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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
62/67

第61周 永遠の終わり

二重観測が実行された瞬間、中枢の白光は極限まで膨れ上がった。


音という概念が、消失する。

円環の軋む音が止んだ。


代わりに聞こえてきたのは、さらさらと砂が零れ落ちるような、静謐な崩壊の音だった。

世界を縛っていた輪が、ほどけていく。

何千年も繰り返されてきた時間の檻が、今、ようやくその役目を終えようとしていた。


「……ああ」


セラフィウスが、自身の手を見つめた。

穏やかな声だった。


「体が、やっと……時間に追いつかれた」


円環という時間の檻が解かれたことで、彼の内側に蓄積されていた数千年分の歳月が、一気に流れ出していた。


彼の足元から、肉体が淡い塵となって崩れていく。

痛みはなかった。

だが、確実に終わりが来ている。


「親父!」


カイが叫び、駆け寄った。


「しっかりしろ! 今すぐ、何とか――」


その体を支えようと伸ばした手が、セラフィウスの肩をすり抜けた。

カイの指先が、空を掴む。


「……触れねえ」


声が震えた。


「なんでだよ、親父。なんで、触れねえんだよ!」


「カイ」


セラフィウスは、崩れゆく体で息子を見つめた。

その目は、驚くほど優しかった。


「泣くことはありません」


「泣いてねえ!」


カイが怒鳴る。

けれど、その声は完全に震え、嗚咽を抑えているように聞こえた。


「ふざけんなよ。今さらそんな顔すんな。そんな、やっと楽になれるみたいな顔すんなよ!」


セラフィウスは、少しだけ困ったように笑った。


「私は、アステリオスが作ったバグに過ぎませんでした」


「違う!」


カイは即座に叫んだ。


「違うだろ! あんたは俺の親父だろ!」


その言葉に、セラフィウスの瞳がわずかに揺れた。


古代の研究者でもない。

円環に組み込まれた生体アンカーでもない。

観測者になれなかった不適合者でもない。


ただ、息子に父と呼ばれた男の顔になった。


「……そうですね」


セラフィウスは、小さく頷く。


「その言葉だけで、私は十分に報われました」


「報われたとか言うな!」


カイの拳が震える。


「終わる準備ができてるみたいに喋るな! 俺はまだ、何も聞いてねえ。何も許してねえ。何も……返せてねえんだよ!」


セラフィウスは、静かに首を振った。


「返す必要などありません」


「あるだろ!」


「いいえ」


その声は穏やかだった。

けれど、揺るがなかった。


「君が生きること。それだけでいい」


カイの表情が、ひどく歪んだ。

セラフィウスは続ける。


「私は、終端を見届けるためだけに無理やり生かされてきた枯れ木のような存在でした。けれど、君を育てた日々だけは違った」


彼の体が、膝の辺りまで光の塵へ変わっていく。


「数千年の無味乾燥な記録の中で、君という不確定な命を抱き、育て、叱り、案じた日々だけが、私にとっての真実でした」


「……親父」


「カイ。君は、私の誇りです」


その一言で、カイの顔が崩れた。

怒りも、反発も、子どものような拒絶も、すべてが一瞬だけほどけてしまう。


「どうか、新しい世界を、君の目で見届けてください」


「嫌だ」


カイは、首を振った。


「そんな頼み方すんな」


「カイ」


「俺は、まだあんたを許してねえ」


「ええ」


「でも、憎み切れてもねえ」


「ええ」


「だから……だから、勝手に綺麗に終わるなよ……!」


セラフィウスは、泣きそうなほど優しく微笑んだ。


「綺麗な終わりではありませんよ。私は多くを間違えました。多くを隠し、君にも苦しみを残しました」


彼は、消えかけた手をゆっくりと伸ばす。

カイの頬には触れられない。

けれど、その指先が通り過ぎた場所に、確かに温かな風が生まれた。


「それでも、最後に君の父でいられた」


セラフィウスの声が、少しだけ震える。


「それだけで、私の長すぎる時間には意味がありました」


カイは歯を食いしばる。

泣き崩れることもできず、怒鳴り続けることもできず、ただその場に立ち尽くした。


セラフィウスは、次に、光に包まれて消えゆこうとしているアーロンへ向き直った。


今、アーロンはマリユスの観測によって、自由意志の粒子へと昇華されつつあった。

個としての輪郭が薄れ、世界全体へ再分配されようとしている。


だが、セラフィウスは知っていた。


アステリオスの設計した終端条件には、一つだけ足りないものがある。


それは、システムの一部でもない。

神の欠片でもない。

演算で導ける条件でもない。


