5話 雲散夢消
雲散霧消。
それは文字通り、雲が散り霧が消えることを指す。形のあったものが消えてなくなる。あるいは自然に、あるいは不自然に。
雲も霧も時間がたてばいつか消える。円環の縁を巡るように、ゆっくりと時間をかけて消えたり現れたりを繰り返す。消えたこと自体に問題があるわけではない。
「重要なのは、そこに調和があるかどうか、だぜ」
夜。
べっとりと天に貼りついた黒血のような宵空も、東からわずかに明るくなりつつあった。早朝とはいえ真夏だ。ネクタイをポケットに仕舞い、シャツのボタンを開けていた。南戸は暗闇に溶けるような黒衣を纏い、俺のすぐ前を歩いている。
「消える、という現象について考えたことがあるかい久栗クン? じつはこの消えるという現象のほとんどが『消えたような錯覚』だ。つまり本質的に消えたわけじゃねえんだ。たとえばこの十円玉」
南戸は手をひらいて、そこに十円玉が握られていることを見せた。
その手を閉じ、数秒握りしめてからまた開くと、そこにあった十円玉はなくなっていた。
「これで十円玉が消えた。だが、キミはこれがマジックだと予想するだろう?」
「そりゃあな」
「その理由はなんだ?」
「消えるわけねえからな、物理的に」
「それだよ久栗クン」
南戸がもう一方の手を開く。
そこに、消えていた十円玉が握られていた。
「十円玉が本当に消えるわけじゃねえ。それは、いまのアタシの所行を見て誰もが前提として考えていることだ。とりわけ科学がすべてを統べているこの現代社会で、〝種も仕掛けもない〟現象は起こり得ない。雲が散るのは空気の流れ、霧が消えるのは気温の変化……雲散霧消にすら、理屈と論理がついて回る。これこそが、調和――現代人の大好きな調和だ」
なにが言いたい、と視線を横に向ける。
南戸は肩をすくめて笑った。
「科学の進歩、論理の発達、価値観の統合。これらが進んだこの社会で生きる現代人には、おおよそ〝非合理的〟なものは受け付けられない。神しかり、精霊しかり、妖怪しかり、かつて天下の往来を我が物顔で闊歩していた非科学性は歩むべく道を見失い、路頭に迷っている。いまじゃ見る影もない。白々雪桜子あたりならこう形容するだろう。『神は死ぬべきだ』とね」
「そういや、んなこと言ってたな」
「あながちその意見は間違っちゃいないさ。神を知った身であるからこそ、不条理なものは排除されるべきだと理解している。世界の本質は、どう考えても合理性だ。この世界において科学はなによりも正しいんだよ」
だから、なにが言いたいんだ。
そんな哲学じみたことなんて、いま話す内容じゃないはずなのに。
「だが、その調和を好まない者もいる。調合性なんて気に留めない者もいる。理に適ったことを狂わせるのは、そういうやつらだ。アタシはそいつのことを〝鍵〟と呼んでる」
「……鍵?」
「ああ。いわゆるキー。真の意味でのキーパーソンだ。白々雪桜子の過去では、それは彼女の両親だった。梔子クンの過去では、それはアタシと梔子クン自身だった。澪=ウィトゲンシュタインの過去では、妖精そのものだった。調和を捨て、非合理を求める……その心こそが、不可思議を生みだすのさ……たとえば、遺体が消えるような、な」
つまり、やはりそれは歌音が今回の〝鍵〟だということだろう。
そんなことはとっくにわかっている。
でもいま俺たちがしているのは、その原因を考えることじゃない。
消えた遺体の原因――つまり歌音の本当の体を、探すことだ。まず歌音を見つけなければ、なにが起こっているのかすらわからないんだ。
「よく考えてもみろ、相手は夢を喰う妖怪だぜ?」
南戸は指をピンと立てた。
「その本質は〝夢を消す〟ことにある。古くから獏は悪夢を食べる霊獣と伝承されているが、そもそも悪夢を喰わせているのは人間のほうだ。獏が悪夢を選んで喰っているわけじゃねえ。人間の願いをくみ取り、人間に都合の悪い夢ばかりを食べている。獏の性質は悪夢喰いではなく、夢喰いそのものだ。そこを取り違えちゃいけねえ」
