13話 しゃべれない
『梔子』
焦げたような色の表札がかかっていたのは、武家屋敷のような広大な敷地の日本家屋だった。
俺の家から自転車で西に十分ほど走ると、住宅街の端に、むかしここの地主だったと言われても不思議ではないほどの大きな家が建っていた。この広い屋敷は、遊園地の観覧車から何度か見たことはあったが、まさかそれが梔子の家だったとは。
外塀が家の敷地をぐるりと囲み、その壁の端から端が見えないほど敷地が広い。塀瓦は灰色でよくある丸い形をしている。
俺は無限回廊のように左右に走る塀から視線を逸らして、正面を見た。
門。
なるほど、門という字の語源がすぐにわかるほど、門っぽい門だった。高さは三メートルほどで、塀の終点である左右の支柱に、ぶ厚い板が張り付けられているだけの木の門だった。一応門には瓦の屋根がついている。勝手口などはなく、門の横の塀にちょこんとくっついている『梔子』の表札が可愛く見えた。
門である。
門はノックをするのが礼儀なんだろうか。もしそうだとしても、この門のむこうがいきなり玄関だとは思えない。ただ木の門を叩いても庭があれば屋敷に住んでいるひとに聴こえるはずもない。インターホンがないので、そもそも誰かがここを訪ねることを予測していないのかもしれない。指示された通りに夜に来たのに、これからどうすればいいのだろう。俺が悩んでいたときだった。
「やあやあ。よく来たな少年」
やけに高く響く声が、門の上から聞こえてきた。
視線を上げる。
門の屋根の上に、甚平服を着た女が立っていた。
髪を後ろで束ね、短いポニーテールをした女だった。灰色の甚平を纏い、片手には扇子を持ち、凛とした表情で俺を見おろしていた。
少し年上だろうか。
化粧をまったくしていないが、顔はすこぶる整っている。俺はなぜか『見返り美人』が構図的に素晴らしい絵だという話を思い出した。たぶんそれと同じように、甚平女の立ち振る舞いそのものが、俺にとって美しいものだと感じたのだろう。否の打ちどころのない美女だと思ってしまった。
「どうした久栗クン、そんなに呆けて。アタシがあまりに綺麗で見惚れてるのか? 石を投げればアタシに惚れてる人間に当たる昨今、それも無理からぬことではあるが、キミだけはアタシに惚れてくれるなよ?」
甚平女が享楽的に嗤った。
その笑い声を聴いて、ようやくその女が南戸だということに気付いた。そうだ。最初に南戸の声を聴いたとき、なぜか甚平を着た女を想い浮かべたのだ。そのとき想像したそのままの姿だった。
南戸は煌々と照らす月灯りを全身に浴びて、春の宵闇の丸い銀月をまるで自分のものだと言わんばかりの表情で背負って、屋根の上に立っていた。
「しかし感心した。梔子クンの伝言を見て即日中にやってくるとは、いやはや、キミの行動力は梔子クンの観察眼では測れないらしい。梔子クンは、キミが今日は無視するものだと読んでいたようだぜ。キミは波風立たない生活を好む性格をしている、と言っていたからな。そのために図書委員の立場を利用している、とも」
「…………。」
バレていたのか。白々雪でも気付いてなかったのに。
「ちなみに梔子クンは、いま慌てて部屋の掃除をしているところだ。キミが監視カメラに映った瞬間、アタシを追い出して掃除機をガーガーいわせ始めた。ああ見えても梔子クンも女の子というわけだ。無口で無感情だが、男を家に招くときのデリカシーはあるみたいだな。それを知れただけでも今日は感服だ。……そんなに慌てるくらいなら早くに掃除していればいいのに、と思ったか? だがその感想は的外れだぜ。なぜなら梔子クンは今朝にも掃除しているからだ。アタシが盛大に散らかしたゆえに、また掃除するはめになっているだけだ。梔子クンを普段から掃除のできない女だと思ってやるなよ? この家を汚すのはアタシの役目だ。綺麗好きの梔子クンはなんでも卒なくこなす万能だぜ。梔子クンにはできないことがなく、アタシも世話になってるんだ。アタシの生活を支えているといっても過言ではないし、アタシは梔子クンがいなけりゃ栄養失調か不衛生でとっくに死んでる。よってたまには恩返しでも、と思って、わざわざ客人を迎えにきたわけだ。屋根の下から出るなんて二年ぶりだぜ。屋根の上に登ったのは、三日ぶりだが」
