第7周 記録されない存在
夜明け前。
まだ空気に夜の冷たさが残る中、焚き火の残り火がかすかに赤く燻っていた。
簡易の野営地の端で、マリユスは無言で観測機材の調整を続けている。
幾重にも刻まれた魔導陣が、朝の薄光を受けて淡く脈動していた。
その背後から、足音が近づく。
「まだやってるの? ほんと、好きねえそういうの」
クリスティーナが、呆れ半分に声をかける。
「精度が足りない。昨日の座標記録には誤差が残っている。このままでは再現性が取れない」
「はいはい、出ました構造理論。で? 今日の目的は?」
マリユスは一瞬だけ手を止め、静かに答えた。
「位相異常の再観測だ。昨日確認された“青い花”の座標は、通常の空間構造と一致しない。あれは――偶発ではない。意図的に“そこに在る”」
「つまり?」
「発生源を特定する。可能であれば、位相構造そのものの取得を行う」
クリスティーナは軽く肩をすくめた。
「……要するに、もっと奥まで行くってことね」
「そうだ」
「で、その道、あんた分かってるの?」
一瞬の沈黙。
マリユスは、ほんのわずかに視線を逸らした。
「……地形情報はある程度把握している」
「“ある程度”ね。この森、地図通りに進めると思ってる時点で甘いわよ。あそこは“ズレる”。昨日もそうだったでしょ」
マリユスは反論しない。
代わりに、少しだけ視線を上げる。
そこには、少し離れた場所で話している二人――アーロンとカイの姿があった。
「……案内役が必要だな」
「最初からそう言いなさいよ」
クリスティーナはくるりと踵を返すと、二人の方へ歩き出した。
「カイ、アーロン。ちょっといい?」
二人が振り返る。
「どうした?」
「今日、もう一度あの場所に行くわ。昨日の花が出た地点、覚えてる?」
アーロンが小さく頷く。
「うん。あの林の手前だよね」
「その先まで行きたいの。もっと奥」
カイが眉をひそめる。
「……あそこより奥は、あんまり良くねえぞ。空気が変わる」
「知ってる。でも行く」
即答だった。
クリスティーナは真っ直ぐに二人を見る。
「案内してくれる?」
カイは鼻で笑った。
「はは、言うじゃねえか。いいぜ、行ってやるよ」
アーロンも少し迷ってから、頷く。
「……うん。僕も行く。あの花、気になるし」
それを聞いたマリユスは、静かに機材を持ち上げた。
「決まりだな。出発する」
「仕切るなよ構造くん」
「その呼称はやめろ」
「却下」
クリスティーナが肩をすくめる。
「ほら、行くわよ。日が昇りきる前に入った方がいい」
クリスティーナが二人を促し、一行はまだ眠る森へと足を踏み入れた。
歩き始めてしばらく経ち、森の奥へ進むにつれて朝靄が濃くなっていく。
先頭を行くのはカイとアーロンだ。
この森を熟知するカイと、最初に「青い花」を見つけたアーロンが、頼もしく道案内を務めていた。
その数歩後ろでは、マリユスが銀色の大型観測機材を大事そうに抱え、険しい顔で足場の悪い山道に挑んでいる。
額にはうっすらと汗。それでも本人は、涼しい顔を取り繕っている。
そんな彼を振り返り、カイが悪戯っぽく声を飛ばした。
「おーい、構造くーん! そんな棺桶みてえな箱抱えて、ちゃんと歩けてんのか?」
そんな彼を振り返り、カイが悪戯っぽく声を飛ばす。
「おーい、構造くーん! そんな棺桶みてえな箱抱えて、ちゃんと歩けてんのか?」
「まず訂正しよう。私は『構造くん』ではない。マリユスだ。次に、これは棺桶ではない。魔導カメラと位相測定器を連動させた、精密観測装置だ」
「説明が長えよ」
「理解力の低い相手には、自ずと語数が増える」
「……ケンカ売ってんのか?」
「事実を述べているだけだ」
「朝から元気だなあ、二人とも……」
アーロンが苦笑しながら振り返る。木漏れ日が金の髪に落ちて、柔らかく揺れた。
