表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
頼むからあの娘のべしゃりを止めてくれ!  作者: 裏山おもて
1巻 くちなしさんの、コトバナシ 〈下〉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/86

11話 おぼえてない


 うちの高校は、男子と女子の下駄箱が別れている。富士吉高校の歴史をいくら紐解いてもその男女別の理由は謎のままらしい。なにかのアニメの影響で『男女七歳にして同衾どうきんせず』なんていう誤植がそこらじゅうに出回っているが、うちの学校では枕を並べることは当然ながら靴を並べることも禁止しているらしい。

 朝の陽気は優しすぎて、俺はあくびを我慢できずに正面玄関に入った。まだ眠い。うとうとしながら自分の下駄箱を開けると、すぐに中の異変に気付いた。俺の上履きの上に一枚の紙が置かれていた。

 手紙ではない。ただの紙だ。走り書きのような、薄い文字が書かれた手のひらサイズのメモ用紙だった。


「……?」


 靴を履き替えながら、その紙をしげしげと眺める。薄緑のような線が入った紙には、細いボールペンで文字が書かれていた。それを見て俺は首をひねった。


『今日の夜、家に来て』


 それだけだった。タイトルも署名もない。

 なんだこれ。


 誰の悪戯か知らないが……ふむ。ご苦労なことだ。

 俺は紙を握りつぶして、ポケットに仕舞いこんだ。もうすぐ朝のチャイムが鳴る。教室に急がねば。



 目は口ほどに物を言う、ということわざがあるのは高校生なら誰でも知っている。たしかに、視線は語るよりも多くのことを教えてくれるときが多々ある。五感の中で最も多くの情報を取り込む視覚は、その受け皿と同時に発信源としても効力を発揮している。

 いまもそんな感じだ。

 白々雪が頬杖をついて、正面の俺を半眼で睨んでいた。

 そこから感じ取れる意図としてはいくつか候補を考えた。「どういうことッスか?」「なにしてんスか?」または「うざいうざいうざいうざい」のどれかに該当するだろう。

 目は口ほどに物を言う。


 しかし実際に物を言うのは、紛れもなく口だ。


 白々雪の視線がそう語るのなら、口はそれ以上に物を語る。そんなことは人間に生まれた手前、当たり前のことだが、ときどき成語や諺を聴きすぎて忘れがちになる。俺にとっては、勉学知識よりも、白々雪が普段から多用する熟語や慣用句の意味を覚えるほうが大変だった。じゃないと白々雪とは会話にならないからだ。

 とにかく、一番物を言うのは口だ。


「……聴いてるッスか?」


 白々雪は文句を垂れる。目の百倍は物を言う口を絶え間なく動かして、


「べつに高校生らしい健全な付き合いをしろとは言わないッスよ。そもそも『高校生らしく』と枕詞まくらことばえるなら、健全なんて字句を含むのは酷い矛盾ッスからね。健全な高校生なんてものはただの不健全ッスから、そもそも成立しなくなります。ウチが言いたいのはそうじゃない。ツムギがなにをしようがどうなろうが、ウチの知ったこっちゃないッス。所詮ウチとツムギは同じクラスで仲が良いだけの、他人ッスからね。ツムギの意思に口を挟むほどウチは図々しくなろうとは考えません。……でもッスよ。でも、さすがに目の前でそんなことをされたらウチも言わせてもらうッス。口を挟むわけじゃないッスけど、口を出すッス。『高校生らしく』なんてーのは丸めて捨てるべき修辞しゅうじッスけど、『常識人らしく』ってーのはさすがに順守していただきたいッスからね。だから言わせて下さいツムギ。聴いてくださいまぬけづらのツムギ」


 白々雪はそんなふうに厭味ったらしく前置きをしてから、言った。


「……ウチの前で、飯を食いながら、いちゃつかないで欲しいッス」

「いちゃついてねえよ」

「なにをすっとぼけたことを!」


 と。白々雪は机を叩いて、立ち上がった。

 図書準備室だった。

 細長い部屋に長机とパイプ椅子があり、部屋の奥にはパソコンと本棚があるだけの小部屋だ。その静かな部屋で、俺と白々雪は椅子に腰かけて弁当を食べていた。誰もいない図書準備室でゆったりと飯を食べられるのは図書委員の特権だ。