よくわからないことを吐き捨てた南戸だった。二年も家から出てないなんて、引きこもりにも程がある。
しかしよく喋る女だ。白々雪と良い勝負かもしれない。俺はまだひとことも発してないうちに、べらべらとまくしたてる。
「久栗クン、キミはいま『あ、こいつ引きこもりだな。キモっ』と思っただろ。だが、止むをえまいことだとアタシは弁明するぜ。アタシが外に出ると随分と厄介なことが連鎖的に起こってしまうからな。人はアタシをこう呼んでいた。〝歩く天災〟」
「…………。」
「『なに言ってるんだコイツ』か。そんな憐れむような目でみないでくれ興奮するじゃねえか。天災は大袈裟かもしれないが、アタシはその呼び名を気に入ってるんで否定しない。その根拠が知りたいか知りたいだろう教えてやるぜ。アタシが歩けば、アタシを見たやつの九十七パーセントがアタシに惚れてしまう。それも男女関係なく、だ。中学の刻に実験したから間違いない。あのときは渋谷のハチ公前で百七回連続の告白を受けたぜ? なんつーか、顔や頭脳だけじゃなくフェロモンも奇跡的なのかね。いずれにせよそのせいで、アタシに惚れたやつがいろいろとやらかしてしまうんでね、出歩かないようにしてる。でないとアタシに惚れたやつ同志がいずれは殺し合ったり徒党を組んだりして暴動起こしちまうからな。おいおい、笑いごとじゃねえぞ。惚れ薬が世界的に禁忌とされてる理由くらいは想像できるだろ。その体現だと思って良い。アタシは歩く禁忌でもあるんだぜ。かっこいいだろ?」
なにを莫迦なことを口走っているのか、と普通なら一笑に伏すところだが、俺も南戸のことを得体の知らない女だと感じていなければ、危なかったのかもしれない。さっきはふつうに見惚れていたし、なにより南戸の言葉が嘘ではないことが直感的にわかるのだ。
こいつは俺のモットーの〝平和〟を崩す、とても危険な女だ。
「……それで、俺を呼びだしたのは、おまえか?」
俺はようやく口を挟んだ。
南戸は屋根の上から、なぜかロープを投げてきた。綱引きで使うような太いしめ縄のような頑丈なロープだった。
「ああそうだぜ。キミに話があって、梔子クンに指示してアタシが呼びだした。だが本質を語るなら、キミに用があるのはアタシではなく梔子クンになるが」
と言ってロープを指さした南戸。これで屋根まで登ってこいということだろうか。
俺はいままで体を動かすのはなるべく避けてきた。屋根までロープで登るなんてことできそうにないので、ロープを無視して訊く。
「どういう意味だ? 俺に用があるのは梔子なのに、南戸が俺に話があるのか?」
「梔子クンがキミに用向きがあるとして、まずはその意思を誰がキミに伝える?」
なるほどそういうことか。
南戸は梔子の代弁者。
南戸は俺がロープを掴まないのをしばらく観察して。
「……モヤシッ子め。ほら、これも使っていいぜ」
屋根のどこから取り出したのか、大きな脚立をこっちに降ろしてくる。あくまで屋根に登らないと家の中には入れないらしい。門の意味がない。
俺は脚立を使い、屋根に登った。高所が苦手なわけではないが怖いのは嫌いだ。不安定な瓦の上に慎重に立って敷地のなかを眺める。
門から玄関までは長い石畳だった。灰色の石畳の左右には、蓮の浮いた池、獅子威し、飛び石や植木など、いかにも日本庭園らしい前庭が広がっていた。奥にある屋敷は外からは何部屋あるのか想像もできないほどデカい。
「アタシは先に降りるぜ」
南戸は、屋根にかけてあった梯子を使って降りていった。俺もすぐに梯子を降りる。そういえば道路に置いた脚立はどうするのだろうか。盗まれる心配はないと思うけどそのままにしてていいものか。まあどうせ俺が帰るときに使うし、いいか。
「梔子屋敷にようこそ。久栗クン」
南戸は両手を広げ、大きな屋敷に背を向けて、自慢するように言った。
俺は改めて梔子の家を眺めた。
「……梔子ってお嬢様だったのか」
