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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
64/67

第63周 最後の約束

世界は静かだった。


あの巨大な円環も、幾重にも重なっていた光の層も、もうどこにもない。

世界を閉じ込め、繰り返し、維持し続けてきた構造は、跡形もなく失われていた。

その場所にはただ、何かが確かに在ったという名残だけが、空洞のように静かに残されている。


夕暮れの丘。


風が吹いていた。


地下深部にあった冷たい静寂ではない。

草を揺らし、頬を撫で、遠くの匂いを運んでくる、地上の風だった。


空は橙色に染まりきっている。


西の地平に沈みかけた太陽が、世界の輪郭をやわらかく溶かし、薄紫と群青を少しずつ混ぜ込みながら、空そのものを静かに夜へ渡していく。


流れる雲はゆっくりとしていて、急ぐものは何ひとつなかった。

丘の草は金色の光を受けて波のように揺れ、そのあいだに、あの青い花が点々と咲いている。


地下にあった時とは違い、ここではそれが異物には見えなかった。

むしろ、昔からこの風景の一部だったかのように、花たちは夕暮れの色彩の中へ自然に溶け込んでいた。


マリユスは、その景色を見て、しばらく言葉を失った。

理論で説明することも、構造として整理することもできなかった。


ただ、美しいと思った。


それだけのことが、こんなにも遅く、自分の内側に届くのかと、彼はほとんど戸惑いに近い気持ちでその感覚を受け止めていた。


「……きれいだな」


ようやくこぼれた声は、自分でも驚くほど静かだった。


研究者の声ではなかった。

分析でも評価でもない。


ただ、目の前の光景に心を動かされた、一人の青年の声だった。


隣で、ミーティアが微笑んだ。


「ここ、好きなの」


その声音はやわらかかった。

マリユスは頷いた。


「分かる気がする」


彼は丘の上へ腰を下ろした。

草はまだ昼の熱を少しだけ残していて、そこへ触れると微かなぬくもりが掌に移る。

ミーティアもその隣へ、ゆっくりと座った。


互いの肩が触れるか触れないかの距離。

けれど、そのわずかな間に流れている沈黙は、不思議なくらい心地よかった。


風が吹く。


草が揺れる。


青い花が波打つ。


その音だけで、十分だった。

長い間、二人は何も言わなかった。

言葉を探していたのではない。


ただ、今この瞬間が確かにここにあることを、壊さないように受け止めていた。


やがて、ミーティアが静かに口を開いた。


「マリユス」


「うん」


「私……」


そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。

その笑顔は柔らかく、穏やかで、マリユスがこれまで見てきたどの表情よりも人間らしかった。


けれど同時に、どこか遠くを見ているような静かな寂しさも宿していた。

夕暮れの空と同じ色を、その笑みは持っていた。


「もう、長くないみたい」


その言葉は、あまりにも静かに落ちた。

風の音が、一瞬だけ遠のいたように感じる。


マリユスは顔を上げた。


心臓が、ひどく不規則に脈打っているのが分かった。

だが、それを表に出すことはしなかった。

出した途端、何かが決定してしまう気がした。


「……どういう意味だ」


声は保てていた。少なくとも、自分ではそう思った。


ミーティアは夕焼けの空を見上げた。


西の空の橙は、もうほとんど燃え尽きかけている。

そこへ青と紫が、静かに、けれど確実に混ざっていく。


夜は急がない。


ただ、いつの間にか世界を満たしてしまう。


「円環が消えたから……私はもう、システムを維持するための装置じゃない」


ミーティアは言った。


「ようやく、あなたと同じ、不完全で、有限の、完全な人間になれた」


不完全で、有限で、だからこそ完全な人間。

マリユスは、その言葉を理解してしまう。


円環の中で保たれていた存在は、確かに壊れにくい。

だが、それは持続のための機構にすぎない。

マリユスの脳裏に消えていったセラフィウスの記憶が蘇る。


ミーティアは静かに続けた。


「でもね、私は装置として長く存在しすぎたの。存在してはいけない器が、自然の摂理に還ろうとしているだけ」


その横顔は穏やかだった。

自分の終わりを語っているはずなのに、不思議なくらい静かだった。


「……長くは存在できない」


マリユスの指先が、わずかに震えた。


風のせいではない。

彼は努めて冷静な声を選んだ。


