第9周 反復
その日は、朝から奇妙なほど「同じ風」が吹いていた。
村の広場に設置された風向計は、北北西を指したまま微動だにしない。
いや、動かないのではなく、数分おきに全く同じ強さで、全く同じ角度の突風が吹き抜けているのだ。
「……180秒、179、180。確定だ」
マリユスは教会の時計台の屋上で、懐中時計を片手に虚空を睨んでいた。彼の足元には、書き殴られた波形データが散乱している。
「マリユス、まだそこにいたの? 王都への週報、送っておいたわよ」
クリスティーナが梯子を登ってきた。彼女の手には、村長から差し入れられた林檎がある。
「クリスティーナ、この風の周波数を測ったか。……いや、測るまでもない。君なら実務的に気づいているはずだ。この三日間、洗濯物の乾く速度、広場の土埃が舞う方向、それらすべてが『定数』化している」
「風なんてそんなものでしょ。季節風の周期に入っただけよ。それより、実務的な話をしましょう。明日の調査範囲を——」
「季節風ではない!」
マリユスが鋭く遮った。その声には、怒りよりも、正解を見つけてしまった者特有の震えが混じっている。
「自然界の風はカオスだ。気圧、湿度、地形……無数の変数が絡み合い、二度と同じ揺らぎは生まれない。だが、この風は違う。……これは『録音』だ、クリスティーナ。一度流したテープを、誰かが巻き戻して再生しているんだ」
「……マリユス。あなたの理論はいつも飛躍しすぎるわ。世界が録音物だなんて、誰が信じるの?」
「信じるか信じないかなど、事実に何の関係もない。……おい、そこにいる乱数体。君はどう思う」
マリユスが視線を向けた先、時計台の影で昼寝をしていたカイが、面倒そうに片目を開けた。
「……あ? 乱数って俺のことか。……まあ、構造くんの言うことはさっぱりだが、一つだけ言えるのは、今日の風は『腐ってる』ってことだ」
「腐っている?」
マリユスが眉を寄せる。
「ああ。狩人ってのはな、風の匂いで獲物を追うんだ。だが、さっきから流れてくる匂いは……昨日も、一昨日も、その前も嗅いだものと同じだ。……森の奥で鹿が死んでる匂い、村のバアさんが焼いてるパンの匂い。それらが、寸分違わず同じ順番で鼻を掠めていく。……反吐が出るぜ。まるで、死んだ奴の思い出の中に閉じ込められてるみたいだ」
マリユスは息を呑んだ。
数式で「周期性の異常」を捉えた自分と、鼻で「鮮度の欠如」を捉えたカイ。
アプローチは違えど、二人は同じ「世界の嘘」に触れていた。
「……『死んだ者の思い出』か。詩的だが、私の計算結果よりはるかに本質を突いているな、カイ」
「よせよ。俺はただ、獲物が追いにくくてイライラしてるだけだ」
「クリスティーナ、これを聞いてもまだ偶然だと言い切るか?」
クリスティーナは、マリユスとカイを交互に見比べ、溜め息をついた。
「……二人がかりでそんな不気味なこと言わないで。……わかったわ。実務主任として、気象データの精査を本部に依頼する。でも、それ以上の『空想』は報告書には載せない。いいわね?」
「構わない。事象を確定させるのは、文字ではなく観測そのものだ」
マリユスは再び風向計に視線を戻した。
その時、広場の向こうでアーロンが空を仰いでいるのが見えた。
アーロンは、何もない空間に向かって、まるで誰かとリズムを合わせるように指を動かしていた。
「……アーロン。君には、何が聞こえている」
マリユスの呟きは、再び吹き抜けた「180秒周期の風」にかき消された。
その風は、村の入り口にある古い風車を回す。
キィ、キィ、と。
昨日も、一昨日も、鳴ったはずの、全く同じ軋み音を立てていた。
翌朝、時計台の鐘が七回鳴った。
その音を聞いた瞬間、マリユスは嫌な確信に近いものを覚えた。
昨夜から続いていた微かな違和感が、ようやく輪郭を持ち始めていたからだ。
教会の食堂へ降りる。
そこには、昨日と同じ位置にカイが座っていた。
同じ椅子。
同じ姿勢。
同じ角度で、パンを千切っている。
「……おはよう、マリユス。今日も顔色が悪いな」
その言葉も、声の高さも、間の取り方まで同じだった。
寸分違わず。
マリユスは返事をする代わりに、懐中時計を取り出してテーブルに置いた。
その動きを、向かいに座っていたアーロンがじっと見ている。
(……あれ?)