「もっと詩的な感想はねえのか?」
俺が通されたのは、玄関からすぐの小さな和室だった。小さいといっても六畳ほどある。小さく感じたのは、あくまで屋敷全体にくらべた比率の問題だ。客間ではないだろうが、部屋になにも置いてないところを見るに、使用している部屋ではなさそうだ。そういえば梔子の家族構成はどうなっているんだろう。玄関から堂々と入ったのに、出迎えもなければ物音一つしない。屋敷の奥にいれば聴こえないかもしれないが、それにしても静かだ。
「なあ、南戸」
俺が気になって尋ねようとすると、南戸は先回りした。
「梔子クンの両親は不在だぜ。そして梔子クンに姉妹はいない。血縁者も、使用人もいない。つまりここを住処にしてるのは梔子クンと、アタシだけだ」
「……こんな東京ドームみたいな広さの家に、ふたりで寂しくないか?」
「物事の測位尺度に東京ドーム単位を使役するとは凡庸すぎて胸糞悪いぜ久栗クン。誰が言い始めたのか知らないが、最初に考えたやつの脳みそを茹でてやりたい」
なぜか憤慨する南戸。
「せめて甲子園なら許せるのに」
「阪神ファンだったのか」
「おいおいあんな喧しい連中と一緒にしてくれるな。アタシは、甲子園ファンだ」
とよくわからないこだわりを垣間見せた南戸だったが、それに俺がなにか言う前に、部屋の奥の襖がゆっくりと開いた。
梔子だった。ジャージ姿の梔子が、お盆にお茶を入れて運んできた。
いらっしゃいの一言も発せず、いつものように無言で無表情に、梔子は俺の前によく冷えた麦茶を置いた。南戸には、栄養ドリンクのような茶色い小瓶を渡していた。
「よう、お邪魔します」
玄関では言わなかった台詞をようやく言えて、俺は息をついた。
梔子は無言のままうなずいて、その場に正座した。背をぴんと伸ばしてすこしうつむき加減で、前髪の隙間から俺をじっと見る。なにか言いたいらしいが、俺にはよく理解できない。
「あ、そうだ梔子クン。茶菓子が台所の引き戸にあったよな。アタシ水羊羹が食いたいからとってきてくれないか。できれば栗が入ってるやつな。今日のゲストは久栗クンだし、栗を食べるとなにかと縁起が良さそうだ」
当たり前のようにリクエストする南戸だった。梔子は座ったばかりなのにすぐに立ち、音もなく歩いて部屋を出て行く。まるで給仕女中だ。どっちがこの家の主なのかわかったもんじゃない。
「なにか言いたそうだな久栗クン」
「……べつに」
顔に出てたらしい。平和を望む俺は、余計なことは言わない主義だ。黙っておく。南戸も追及したりはしてこなかった。
「よっこらせ」
南戸はごろんと寝転がった。肘をついて頬を乗せ、リラックスムード全開だ。
休日のオヤジのような居住まいに、さすがの俺も呆れた。
「……ダラケすぎだろ」
「美人はなにをしても美人」
またもや理解に難い返答とともに、南戸はあくびをひとつ盛大にした。
もうなにも言うまい。この南戸――そういえば南戸は偽名なはずだが――という女は、なにをするにも自分の気ままに行うらしい。体を弛緩させて寝転びながらも、俺に真剣な表情を向けてきた。
「梔子クンが戻ってくる前に、ひとつキミには知っておいてもらいたいことがある。これは、梔子クンが今日ここにキミを呼びだした用件に関連することであるし、これからキミがすべきことの理由にもなり得る、重大な事象だ」
もったいぶったような口調だった。俺は「いきなりなんだ?」と、あぐらに肘をついて不真面目な態度で返した。
南戸は目を細めた。
「……キミは、梔子クンのことをどれほど知っている?」
梔子のこと。
「……さあ。ほとんど知らない」
「では少しは知っているということかね。なにを知っている?」
「名前と性別と、無口ってことか。あと家の場所と、家族構成もさっき知った。それくらいだ」
「良い回答だ。なるほど」
そして南戸は面白がるように、
「キミは梔子クンのことをかなり知っているのだな」
……なんだって? 俺は耳を疑う。
しかし南戸は泰然としたまま、
