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この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
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第9周 反復

その日は、朝から奇妙なほど「同じ風」が吹いていた。

村の広場に設置された風向計は、北北西を指したまま微動だにしない。

いや、動かないのではなく、数分おきに全く同じ強さで、全く同じ角度の突風が吹き抜けているのだ。


「……180秒、179、180。確定だ」


マリユスは教会の時計台の屋上で、懐中時計を片手に虚空を睨んでいた。彼の足元には、書き殴られた波形データが散乱している。


「マリユス、まだそこにいたの? 王都への週報、送っておいたわよ」


クリスティーナが梯子を登ってきた。彼女の手には、村長から差し入れられた林檎がある。


「クリスティーナ、この風の周波数を測ったか。……いや、測るまでもない。君なら実務的に気づいているはずだ。この三日間、洗濯物の乾く速度、広場の土埃が舞う方向、それらすべてが『定数』化している」


「風なんてそんなものでしょ。季節風の周期に入っただけよ。それより、実務的な話をしましょう。明日の調査範囲を——」


「季節風ではない!」


 マリユスが鋭く遮った。その声には、怒りよりも、正解を見つけてしまった者特有の震えが混じっている。


「自然界の風はカオスだ。気圧、湿度、地形……無数の変数が絡み合い、二度と同じ揺らぎは生まれない。だが、この風は違う。……これは『録音』だ、クリスティーナ。一度流したテープを、誰かが巻き戻して再生しているんだ」


「……マリユス。あなたの理論はいつも飛躍しすぎるわ。世界が録音物だなんて、誰が信じるの?」


「信じるか信じないかなど、事実に何の関係もない。……おい、そこにいる乱数体。君はどう思う」


マリユスが視線を向けた先、時計台の影で昼寝をしていたカイが、面倒そうに片目を開けた。


「……あ? 乱数って俺のことか。……まあ、構造くんの言うことはさっぱりだが、一つだけ言えるのは、今日の風は『腐ってる』ってことだ」


「腐っている?」


 マリユスが眉を寄せる。


「ああ。狩人ってのはな、風の匂いで獲物を追うんだ。だが、さっきから流れてくる匂いは……昨日も、一昨日も、その前も嗅いだものと同じだ。……森の奥で鹿が死んでる匂い、村のバアさんが焼いてるパンの匂い。それらが、寸分違わず同じ順番で鼻を掠めていく。……反吐が出るぜ。まるで、死んだ奴の思い出の中に閉じ込められてるみたいだ」


マリユスは息を呑んだ。

数式で「周期性の異常」を捉えた自分と、鼻で「鮮度の欠如」を捉えたカイ。

アプローチは違えど、二人は同じ「世界の嘘」に触れていた。


「……『死んだ者の思い出』か。詩的だが、私の計算結果よりはるかに本質を突いているな、カイ」


「よせよ。俺はただ、獲物が追いにくくてイライラしてるだけだ」


「クリスティーナ、これを聞いてもまだ偶然だと言い切るか?」


クリスティーナは、マリユスとカイを交互に見比べ、溜め息をついた。


「……二人がかりでそんな不気味なこと言わないで。……わかったわ。実務主任として、気象データの精査を本部に依頼する。でも、それ以上の『空想』は報告書には載せない。いいわね?」


「構わない。事象を確定させるのは、文字ではなく観測そのものだ」


マリユスは再び風向計に視線を戻した。

その時、広場の向こうでアーロンが空を仰いでいるのが見えた。

アーロンは、何もない空間に向かって、まるで誰かとリズムを合わせるように指を動かしていた。



「……アーロン。君には、何が聞こえている」


 マリユスの呟きは、再び吹き抜けた「180秒周期の風」にかき消された。

その風は、村の入り口にある古い風車を回す。


 キィ、キィ、と。


昨日も、一昨日も、鳴ったはずの、全く同じ軋み音を立てていた。


    


 翌朝、時計台の鐘が七回鳴った。

その音を聞いた瞬間、マリユスは嫌な確信に近いものを覚えた。

昨夜から続いていた微かな違和感が、ようやく輪郭を持ち始めていたからだ。

教会の食堂へ降りる。

そこには、昨日と同じ位置にカイが座っていた。

同じ椅子。

同じ姿勢。

同じ角度で、パンを千切っている。


「……おはよう、マリユス。今日も顔色が悪いな」


その言葉も、声の高さも、間の取り方まで同じだった。

寸分違わず。

マリユスは返事をする代わりに、懐中時計を取り出してテーブルに置いた。

その動きを、向かいに座っていたアーロンがじっと見ている。


(……あれ?)