神妙に語る南戸に、俺はさっき見た光景を思い出す。
歌音の遺体が消えていることに、母は気付いていなかった。
棺桶は開いているのに、まるでそこに歌音が見えているような様子だった。空の棺にすがる、抜け殻の母。
とても痛々しかったけど、それ以上に、気味が悪かった。
「獏はあくまで夢を喰うだけだ。悪しき夢を、と願うのは、人間だぜ。そもそも妖怪や神様や妖精を生みだしてきたのはいつだって人間だ。人間の想いだ。アタシたちが立ち向かっているのは、いつでも誰かの心だってことを忘れちゃならねえ」
誰かの心。
その誰かとは、誰だろう。
……いや、考えるまでもない。
妄想と言う名の想いを、誰よりも強く生みだし続ける少女。
それが誰かなんて、俺はずっと昔から知っている。
「……歌音の心……」
「そうだ。そこで話を戻すが、この現象には一切の調和がねえんだ。記憶に常に靄がかかり、遺体が忽然と消える……たとえ相手が〝夢を喰う存在〟としても、こんな幻想を魅せるのは道理に適ってねえんだよ。獏はあくまで夢を喰うだけ……ただそれだけの妖怪を使役してここまで大がかりなことができているのは、その原因となる久栗歌音自身の心理が、ケタはずれにぶっ飛んでるってことだ」
歌音の持つ、常識外れの妄想癖。
獏を宿すだけじゃなく、その力を本来以上に引き出す心。
「でも……おまえの言うことが、間違ってなかったら、だろ?」
「おいおい、いまさらアタシを疑うのか? ともに苦楽を歩んできた仲じゃねえか。キミを騙すはずがないだろう?」
南戸は立ち止まって「まさか」と大袈裟に驚いてみせた。
そんな雑なボケにツッコムような気分じゃない。
「……遊びはあとにしろ」
「ノリが悪いな。会話と貝は鮮度が大事なんだぜ?」
「いいからさっさと先導しろ。ゆっくりするヒマはねえ」
「鮮度だけに、か? やるねえ」
「うるせえ」
睨むと、南戸は唇をわざとらしく尖らせて、また足を進めた。
俺は南戸の後ろをついて歩く。
「ここもいないか」
「そうみたいだな」
家。
歌音の事故現場。
そして病院。
俺と南戸は消えた歌音を探して、だんだんと白んでいく空の下を歩いた。心当たりがある近場はだいたい巡った。南戸の言うことは、なかば半信半疑だが、やっぱり一理ある。すくなくとも歌音の〝遺体〟が偽物だったのだ。歌音の〝死〟までが幻なのかはわからない。けど、この原因を引き起こす妖怪――獏はどこかにいるはずだ。歌音に憑いているはずだった。
それでも歌音の姿はなく、そろそろ太陽が顔をのぞかせようとする頃、ふと南戸が立ち止まった。振り返って後ろの病院を眺める。歌音が死んだはずの巨大な総合病院だ。
「……かくれんぼをしたことがあるかい? 久栗クン」
「そりゃあな」
誰だってしたことくらいあるだろう。
隠れる場所さえあれば、一人でも遊べるのだから。
「たとえば部屋が四つある家でかくれんぼをするとき、その部屋の配置が北、東、南、西でそれぞれ繋がっていて、部屋を抜けてぐるぐると回れる状況だとすれば、もっとも見つかりにくい部屋はどこだ?」
「……そりゃあ、鬼の逆方位の部屋だろ」
「ご明察。隠れると身をひそめるは同義じゃない。逃げる側にとって、常に鬼から見えない位置を移動するのがベストポジションだ。むろん追う側の位置を把握しなければ不可能だから、基本は鬼の〝後ろ側〟ということになる」
鬼の後ろを尾行する。それくらい俺もやったことがある。足音をたてないように、俺を探し回る鬼を後ろから眺める。けっこう楽しかった記憶があるが、一度バレたら次はすぐバレる。一度きりの戦略。
でも、驚くほど有効だった。
俺はなんとなく周囲を見渡す。
……誰かが俺たちを隠れて見ているような気配はない。