「かくいうアタシもそれ以上の情報を持っているわけじゃねえ。せいぜい電話番号くらいだ。つまり、キミは同じ屋根の下で暮らしているアタシとほぼ同等の情報を保有してるということになる。そして驚くなかれ、梔子クンに関する重要な個人情報は、それですべてだ」
「……まさか。ほかにもっとあるだろ。人間性だとか性格だとか、好きな食べ物とか」
「信じるも信じないもキミ次第――と言いたいところだが、信じさせてやろう」
南戸は、ニヤリ、と笑った。
「梔子クンは、個性のほとんどを失った」
そう言って南戸は、懐から一枚の写真を取り出した。
そこには、中学生時代だと思われる、セーラー服姿の梔子が映っていた。どこかの花畑で撮ったのだろうか、背後に紫陽花のような青い花を咲かせて、カメラに向かって恥じらうような笑みを浮かべていた。前髪の隙間から覗く大きな瞳は、いまと違って感情が宿っている。ふつうに可愛い女の子だ。
南戸はその写真を俺に見せつけるようにしてから、また懐に仕舞う。
「梔子クンはある日すべてを失った。すべて――ってのは大仰だが、しかしあながち間違いでもない。キミは梔子クンが無口であることをどう思料している? 梔子クンは喋らない? 梔子クンは寡黙? そんなわけがないだろう。人類が唯一古代から後生大事に抱えている〝言語会話〟という情報伝達手段を、自ら望んで破棄するのやつがいると思うか? よく考えろ久栗クン。梔子クンは喋らないんじゃねえ。なにひとつ喋れねえんだよ」
「…………。」
ひょっとしたら、と。
それは可能性のひとつだった。
だが、しょせんは可能性でしか考えてなかった。それはないだろうなんて思い込んでいた。喋れない人間が自分のクラスにいるなんて本気で考えなかった。梔子はそういうやつだ、と決め込んでいた。だが。
――梔子は、喋れない。
やけに説得力のある南戸の声が、耳に響く。
「すこし内気だが聡明で、素直な可愛い少女が、ある日とつぜん前触れもなく、感情、言葉、記憶をいっぺんに失った。唯一残っていたのは自分の名前と、知能が高く怜悧な彼女らしい処世術だけだった。いまの梔子クンはいわば抜け殻だ。感情がないように見えるか? そりゃ当然だ。梔子クンの感情のほとんどは抜け落ちたからな。喋らないのは当然だ。言葉を発せないからな。機械人形のようなゼンマイと肉塊で、いまの梔子クンはできている。無口で、無感情で、そして無欲だ。感情や言葉で動かない。梔子クンを動かしているのは、体に染みついている〝習慣〟と、心に残ったかすかな感情と、あとは生物の本能でもある〝恐怖〟だけだ。梔子クンは、なにかを恐れないと自発的に行動しない。逆に言えば、なにかに恐れを抱けば行動する。いきなり部屋を掃除したことが良い例だ。梔子クンはキミに汚い部屋を見られることに恐怖した。よって掃除を始めた。それが梔子クンの行動原理。恐怖が彼女を動かしている」
「…………。」
俺はなにも言えない。
感情を失うなんて、よほどのことがなければ起こらない。
言葉を失うなんて、よほどのことがなければあり得ない。
しかし俺は、納得してしまった。
なぜ梔子は、去年の図書室で俺と白々雪をガラスから守り、このまえ澪を助けたのか。なぜ梔子はホラーハウスでアルバイトしていたのか。
……怖いから。
梔子は賢いのだ。自分が記憶も感情も言葉も失ったことを、理解しているのだろう。
だからこれ以上、失うことが怖いのだ。クラスメイトを失うことが怖い。図書室にいるクラスメイトを目の前で失うことが怖かったのだろう。転校生が傷つくのが怖かったのだろう。なにより、怖いという感情を見失うことが怖い。ホラーハウスには、人工的だが恐怖という感情が満ちている。だから梔子はあそこにいたんだ。恐怖を失うのが、忘れるのが、怖いから。
……なぜそんなことがわかるかって?
俺も同じだったからだ。
平和が好きだ。平穏が好きだ。
なぜ好きなのか。そう訊かれたら、俺はすぐこう答える。
……なにも失わないから。
だから中学の頃、白々雪が神に憑かれたと知ったとき、俺は怖かった。白々雪を失うのが怖かった。
ただのクラスメイトなのに?
そんなわけがない。
小学生のときに白々雪をからかったことを、覚えてない?
