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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
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第62周 自由という光

世界が、目を覚ました。


眩い白光が収束したあと、空から降り注いできたのは、雨ではなかった。

目も眩むような、黄金色の光の粒子。


それは、円環という箱から解き放たれた、純粋な自由意志の欠片だった。


 アーロン。


彼だったもの。

彼が選んだもの。

彼が世界へ残した、最初の自由。


光の雨は、冷え切った大地に降り注ぐ。

眠り続けていた人々に、砕けた街路に、名もない草花に、静かに触れていく。


その光に触れた人々の心に、凍りついていた明日を選ぶ力が、温かな体温となって蘇っていく。

決められた運命の鎖は砕けた。

世界は今、初めて、不確定という名の本当の時間へ踏み出したのだ。


かつて円環の中枢があった場所。

今はただの瓦礫の山となった荒野に、四人の影があった。


爆発的な光の収束が収まると、そこには一人の男が倒れていた。


マリユス。

アステリオスとしての神性は霧散し、彼を包んでいた超越的な威圧感は消え去っている。


「マリユス!!」


最初に声を上げたのは、ミーティアだった。

彼女は崩落の余波で揺れる足元も構わず、なりふり構わず駆け寄った。


白銀の髪が、因果の名残のような風に激しくなびく。

ミーティアはマリユスの傍らに膝をつき、泥を被った彼の体を、壊れ物を扱うような手つきで抱き起こした。


「マリユス! 目を開けて、マリユス!」


悲痛な叫びが、静まり返った荒野に響く。

クリスティーナも、すぐさま二人のもとへ駆け寄った。


「脈は!? 生きているの!?」


ミーティアは、震える指先をマリユスの首筋に当てる。

ほんの数秒。

けれど、その数秒が永遠のように長かった。


「……ある」


ミーティアの声が震える。


「脈は、あるわ」


クリスティーナの肩から、力が抜けた。


「でも、意識が……」


抱き起こされたマリユスの表情は、あまりに静かだった。

かつてその胸の奥で世界を冷徹に見据えていた観測者の核は、もうどこにも存在しない。

ただ、過酷な運命に翻弄され、心身ともに疲れ果てた一人の青年が、そこに横たわっているだけだった。


クリスティーナが、マリユスの顔を覗き込む。


「……戻ったのね」


小さく、祈るように呟く。


「あっち側から」


「……ええ」


ミーティアは涙を拭うことも忘れ、マリユスの頬にそっと触れた。

指先から伝わってくるのは、かつての彼が纏っていた凍てつくような冷気ではない。

微かだが確かな、生きている人間の体温だった。


そこにいるのは、未来を予見する王ではない。

世界の理を解く観測者でもない。

ただ、傷つき、眠り、誰かの助けを必要としている、一人の人間。


ミーティアの澄んだ瞳から、一筋の涙が零れ落ち、マリユスの頬を濡らした。


「帰ってきた……」


その声は、まるで子守唄のように優しかった。


「本当の意味で、私たちのところに……」


ミーティアは、マリユスの頭を自分の膝に乗せ、慈しむようにその髪を撫でる。


これまで巫女として、あるいはシステムの一部として、彼女もまた多くのものを押し殺してきた。

けれど今、彼女の瞳にあるのは、ただ大切な人の無事を願う、等身大の少女の感情だけだった。


マリユスは、深い眠りの中で、微かに眉を動かした。

その表情から、氷のような硬質さは消えている。

これから目覚めた彼を待っているのは、二度とやり直しのきかない、一度きりの生だ。


かつての自分の罪に苦しみ、消えない傷跡に怯えることもあるだろう。

神のような視座を失い、不条理な現実に打ちのめされることもあるかもしれない。


それでも、彼の無事を喜ぶ仲間たちがいる。

それだけで、彼が人間として生きていくには十分すぎるほどの理由になるはずだった。


「……う、あ」


少し離れた場所で、カイが荒い息を吐きながら目を開けた。


全身を襲う激痛。

乾いた土の匂い。

瓦礫の隙間から差し込む、見慣れないほど鮮やかな空の色。


彼は、しばらく何が起きたのか分からなかった。


だが次の瞬間、記憶が一気に戻ってくる。


親父が消えた。

アーロンが光になった。


自分をここまで導いてくれた父と、最初の友を、失った。


「……アーロン」


カイは、真っ先にその名を呼んだ。

掠れた声だった。


「アーロン……?」


返事はない。

カイは痛む体を無理やり起こした。


視界が揺れる。

足に力が入らない。

それでも、彼は瓦礫に手をつきながら立ち上がろうとした。


「アーロン!」


今度は叫んだ。

荒野に声が響く。


けれど、返ってくるのは、風の音だけだった。


「どこだよ……」


カイはよろめきながら周囲を見回す。


「隠れてんじゃねえぞ。返事しろよ。いつもみたいに、ぼんやりした顔で突っ立ってんだろ……!」


誰も答えない。


マリユスはミーティアの膝の上で眠っている。

クリスティーナは、泣きそうな顔でカイを見ている。


でも、アーロンはいない。

その事実が、カイの胸を内側から握り潰した。


「……っ」


カイは、血の滲む拳を地面に叩きつけた。


「ふざけんなよ……」


声が震える。


「俺一人で、どうしろってんだよ……!」


「カイ……!」


クリスティーナがたまらず駆け寄り、彼の肩を支えた。


「しっかりしなさい。お願いだから、そんな顔しないで」


「分かってる」


カイは歯を食いしばる。


「分かってるけどよ、クリス……!」


嗚咽が、言葉を裂いた。


「二人ともいなくなって、俺に良い人生をとか、自由に歩けとか……勝手すぎるだろ、そんなの……!」


クリスティーナは、一瞬かける言葉を失った。