アーロンは、自分の指先に残るパンの感触に妙な引っかかりを覚えていた。

柔らかさも、ちぎれ方も、今この瞬間も、どこか知っている。


(今、カイがなんて言うか……分かってた気がする)


「……クリスティーナは?」


マリユスが訊く。


「ああ、実務主任様なら、さっき村長に呼び出されたぜ。水路が詰まったとかでな。……お、噂をすれば」


扉が開く。

入ってきたクリスティーナは、額の汗を拭いながら、昨日と同じ場所で立ち止まった。


「おはよう。……聞いて、マリユス。また水路が詰まったんですって。三日前と同じ場所よ。実務的に言えば、設計ミスを疑うレベルだわ」


アーロンは、その仕草をじっと見つめていた。

額を拭う角度。

ため息のタイミング。

カップへ手を伸ばすまでの間。

全部知っている。

見たことがある。

いや、見たというより、もう経験しているような気がした。


「……秒単位まで一致している」


マリユスの指先が、テーブルの上で微かに震えた。


「……何がよ。ただの偶然でしょ」


クリスティーナはコーヒーを口に運ぶ。

だが、その視線は、机の上に積まれた地図や宗教記号の束へ、無意識に引かれていた。


「偶然がここまで累積すれば、それは法則だ」


マリユスは低く言った。


「……クリスティーナ。君はまだ気づかないのか。この村の出来事は、すでに自由を失っている。定められた溝をなぞるレコードの針のように、私たちは同じ“今日”を再生させられている」


その言葉に、アーロンの心臓がどくりと跳ねた。


「……マリユスさん。それって」


声が少しだけ掠れる。


「みんなが、同じことを繰り返してるってこと?」


マリユスはアーロンを振り返った。

その視線は鋭い。

けれど今日は、それだけではなかった。

ようやく同じ景色を見ている相手を見つけた者の、切実な確認が混じっていた。


「そうだ」


短く答える。


「……カイ。君もだ。君は今、その蜂蜜の瓶を取る。蓋が固いと文句を言って、結局諦めてそのまま食べる。見ていろ」


「は?」


カイが眉をひそめながらも、無意識に蜂蜜の瓶へ手を伸ばす。

その動き自体がすでに、マリユスの言葉をなぞっていた。

瓶を掴む。

力を込める。


「……あ? なんだよこれ、固くて開かねえ。……チッ、もういい、そのまま食うわ」


瓶を置く。


カチッ。


その小さな音が響いた瞬間、食堂の空気が凍りついた。

カイ自身が、気味の悪そうに自分の手を見つめる。


「……なあ、マリユス。今の、俺……自分で選んでやめたのか? それとも……」


「選んでいない」


マリユスは即答した。


「最初から、選択の余地がない。この世界は“痩せて”いる。新しい出来事を生み出すだけの余白が尽き、過去の記録を使い回しているんだ」


アーロンは、震える自分の手を見下ろした。


(僕だけじゃなかった)


胸の奥が強く鳴る。


(マリユスさんは……僕が感じていたこの気持ち悪さを、数字で見ていたんだ)


思い切って立ち上がり、マリユスのそばへ寄る。


「マリユスさん」


マリユスが見る。


「僕、さっき……カイが瓶を置く前に、“カチッ”て音が聞こえた気がしたんだ。まだ鳴ってないのに。……マリユスさんにも、聞こえてるの?」


その問いに、マリユスの表情がほんのわずかに崩れた。

驚きというより、暗闇の中でようやく別の灯りを見つけた時の、痛切な安堵に近いものだった。


「……私には音は聞こえない」


静かに言う。


「だが、数式がその“カチッ”を予告している。……アーロン、君は私よりも深い場所で、この円環の毒に触れているのかもしれない」


その言葉に、アーロンの背筋がひやりとした。

怖い。

けれど、それ以上に、初めて自分の感覚が“間違いではない”と認められたことが大きかった。


「……クリスティーナ。手帳を出せ」


「え?」


「今日これからの予定を、すべて書き出せ」


その声にはもう迷いがなかった。


「そして、それを裏切る行動をしろ。順路でも、時刻でも、言葉でもいい。ほんの少しでいい。予定から外れろ」


クリスティーナが眉を寄せる。


「……もし世界がそれを許さなかったら?」


マリユスはすぐには答えなかった。

窓の外の花を見つめたまま、わずかに唇を結ぶ。

その沈黙を、アーロンは見ていた。


(この人、怖がってる)


ふと、そう思う。

理屈だけで突き進んでいるように見えて、違う。

怖いのだ。

怖いのに、見ないふりをしない。


(……でも、僕と一緒に、この繰り返しを止めようとしてる)


その時、窓の外を風が吹き抜けた。

昨日と同じ強さ。

同じ角度。

同じ音。

机の上の資料がばらりとめくれ、その中の一枚が表になる。


そこには古い円環の記号——(ウロボロス)が自分の尾を呑み込む図像が描かれていた。

それはまるで、彼らの気づきを嘲笑っているようだった。


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