 そして俺の隣には、いつもの笑みをたたえている澪もいた。

 白々雪は心頭イラついているような声を挙げ、俺の隣にいる澪を睨んで。


「なにが『あーん』ッスか? なにが『おいしい? 嬉しいっ♪』ッスか? 頭沸いてるんじゃないッスか? あんたらべつに付き合ってるわけじゃないんスよね? なのになんスかそのいちゃつきっぷりは! この一週間ずっと言いたかったんですよ。もしかしたらなにか事情があるかもと考慮して、なにも言わないで置いたんスよ。でも、もう好奇心も羞恥心も猜疑心も限界ッス! 目に余るにもほどがあるッス! 澪さん、あんたなんで毎日この阿呆のツムギに弁当つくってきて『あーん』してるんッスか? 見ててこっちが恥ずかしいッスよ! 一緒に弁当食ってるウチの気持ちにもなってくださいッスよ! それに、ツムギもツムギです! なに慣れた風体で『あーん』してもらってるんスか? なんか見てて腹立つんッスけど。いちゃついてるんじゃない? ならなんなんスか。否定されるのも滅茶苦茶ムカつくんッスけど!」


 いつも言葉数は多いが、今日はまた一段とマシンガンのようにまくしたてる白々雪だった。

 まあ、白々雪の言いたいことはわかる。俺も、もし自分の目の前で同じ委員の男女ふたりが『あーん』している状況を見ていると考えると、胸糞悪い。それがとくに三人だけで過ごしている図書準備室でなら、言うまでもないことだろう。

 しかし、だ。こちらにも事情がある。


「俺は、俺の平和のためにやってるだけだ」

「……ツムギの考えてることは、いっつも謎すぎるッス……」


 頭を抱える白々雪。

 そりゃそうだろう。俺も、ストーカーされるのが怖くて澪に従順になってるだけ、なんて口が裂けても言えないし、そんな臆病なやつが自分だなんて信じたくもない。

 ……そう。澪=ウィトゲンシュタインが趣味(?)とするストーカーのターゲットの筆頭に、俺がいる。

 俺が出したゴミはすべて澪が回収している。昼休みに限らず、俺が一日に出したゴミはどこに捨ててもいつのまにか消えているのだ。ゴミだけでなく、ときどきノートやプリントも消える。体操着すら最初の授業のあと消えた。さっそく予備を使っているけど犯人はまず間違いなく澪=ウィトゲンシュタインだ。

 南戸の警告は、警戒する暇もなく現実になったのだ。俺はそれが悪化しないよう、ただ澪のやりたいように身を任せている。こういう類のやつは、下手に刺激するとどうなるかわかったもんじゃない。まだストーキングするのが学校にいるときだけ(しかも白々雪以外には内密にしている様子)なので、これくらいなら我慢できる。


 そんなこととは露知らず、白々雪はめくじらを立てる。目にクジラがいるわけでもないのに目くじらとは、すこし疑問だな。白々雪に訊けば二秒で答えが返ってくるだろうが、いま訊くような勇気はない。


「あんたら、どういう気持ちで『あーん』してるんスか。たとえ百万年と二千年愛してても、他人の目の前でそんなことできる心境になるなんて狂気の沙汰ッスよ。神経イカレてるんじゃないッスか。ツムギのキャラ的にも、澪さんのキャラ的にも不合理ッスよ。理に適わないことにも理由があるッスよね? ウチはもう好奇心を抑える自信がないッス。 事情くらい、訊かせてもらうッスよ!」


 ずいっと、顔を近づけてくる白々雪。

 どこか怒っているようで、でも気になって仕方がないような、複雑な表情をしていた。

 答えたのは澪だった。貼りついた笑顔をニコニコとさせて、


「わたしはツムギくんに喜んでほしいだけだよ。助けてくれたお礼をしてるだけ。ていうか白々雪さんには関係ないでしょ」


 笑顔とは裏腹な、冷たい台詞だった。トゲがある言い回し。


「白々雪さんこそ、どうしてそんなこと言うの? わたしとツムギくんが迷惑かけたわけじゃないでしょ? 放っておいてよ。もしかして仲間外れにされて寂しいの? そんなに寂しいのなら、わたしが『あーん』してもいいよ。一回千円で」

「なんスかその言い草は! ウチは転校生の澪さんのことを任された責もあるし、同じ図書委員として言ってるだけなんスよ。それをいきなり秘技フライパン返しみたいな態度で跳ねのけるとは、たまったもんじゃないッスよ。事情くらい教えてくれてもいいんじゃないッスかこのアバズレ」