「でもマリユスさん、本当に大丈夫ですか? 昨日もあまり寝てなかったみたいだし」
「問題ない。睡眠不足は集中力で補完できる」
「ほら出た。構造くん名言集『寝なくても平気』」
マリユスの後ろを歩いていたクリスティーナが、すかさず吹き出す。
「事実だと言っている」
「昨日の晩、シチュー食ってる途中で三回くらい船こいでたの、どこのどいつだよ」
一瞬、森が静まり返った。アーロンが目を丸くする。
「え、寝てたの?」
「……意識を深部に沈め、思考を整理していただけだ」
マリユスの口元がぴくりと引きつる。
「ハハッ! それを世間じゃ寝落ちって言うんだよ! 匙持ったまま固まってよ。口元にシチューまでつけてさ」
「……それは、その」
マリユスが珍しく言葉を詰まらせる。
その様子に、アーロンも堪えきれずに吹き出した。
「ごめんなさい……ちょっと想像したら、可愛くて」
「笑うな、アーロン。……可愛い、とは何だ」
「いや、でも、なんだか安心しました」
アーロンは笑いをこらえながら首を振った。
「主席研究員って聞いていたから、もっと近寄りがたい人だと思ってました。でも……普通に、眠くなるんだなって」
「だろ? こいつ、顔だけはやたら整ってるけど、中身は結構ポンコツなんだよ」
マリユスがぴたりと足を止めた。
「……今、何と言った?」
「顔だけはいいって?」
「その後だ」
「ポンコツ」
「その前だ!」
カイがきょとんとする。アーロンがクスクスと笑い声を漏らした。
「そこ、気にするんだ」
「……無駄話は終わりだ。この先の位相濃度が上がっている。急ぐぞ」
強引に話を切り上げた瞬間、マリユスの靴先が木の根に引っかかった。
ぐらりと機材が傾く。
「危ない!」
クリスティーナの鋭い声が響く。
アーロンが反射的に手を伸ばしかけたが、それより早く、バランスを崩しかけたマリユスの横から、大きな腕が伸びた。
ひょいと、あまりにもあっさりと、カイが機材ごと抱え上げる。
「ほら見ろ。言った先からこれだ」
「……返せ」
「断る。お前が転んで壊す方がよっぽど損失だろ。ほら、行くぞ」
カイは機材を肩に担ぎ、にっと笑って歩き出す。クリスティーナも淡々と頷いた。
「実務的に、今回はカイが正しいわね。悔しかったら、まず朝食を毎日食べなさい」
「食べている」
「昨日の朝は?」
「……液体栄養」
「それ、ただの紅茶でしょ。全然違うわよ」
アーロンは思わず笑ってしまった。カイがそんな彼の肩を軽く小突く。
「なんだよ、アーロン。楽しそうだな」
「うん。なんか、いいなって思って」
「だろ? 場所も飯も人間関係も、難しく考えすぎねえのが一番だ」
マリユスが即座に毒づく。
「それは君の人生が単純なだけだ」
「なんだと? よし、帰ったら鹿肉をいつもの倍、食わせてやる」
「……脅迫か」
「愛情表現だよ!」
木漏れ日の中、笑い声が森の奥へと溶けていった。
だが、そんな和やかな空気も、ある地点を境に霧散した。
湿った土の匂いと、静止した空気。
密生する木々が不自然に開けたその場所には、青い花が円を描くように、ひっそりと咲いていた。
陽光を反射しているのではない。
花そのものが内側から淡い燐光――世界に馴染みきらない「ノイズ」を放っている。
「……これだ。間違いない。この座標の情報密度だけが異常に飽和している。……いや、違う。ここだけ振動の『型』が古すぎるんだ」
マリユスは素早く機材を設置すると、レンズを花へ向けた。
「魔力反応は微弱ね。周囲のエーテルを吸い上げるどころか、むしろ固有波形を『押し出している』みたいだわ」
横からモニターを覗き込むクリスティーナの鋭い指摘に、マリユスは懐中時計の脈動に意識を浸したまま、硬質な声で応じた。