「そもそも隠れるとはなにか。それは、消えることと同義だぜ。視界から消える。意識から消える。認識から消える。そうすることで、たとえそこにいたとしても、いないことになる。消えたと信じ込ませることこそ、隠れる側にとって最高のパフォーマンスだ」
つまり……
「歌音の遺体は、消えてないのか?」
「いいや消えたさ。遺体はそっくりそのまま消えた。この白昼夢を見破りつつあるアタシたちには、そんな小細工はもはや効かない」
「じゃあ、どこにあるんだよ? 歌音の姿は……どこにあるんだ?」
「ないかもしれない」
南戸は眉根を寄せた。
「思考の盲点、裏側……かくれんぼで最も強い場所は、位置的な問題よりも心理に集束する。つまり〝隠れないこと〟こそ最高の隠れ場所だ。むろん、隠れずに突っ立ってるってわけじゃねえ。隠れるのではなく隠す……鬼を隠すのが、もっとも効率の良い隠れ方だ。鬼が探しているはずの四つの部屋が、そもそも隠された場所だったらどうだ? 鬼はそれを知らずに、ただ隠し部屋だけを探し続ける。逃げる側は、その隠し部屋の入口さえ閉ざしていればいい。隠れず、椅子に座って本を読みながら、鍵をかけ続けるだけでいい。鬼はそれに気付かない。隠されているのが自分だということに、気付かない。隠されているがゆえに、隠れない者には気づかない」
それはかくれんぼの盲点。
「……まさか、歌音は……?」
「試してみる可能性はある」
南戸は袖のなかから、茄子をとりだした。
さっきから持っていた、紫の野菜。
「キミの妹君はアタシたちに夢を魅せているのではなく、彼女の夢にアタシたちを曳き込んだのかもしれねえ。……たった一人の夢に、世界中の人間を巻き込んだのかもしれねえ」
俺はハッとする。
歌音の妄想癖……彼女がかつて遊園地で語ったのは、夢と現実の相関性。
妄想を言葉にすることにより、現実にする。
それをいずれやると言い放っていた歌音だ。獏という夢を司る妖怪を味方につけた彼女は、それをやってのけることができたのかもしれない……。
「おかしいと思わねえか? さっきも言ったが、獏は夢を喰うだけの妖怪だ。夢を魅せることはできねえ。それなのにこの現象……これが獏による仕業だとすれば、キミの妹君――久栗歌音はおそらく、現実こそ夢だと認識したんだ。アタシたちにはその現実がなにかはわからねえが、もしそうだった場合、キミの妹君はとんでもないことをしでかしている。夢喰いを使った現実喰い……つまり、合理性への反逆だ。もしそうだとすれば、アタシたちが破らなきゃならねえ」
南戸は手の中の茄子を、俺に差し出してくる。
「……?」
食えってことだろうか。
「獏は夢を喰うモノだ。夢と現実の縁を切る、いわゆるハサミのようなモノ。ならば縁を繋ぐのはなんだ? 夢と現実の縁を起こすのはなんだ? さすがに富士山と鷹を用意することはできねえが……縁起物としちゃ、こいつも悪くないぜ」
そうつぶやいて、南戸はまず自分で茄子を齧った。
生の茄子なんて、食べるもんじゃないだろうに。
だが表情を崩すことなく、南戸は茄子を咀嚼する。
「アタシが喰っても効果があるかはわからねえが……キミの名は、紡だろう? 妹が切り離した縁を紡ぐには、キミほど適した人間はいねえ」
「……。」
俺は、齧りかけの茄子を食べた。
固い触感。水気の多い苦汁が溢れてきた。
咀嚼。
咀嚼。
咀嚼。
目の前の南戸が、じっと俺を見つめている。
舌の上につるつるとした皮に張り付いた、弾力のある実が残っている。水分を吐きだされて、ゴムのように残る触感。
言うまでもなく不味い。
味噌汁か、漬物にでもして欲しい。
こんなもん食って意味があんのかと、俺は喉の奥に茄子を流し込んだ。
ごくりと嚥下して――――
「――え?」
その瞬間だった。
世界の映像が、テープを巻き戻すかのように、逆再生を始めた。