問いの形を取らなければ、この時間に耐えられない気がした。


「どれくらいだ」


ミーティアは、少しだけ考えるように小首を傾げた。

その仕草は、残酷なほど無邪気だった。


「……たぶん」


彼女は空を見た。

沈みかけた太陽の輪郭は、もう半分以上地平線に呑まれている。


「今日、この太陽が沈みきるまで」


風が、強く吹いた。

丘の草がいっせいに波打つ。


青い花が揺れ、花弁が擦れ合う小さな音が、世界の静けさをむしろ深くした。


マリユスは目を閉じた。

胸の奥で、何かが痛んでいる。

物理的な痛みではない。

名前をつけようとすれば逃げてしまう類いの感情だった。


失いたくない。

そう言えば簡単だった。


けれど、その言葉だけでは足りない気がした。


愛と呼ぶには、まだ自分の内側で整理が追いついていなかった。

ただ確かなのは、今目の前で終わろうとしているものが、自分にとってかけがえのない存在であるということだけだった。


「でもね」


ミーティアの声は、夕陽の最後のぬくもりのようにやわらかかった。


「帰ってこられた。それで十分」


彼女は笑う。

その笑みは、諦めではなく、本当に満たされた人のものに見えた。


「これ以上の贅沢を望んだら、世界に叱られちゃう」


「どこに……」


マリユスは言った。

喉の奥が少しだけ詰まる。


「どこへ帰ってきたというんだ」


「帰りたかった場所」


ミーティアは即座に答えた。


「風があって、夕暮れがあって、誰も傷つかない、静かな場所」


そこで彼女は一度言葉を切り、ゆっくりとマリユスの方を見る。


「そして、あなたも一緒だった」


マリユスは何も返せなかった。胸の奥の痛みが、鈍く熱を持って広がっていく。

彼は言葉を探し、ようやく、わずかに掠れた声で言った。


「……そうか」


それだけで、十分なはずだった。

けれど、足りなかった。


「それなら、悪くない人生だったな」


ほんの少しだけ、自嘲めいた笑みが混じる。


「……いや、人生なんて呼べるほど、まともな時間じゃなかったかもしれないが」


ミーティアは、くすりと笑った。


「人生じゃないよ」


その笑い声は小さく、けれど確かに生きていた。


「何周分もある、もっともっと長い、私たちの積み重ね」


二人は顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑った。

その笑いは風に乗り、丘の下へ流れていく。

たぶんもう二度と戻らない、たった一度の笑いだった。


太陽が、地平の向こうへ完全に沈んだ。

空の橙は深い紫へ変わり始め、遠くの雲の縁だけが最後の光をわずかに残している。


風は、さっきより少し冷たくなっていた。


昼の名残が離れていき、世界が夜へ移っていく。


「怖くないよ、マリユス」


ミーティアの声は、少しずつ細くなっていた。

糸のように頼りなくなっていくその声を、彼は必死で聞き取る。


「ああ」


マリユスは、おそるおそる手を伸ばした。

彼女の細い手に触れる。


握る。


まだ温かかった。


血が通っている。

鼓動を持っている。

この世に確かに存在している人間の温度だ。


そのぬくもりがあるうちに、覚えておきたかった。


理論でも記録でもなく、皮膚が直接知る形で。


「ありがとう」


ミーティアが言う。


「私を見つけてくれて。最後まで、諦めないでいてくれて」


マリユスは首を振った。言葉にする前に、一度だけ深く息を吸う。


「君がいたから、私は正気を保てた」


彼は、彼女の手を握る力を少しだけ強めた。


「この虚無みたいな世界で、君だけが真実だった」


ミーティアは、少しだけ目を細めた。

泣きそうにも見えたし、安心したようにも見えた。


また、沈黙が訪れる。


だが今度の沈黙には、終わりの気配が混じっていた。

夕陽の名残は消え、東の空に、最初の星がひとつ灯る。


まだ暗くなりきらない群青の中で、それは驚くほど強く、静かに輝いていた。

ミーティアはゆっくりと目を閉じ、また開いた。


瞼が重くなっているのが分かる。


輪郭も、少しずつ薄れているように見えた。

夜風が吹くたび、彼女はこのまま風にほどけてしまうのではないかと、マリユスは本気で恐れた。


「世界……ちゃんと進むかな」


その問いは、自分がいなくなった後の未来を案じる声だった。

消えていく者の言葉なのに、最後まで彼女は世界を気にかけている。


そのやさしさが、たまらなく痛かった。

マリユスは空を見上げた。


一番星のすぐ近くに、まだ淡い青を残した空が広がっている。


円環の閉じた光ではない。


