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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
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9/65

第8周 既に壊れている

その日は、朝から奇妙なほど「同じ風」が吹いていた。

村の広場に設置された風向計は、北北西を指したまま、ほとんど動かない。


いや、動かないのではない。

百八十秒ごとに、まったく同じ強さで、まったく同じ角度の突風が吹き抜けているのだ。


「……百七十八、百七十九、百八十」


教会の時計台の上で、マリユスは懐中時計を片手に虚空を睨んでいた。

足元には、書き殴られた波形データが散らばっている。


突風が吹いた。


広場の土埃が、まるで見えない線をなぞるように同じ方向へ流れる。洗濯物が同じ順番で揺れ、風車の羽根が同じ速度で三度きしみ、井戸端の女たちが同じタイミングで空を見上げた。


そして、何事もなかったように会話へ戻る。


「……確定だ」


マリユスは低く呟いた。


「この村の日常は、定数化している」


「マリユス、まだそこにいたの?」


梯子を登ってきたクリスティーナが、呆れた声を出した。

手には、村長から差し入れられた林檎がある。


「王都への週報は送っておいたわよ。あなたの“世界が丸ごと怪しいです”という部分は、実務的にかなり柔らかくしておいたけど」


「勝手に改竄するな」


「改竄じゃないわ。社会性よ」


クリスティーナは林檎をひとつ投げる。マリユスは受け取り損ね、林檎は床板の上を転がった。

その動きさえ、マリユスの目には妙に規則的に見えた。


「クリスティーナ。この三日間、洗濯物の乾く速度、広場の土埃が舞う方向、風車の回転数、村人の移動経路――すべてが同じ範囲に収束している」


「風なんてそんなものでしょ。季節風の周期に入っただけじゃないの?」


「季節風ではない」


マリユスの声が鋭くなる。


「自然現象には必ず揺らぎがある。だが、この村の風には揺らぎがない。誤差がない。あまりに綺麗すぎる」


「綺麗ならいいじゃない」


「違う」


マリユスは、広場を見下ろした。


「これは自然ではない。過去に記録された状態を、誰かが再生している」


クリスティーナの表情から、少しだけ軽さが消えた。


「……再生?」


「そうだ。今、私たちが見ているのは“今日”ではない。今日という名を与えられた、過去の反復だ」


風が吹く。

百八十秒前と、まったく同じ風だった。



その日の午後、カイは教会の裏庭で、アーロンにナイフの研ぎ方を教えていた。


「いいか。刃ってのは、力任せに削りゃいいってもんじゃねえ。角度だ。角度と呼吸。あと、余計なこと考えないこと」


「最後のはカイが苦手だからじゃない?」


「お前、言うようになったな」


カイは笑いながら、アーロンの頭を軽く小突いた。


裏庭には穏やかな陽が差していた。

遠くで子どもたちの声がする。台所からは豆の煮える匂いが漂い、風見鶏がぎい、と小さく鳴った。


何もかもが、平和に見えた。

だからこそ、その違和感は小さすぎて、最初は誰にも気づかれなかった。


「ほら、こうだ」


カイが自分のナイフを取り出し、砥石に当てる。

しゃり、と乾いた音がした。

その瞬間、刃先がわずかに欠けた。


「あ」


アーロンが声を漏らす。

カイは顔をしかめた。


「ちっ。変な当て方したか」


欠けた刃先を確かめようと、彼がナイフを持ち上げる。


だが、そこに傷はなかった。


「……あれ?」


カイの動きが止まる。


「カイ、今、欠けたよね」


「ああ。欠けた。……欠けたはずだ」


カイはナイフを目の前にかざした。

刃は何事もなかったように滑らかだった。傷も、欠けも、歪みもない。

新品のように、とまでは言わない。

むしろ、それは“欠ける前の状態”へ戻っていた。


「……気のせい、じゃねえよな」


カイの声が低くなる。

アーロンは答えられなかった。

胸の奥が、ひやりと冷える。

狼がほどけた時と同じ感覚が、ほんのわずかに指先を撫でた気がした。


「もう一回、やってみる」


「やめろ」


低い声が、背後から落ちた。


振り返ると、マリユスが立っていた。

いつからそこにいたのか分からない。手には懐中時計。

目は、カイのナイフだけを見ている。


「そのナイフを地面に置け」


「なんだよ、急に」


「いいから置け」


ただならぬ気配に、カイは渋々ナイフを地面に置いた。


マリユスは膝をつき、刃に触れないぎりぎりの位置で手を止める。

空中に細い魔導式が展開し、淡い光がナイフの輪郭をなぞった。


「……やはり、履歴が残っていない」


「履歴?」


 アーロンが聞き返す。


「物体には、状態変化の痕跡が残る。刃が欠けたなら、欠ける前と後の差分があるはずだ。

だが、このナイフにはそれがない。傷が修復されたのではない。

傷ついたという事実そのものが、世界から取り除かれている」


「……どういうことだよ」


カイが眉をひそめる。


「世界が、自分にとって都合の悪い変化を、勝手に巻き戻している」


マリユスは顔を上げた。


「そして問題は、巻き戻し方が雑になっていることだ」


風が吹いた。


裏庭の草が、百八十秒前と同じ角度で揺れる。

アーロンは息を呑んだ。


「じゃあ、この村は……ずっと同じことを繰り返してるの?」


「完全な反復ではない。むしろ、その逆だ」


マリユスは静かに言った。


「壊れた箇所を無理やり同じ形に戻しているだけだ。皿が割れたことをなかったことにする。刃が欠けたことをなかったことにする。風の乱れを、過去の記録で上書きする」