 さすがの白々雪も憤慨していた。

 それを狙っているのかわからないが、澪はぼそっとつぶやいた。


「……蚊帳かやの外の小蠅こばえは黙っててよね……」

「小蠅!? いま小蠅って言ったッスか? 蠅とはまたそうとう辛辣な悪言ッスね! ウチいまのはキレてもおかしくなかったッス! もう怒りましたよ。いままで温厚で柔和な理性を自負してきましたけど、いまこのときだけ限定解除させてもらうッス。害心隆々にいかせてもらうッス。パラダイムの戸外へと這いずりださせて頂くッスよ……帰り道はうしろに気をつけることッスね、この(はす)()(おんな)め!」

「ねえツムギくん、このひとなに言ってるの? ニホンゴ、ムヅカシイヨ~」

「なっ……。重畳とか僭越とか流転とか矜持とか、普段は中二病まがいの日本語を駆使しておいてとぼけるつもりッスか……あんたの笑顔の下には天邪鬼の面が見えるッスよ澪=ウィトゲンシュタイン! 裏がある女なんて嫌われてしまえ!」

「きゃー、このひとこわいよぉ」


 と。澪はわざとらしく俺に抱きついてくる。その笑顔は本当に楽しそうで、なにも我慢することなく、やりたいように白々雪をからかっているのが見てわかる。いままで黒いストーカーに殺されると思い込んでいた少女がようやく自由を手に入れたんだ。そりゃあ無邪気に遊ぶ気にもなるだろうが。

 しかし、火に油とはこのことだ。

 相当腹に据えかねている様子の白々雪は、


「ぐあああああ! もう許さん! 泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣かす泣うううううううううう!」


 怒り狂ったように叫び、白々雪が涙目になっていた。


「いいかげん、仲良くしろよな」


 ため息をつきつつ、俺は仲裁に入った。


「それにそろそろ昼休みも終わるんだけど……はやく食って戻ろうぜ」

「うん。そうだね。残りは自分で食べてね」


 澪は素直にうなずいて、自分の箸を進めていた。

 白々雪は珍しく興奮しているようで、箸を折らんばかりに力を込めていた。なぜか、今度は俺を睨んでいた。




「まったく。澪ちゃんは不躾にもほどがあるッスよ」


 五時限目は芸術選択の授業だった。俺と白々雪は音楽を履行することになった。

 音楽室の隅の席で、仏頂面になっているのは白々雪だった。昼休みのことが尾を引いているらしく、教科書も広げずに俺の隣で唇を尖らせていた。

 ヴァイオリン曲のバッハ『トッカータとフーガ』が大音量で曲が流れているので、俺たちの声は周りには聞こえない。


「そんなに怒ることでもないだろ。澪も悪いことしてるわけじゃないんだから」

「目に毒。毒は害。害は悪いことッスよ。それに、ツムギにも半分責任があるんスよ。なんであんなワガママ娘をのさばらせてるんスか……教室ではツムギのことなんて無視なのに、図書室になると途端に態度が変わるッスよね。二重人格かっつーの」

「まあ、そこは恥じらいってものがあるんじゃないか。花も乙女には勝てないんだろ」

「うっさいうっさい。ツムギは状況を楽しんでるとしか見えないッスよ。いきなりモテ期が来たのを調子こいて喜ぶ童貞野郎ッスね。けしからん」

「すっげえ言葉にトゲがあるぞ。おまえそんなこと言うやつだったっけ。もっと飄々としてたはずだろ」

「ムカつくときはムカつくんスよ。ウチも思春期なんで。いらいらいらいら」

「……それにモテ期とか、そんなんじゃないって」

「じゃあなんなんスか? あれでも澪ちゃんがツムギに惚れてるわけじゃない、って言うんスか? そう思うならツムギの脳は腐ってます。発酵してます。それこそ脳が味噌ッスよ。ふんっ」


 たしかに白々雪のいうとおり、他人からはそう見えるだろう。

 しかし、惚れるとは違う。いうなれば『興味・調査の対象』なのだ。好いたとか惚れたとか、そこまでの感情があるわけじゃない。俺なんかに惚れる要素などないし、万が一にもそうだったとしたら、ストーキングを本格的に始めてしまうだろう。現状はそれを否定できる。澪はただ羽根を伸ばすように、白々雪をからかって楽しんでいるのだ。

 ……なんて、正直には言えないけど。


「道理、ツムギが判然としないのはツムギの個性ッスけど、すこしは自分語りをしてくれてもいいのに。ウチなんてツムギに隠してることなど一片もないッスよ。隅々まで開陳してるッスよ。このあけっぴろげな美少女を目の前にして黙し事するなんて、罪悪感はないッスか?」