「押し出しているのではない。ここが事象の『起点』――全ての振動が収束する中心点なんだ。クリスティーナ、シャッターを切れ。第一階層の位相定数をこの座標に固定した状態で、全帯域をサンプリングする」
「了解、同期完了。……記録開始!」
クリスティーナが空中に展開した演算ウィンドウを叩くと、記録水晶が激しい閃光を放ち、空間の情報を強引にデジタル・データへと変換していく。
だが、現像され、空中に投影されたホログラム画像を確認した彼女の眉が、不審げに跳ね上がった。
「……マリユス。これ、機材の故障かサンプリング・エラーじゃない?」
「私の機材に故障はない。あるのは『演算結果』という名の真実だけだ」
「じゃあ、この『真実』を説明して。何ひとつ、写っていないわよ」
マリユスがモニターを奪い取る。
そこには草むらも、背景の木々も、機材を担いで欠伸をするカイの姿も鮮明に写っていた。
しかし――そこにあるはずの「青い花」の場所だけが、ただの空っぽな地面として記録されていた。
「記録されない……? 私の演算が、この花を『存在』として定義できないというのか……」
マリユスの声から確信が消え、硬質な戦慄が混じる。
「変だな。僕の目には、あんなにハッキリ見えてるのに。ほらカイ、今、花びらが揺れたよね?」
「ああ。風もねえのに、生きてるみたいに動きやがる。気味の悪い花だぜ」
カイとアーロンには見えている。マリユスにも見えている。だが、王立研究所の粋を集めた観測装置には、その存在が一切認識されていない。
「視覚情報として処理されているにも関わらず、媒体に定着しない……。これは、この花が『今』に存在していない証拠だ。あるいは、世界そのものが観測を拒んでいるのか……」
マリユスは吸い寄せられるように、震える手で花へ触れようとした。
「マリユス! 不用意に触らないで!」
叫びは間に合わなかった。
指先が花びらに触れた瞬間、マリユスの脳内演算領域を、凄まじい速度の「ノイズ」が駆け抜けた。
真っ白な施設。
巨大な円環。
泣いている少女。
そして、自分によく似た、しかし決定的に異なる「誰か」が、絶望に沈む光景――。
「……あ、ぐ……あッ!!」
マリユスが膝をつく。それと同時に、青い花はロウソクの火を吹き消したように掻き消えた。後に残ったのは、ただの踏み荒らされた土だけだった。
「マリユス! 大丈夫!?」
駆け寄るクリスティーナの声も遠い。
マリユスは荒い息をつきながら、自分の指先を凝視していた。
「……消えたのではない。確定を拒絶したんだ。この世界は、記録されることで死ぬのを拒んでいる……」
「何言ってんだよ、構造くん。顔色が真っ青だぜ」
カイが心配そうに手を伸ばすが、マリユスはその手を激しく振り払った。
「触るな! ……君たちには、わからないんだ。高度演算の結果が『虚数』を叩き出すことが、どれほど、恐ろしいことか……!」
再びよろめくマリユス。彼が見たのは、数式では説明のつかない「既視感」の嵐。それは、既に失ったはずの記憶の残滓のようだった。
少し離れた場所で、アーロンだけが、花が消えた場所をじっと見つめていた。
「……なんか、寂しそうな音がした」
「音? 何も聞こえねえぞ、アーロン」
「うん。でも、なんか……『またね』って言われた気がしたんだ。すごく遠いところから」
クリスティーナは記録水晶をバッグに仕舞い、冷徹な実務主任の顔に戻って宣言した。
「記録失敗。現時点では、これを『未知の光学迷彩を持つ植物』と仮定するわ。マリユス、あなたの『位相剥離説』は、現段階では却下よ。……帰りましょう。これ以上は、あなたの脳が持たない」
マリユスは何も答えなかった。ただ、胸ポケットにある誰にも見せないボロボロのノートを、服の上から強く握りしめていた。
そこには、先ほど脳裏をよぎった「白い施設」に酷似した走り書きが、既に記されていた。