「……それって、直ってるんじゃないの?」


アーロンの問いに、マリユスは首を振った。


「違う。修復ではない。隠蔽だ」


その言葉が、裏庭の空気を冷たくした。



異変が起きたのは、その直後だった。

教会の北側、林へ続く道の方から、子どもの悲鳴が聞こえた。


「カイ!」


村人の一人が駆け込んでくる。顔色が悪い。


「林の近くに、また変なのが出た!」


「また獣か」


「分からない。獣みたいに見えるけど……形が、定まってないんだ」


カイの表情が一瞬で変わった。裏庭に置いていた斧を掴み、アーロンの前へ出る。


「アーロン、お前はここにいろ」


「いや、行く」


「だめだ」


「でも、僕が見ないといけない気がする」


「その“気がする”で毎回危ない目に遭ってんだろうが」


カイが声を荒げる。

だが、マリユスがそれを制した。


「連れて行く」


「は?」


「アーロンの視覚反応が、異常の発生と相関している。危険だが、確認する必要がある」


「ふざけんな。こいつを実験道具にする気か」


「違う」


マリユスは短く答えた。


「彼を置いていっても、異常は彼を見つける」


その言葉に、カイは押し黙った。


神父が教会の扉の前に立っている。

彼は止めなかった。

ただ、アーロンを見て、静かに言った。


「目を逸らしても、風は追ってきます。ですが、見すぎてはいけません」


「……神父?」


「行きなさい。カイ、アーロンを頼みましたよ」


「言われなくても」


カイは乱暴にアーロンの肩を引き寄せた。


「絶対、俺の後ろから出るな」


「うん」


一行は、林へ向かって走った。

道中、風は吹かなかった。それが、かえって不気味だった。


林の入口に着いた時、空気は完全に死んでいた。

鳥の声がない。

葉擦れもない。

草の匂いも、土の湿り気も、どこか薄い。


まるで、そこだけ世界から音を抜き取られたようだった。


林の奥に、それはいた。


狼に似ていた。


いや、狼の形を借りた何かだった。


輪郭は絶えず揺れ、毛並みに見えたものが細かな記号のようにほどけては、また獣の形へ戻っていく。

足元の影だけが遅れて動き、牙の位置も、瞬きのたびにわずかに変わった。


「……また、こいつか」


カイが低く呻く。だが、以前見た獣とは違っていた。


これは、命ではない。

世界が作り直し損ねた、形だけのもの。アーロンには、なぜかそう感じられた。


「下がれ」


カイが斧を構える。

その瞬間、異形の獣が動いた。


速い。


だが、動きが一瞬だけ巻き戻る。


踏み出した前脚が、地面につく前に元の位置へ戻り、また踏み出す。

その不自然な反復が、獣の輪郭をさらに歪ませた。


「……こいつ、動きまで壊れてやがる」


カイが舌打ちする。


マリユスは懐中時計を握りしめ、青ざめた顔で呟いた。


「修復処理の失敗だ。存在履歴が矛盾している。生きている獣を再現しようとして、過去の断片を継ぎ合わせている」


「つまり?」


クリスティーナが短く問う。


「もう、世界が正しく“生き物”を再現できなくなっている」


その言葉が終わるより早く、獣が跳んだ。

カイがアーロンを突き飛ばし、斧を振り抜く。


刃は獣の胴を確かに裂いた。

しかし、裂かれたはずの肉体は、傷口から黒い砂のように崩れ、すぐに別の形へ戻ろうとする。


「くそっ、手応えがねえ!」


「切るな、カイ! 切断では確定できない!」


「じゃあどうすりゃいいんだよ!」


マリユスは答えられなかった。


その時、アーロンの足元で、青い花が一輪だけ咲いた。

誰も植えていない。

さっきまで、そこには何もなかった。


アーロンは息を止める。


花びらが、風もないのに揺れていた。


 ――君ならわかるはずだ。


耳の奥で、誰かの声がした。


「アーロン、見るな!」


マリユスの叫びが飛ぶ。だが遅かった。

アーロンは、獣を見た。


見てしまっていた。


獣の動きが止まる。


輪郭が震え、足元から光の粒へほどけていく。

肉でも骨でもなく、文字とも記号ともつかない断片へ変わっていく。

それは消滅ではなかった。

存在していたという事実が、ほどかれていく光景だった。


アーロンの胸が、凍るように冷たくなる。


「……やめて」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


獣は声もなく崩れ、青い花の中へ吸い込まれていった。

花は一瞬だけ深い青に染まり、そして、何事もなかったように消えた。


林に静寂が戻る。


誰も、すぐには動けなかった。


「……アーロン」


カイの声が、ひどく遠く聞こえた。


アーロンは自分の手を見下ろす。

指先が、少しだけ透けて見えた気がした。


「僕……今、何をしたの?」


誰も答えられなかった。

マリユスだけが、青ざめた顔で、獣が消えた場所を見つめていた。


「……違う」


彼はかすれた声で呟いた。


「壊れ始めているのではない」


その声は、恐怖を押し殺しているようだった。


「この世界は、既に壊れている」


風が吹いた。

百八十秒ごとに繰り返されていたはずの風ではなかった。

方向も、強さも、温度も違う。

初めてこの村に吹いた、未定義の風だった。


教会の方角で、鐘が鳴った。

だが、その音は一度鳴ったきり、次の響きへ進まなかった。


まるで世界が、次の一秒を思い出せなくなったかのように。


マリユスは顔を上げる。

遠く、村の中央広場の方角で、青い光がひとつ、またひとつと灯っていく。


それは、花だった。

石畳を割り、家々の影に滲み、井戸の縁に絡みつくように。


青い花が、村の中心へ向かって咲き始めていた。

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