本物の夜の入口だった。


「進む」


彼は自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。


「自由になったんだ。円環に定められた運命からも、繰り返される昨日からも」


言葉を選ぶ。


それは、未来へ向けての誓いでもあった。


「……不自由で、残酷で、けれど新しい明日へ。この世界は進み始める」


ミーティアは、満足そうに深く頷いた。

そして震える手を持ち上げ、マリユスの頬に触れる。


冷え始めた夜の中で、その指先だけがまだ柔らかい熱を持っていた。


 最後の体温。


 最後の、現実。


「やっと……同じ時間にいられると思ったんだけどな」


彼女は微笑んだ。


「あなたはアステリオス(原典)のコピーなんかじゃない。たった一人のマリユスよ」


泣いていない。

ただ、少しだけ名残惜しそうだった。


「あなたと、同じ速度で年をとって……同じように、季節を数えて……」


その先は、言葉にならなかった。

身体が重くなっていくのだろう。


重力という、生きている者だけが受け取る不自由な重みが、今は彼女を静かな眠りへ連れていこうとしていた。


ミーティアは、ゆっくりと瞼を閉じる。

マリユスは、その今にも壊れそうな身体をそっと抱き寄せた。

強く抱きしめなければ、彼女は夜風と一緒にどこか遠くへ行ってしまいそうだった。


世界がようやく自由になったこの場所で、彼は初めて、自分がこれほど執着を持つ人間だったのだと知る。


「……完全ではない世界は、美しいはずだったのに」


その声は、自分でも意外なほど震えていた。

円環という完全な秩序を壊せば、その先に待っているのは解放だと信じていた。


けれど実際にあったのは、幸福だけではない。


失われるものは失われる。

救えないものは救えない。

戻らないものは、戻らない。


完全が壊れた先に待っていたのは、容赦のない現実だった。

その現実の中で、それでもこの世界は美しいのだと、今はまだ言い切れなかった。


「だから……あなたは残されたの」


ミーティアの唇が、最後の吐息とともにかすかに動く。


「その美しさを……誰も見届ける人がいない世界にしないために」


マリユスは彼女を見た。

もう瞼は開かない。

けれどその顔には、恐れも苦痛もなく、ただ穏やかな静けさだけがあった。


「……私の代わりに、見て」


マリユスは、彼女を抱きしめたまま、深く頷く。


「……ああ」


声が、喉の奥で震えた。


「約束する」


彼女は少し笑った気がした。

マリユスの腕に、ゆっくりと彼女の重みが預けられていく。


丘は、ふたたび静寂に包まれた。

風だけが吹いている。


草が揺れる。


マリユスは、しばらく動かなかった。

腕の中にある温もりが、少しずつ、ゆっくりと冷たくなっていく。


その変化を、彼は拒めなかった。受け止めるしかなかった。


彼はそっと腕を緩め、彼女の顔を覗き込む。睫毛の先まで、ただ穏やかだった。

眠っているようにしか見えない。


その静かな顔が、かえって残酷だった。


風が吹く。


丘を埋める青い花が、いっせいに揺れた。


その音は、まるで世界が新しく息をし始めたようにも聞こえた。


マリユスは、ゆっくりと立ち上がった。

腕の中から失われた重みの代わりに、胸の中へ別の重さが沈んでいる。

悲しみと呼ぶには広すぎて、喪失と呼ぶには静かすぎるもの。


だがたぶん、これを抱えたまま生きていくのだろうと、彼は直感していた。


夜空を見上げる。


どこまでも広い宇宙。群青の空に星が増え始めている。

そのひとつひとつは小さいのに、世界が確かに先へ続いていることだけは、はっきりと示していた。


冷たい風が頬を撫でる。


その感触が、自分がまだ生きているのだと告げてくる。


「……未来、か」


小さく呟いた声は、風にすぐ攫われた。


だが、その視線の先には、今までそこになかった青い星がひとつ、静かに光っていた。


どんな宝石よりも。

どんな円環の光よりも。


強く、静かに、そして澄んで。


マリユスは一歩、踏み出した。


青い花を踏みしめる。

花弁は壊れず、やわらかく揺れただけだった。


彼女を抱きしめ、丘を降り始める。


夜が明ければ、そこには新しい太陽が昇るはずだ。

失ったものを抱えたまま、それでも進むしかない、たった一度きりの明日。


彼が守り、彼女が愛した、この不完全で、残酷で、けれどどうしようもなく美しい世界を照らすために。



挿絵(By みてみん)

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