そんなわけがない。
俺は怖かったのだ。
むかし好きだった相手が、わけのわからない神なんてもののせいでクラスで孤立して、傷つくのが嫌だった。
だから俺は白々雪を助けた。神をこの手で消した。教室に白々雪の居場所をつくった。
ただ怖かっただけだ。そこには白々雪のためだとか、そんな高尚な気持ちはなかった。
「……でも、」
声が震えた。
悲しいわけではない。だが俺の喉は震えた。
梔子の現状は理解した。喋れない少女。感情も言葉もほとんど失った少女。それでもふつうに高校へ通い、無口なキャラを確立することにより、うまく溶け込んでいる。
だが。
「……なんで、梔子は、そうなったんだ?」
俺は我慢できなかった。
さっき見た写真では、恥じらいつつも笑っていた感情豊かな梔子のすがたが映っていたから。
すると南戸は、さらに目を細めた。
まるで俺がそれを訊いたことが罪だというように、睨むようにして。
「本質を見誤るな」
南戸は強かに具陳する。
「キミの役目は因果を知ることじゃねえ。なぜキミがここに呼ばれたのか、それをまずは理解しろ。なぜ梔子クンの事情を話したか理解しろ。いまの梔子クンがなにも持っていない少女だということを把握できた現状を理解しろ。……そのうえで問う。久栗クン、キミはこれを聴いて、梔子クンがなにを望むと考える?」
感情と言葉を失った梔子が、自分の立場を理解している梔子が、なにを望むか。
そんなこと、ひとつしか思い浮かばない。
「……失ったものを、取り戻すこと?」
「明察。だがいずれにおいても、失うより取り戻す方が難しい世の真理だ。この一年、アタシは持てるすべてのノウハウを駆使して、梔子クンに失ったものを取り戻させようと苦心した。医術、催眠術、占星術、降霊術、呪術、幻術、奇術、錬金術、魔術、妖術、方術、法術、気道術、食術、色術などのあらゆる技術巧術から権謀術数まで試した。……だがすべて無為だった。梔子クンの記憶も言葉も個性も、戻ることはなかった。アタシが梔子クンのためにできることは、こうして可能性を提示するのみになってしまったんだ。…………だが、キミにならできる。過去に神と精霊を退け、敬虔なる想いを二名の子女から受けているキミになら、いずれできる」
「いってる意味が――」
「与えてやればいい」
南戸は、ただ粛々と告げた。
「取り戻すのが不可能なら、与えれば良い。感情を、言葉を、記憶を……すべて与えてやればいい」
待て待て待て。
コンピュータじゃあるまいし、そんなことできるわけがない。感情や言葉なんてものを出し入れするなんて、洋服箪笥みたいにいうな。できるわけがない。
「できるぜ」
と、南戸の声は確信に満ちていた。
「できるとも。キミになら」
「そんなこと、」
できるわけがない。
そう続けようとした俺の言葉は、しかし、南戸に遮られた。
「できるはずだ。いや、できなければならない。なぜなら梔子クンの全てを奪ったのは、他ならぬキミだからな」
「――え?」
俺は、一瞬、頭のなかが白んだ。
……なにを言ってるんだ、と言葉を紡ごうとしたとき。
襖を開けて梔子が戻ってきた。お盆に水羊羹を三人前載せて、ややバランスを取りながらゆっくりと。
南戸はそれを見て、途端に顔を輝かせて代わり身になり、
「おお! リクエスト通りに栗入りとは。さすが羊羹を持たせたら日本一の羊羹美人だな梔子クンは!」
喜ぶ南戸に、梔子は羊羹の皿を差しだした。
三つある皿のひとつを、俺にも渡してくる。
俺はそれをすぐに受け取ることができなかった。
初めて梔子と会ったのは入学式だった。そのときにはすでに、梔子はなにも喋らなかったのに。
梔子の言葉を、記憶を、奪ったのが俺だなんて。
そんなこと信じられなかった。
「さて。論題に入ろうか」
栗羊羹を堪能した南戸は唇を舐めながら言う。
「梔子クンが今回キミを呼びだした誘因は至極単純だ。どうだね梔子クン、具体な要件もアタシが説明しようか? キミが直接頼んだほうが、幾らかキミにとって上利に事が進むはずだが?」
南戸が言うと、梔子は首を縦に振った。
それから、前髪の下の大きな双眸を光らせて、俺をじっと見つめる。
「…………。」
梔子は無言だった。いつも以上に唇を一紋字に結んでいた。
……俺は、待った。
ひたすら待った。梔子が直接なにか俺に伝えようというのなら、俺は待つだけだった。筆談ができるということは、梔子は文字の上でならコミュニケーションができるのだ。無口だが、まったくなにも伝えられないわけではない。だから梔子がなにか言おうとしているいまこのとき、俺はじっと待っていた。
