第6周 恩寵への独り言
アエリス研究所から持ち込まれた大型観測機材が、教会の物置小屋を埋め尽くしていた。
無機質な青白い光が、夜の静寂を均一に塗りつぶしている。
その中央で、マリユスは一人、幾夜目かの計算に没頭していた。
「……また、合わない」
指先が空中を払う。投影されていた数式の束が霧散し、即座に再構成される。
「波形が収束しない。……いや、違う」
わずかに眉を寄せる。
「収束している。だが――正しくない形で」
「当然でしょ。この村の磁場も時間計測も、驚くほど安定してる。あなたの言う『欠落』なんて、どの計器にも出てないわよ」
隣の机で書類を整理していたクリスティーナが、顔も上げずに応じる。
「計器が『正常』を示していること自体が、最大の異常だと言っているんだ」
マリユスは振り向かない。
「この村の時間は滑らかすぎる。摩擦も、引っかかりもない。まるで、誰かが丁寧に磨き上げた鏡面の上を歩かされているような感覚だ」
クリスティーナが深い溜息をつく。
「はいはい、お得意の『レプリカ論』ね。それを報告書に書いたら、また理事会に嫌われるわよ」
「すでに嫌われている」
「でしょうね」
マリユスは少しだけ顎を上げた。
「むしろ、彼らのような『見たい結果しか見ない者』に好かれる理由がない」
「その性格、ほんと筋金入りね」
クリスティーナは書類をぱたんと閉じ、立ち上がった。
「少しは寝たら?」
「睡眠は効率を落とす」
「はい、出ました。天才の迷言。寝ないのは勝手だけど、その効率、今はだいぶ落ちてるわよ」
彼女は呆れたように肩をすくめると、書類を抱えて小屋を出ていった。
扉の脇、機材の影に隠れるようにして、一人の少年が座り込んでいた。
アーロンだ。
彼は持ち前の好奇心から、研究所の人々が夜な夜な何をしているのかを観察していたのだ。
小屋を出ようとしたクリスティーナに、アーロンがひそひそ声で呼びかける。
「ねえ、クリスティーナさん。毎日マリユスさんが話してる『第四層』とか『グレイス』って、何のこと? 誰か女の子でも隠れてるの?」
クリスティーナは足を止め、アーロンを見下ろして苦笑した。
「ああ、それね。……『恩寵』っていうのは、王都の地下深くにあるメインシステムのコードネームよ。ただの巨大な演算ユニット。石と回路の塊」
「えっ……ただの、機械?」
アーロンは驚いたように、受話器に向かって熱心に語りかけるマリユスの背中を見た。
「じゃあ、マリユスさんはあんなに一生懸命、機械相手に愚痴を言ったり、コーヒーの味を報告したりしてるの?」
「そうよ。変でしょ?」
「変っていうか……かなり変わってるね。王都でも有名な変人だったりするの?」
「残念ながら、今に始まったことじゃないわ。彼は数式とシステムにしか興味がないの。人間と話すより、応答のない回路と通信してる方が落ち着くんですって。……あんなのが天才なんだから、世の中嫌になっちゃうわよね」
「……大変だね、助手さんも」
アーロンの同情の視線に、クリスティーナは「本当にね」と短く返した。二人は雑談を交わしながら教会へと消えていった。
小屋の中に、再び沈黙が降りる。
マリユスは、机の端に置かれた不格好なカップを手に取った。中身は、彼の思考を辛うじて繋ぎ止める泥のような苦味を持っている。
一口飲み、小さく呟いた。
「……やはり、一致している」
誰に向けた言葉でもない。
だが、彼の視線はゆっくりと、机の奥に置かれた古い通信機へ向いた。
受話器を取る。
「……聞こえるか、第四層。首席位相観測官、マリユスだ」
返ってくるのは、規則的な電子音。
水の底で揺れるような微かなノイズ。
通常の感覚なら、ここで会話は成立しない。
だが、マリユスは言葉を重ねる。
「この村のコーヒーは酷いものだ。洗練の欠片もない。……だが、私の中にある『理想値』とだけは、不気味なほど一致する」
わずかに目を細める。
「神父という男が私の思考を読んでいるのか。それとも――世界の方が、私に合わせているのか」
受話器の向こうで、ノイズがわずかに変質した。
