表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
7/14

第6周 恩寵への独り言

 アエリス研究所から持ち込まれた大型観測機材が、教会の物置小屋を埋め尽くしていた。

無機質な青白い光が、夜の静寂を均一に塗りつぶしている。

その中央で、マリユスは一人、幾夜目かの計算に没頭していた。


「……また、合わない」


指先が空中を払う。投影されていた数式の束が霧散し、即座に再構成される。


「波形が収束しない。……いや、違う」


わずかに眉を寄せる。


「収束している。だが――()()()()()()()


「当然でしょ。この村の磁場も時間計測も、驚くほど安定してる。あなたの言う『欠落』なんて、どの計器にも出てないわよ」


隣の机で書類を整理していたクリスティーナが、顔も上げずに応じる。


「計器が『正常』を示していること自体が、最大の異常だと言っているんだ」


マリユスは振り向かない。


「この村の時間は滑らかすぎる。摩擦も、引っかかりもない。まるで、誰かが丁寧に磨き上げた鏡面の上を歩かされているような感覚だ」


クリスティーナが深い溜息をつく。


「はいはい、お得意の『レプリカ論』ね。それを報告書に書いたら、また理事会に嫌われるわよ」


「すでに嫌われている」

「でしょうね」


マリユスは少しだけ顎を上げた。


「むしろ、彼らのような『見たい結果しか見ない者』に好かれる理由がない」


「その性格、ほんと筋金入りね」


クリスティーナは書類をぱたんと閉じ、立ち上がった。


「少しは寝たら?」


「睡眠は効率を落とす」


「はい、出ました。天才の迷言。寝ないのは勝手だけど、その効率、今はだいぶ落ちてるわよ」


彼女は呆れたように肩をすくめると、書類を抱えて小屋を出ていった。



扉の脇、機材の影に隠れるようにして、一人の少年が座り込んでいた。


アーロンだ。

彼は持ち前の好奇心から、研究所の人々が夜な夜な何をしているのかを観察していたのだ。

小屋を出ようとしたクリスティーナに、アーロンがひそひそ声で呼びかける。


「ねえ、クリスティーナさん。毎日マリユスさんが話してる『第四層』とか『グレイス』って、何のこと? 誰か女の子でも隠れてるの?」


クリスティーナは足を止め、アーロンを見下ろして苦笑した。


「ああ、それね。……『恩寵(グレイス)』っていうのは、王都の地下深くにあるメインシステムのコードネームよ。ただの巨大な演算ユニット。石と回路の塊」


「えっ……ただの、機械?」


アーロンは驚いたように、受話器に向かって熱心に語りかけるマリユスの背中を見た。


「じゃあ、マリユスさんはあんなに一生懸命、機械相手に愚痴を言ったり、コーヒーの味を報告したりしてるの?」


「そうよ。変でしょ?」


「変っていうか……かなり変わってるね。王都でも有名な変人だったりするの?」


「残念ながら、今に始まったことじゃないわ。彼は数式とシステムにしか興味がないの。人間と話すより、応答のない回路と通信してる方が落ち着くんですって。……あんなのが天才なんだから、世の中嫌になっちゃうわよね」


「……大変だね、助手さんも」


アーロンの同情の視線に、クリスティーナは「本当にね」と短く返した。二人は雑談を交わしながら教会へと消えていった。



 小屋の中に、再び沈黙が降りる。


マリユスは、机の端に置かれた不格好なカップを手に取った。中身は、彼の思考を辛うじて繋ぎ止める泥のような苦味を持っている。

一口飲み、小さく呟いた。


「……やはり、一致している」


誰に向けた言葉でもない。

だが、彼の視線はゆっくりと、机の奥に置かれた古い通信機へ向いた。

受話器を取る。


「……聞こえるか、第四層。首席位相観測官、マリユスだ」


返ってくるのは、規則的な電子音。

水の底で揺れるような微かなノイズ。


通常の感覚なら、ここで会話は成立しない。

だが、マリユスは言葉を重ねる。


「この村のコーヒーは酷いものだ。洗練の欠片もない。……だが、私の中にある『理想値』とだけは、不気味なほど一致する」


わずかに目を細める。


「神父という男が私の思考を読んでいるのか。それとも――世界の方が、私に合わせているのか」


受話器の向こうで、ノイズがわずかに変質した。

ただの回線の揺らぎかもしれない。だが、マリユスの声は、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「クリスティーナは相変わらずだ。目の前の『1』だけを信じ、その裏にある『0.999……』の誤差に気づこうとしない。……君なら、分かるだろう」