「自分で美少女言うな。てかおまえが喋りすぎなんだよ。ふつうそんなに語らねえよ。……それに白々雪だって自分の意見とかあんまり持ってないだろ? 基本的には俯瞰してるんだから」

「『俯瞰する』ことがウチの恣意なんスよ。まあ、いまはできてないッスけど!」

「だから、それだとおまえの意思は結局消えるだろ? 客観視するってことなんだから。傍観者は舞台の下にいるんだ。おまえは傍観者として物事を見るのが好きなんだろ。ならおまえの立場は舞台の上じゃない。つまりおまえの俯瞰は、おまえの感情とは切り離されてるってことじゃないのか?」

 なら結局、白々雪も自分のことなんてほとんど語ってないことにも等しい。

 そう思って言ったが、白々雪はかぶりを振った。

「理詰めが足りないッスよツムギ。まぎれもなく、俯瞰することでウチは自分の感情を表現してるッス。だって『俯瞰する』は自分の意思だから――とかそんな小学生みたいな論理じゃないッスよ? そもそも俯瞰――客観視とはなにか、から始まるッス。認識のベクトルの問題ッスね。……ツムギは記号論って知ってるッスか?」

「記号……名前をつけることで物を区別するって考えのやつか?」


 たしか、そんなことを南戸が言っていたっけ。


「それもそうッス。ツムギのくせにちょっと学があるじゃないッスか。まあ微細に語ると要所が違ってきますが、その思想も記号論のひとつッス。なら『あらゆる記号論が存在するための前提』も知ってますか? この場合は記号論だけでなく、哲学構造そのものが成り立つための前提ッスけど」

「……知らん。でも、前提か……記号が存在するとか?」

「いきなり阿呆な回答をありがとうございます。さすが期待を裏切らない月並少年、ツムギッスね」

「うるせえよ。んなもん知るか」

「記号が存在しないなんてことは天地転覆ありえないッス。ただまあ『存在する』って方向性はあってますけど……もっと根源的な問題ッス」

「じゃあ、人間が存在する、とか」


 てきとうに言うと、白々雪は破顔した。


「おお、冴えてるじゃないッスか。惜しいッスよ。正答は『主観が存在する』ッス。自然科学、数学、情報学……そんな理系な学問とは違って、記号論は文系ッスからね。その前提がどうしても必要になるッスよ。理屈、主観がなければ認識が生まれないッスからね。法則が生まれないんスよ。記号論の前提は『認識するという行為のベクトルが存在すること』にあるッス。べつに人間や生物じゃなくても構わないッス。機械でも認識装置さえあれば問題ないッスよ。ただ、その存在がないと、記号差異が生まれないッスから」


 いつものように、饒舌に語りだした白々雪。得意分野といわんばかりに目を輝かせ始めたのを見て、俺は慌てて止める。すでに理解できない話になっているのだ。これ以上は語らせても意味がないし本末転倒だ。


「で、その記号論がおまえの客観視とどう関係あるんだ?」

「もうギブアップッスか。まあ良いッスけどね、むしろ変わらぬ根性無しで安心します。……つまり簡略して言うとッスね、認識行為のために必要な『記号』『主観』『対象』は、そのすべてにおいて主観的な判断でしかそもそも知覚できていないってことッス。客観視ってーのは、構造的に、認識を放棄するのではなく鳥瞰的な認識にベクトルを曲げているだけで、結局は遠ざけられた主観なんスよ。真実の意味での客観なんてものは存在しないッス。だから、いくらウチが『俯瞰する』と言っても、そこで得た情報をウチの脳内に組み入れて記号化した時点で、ウチの主観認識へと変化してしまうッス。記号論の前提が、つまりこれと同じなんスよ。主観があってこその記号ッスね。つまり物事を俯瞰してそれに対して非感情的な言葉を述べていても、それがウチの明確な意思表示になってしまうッス。たとえば推理小説の叙述トリックが生まれたのも、この前提が共通観念になっているおかげでもあるッスよ。結論、ウチがいくら観照しても、それを喋れば喋るほど自分を論じてる状態だってことになるッス」

