第7話 行ってきます
日曜日、朝。
目を覚ました瞬間、 ふわりと鼻をくすぐる香りがあった。
綾愛「……ん」
ぼやけた視界。
まだ半分眠ったままの頭で、 私はゆっくり身体を起こす。
窓の外から差し込む朝日。 薄いカーテン越しの柔らかな光。 昨夜泣き疲れて眠ったせいか、 身体は少し重かった。
……けれど。
胸の奥に張り付いていた鉛みたいなものは、
ほんの少しだけ軽くなっている気がした。
綾愛「……いい匂い」
部屋の外から漂ってくるのは、 焼けた醤油の匂いと、 出汁の優しい香り。
うちでこんな匂いがすることなんて、 滅多にない。
不思議に思いながら部屋を出る。
すると。
リア「……あ、おはようございます」
台所には、 エプロン姿のリアがいた。
綾愛「……は?」
寝ぼけた頭が一瞬止まる。
フライパンを片手に、 鼻歌混じりで調理をしているリア。
朝日に照らされた茶髪が、 やけに煌めいて見えた。
リア「おはようございます、綾愛。 朝ご飯もう少しで出来ますよ」
綾愛「……おはよ」
間抜けた返事しか出なかった。
というか。
綾愛「なにしてんの……?」
リア「料理です」
綾愛「それは見れば分かる」
リア「えへへ」
なんで嬉しそうなんだこいつかわいいな。
私はまだ半分寝ぼけた頭のまま、 ふらふらと台所へ近づく。
コンロの上には味噌汁。
小皿には卵焼き。
焼き魚まである。
綾愛「……いや待って」
そこである可能性に気付く。
綾愛「リア…
まさかリアの分の費用金で食材買った?」
リア「?」
綾愛「いやだって、 こんなのうちにあると思えな……」
リア「あぁ、 大丈夫ですよ」
リアは慣れた手つきで味噌汁をよそいながら言う。
リア「冷蔵庫の残り物と、 棚の乾物とか色々組み合わせただけです。 ですから安心してください。
綾愛が心配しているような事は何もないですよ」
綾愛「……ほんとに?」
リア「当然です。綾愛、そういうの嫌がるタイプだと思ったので」
綾愛「……」
図星だった。
誰かに借りを作るのが…
そしてそのなかでも特に自分のためにお金を使われるのが苦手だ。
申し訳なさが勝つ。
そんな私の性格を、 リアは短い付き合いの中で既に理解していたらしい。
綾愛「……気遣いできるじゃん」
リア「なんですかその上から」
綾愛「いやだって普段が普段だし……」
リア「失礼ですねぇ」
綾愛「うそ。ありがと」
むぅ、 と頬を膨らませながらも、 リアはどこか楽しそうだった。
そのまま手際よく盛り付けを続けていく。
包丁捌きも綺麗だ。
無駄がない。
綾愛「……なんでそんな料理できるの?」
リア「料理動画見ながらやったんで。
天野さんから支給されたスマホっての便利ですね!
人界も侮れません!」
綾愛「……はい?」
リア「あれ?スマホで合ってましたよね?」
綾愛「いやいやいやそうじゃなくて」
私は思わずリアを見る。
リアはきょとんとしていた。
リア「何か変なとこありました?」
綾愛「え、だって少なくとも人界で料理なんてしたことなんてないよね?異界でもしてなさそうだけど」
リア「そうですね、恥ずかしながら」
綾愛「じゃあなんでできるの!?
私もそこそこ料理出来る方だけど明らかに初心者の出来じゃないよ!?」
リア「私一度見たものなら大抵再現できるんですよ」
綾愛「やば、もはやそれが能力じゃない?」
リア「能力じゃないです。ただ私が天才なだけです」
どや顔だった。
綾愛「うわ腹立つ……」
リア「でも美味しそうでしょう?」
綾愛「……それはまあ」
実際、 めちゃくちゃ美味そうだった。
その瞬間。
リア「ふふん」
勝ち誇った顔をする。
綾愛「なんで誇らしげなんだよ」
リア「褒められたので」
綾愛「子供か」
でも。
そのやり取りがとても心地よい。
綾愛「……ありがと」
ぽつりと零れた言葉。
リアは少し目を丸くして、 それから柔らかく笑った。
リア「どういたしまして」
そのタイミングで。
上妹「あれ…… なんかめっちゃいい匂いする」
上の妹が眠そうに目を擦りながら現れる。
続いて下の妹も起きてきた。
下妹「……ねむ」
綾愛「おはよ」
下妹「ん……」
まだ半分寝てるな。
リア「ちょうど皆揃いましたね。
さっ!朝食にしましょう!」
机へ並べられていく料理。
朝日。
湯気。
温かい匂い。
その光景は、 私の知っている“朝”とは少し違って見えた。
四人で卓を囲む。
いただきます、 の声が重なる。
そして。
上妹「……うまっ!?」
下妹「え、なにこれ」
綾愛「……美味」
想像以上だった。
味噌汁は出汁がちゃんと効いているし、 卵焼きもふわふわ。
焼き魚も塩加減が絶妙だ。
上妹「お姉ちゃんこんな料理できたっけ?」
リア「私が作ったんですよ」
どやぁ、 とでも言いたげな顔。
上妹「えー!すご! 絶対いいお嫁さんになるじゃん!ね!お姉ちゃん!」
綾愛「なんでそこで私に振るんだよ!?」
リア「毎日味噌汁は飽きちゃいますか?綾愛?」