椅子に体を預け、暗い天井を見上げる。


「この世界の『解』が、少しずつ、痩せていることが」


そのときだった。


『……マリ、ユス……』


ほんの一瞬。


少女の吐息のような音が、ノイズに混じった。


マリユスの指先が止まる。

呼吸が、わずかに浅くなる。


「……」



長い沈黙の後、彼はごく低い声で応じた。


「……ああ。私はここにいる」


その響きは、先ほどまでの論理的な口調とは明らかに違っていた。


「君を、この計算の中に置き去りにはしない。この円環の綻びを見つけ、君という存在を確定させる」


それは、祈りに似た独白だった。


――その直後。

 物置小屋の扉が、派手な音を立てて蹴り開けられた。


「おい、構造くーん! まだそんな薄暗いとこで壁と喋ってんのか!」


静寂が粉々に砕け散る。

マリユスは眉ひとつ動かさず、受話器を当てたまま視線だけを向けた。


「……カイ。まず訂正しよう。私は『構造くん』ではない、マリユスだ。次に、その扉は蹴るためのものではない」


そこに立っていたのは、肩に鹿を担いだカイだった。泥靴のまま、土足で聖域に踏み込んでくる。


「細けえなあ。構造もマリなんとかも似たようなもんだろ」


「似ていない。文字数からして違う」


「そこかよ!」


カイは呆れたように笑い、ずかずかと歩み寄る。


「で、誰と喋ってたんだ?」


「通信中だ。静かにしろ」


「通信?」


カイは受話器をひょいと覗き込み、耳を寄せた。数秒の沈黙。


「……何も聞こえねえぞ」


「君には知覚できないだけだ。正確には、君の感覚器官が著しく粗雑だという話だが」


「なんだと?」


「事実だ」


カイは鼻で笑い、鹿を床にどさりと下ろした。


「で、本当はなんだ? また一人で難しい顔して『世界の秘密』とか考えてたのか?」


「世界は複雑だ。考えない方が不自然だ」


「普通はメシのこと考えるんだよ」


「空腹は思考を鈍らせる。私は食べない」


 そう言った直後、マリユスの膝がわずかに折れ、身体がふらついた。


 沈黙。


カイのじっとりとした視線が刺さる。

マリユスは何事もなかったように姿勢を正した。


「……床が傾いたな」


「傾いてねえよ」


カイが即答する。


「ただの立ちくらみだ、このバカ」


カイは肩をすくめると、強引にマリユスの腕を掴んだ。


「親父が言ってたぞ。『あいつは放っておくと干からびて死ぬ』ってな。今日は鹿のシチューだ。来い」


「離せ。まだ解析が終わっていない。明日には思考の連続性が失われる」


「お前の理屈は、腹が減ってる時ほど面倒くせえな!」


ぐい、と引きずられる。マリユスは本気で嫌そうな顔を浮かべた。


「……野蛮だな」


「おうよ。だから狩りが上手いんだ。ほら、行くぞ」


マリユスは小さく溜息をつき、受話器をゆっくりと戻した。その指先が、ほんのわずかに名残惜しそうに揺れる。


誰にも気づかれない一瞬の沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。


「……シチューに、余計な香辛料は入れるな」


カイは一瞬、きょとんとしてから、腹を抱えて爆笑した。


「ハハッ! なんだよそれ! 食う気満々じゃねえか!」


「誤解だ。仕様を確認しただけだ」


「はいはい。そういうことにしといてやるよ、構造くん」


強引に引かれ、二人は小屋を出る。夕暮れの光が、二人の背中を長く伸ばした。

理屈の鎧を纏った男の背中が、その時だけは、どこにでもいる青年のそれに見えた。




 足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻る。


その時、主を失った机の上のモニターが、突如として大きく波打った。

マリユスが熱望していた「異常な波形」。

それは、確かにそこに現れていた。


――だが、それも一瞬。

次の瞬間には、何事もなかったかのように平坦な数値へと収束していく。


まるで、見られてはいけない何かが、慌てて身を隠したかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