純粋な、他者からの愛だった。


「アーロン」


セラフィウスの声に、アーロンが光の中で目を開く。


「君は、アステリオスの半身だと言われた。円環を破壊するための余白だと。自由意志のパルスだと」


セラフィウスの瞳に、かつてないほど峻烈な光が宿る。


「ですが、それはあくまでシステムの定義です」


彼は、消えゆく体でまっすぐにアーロンを見る。


全精神を研ぎ澄ませ、崩れゆく視界の中で、アーロンという存在を正面から焼き付ける。


「私は、観測者セラフィウスの名において、円環の理を拒絶する」


空間が、震えた。


「君を、アステリオスの残滓とは認めない。

 君を、円環を壊すための部品とは認めない。

 君を、誰かの罪の後始末として定義することを、私は拒絶する」


カイが、息を呑む。


ミーティアが、胸の前で両手を握りしめる。

マリユスが、静かにセラフィウスを見つめていた。


それは、彼が数千年をかけて辿り着いた、神への最初で最後の反逆だった。


「君は、君だ」


セラフィウスは言った。


「私の息子カイと肩を並べ、泥にまみれて戦った。

 恐れながらも自分の力を選び取った。

 仲間のために立ち、最後まで自分の名で歩いた」


彼の声が、深く、強くなる。


「一人の、勇敢な人間だ」


アーロンの光が、わずかに揺れた。


「私はここに、君という個体の実在を確定させる」


その瞬間、昇華されようとしていたアーロンの光の粒子に、微かな重力が宿った。

ただ世界へ霧散するはずだった自由意志の粒子が、ひとつの中心を持ち始める。


セラフィウスが、他者としてアーロンを観測した。


アステリオスの残滓ではなく。

円環の余白でもなく。

自分の息子の隣で生きた、一人の少年として。


その観測が、アーロンの魂を、ただ霧散するエネルギーから、再び形を成しうる生命の種子へと変質させていく。


「……セラフィウス」


光の中で、アーロンが目を見開いた。


彼を縛っていた部品としての運命が、セラフィウスの最後の観測によって、人間としての権利へ書き換えられていく。


「行きなさい、アーロン。マリユス」


セラフィウスは、穏やかに言った。


「そこから先は、もう記録のない世界です」


セラフィウスは、最後にカイを見る。


「カイ」


その声は、もう風に近かった。


「良い人生を」


「親父……!」


カイが、手を伸ばす。


セラフィウスもまた、消えかけた手を伸ばした。

触れられない。


けれど、確かにそこにあった。

父と息子のあいだに流れた、触れられない温度。


「生きなさい」


セラフィウスは、微笑んだ。


「私の分まで、ではありません」


カイの瞳が揺れる。


「君自身の人生を」


その言葉を最後に、最古の観測者は、輝く塵となって空間に溶け込んだ。

カイが掴もうとした空気は、ただ温かな風となって、彼の頬を通り過ぎていく。


「親父ーーーーーッ!!」


カイの叫びを飲み込むように、中枢の白光が爆発した。



system_loop : 64 / complete

grace_system : unstable


observer_core : removed

subject_no.33 : human / released


subject_AARON : signal detected

birth_probability : possible


meteora_core : fading

life_span : near end


opening final worldline


world : singular

time : one-way



円環は、完全に解体された。


アステリオスの呪いも。

セラフィウスの保留も。

選ばれなかった履歴を押し潰してきた、閉じた正解も。


すべてが、過去へと流されていく。


マリユスは、消えゆく意識の中で、セラフィウスが残した重力を感じ取っていた。


アーロンを、ただの粒子として消さないための観測。

システムが要求していなかった、最後の定義。

他者が他者を、人間として見ること。


「……なるほど」


マリユスは、かすかに笑った。


「これが、計算外の……愛という()()か」


その声には、もう皮肉だけではない温度があった。


「……悪くない」


光が、すべてを塗りつぶしていく。

意識が遠のく。


アーロン。

マリユス。

ミーティア。

カイ。

クリスティーナ。


五人の体は、崩壊する情報の繭に包まれ、新しく再構成された明日という名の世界へ放り出されていった。


そこには、もう、決められた運命などどこにも存在しなかった。

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