第8周 既に壊れている
その日は、朝から奇妙なほど「同じ風」が吹いていた。
村の広場に設置された風向計は、北北西を指したまま、ほとんど動かない。
いや、動かないのではない。
百八十秒ごとに、まったく同じ強さで、まったく同じ角度の突風が吹き抜けているのだ。
「……百七十八、百七十九、百八十」
教会の時計台の上で、マリユスは懐中時計を片手に虚空を睨んでいた。
足元には、書き殴られた波形データが散らばっている。
突風が吹いた。
広場の土埃が、まるで見えない線をなぞるように同じ方向へ流れる。洗濯物が同じ順番で揺れ、風車の羽根が同じ速度で三度きしみ、井戸端の女たちが同じタイミングで空を見上げた。
そして、何事もなかったように会話へ戻る。
「……確定だ」
マリユスは低く呟いた。
「この村の日常は、定数化している」
「マリユス、まだそこにいたの?」
梯子を登ってきたクリスティーナが、呆れた声を出した。
手には、村長から差し入れられた林檎がある。
「王都への週報は送っておいたわよ。あなたの“世界が丸ごと怪しいです”という部分は、実務的にかなり柔らかくしておいたけど」
「勝手に改竄するな」
「改竄じゃないわ。社会性よ」
クリスティーナは林檎をひとつ投げる。マリユスは受け取り損ね、林檎は床板の上を転がった。
その動きさえ、マリユスの目には妙に規則的に見えた。
「クリスティーナ。この三日間、洗濯物の乾く速度、広場の土埃が舞う方向、風車の回転数、村人の移動経路――すべてが同じ範囲に収束している」
「風なんてそんなものでしょ。季節風の周期に入っただけじゃないの?」
「季節風ではない」
マリユスの声が鋭くなる。
「自然現象には必ず揺らぎがある。だが、この村の風には揺らぎがない。誤差がない。あまりに綺麗すぎる」
「綺麗ならいいじゃない」
「違う」
マリユスは、広場を見下ろした。
「これは自然ではない。過去に記録された状態を、誰かが再生している」
クリスティーナの表情から、少しだけ軽さが消えた。
「……再生?」
「そうだ。今、私たちが見ているのは“今日”ではない。今日という名を与えられた、過去の反復だ」
風が吹く。
百八十秒前と、まったく同じ風だった。
その日の午後、カイは教会の裏庭で、アーロンにナイフの研ぎ方を教えていた。
「いいか。刃ってのは、力任せに削りゃいいってもんじゃねえ。角度だ。角度と呼吸。あと、余計なこと考えないこと」
「最後のはカイが苦手だからじゃない?」
「お前、言うようになったな」
カイは笑いながら、アーロンの頭を軽く小突いた。
裏庭には穏やかな陽が差していた。
遠くで子どもたちの声がする。台所からは豆の煮える匂いが漂い、風見鶏がぎい、と小さく鳴った。
何もかもが、平和に見えた。
だからこそ、その違和感は小さすぎて、最初は誰にも気づかれなかった。
「ほら、こうだ」
カイが自分のナイフを取り出し、砥石に当てる。
しゃり、と乾いた音がした。
その瞬間、刃先がわずかに欠けた。
「あ」
アーロンが声を漏らす。
カイは顔をしかめた。
「ちっ。変な当て方したか」
欠けた刃先を確かめようと、彼がナイフを持ち上げる。
だが、そこに傷はなかった。
「……あれ?」
カイの動きが止まる。
「カイ、今、欠けたよね」
「ああ。欠けた。……欠けたはずだ」
カイはナイフを目の前にかざした。
刃は何事もなかったように滑らかだった。傷も、欠けも、歪みもない。
新品のように、とまでは言わない。
むしろ、それは“欠ける前の状態”へ戻っていた。
「……気のせい、じゃねえよな」
カイの声が低くなる。
アーロンは答えられなかった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
狼がほどけた時と同じ感覚が、ほんのわずかに指先を撫でた気がした。
「もう一回、やってみる」
「やめろ」
低い声が、背後から落ちた。
振り返ると、マリユスが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。手には懐中時計。
目は、カイのナイフだけを見ている。
「そのナイフを地面に置け」
「なんだよ、急に」
「いいから置け」
ただならぬ気配に、カイは渋々ナイフを地面に置いた。
マリユスは膝をつき、刃に触れないぎりぎりの位置で手を止める。
空中に細い魔導式が展開し、淡い光がナイフの輪郭をなぞった。
「……やはり、履歴が残っていない」
「履歴?」
アーロンが聞き返す。
「物体には、状態変化の痕跡が残る。刃が欠けたなら、欠ける前と後の差分があるはずだ。
だが、このナイフにはそれがない。傷が修復されたのではない。
傷ついたという事実そのものが、世界から取り除かれている」
「……どういうことだよ」
カイが眉をひそめる。
「世界が、自分にとって都合の悪い変化を、勝手に巻き戻している」
マリユスは顔を上げた。
「そして問題は、巻き戻し方が雑になっていることだ」
風が吹いた。
裏庭の草が、百八十秒前と同じ角度で揺れる。
アーロンは息を呑んだ。
「じゃあ、この村は……ずっと同じことを繰り返してるの?」
「完全な反復ではない。むしろ、その逆だ」
マリユスは静かに言った。
「壊れた箇所を無理やり同じ形に戻しているだけだ。皿が割れたことをなかったことにする。刃が欠けたことをなかったことにする。風の乱れを、過去の記録で上書きする」
「……それって、直ってるんじゃないの?」