綾愛「なんでお前も乗ってくるんだよ!?」
妹達が爆笑する。
リアも楽しそうに笑っていた。
その空気に、 私は少しだけ戸惑う。
こんなに会話の多い食卓なんて、 初めてだった。
うちは昔から静かだった。
父がいた頃は、 機嫌を損ねないよう空気を張り詰めていた。
父がいなくなってからは、 ただ皆疲れていた。
誰かが積極的に話すことも少なく、 テレビの音だけが流れる食卓が普通だった。
だから。
こうして笑いながらご飯を食べている今が、
妙に不思議だった。
胸の奥が、 少しだけ温かい。
食後。
リアが皿を持とうとしたので、 私は慌てて止める。
綾愛「いや流石にそれは私やるから」
リア「でも」
綾愛「朝ご飯作ってもらった時点で十分過ぎる。
ありがと」
リア「むぅ……」
不満そうにしながらも、 リアは素直に引き下がった。
その代わり、 余った料理を小分けにしてラップへ包み始める。
下妹「なにしてるの?」
リア「お母さん用です」
綾愛「……」
リア「昼頃帰ってくるんですよね?」
綾愛「……うん」
リア「なら食べられるようにしとかないと」
当たり前みたいに言う。
妹達も、 そんなリアの後ろをついて回っていた。
上妹「リア姉それなにー?」
リア「これはですね、 保存効率を高める人間が生み出した叡智の代物です」
綾愛「ラップを大層に言うな」
下妹「リア姉おもしろ」
綾愛「もうリア姉呼びなんだ」
なんか私より仲良くないか?
そんなことを思いながら、 皿を洗う。
でも、 不思議と嫌じゃなかった。
時刻は十時半。
片付けも終わり、 部屋には静かな空気が流れていた。
……やるべきことは終わった。
綾愛「……じゃ、 私またしばらく家出るから」
上妹「……え?」
空気が少し変わる。
上妹「それって…… 大丈夫なんだよね?」
綾愛「……」
上妹「危ないこととか、 してないよね?」
やっぱり鋭い。
昔からそうだった。
勉強も、 空気を読むのも、
何をするにしても全部私より上手かった上の妹。
綾愛「大丈夫だよ」
私はなるべく普段通りに笑う。
綾愛「またすぐ顔見せに来るから」
上妹「……うん」
少し沈黙して。
上妹「お姉ちゃん、 不器用だけど嘘はつかないもんね」
綾愛「一言余計」
少し笑いが起きる。いや、わざとかも。
そのまま私は、 玄関へ向かった。
靴を履く。
リアも隣へ並ぶ。
その時だった。
上妹「……お母さんに、 一言入れなくていいの?」
静かな声。
でも、 覚悟を決めたような響きがあった。
私は少しだけ止まる。
綾愛「……あの人は、 私がいなくても多分気にしないから」
自然と出た言葉だった。
綾愛「……一応、 伝えといて」
想像以上に冷たく…影のある声だった。
リアが心配そうにこちらを見る。
私は小さく笑って、 大丈夫と目で伝える。
……ちゃんと笑えているかは、 分からなかったけど。
そして。
ドアノブへ手を掛けた瞬間。
「お姉ちゃん!」
張り詰めた声が、 背中へ突き刺さった。
反射的に振り返る。
そこにいたのは。
大粒の涙を流しながら、 私の服の裾を掴んでいる下の妹だった。
下妹「っ……いなくなって、 さみしかった……!」
綾愛「……」
下妹「ちゃんと…… 帰ってきてね……っ」
しゃくりあげながら、 それでも必死に言葉を紡ぐ。
その姿を見た瞬間。
胸の奥で、 何かがほどけた。
嫌われてると思ってた。
邪魔なんだと思ってた。
でも違った。
私は。
ちゃんと、 ここにいてよかったんだ。
綾愛「……っ」
視界が滲むのを堪える。
私は少し屈んで下の妹を抱きしめた。
綾愛「うん」
頭を撫でる。
…そういえば小さい頃、
母がいない間よくこうしてあやしてあげてたっけ。
綾愛「大丈夫。 ちゃんと帰ってくるから」
下妹「……っ、ぅ……」
どれくらいそうしていただろう。
十秒。
あるいは一分。
やがて、 下妹のほうからゆっくり離れた。
下妹「……もうへいきだから」
鼻を擦りながら、 無理やり平静を装う。
下妹「……いってらっしゃい」
綾愛「……うん」
綾愛「行ってきます」
行ってきます…か。
久し振りに出てきたその言葉は、
思っていたよりもすんなりと…
そして本心そのものだった。
家を出る。
見慣れた街。
変わらない景色。
電柱。
古びた商店。
灰色の道路。
私はこの街が嫌いだ。
いや。
きっと、 この世界全部が嫌いなんだと思う。
苦しくて。
息苦しくて。
生きづらくて。
ずっと、 全部投げ出したかった。
何度も投げ出そうとした。
この感情はきっと、 これから先も消えない。
一生、 心の底に残り続ける。
……でも
世界は私が思っていたより、 少しだけ単純で…
全部捨てるには、 まだ早いのかもしれないと
そんな風に、 思えた。
止まっていた時間が、 少しずつ動き始める。
綾愛「……空、 広いなぁ」
見上げた先。
灰色だった世界が、
ほんの少し青くなったような気がした。