だが、梔子は動かなかった。
「……知られるのが怖いのか? ならアタシが話すぞ」
ふるふる、と首を振る梔子。だが喋らない。
それから南戸が何度か同じ台詞を投げかけて、その都度、梔子は否定する。
それでもなにもしようとしない梔子に、俺はなるべく、丁寧に訊く。
「……もしかして、もう俺になにか伝えてるのか?」
梔子は迷わずうなずいた。
俺はハッとした。
ポケットからケータイを取り出す。マナーモードにしていたから、うんともすんともいわなかったケータイが、受信アリというサインを点滅させていた。
待ち受け画面――歌音の今年の書き初め『愚兄』という文字――のうえに表示があった。
受信メール、百十七件。
慌ててメールフォルダを開いた。知らないアドレスから、ずらっと同じ内容のメールが送られていた。内容はメールを開かなくてもわかる。たった一行なので、サムネイル表示でも中身が見てとれたのだ。そのメールがほぼ毎秒ごとに着信していたらしい。梔子はまったく動かなかったのにどうやってメールを送れたのかは謎だが、それは気にしても仕方ない。俺はその内容を、声に出して呼んだ。
「…………『久栗くん』」
すぐに新しいメールを受信する。俺はすぐさま開く。
『久栗君、助けて』
また新しいメールが来る。
『久栗君』
また新しいメールが来る。
『お願い』
また新しいメールが来る。
『助けて』
「…………梔子」
それは紛れもなく、怯えた梔子の言葉だった。
梔子が助けを求めている。
言葉を失い、恐怖以外の感情を失ったらしい梔子が。
なんの力もない、ただ平穏が好きなだけの俺に助けを求めている。
事情なんてすこしも理解していない、俺に。
……なにができるとも思わない。なにをすればいいのかも。
でも。
俺は梔子に助けられた。図書室でも、精霊からも。
だからこそ俺は訊く。
「……どうすればいい?」
新しいメールを受信した。
『神の呪いから、私を助けて』
神の呪い。
祟り。
その文面にあったそんな言葉は、俺にとって聴き慣れたものだった。中学のとき嫌というほど調べつくした、文字だった。
メールを受信する。
『迷惑なら良い。邪魔なら良い』
『私はただのクラスメイト。久栗君には、久栗君の日常がある』
『白々雪さんは利発な子。澪さんは可愛い子。久栗君にとって、ふたりは守るべき対象』
『だけど私は違う。私は、久栗君にとってただのクラスメイト』
『関係性も薄い。私は久栗君にとって、ただの風景と同じ』
『……』
『…………』
『……………………でも、』
『私にとっては違う』
『久栗君は、いまの私が初めて見たひと』
『私の記憶にある最初の風景』
『それが久栗君の、ぎこちない笑顔だった』
『前の私の記憶を奪ったのは、久栗君みたいだけど』
『いまの私の記憶に、最初に色をつけてくれたのも久栗君だった』
『久栗君は覚えてないかもしれない』
『あのとき。入学式のとき。久栗君は』
『まわりのみんなが喋るなかで』
『なにも言えなかった、記憶を失ったばかりの、なにもわからない私を』
『ただ優しく見つめて、待っていてくれた』
『視線を逸らすことなく』
『ただ私を見て』
『出るはずもない私の言葉を』
『待っていてくれた』
『…………怖くなかった』
『あのあと先生に呼ばれて、流されるまま、壇上に登って』
『なにもいえずに、ただ立っているしかなかった私は』
『なにもかもが怖かった』
『誰もが立ち尽くす私を見て、はやく話せと睨むなか』
『久栗君だけは、私を心配するように』
『同じように怖がってくれた』
『もし、それが私の勘違いでも』
『それだけで私は怖くなくなった』
『……私は、恐怖を感じることができる』
『嬉しいとか、悲しいとか、そういうものはほんのすこししか感じないけど』
『怖いのはよくわかる』
『いまも怖い。ずっと怖い。みんなが怖い。なんでも怖い。……だけど』
『久栗君を想い出すと、怖くなくなる』
『平穏が好きで、いつも隣には白々雪さんがいて』
『最近は、澪さんにつきまとわれていて』
『ちょっと面倒な顔をして』
『でも楽しそうに、いつも図書館にいてくれる』
『そんな久栗君を見ていると』
『私は、怖くない』
『だから、私は久栗君に、頼ってしまう』
『安心したいんだと、思う』
『よくわからないけど』
『私は久栗君がいると、ほっとしているんだと思う』
『よくわからないけど、たぶん』
『私は――』
俺は梔子を見た。
梔子も俺を見ていた。
そのまっすぐな、感情のこもっていない目で、じっと俺を見ていた。
『――私は、久栗君と、しゃべりたい』




