蒸留
目を覚まして以降、彼女の中では時間がまともな形を取らなかった。眠っていたのか気を失っていたのかも曖昧で、起きるたびに場所だけが同じであり、そこに至るまでの過程は何も繋がらない。
ただ、記憶の中で一つだけ途切れずに残り続けるものがあった。自分の指が相手の首に食い込み、暴れる力が弱くなり、最後には完全に抜け切るまで離さなかったという事実である。そこだけは夢のようにぼやけず、逆に他の何より鮮明に残っていた。
だから彼女は、何があったのか分からないまま、何をしたのかだけは知っていた。自分が人を殺したのだという結論だけが先に確定し、その理由も経緯も説明できないまま、自己嫌悪だけが膨れ上がっていく。
自分は危険だ、自分は壊れている、自分はここにいてはいけない、その判断ばかりが先に立ち、何かを考えようとするたびに、考える資格があるのかという別の疑問に潰される。体の痛みは確かに残っていたが、それよりも、何も分からないのに自分のしたことだけは分かってしまっている状態の方が遥かに苦しかった。
その苦しさの中で、最初に彼女を現実へ繋ぎ止めたのは、正しい慰めではなかった。むしろ普通に考えれば間違っているとしか言いようのない、騎士の不用意な一言だった。彼は、命令に従えば距離を取っている方が安全だと理解していたし、彼女が預かり物である以上、勝手に情を寄せるべきではないことも分かっていたが、それでも床の上で指を縮めたまま動けなくなっている相手を見捨てられなかった。そっと手を握り、逃げないようにというより、そこにいることを示すためだけに触れた上で、「王女様があんなに強いとは思わなかった、見事な締めだった」と言った。
その言葉は評価としては完全に間違っていた。彼女がやったことは誇れるものではなく、見事などという言葉で片付けてよいものでもない。それでも彼女にとっては、その間違い方こそが救いになった。糾弾されなかった、汚いものとして即座に切り捨てられなかった、そこにあったのはまず先に恐怖や嫌悪ではなく、強かったという認識だった。その事実だけで、自分のしたことが消えるわけではないのに、完全に終わったわけでもないと理解できたのである。
以後の時間は、驚くほど些細なことで形を持ち始めた。食事が運ばれてくる、薬の時間を告げられる、衣服が置かれる、歩けるならここまでにしろと雑に言われる、邪魔だからそこを退けと当たり前のように扱われる。騎士たちは彼女を王として遇してはいなかったし、忠誠も誓っていなかった。
むしろ警戒しているし、条件次第では切り捨てる気でいることも彼女は薄々察していた。それでも、彼らは放置しなかった。手が空いている者が水を持ってきて、歩き方が危なければ肩を貸し、夜に目を覚ましてしまえば「まだ寝てろ」とだけ言って毛布を掛け直す。そこには高尚な信念も劇的な救済もなく、ただ兄妹の多い家で育った人間が年下の弱った相手に対して自然にやるような、雑で、しかし実際的な保護だけがあった。軍役で家を空けることの多い彼らにとって、面倒を見るべき年下の存在というのは、珍しいものでも特別なものでもなかったのである。だが彼女にとっては違った。彼らは自分を見ている。嫌い切っていない。
必要最低限であれ、ここにいることを許している。その積み重ねが、彼女の中で一つの結論へ変わっていった。良い人達だな、という、客観的にはあまりにも脆い根拠の上にしか成り立たない評価である。しかし彼女にとって、人間の善悪は、まず先に自分を見ているかどうかで決まり、その次に自分を追い出さないかどうかで決まる。そうである以上、その結論は自然だった。
だから彼女は、少しずつ自分で動き始めた。何かができると思ったわけではないし、役に立てるなどと前向きなことを考えたわけでもない。ただ、このまま何もできないまま守られる側に固定されていれば、いつか必ず切り捨てられるという感覚だけはあった。名は使えない。王女として命じることもできない。
判断もまだ危うい。ならば、せめて最低限を作るしかない。邪魔にならない場所に立つ、言われたことを一度で覚える、物の置き場所を把握する、食器を下げる、薬の種類を見分ける、布を畳む、汚した物を自分で洗う、何をしてはいけないかを先に知る。できることを増やすというより、できないことで迷惑をかける範囲を減らすための努力であり、それは王女としての学びとは全く別の、もっと手前の、生き延びるための訓練だった。
最初は失敗ばかりだった。手順を間違え、置く場所を間違え、勝手に動いて止められる。だが彼女はそこで止まらなかった。失敗した事実に潰れそうになりながら、それでも次に同じ失敗をしないために、どこで止められたのか、何が余計だったのかを見直すようになる。騎士の一人が乱暴に「そこは違う、こっちだ」とやり直させれば、彼女はそれを叱責として受け取る前に、まだ見てもらえていると感じた。別の一人が「無理するな」と言えば、それは能力不足の宣告ではなく、ここに残ることを前提とした言葉として刻まれた。彼らにそのつもりはない。
ただ彼女の中では、そう受け取られた。そしてこの受け取り方こそが、後に彼女の持つ人を巻き込む力の根へ変わっていく。誰かに見てもらえたこと、自分を排除しきらなかったこと、その小さな肯定の積み重ねを絶対に失いたくないと願う気持ちが、やがて相手の行動を縛るほどに強くなっていくからだ。しかし、この段階ではまだそこまで至らない。今の彼女にあるのは、良い人達だという刷り込みと、そこから外れたくないという必死さだけである。
彼女が掴んだものは、何かを成し遂げる力ではなかった。自分はまだ何もできないし、王でもなければ、王女ですらない。その前提を維持したまま、それでも最低限はできるようになる、何もできないだけの人間ではなくなる、その程度の目標だけがようやく形を持ったのである。そして、その目標を支えていたのは高潔な志ではなく、ここを失いたくない、この人達に見限られたくないという、極めて弱く、極めて切実な感情だった。そこから彼女はようやく変わり始める。強くなるためではない。まず、壊れているだけで終わらないために。
ほんの少しの愛着から、物語はやがて始まっていく。