ただの回線の揺らぎかもしれない。だが、マリユスの声は、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「クリスティーナは相変わらずだ。目の前の『1』だけを信じ、その裏にある『0.999……』の誤差に気づこうとしない。……君なら、分かるだろう」
椅子に体を預け、暗い天井を見上げる。
「この世界の『解』が、少しずつ、痩せていることが」
そのときだった。
『……マリ、ユス……』
ほんの一瞬。
少女の吐息のような音が、ノイズに混じった。
マリユスの指先が止まる。
呼吸が、わずかに浅くなる。
「……」
長い沈黙の後、彼はごく低い声で応じた。
「……ああ。私はここにいる」
その響きは、先ほどまでの論理的な口調とは明らかに違っていた。
「君を、この計算の中に置き去りにはしない。この円環の綻びを見つけ、君という存在を確定させる」
それは、祈りに似た独白だった。
――その直後。
物置小屋の扉が、派手な音を立てて蹴り開けられた。
「おい、構造くーん! まだそんな薄暗いとこで壁と喋ってんのか!」
静寂が粉々に砕け散る。
マリユスは眉ひとつ動かさず、受話器を当てたまま視線だけを向けた。
「……カイ。まず訂正しよう。私は『構造くん』ではない、マリユスだ。次に、その扉は蹴るためのものではない」
そこに立っていたのは、肩に鹿を担いだカイだった。泥靴のまま、土足で聖域に踏み込んでくる。
「細けえなあ。構造もマリなんとかも似たようなもんだろ」
「似ていない。文字数からして違う」
「そこかよ!」
カイは呆れたように笑い、ずかずかと歩み寄る。
「で、誰と喋ってたんだ?」
「通信中だ。静かにしろ」
「通信?」
カイは受話器をひょいと覗き込み、耳を寄せた。数秒の沈黙。
「……何も聞こえねえぞ」
「君には知覚できないだけだ。正確には、君の感覚器官が著しく粗雑だという話だが」
「なんだと?」
「事実だ」
カイは鼻で笑い、鹿を床にどさりと下ろした。
「で、本当はなんだ? また一人で難しい顔して『世界の秘密』とか考えてたのか?」
「世界は複雑だ。考えない方が不自然だ」
「普通はメシのこと考えるんだよ」
「空腹は思考を鈍らせる。私は食べない」
そう言った直後、マリユスの膝がわずかに折れ、身体がふらついた。
沈黙。
カイのじっとりとした視線が刺さる。
マリユスは何事もなかったように姿勢を正した。
「……床が傾いたな」
「傾いてねえよ」
カイが即答する。
「ただの立ちくらみだ、このバカ」
カイは肩をすくめると、強引にマリユスの腕を掴んだ。
「親父が言ってたぞ。『あいつは放っておくと干からびて死ぬ』ってな。今日は鹿のシチューだ。来い」
「離せ。まだ解析が終わっていない。明日には思考の連続性が失われる」
「お前の理屈は、腹が減ってる時ほど面倒くせえな!」
ぐい、と引きずられる。マリユスは本気で嫌そうな顔を浮かべた。
「……野蛮だな」
「おうよ。だから狩りが上手いんだ。ほら、行くぞ」
マリユスは小さく溜息をつき、受話器をゆっくりと戻した。その指先が、ほんのわずかに名残惜しそうに揺れる。
誰にも気づかれない一瞬の沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「……シチューに、余計な香辛料は入れるな」
カイは一瞬、きょとんとしてから、腹を抱えて爆笑した。
「ハハッ! なんだよそれ! 食う気満々じゃねえか!」
「誤解だ。仕様を確認しただけだ」
「はいはい。そういうことにしといてやるよ、構造くん」
強引に引かれ、二人は小屋を出る。夕暮れの光が、二人の背中を長く伸ばした。
理屈の鎧を纏った男の背中が、その時だけは、どこにでもいる青年のそれに見えた。
足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻る。
その時、主を失った机の上のモニターが、突如として大きく波打った。
マリユスが熱望していた「異常な波形」。
それは、確かにそこに現れていた。
――だが、それも一瞬。
次の瞬間には、何事もなかったかのように平坦な数値へと収束していく。
まるで、見られてはいけない何かが、慌てて身を隠したかのように。