「…………ほほう。なるほど」


 俺はうなずいた。


「ウチの言ったこと理解しました?」

「ああ。俺にはさっぱりだってことがよくわかった。お手上げだ」

「いさぎ良いッスね。そういうところが好きッスよ。ソクラテスも褒めてくれるんじゃないッスかね~」

「すまん白々雪。ソクラテスって誰だっけ?」

「……無知にも限度があるッスよ……やっぱ見損なったッス」


 がっかりしたように苦笑した白々雪。

 だいたい、テストのときでも覚えてないのに、そんな教科書用のやつらの名前なんて覚えてるわけがない。学んだことを全て覚えてしまう白々雪とはそれこそ前提が異なる考え方だ。


「兎にも角にも」と、白々雪が脱線した話をレールに戻す。「ウチはツムギが思ってるような無感情じゃないッスよ。非感情的なだけで、無感情ではないッス」

「……その違いもよくわからんのだが」

「無感情はウチじゃなくて、梔子さんのことッスよ」


 と。白々雪は視線を横に移動させた。

 白々雪の斜め前では、小柄な梔子がじっと『トッカータとフーガ』に耳を傾けて座っている。俺は梔子の背中を見つめて同意した。


「そう言われれば、なんとなくわかる。あいつはなに考えてるのかもわからんしな。そもそも喋らねえし」

「そうそう。そのくせ音楽の授業とるなんて暴虎ぼうこゆうッスね。歌のテストのときどうするつもりッスかね?」

「先生だけに聴こえる歌でも歌うんじゃないか? これはあと数年で結婚できるひとにしか聞こえません、とか言って脅したり」

「裸の王様ッスか。なかなかいいアイデアですよツムギ。ウチもそうやって乗り切ろう」

「おまえもおまえだろ。破滅的な音痴のくせになんで音楽選択したんだよ」


 呆れて言うと、白々雪は視線を逸らした。


「……いいじゃないッスか。瑣末さまつなことッス」

「おまえ、俺には秘密にすることなんてないんじゃなかったか?」

「それはさっきまでのウチです。今からはミステリアスっ娘ッス!」

「ミステリアスなら静かにしていてくれ」

「射手座!」

「それはサジタリアス」

「キィィ! 死んでやるっ!」

「ヒステリアスっ!?」


 まあそんな言葉はない。


 『トッカータとフーガ』が終わると、音楽教師がつぎの曲を流した。今日は音楽鑑賞と感想文だけの授業だ。どうせ真面目に聴いてもたいした感想なんて抱かない。半分ほどにして聴いておく。またヴァイオリンの音が響くが、こんどは聞いたことがない曲だった。教師の趣味だろうか。あまり耳に残る旋律ではなかった。つまらない。

 そんなことを考えつつ、俺はポケットに手を突っ込む。

 くしゃっと音がした。

 なんだ? と手の中の感触を握って取り出す。

 朝、下駄箱で手に入れた紙だった。


『今日の夜、家に来て』と短く書かれた謎の紙。まだ捨ててなかったっけ。


 俺がそれを丸めようとしたとき、


「あれ? その紙どうしたんスか?」


 白々雪が気付いて、訊いてきた。


「いや……ちょっと」


 俺は文面が見えないように手で隠した。白々雪にはなにも書いてないただの紙に見えたのだろう。首をかしげた。


「なんでそんなもん、ツムギが持ってるッスか?」

「……そんなもん(、、、、、)?」


 この紙がなにか知っているような口調に、俺は訊き返す。薄緑の線が入っただけのとくに特徴のない紙だ。俺がいぶかしむには当然だったが。

 白々雪はあっさりと言った。


「覚えてないッスか? それ、まえに図書室で梔子さんが筆談するときに使った手帳の紙と同じデザインッスよ」


 覚えてるわけがない。

 一年ほど前の一瞬の出来事なのに、よくもまあ覚えていられるものだ。何回思い知らされても驚嘆に値する白々雪の記憶能力だが。

 それよりも、俺は眉をひそめた。


「……梔子の?」

「ええ。その梨色の紙は間違いないッスよ。紙質も同じッスし、なによりサイズがぴったりじゃないッスか。それどうしたんスか? 拾ったんスか?」


 興味津々に訊いてくる白々雪。好奇心が発動したらしい。だが、俺はその質問には答えず、紙をポケットに仕舞いこんで、梔子の後ろ姿を眺めた。白々雪の記憶はなによりも信頼できる。勘違いではないだろう。

 ……これ、梔子のメッセージだったのか。

 梔子が名前も書かずにこれを俺の下駄箱に忍ばせた。そういうことになる。


『今日の夜、家に来て』


 ……ただの悪戯かと思ったが。

 あの梔子のすることならば、なにか深い意図があるに違いない。

 俺はポケットのなかの紙をそっと握りしめた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