けれどすぐに、自分の震える手で、カイの泥だらけの手を包み込んだ。


「一人じゃない」


彼女は、はっきりと言った。


「一人にさせないわよ、私が」


カイが、息を詰める。

クリスティーナは、彼の額を自分の肩に預けるように引き寄せた。


まるで壊れやすいものを守るように、その背中に腕を回す。


「あなたが泣くなら、私がその分まで前を向く。あなたが動けないなら、私が手を引いてやる」


彼女の声も、震えていた。


「セラフィウス様も、アーロンも、あなたが一人で背負い込むことを望んでいたわけじゃない」


クリスティーナの瞳から涙が零れる。


「あなたに生きてほしいって願ったのは……それだけ、愛されてたって証拠じゃない」


「クリス……」


「私だって怖いのよ」


クリスティーナは、小さく笑おうとして失敗した。


「明日からどうすればいいか、正解なんて分からない。だから……そんなに自分を責めないで」


彼女の涙が、カイの頬に落ちた。

その温かさに、カイの強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。


けれど、喪失の穴は埋まらない。

アーロンがいない。

その事実だけが、どうしようもなく痛かった。


「……一人じゃないよ、カイ」


ミーティアが、静かに言った。

彼女は意識を失ったマリユスの傍らに座り、その手を握りしめている。


「だいじょうぶ。アーロンは、いるよ」


カイが、顔を上げた。


「……いる?」


自嘲気味な笑いが漏れる。


「どこにだよ。あいつは粒子になって、消えたんだろ」


ミーティアは首を振った。


「違う」


その声は、静かだが確信に満ちていた。


「消えたんじゃない。まだ、形を探してる」


「形を……?」


「セラフィウスが、最後に観測したから」


ミーティアは空を見上げる。

光の雨は止み、今は抜けるような青空が広がっていた。


「アーロンは、ただ世界に溶けたんじゃない。自由意志の粒子になっても、ちゃんと中心が残ってる。もう一度、命として生まれるための種みたいに」


クリスティーナが息を呑む。


「……再構成の可能性があるってこと?」


「うん」


ミーティアは頷いた。


「確率はまだ小さい。でも、ゼロじゃない」


その言葉に、カイの瞳が大きく揺れた。


「ゼロじゃ、ない……」


「カイ、あなたは王族だから、感じるでしょ」


ミーティアは、優しく言った。


「風。聞いてみて」


カイは、クリスティーナの腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。


風が吹いている。


乾いた荒野を渡る、まだ名前のない新しい世界の風。

けれど、その風の中に、微かに懐かしい匂いが混ざっていた。


 泥。

 鉄。

 青い花。

 それから、あいつがいつも着ていた、安っぽい石鹸の匂い。


「……アーロン?」


カイが、目を見開いた。


風が、彼の頬を通り過ぎる。

まるで親友が、泣くなよ、と肩を叩くように。


カイは、息を呑んだ。


「いる……」


小さな声だった。


「本当に、いるのか……?」


答えるように、黄金色の粒子が一つ、彼の手の甲へ落ちた。


消えない。


光はすぐに霧散せず、ほんの一瞬だけ、小さな花の種のような形を取った。


それは脈打っていた。

微かに。

けれど、確かに。


クリスティーナが、慌てて壊れかけた端末を起動する。


「待って。今の反応……」


 画面にノイズが走る。

 それでも、そこには確かに、一行の数値が浮かび上がっていた。



subject_AARON : signal detected

soul_gravity : stable / weak

birth_probability : possible

reconstruction_condition : unknown



クリスティーナが、震える息を吐いた。


「……残ってる」


彼女の声が、涙で滲む。


「アーロンの信号、まだ残ってるわ」


カイは、手の甲に落ちた光を見つめた。

泣きそうな顔で、けれど初めて少しだけ呼吸ができたような表情だった。


「……じゃあ、探せるんだな」


「簡単じゃないわ」


クリスティーナは正直に言った。


「いつ、どこに、どんな形で再構成されるか分からない。明日かもしれないし、何年も先かもしれない。もしかしたら、人の姿とは限らない」


「それでも」


カイは、涙を拭った。


「ゼロじゃねえんだろ」


クリスティーナは、彼を見つめる。

そして、力強く頷いた。


「ええ。ゼロじゃない」


カイは、もう一度空を見た。

先ほどまで彼を押し潰していた悲しみは、消えたわけではない。


親父は戻らない。

アーロンも、今すぐ隣に立ってはくれない。


それでも。


この世界には、もう「確定した絶望」はない。


「……なら、探す」


カイは低く言った。


「どこにいるか分かんなくても、何年かかっても、絶対に見つける」


風が吹いた。

その風は、少しだけ笑っているように感じられた。


「また俺が、手を引いてやる」


カイの声は、震えていた。

けれど、もう折れてはいなかった。


「今度は、あいつがどんな形で戻ってきても。俺が見つけて、名前を呼んでやる」


ミーティアが、涙を浮かべながら微笑む。


「うん」


クリスティーナが、カイの手を強く握り直した。


「一緒に探しましょう」


カイは、深く頷いた。

悲しみは消えない。


けれど、その悲しみは、もう彼を縛りつける鎖ではなかった。


隣にいるクリスティーナの体温。

ミーティアの確かな微笑み。

マリユスの微かな寝息。

そして、風の中に残る友の気配。


それらを道標にするように、カイはゆっくりと、自分の足で立ち上がった。

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