おまえ学校でなにしてんだよ」
「え? クラス支配とか?」
「無垢な表情でいうな恐ろしい」
でもたまにいるよな、そういう女子。
それが自分の妹だってことにショックを隠せない。……まあ贔屓目抜きにしても、歌音は可愛いし頭もいいし喧嘩も強いし話も面白いし男に媚びを売ることもないし成績も悪くないし運動神経はずば抜けているし極度のブラコンってことをにさえ目をつむってしまえば、ほぼほぼ完璧な妹だ。
「……歌音、愛してるぞ」
「ふえ!?」
驚く歌音。
「不意打ちのシスコンは卑怯だよ!? まったく油断したわき腹にズキュンときたよ!?」
「ああすまん。おまえが凄いこと忘れてた」
「嬉しい! でもちょっと釈然としないのはなぜ!?」
喜んだならよかった。
「俺もたまにはデレないとな」
「っく……歌音が半分獏じゃなけりゃあいますぐ兄ちゃんの貞操を全力で奪いに襲いかかるのに」
「兄ちゃんの貞操帯は固いぞ」
「貞操帯つけてんの!? 男なのに!?」
「おい目が飛び出たぞ。しまえしまえ」
「う、うん。ついうっかり……」
驚きすぎな歌音。
「にしても兄ちゃんってガード固い固いと思ってたら……いまどき女子でもつけてないって言うのに。でもまあ鍵なんて歌音のピッキング技術にかかればイチコロだよ」
「残念だったな。電子式で毎日ロックナンバーが変わるんだ」
「どんだけ厳重なの!?」
「おい巨大化してるぞ。ちぢめちぢめ」
「う、うん。ついうっかり……」
ハイパー驚きすぎな歌音。
「そんなハイテクな道具が兄ちゃんの股間にあるなんて時代を感じるよね。男のパンツひとつで吃驚できる時代ってのもヤだけどさ」
「まあ嘘だけど」
「ほんとっ!?」
「おい顔がハイエナになってるぞ。もどれもどれ」
「う、うん。ついうっかり……じゅるり」
ウルトラ驚きすぎな歌音。
ってかさっきから目が取れたり巨大化したり動物になったりと、
「獏ってなんでもありだな」
「半分妖怪だからね」
そういやそもそも動物の集合体みたいな妖怪だけどさ、そんな無駄な外見変化に使われるとは思ってなかったに違いない。
「それにしてもさ」
と。
俺が感心してると、獏の歌音は本物の歌音の寝顔をのぞきこんで、
「歌音って可愛い顔してるよね。ほっぺとかぷにぷに」
「ほんとおまえ自分好きだよな……なあ歌音。歌音はいつになったら起きるんだ? なんか歌音って言葉がゲシュタルト崩壊しそうだけど」
「崩壊させないでよ。……歌音はね、起きないよ。獏の歌音は、歌音の夢を食べたんだもの。不確かな夢幻じゃなくて、ハッキリとした未来を食べちゃったからね」
あっさりと首をふる獏。
そこまで断言されるとは思わなかった。
「……それは、確実なのか?」
「確実? ちがうよ、現実だよ」
歌音は寝ている自分の髪をさらさらと撫でる。
「確実なんて言葉よりも、もっと確かなもの。揺るぎようのない事実なんだよ兄ちゃん。歌音は夢を捨てた……獏にあげたんだよ。だから歌音はいま、こうなってるの」
「……もとに戻せないのか?」
「知らないよ。獏は、夢をつくったことなんてないんだから」
「そんな無責任な――」
コンコン、と病室の扉がノックされた。
俺は言葉を呑みこんで、獏に「黙ってろよ」と目線を送ってから返事をする。
「どうぞ」
「失礼するッス」
ドアを開けたのは、見慣れた顔。
白々雪桜子だった。
なんでこんなところに――とは思わない。
白々雪には、ちゃんと教えていたから。
「……悪いとは思ったッスけど、話は聞かせてもらったッス」
白々雪は病室に入ってくるなり、後ろ手で鍵を閉めた。
ベッドに眠る歌音、椅子に座る俺、そして俺の近くで立っている獏の歌音を一瞥して言った。
「現状と筋は理解したッス。理解したうえで確認するッスよ妖怪。本物の歌音ちゃんは夢をあんたに食べさせたから目が覚めない……その筋書きは夢喰い。これで間違いないッスよね?」
「そうだよ」
「ならどうして悩むフリしてるんスか? あんたは夢を司る妖怪ッスよね? なら、夢を創ることはできなくても、夢に惹き込むくらいはできるんじゃないッスか? 夢を食べるくらいなら夢の魅力は一番あんたが知ってるはずッスよね?」
「…………。」
「ちょっとまて白々雪。それってどういう――」
「ツムギは黙っててください。ウチはそこの妖怪と話をしてるッスから」
そういや、こいつはもともとこういうやつだったっけ。
誰に対しても適当な態度をとり、自分のしたいようにする。完全無欠の記憶力を持ち、そのくせ才能を無駄遣いすることに遠慮しない。
ただし、俺に関係することには、やたらと構ってきたがる。
そんな世話焼き型の母親みたいな女。
歌音には押しかけ女房と揶揄されるようなやつだ。
「夢を与えるためには、夢のなかに入りこめばいい」
白々雪桜子は、だからこそ、頼りになる。
頼りにできる。
「ツムギならできるんじゃないッスか? 夢との縁を紡ぐのはもう、経験済みなんスよね?」
そう言って不敵に笑って取りだしたのは、大量の『鷹の爪』だった。




