余熱
目を覚ました後も、状況は繋がらないままだった。
そこがどこなのか、なぜ自分がここに横たわっているのかさえ判然としない。ただ、動かすたびに体に走る鈍い違和感と、肌を焼くような痛みが現実として残っている。記憶を辿ろうとしても、思考の糸は途中で無残に断ち切られていた。
歪んだ誰かの顔。押さえつけられる不快な重み。肺が潰れるような、息の詰まる瞬間。
だが、その先がない。空白の断崖が口を開けている。
唯一、指先にだけは逃れようのない感覚が焦げ付いていた。
自分の手で、生身の首を絞めた時の、あの湿った感触。
指を食い込ませた位置。必死に込めた力の配分。相手の抵抗が次第に弱まり、ついには途絶えるまでの、永遠のような数秒間。そのすべてが、異様な鮮明さで脳に焼き付いている。
だからこそ、否定できなかった。
夢ではない。私は、やっている。
理解が追いつかないまま、結論だけが冷酷に突きつけられる。
自分は、人を殺したのだ。
呼吸が浅く、乱れていく。思考をまとめようとするたびに、嫌悪の濁流が胸を突き上げてくる。何をどうすべきかという建設的な問いなど生まれない。ただ、「何もしてはいけない」という強迫的な判断だけが、鋭く研ぎ澄まされていく。
動けば壊す。関われば、また何かを損なう。その確信だけが、他のすべてに先行していた。
自分が何をしたのかも、なぜそうなったのかも分からない。それでも、この手が命を奪ったという事実が厳然と存在する以上、いかなる言い逃れも成立しない。
考えるほどに、思考は一つの結末へと収束していく。
――自分は、危険だ。
その認識が、王女としての自尊も、生存の本能すらも押し潰した。
声を出す理由はない。説明する言葉もない。誰かに何かを求める資格があるとも思えない。ただ、この世界に自分が存在していること自体が、正しようのない誤りであるように感じられた。
その時、指先に熱が触れた。
強引に引かれたわけではない。力で押さえつけられたわけでもない。ただ、逃げ出さないように、確かめるように、そっと置かれただけの軽い接触。
振り払う理由はいくらでもあったが、体は動かなかった。
濁った視界をゆっくりと上げる。
そこにいたのは、一人の騎士だった。顔も名前も知らない。鉄の匂いを纏った、無機質な存在。
沈黙を破ったのは、その男の言葉だった。
「王女様が、あんなに強いとは思わなかった」
評価としては、致命的に間違っている。ここで語られる「強さ」は、高潔な王族が備えるべきそれではない。状況も、手段も、何一つとして称賛に値するものではなかった。
それでも、男の言葉は止まらない。
「見事な締めだった」
事実として聞けば、それは救いようもなく歪んでいる。だが、今の彼女には否定する材料がなかった。
自分が犯した行為は変わらない。そして、その行為に対して向けられた言葉もまた、取り消しようのない事実としてそこに在った。
理解はできない。だが、彼女はそれをそのまま受け取った。
否定、されていない。
それだけで、凍りついていた思考の歯車が、僅かに動き始める。
自分は危険であり、誤りであり、決して他者と関わるべきではない異物である。その前提は揺るがない。だが、それでも自分は、まだ完全に排除されてはいない。触れられている。見られている。
その事実だけが、死んだはずの心に楔を打ち込む。
だから、ここで止まることはできない。
何ができるかは分からない。何をすべきかも、まだ見えない。ただ、このまま空虚に呑まれることだけは、許されないのだと感じた。
もはや、王女ではない。ここではその名に意味はなく、名乗ることすら許されない。何かを命じる立場でも、守られるべき器でもない。
残っているのは、ただ「自分」という現象だけだ。
だから、最低限を構築する。
何ができるかを探すのではなく、何もできないという無力な状態を一つずつ減らしていく。判断を誤る場面を潰し、失敗の範囲を極限まで狭める。そのために必要な断片を、一つずつ手元に積み上げていく。
それ以外に、この不確かな現実を歩む方法はない。
彼女は視線を落とした。
握られた手は、まだ離れていない。
その体温を振り払わないまま、彼女は、次に成すべきことを考え始めた。