アーロンの問いに、マリユスは首を振った。
「違う。修復ではない。隠蔽だ」
その言葉が、裏庭の空気を冷たくした。
異変が起きたのは、その直後だった。
教会の北側、林へ続く道の方から、子どもの悲鳴が聞こえた。
「カイ!」
村人の一人が駆け込んでくる。顔色が悪い。
「林の近くに、また変なのが出た!」
「また獣か」
「分からない。獣みたいに見えるけど……形が、定まってないんだ」
カイの表情が一瞬で変わった。裏庭に置いていた斧を掴み、アーロンの前へ出る。
「アーロン、お前はここにいろ」
「いや、行く」
「だめだ」
「でも、僕が見ないといけない気がする」
「その“気がする”で毎回危ない目に遭ってんだろうが」
カイが声を荒げる。
だが、マリユスがそれを制した。
「連れて行く」
「は?」
「アーロンの視覚反応が、異常の発生と相関している。危険だが、確認する必要がある」
「ふざけんな。こいつを実験道具にする気か」
「違う」
マリユスは短く答えた。
「彼を置いていっても、異常は彼を見つける」
その言葉に、カイは押し黙った。
神父が教会の扉の前に立っている。
彼は止めなかった。
ただ、アーロンを見て、静かに言った。
「目を逸らしても、風は追ってきます。ですが、見すぎてはいけません」
「……神父?」
「行きなさい。カイ、アーロンを頼みましたよ」
「言われなくても」
カイは乱暴にアーロンの肩を引き寄せた。
「絶対、俺の後ろから出るな」
「うん」
一行は、林へ向かって走った。
道中、風は吹かなかった。それが、かえって不気味だった。
林の入口に着いた時、空気は完全に死んでいた。
鳥の声がない。
葉擦れもない。
草の匂いも、土の湿り気も、どこか薄い。
まるで、そこだけ世界から音を抜き取られたようだった。
林の奥に、それはいた。
狼に似ていた。
いや、狼の形を借りた何かだった。
輪郭は絶えず揺れ、毛並みに見えたものが細かな記号のようにほどけては、また獣の形へ戻っていく。
足元の影だけが遅れて動き、牙の位置も、瞬きのたびにわずかに変わった。
「……また、こいつか」
カイが低く呻く。だが、以前見た獣とは違っていた。
これは、命ではない。
世界が作り直し損ねた、形だけのもの。アーロンには、なぜかそう感じられた。
「下がれ」
カイが斧を構える。
その瞬間、異形の獣が動いた。
速い。
だが、動きが一瞬だけ巻き戻る。
踏み出した前脚が、地面につく前に元の位置へ戻り、また踏み出す。
その不自然な反復が、獣の輪郭をさらに歪ませた。
「……こいつ、動きまで壊れてやがる」
カイが舌打ちする。
マリユスは懐中時計を握りしめ、青ざめた顔で呟いた。
「修復処理の失敗だ。存在履歴が矛盾している。生きている獣を再現しようとして、過去の断片を継ぎ合わせている」
「つまり?」
クリスティーナが短く問う。
「もう、世界が正しく“生き物”を再現できなくなっている」
その言葉が終わるより早く、獣が跳んだ。
カイがアーロンを突き飛ばし、斧を振り抜く。
刃は獣の胴を確かに裂いた。
しかし、裂かれたはずの肉体は、傷口から黒い砂のように崩れ、すぐに別の形へ戻ろうとする。
「くそっ、手応えがねえ!」
「切るな、カイ! 切断では確定できない!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
マリユスは答えられなかった。
その時、アーロンの足元で、青い花が一輪だけ咲いた。
誰も植えていない。
さっきまで、そこには何もなかった。
アーロンは息を止める。
花びらが、風もないのに揺れていた。
――君ならわかるはずだ。
耳の奥で、誰かの声がした。
「アーロン、見るな!」
マリユスの叫びが飛ぶ。だが遅かった。
アーロンは、獣を見た。
見てしまっていた。
獣の動きが止まる。
輪郭が震え、足元から光の粒へほどけていく。
肉でも骨でもなく、文字とも記号ともつかない断片へ変わっていく。
それは消滅ではなかった。
存在していたという事実が、ほどかれていく光景だった。
アーロンの胸が、凍るように冷たくなる。
「……やめて」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
獣は声もなく崩れ、青い花の中へ吸い込まれていった。
花は一瞬だけ深い青に染まり、そして、何事もなかったように消えた。
林に静寂が戻る。
誰も、すぐには動けなかった。
「……アーロン」
カイの声が、ひどく遠く聞こえた。
アーロンは自分の手を見下ろす。
指先が、少しだけ透けて見えた気がした。
「僕……今、何をしたの?」
誰も答えられなかった。
マリユスだけが、青ざめた顔で、獣が消えた場所を見つめていた。
「……違う」
彼はかすれた声で呟いた。
「壊れ始めているのではない」
その声は、恐怖を押し殺しているようだった。
「この世界は、既に壊れている」
風が吹いた。
百八十秒ごとに繰り返されていたはずの風ではなかった。
方向も、強さも、温度も違う。
初めてこの村に吹いた、未定義の風だった。
教会の方角で、鐘が鳴った。
だが、その音は一度鳴ったきり、次の響きへ進まなかった。
まるで世界が、次の一秒を思い出せなくなったかのように。
マリユスは顔を上げる。
遠く、村の中央広場の方角で、青い光がひとつ、またひとつと灯っていく。
それは、花だった。
石畳を割り、家々の影に滲み、井戸の縁に絡みつくように。
青い花が、村の中心へ向かって咲き始めていた。