アーロンは、自分の指先に残るパンの感触に妙な引っかかりを覚えていた。
柔らかさも、ちぎれ方も、今この瞬間も、どこか知っている。
(今、カイがなんて言うか……分かってた気がする)
「……クリスティーナは?」
マリユスが訊く。
「ああ、実務主任様なら、さっき村長に呼び出されたぜ。水路が詰まったとかでな。……お、噂をすれば」
扉が開く。
入ってきたクリスティーナは、額の汗を拭いながら、昨日と同じ場所で立ち止まった。
「おはよう。……聞いて、マリユス。また水路が詰まったんですって。三日前と同じ場所よ。実務的に言えば、設計ミスを疑うレベルだわ」
アーロンは、その仕草をじっと見つめていた。
額を拭う角度。
ため息のタイミング。
カップへ手を伸ばすまでの間。
全部知っている。
見たことがある。
いや、見たというより、もう経験しているような気がした。
「……秒単位まで一致している」
マリユスの指先が、テーブルの上で微かに震えた。
「……何がよ。ただの偶然でしょ」
クリスティーナはコーヒーを口に運ぶ。
だが、その視線は、机の上に積まれた地図や宗教記号の束へ、無意識に引かれていた。
「偶然がここまで累積すれば、それは法則だ」
マリユスは低く言った。
「……クリスティーナ。君はまだ気づかないのか。この村の出来事は、すでに自由を失っている。定められた溝をなぞるレコードの針のように、私たちは同じ“今日”を再生させられている」
その言葉に、アーロンの心臓がどくりと跳ねた。
「……マリユスさん。それって」
声が少しだけ掠れる。
「みんなが、同じことを繰り返してるってこと?」
マリユスはアーロンを振り返った。
その視線は鋭い。
けれど今日は、それだけではなかった。
ようやく同じ景色を見ている相手を見つけた者の、切実な確認が混じっていた。
「そうだ」
短く答える。
「……カイ。君もだ。君は今、その蜂蜜の瓶を取る。蓋が固いと文句を言って、結局諦めてそのまま食べる。見ていろ」
「は?」
カイが眉をひそめながらも、無意識に蜂蜜の瓶へ手を伸ばす。
その動き自体がすでに、マリユスの言葉をなぞっていた。
瓶を掴む。
力を込める。
「……あ? なんだよこれ、固くて開かねえ。……チッ、もういい、そのまま食うわ」
瓶を置く。
カチッ。
その小さな音が響いた瞬間、食堂の空気が凍りついた。
カイ自身が、気味の悪そうに自分の手を見つめる。
「……なあ、マリユス。今の、俺……自分で選んでやめたのか? それとも……」
「選んでいない」
マリユスは即答した。
「最初から、選択の余地がない。この世界は“痩せて”いる。新しい出来事を生み出すだけの余白が尽き、過去の記録を使い回しているんだ」
アーロンは、震える自分の手を見下ろした。
(僕だけじゃなかった)
胸の奥が強く鳴る。
(マリユスさんは……僕が感じていたこの気持ち悪さを、数字で見ていたんだ)
思い切って立ち上がり、マリユスのそばへ寄る。
「マリユスさん」
マリユスが見る。
「僕、さっき……カイが瓶を置く前に、“カチッ”て音が聞こえた気がしたんだ。まだ鳴ってないのに。……マリユスさんにも、聞こえてるの?」
その問いに、マリユスの表情がほんのわずかに崩れた。
驚きというより、暗闇の中でようやく別の灯りを見つけた時の、痛切な安堵に近いものだった。
「……私には音は聞こえない」
静かに言う。
「だが、数式がその“カチッ”を予告している。……アーロン、君は私よりも深い場所で、この円環の毒に触れているのかもしれない」
その言葉に、アーロンの背筋がひやりとした。
怖い。
けれど、それ以上に、初めて自分の感覚が“間違いではない”と認められたことが大きかった。
「……クリスティーナ。手帳を出せ」
「え?」
「今日これからの予定を、すべて書き出せ」
その声にはもう迷いがなかった。
「そして、それを裏切る行動をしろ。順路でも、時刻でも、言葉でもいい。ほんの少しでいい。予定から外れろ」
クリスティーナが眉を寄せる。
「……もし世界がそれを許さなかったら?」
マリユスはすぐには答えなかった。
窓の外の花を見つめたまま、わずかに唇を結ぶ。
その沈黙を、アーロンは見ていた。
(この人、怖がってる)
ふと、そう思う。
理屈だけで突き進んでいるように見えて、違う。
怖いのだ。
怖いのに、見ないふりをしない。
(……でも、僕と一緒に、この繰り返しを止めようとしてる)
その時、窓の外を風が吹き抜けた。
昨日と同じ強さ。
同じ角度。
同じ音。
机の上の資料がばらりとめくれ、その中の一枚が表になる。
そこには古い円環の記号——蛇が自分の尾を呑み込む図像が描かれていた。
それはまるで、彼らの気づきを嘲笑っているようだった。




