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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
59/67

第58周 統合される魂

――刹那。


世界が反転した。


マリユスの視界から色が消えた。

代わりに流れ込んできたのは、奔流のような情報だった。


それは映像ですらない。音でも、言葉でも、記憶でもない。

概念の濁流だった。


生まれた瞬間の自分。

戦場で泥を啜りながら死んでいった自分。

学士として円環の謎を解き明かそうとし、狂気に呑まれた自分。

王の傍らで記録を書き続けた自分。

処刑台で最後まで空を見上げていた自分。

そもそも、この世に生を受けなかったはずの、可能性の自分。


幾通りものマリユスという名の個体が経験した絶望と希望、愛別離苦のすべてが、彼の精神の一点へ凝縮されていく。


壊れる。


人間の器では耐えられない。

それでも、情報は止まらない。

そして、その奔流の果てに。


彼は見た。


システムを構築し、永遠の孤独の中で正解を待ち続けていた、神の成れの果て。

()()()()()()()()()()()を。


「ぐ、あああああッ!!」


マリユスの膝が崩れた。

これまで一度も乱れることのなかった彼の精神が、情報の過負荷によって悲鳴を上げている。


「おい、しっかりしろ! マリユス!」


カイが駆け寄ろうとする。

だが、マリユスの周囲に発生した時空の歪みに弾き飛ばされた。


「ぐっ……!」


カイの身体が床を滑る。

すぐに起き上がろうとするが、空間そのものが彼を拒んでいた。


「近づくな!」


セラフィウスの声が飛ぶ。


彼は動かなかった。

ただ、峻烈な眼差しで、その変質を見届けている。


知っていたのだ。


この過酷な統合こそが、円環を終端へ導くために避けられない道であることを。


マリユスは床に片手をつき、激しく喘いだ。

無数の人生が、彼の内側で暴れている。


 泣き叫ぶ声。

 怒り。

 祈り。

 悔恨。

 まだ終われないという執着。

 もう終わらせてほしいという願い。


 それらが、一斉に彼を引き裂こうとする。


 だが。



マリユスは、取り乱さなかった。

流れ込んでくる天文学的な量の記録を、単なる感情として受け止めることをやめた。


感情を捨てたのではない。

感情ごと、構造として読み替えた。


 悲しみには、原因がある。

 怒りには、向きがある。

 祈りには、座標がある。

 後悔には、必ず分岐点がある。


マリユスはそれらを一本ずつ拾い上げ、絡まり合った因果の線をほどいていく。

膨大な履歴を、ただの負荷ではなく、ひとつの巨大な地図として再構成していく。


やがて、呼吸が整った。


彼がゆっくりと顔を上げる。

その瞳からは、先ほどまでの空虚な無機質さが消えていた。


代わりに宿っていたのは、星々を俯瞰するような、冷徹で広大な叡智。

そして、そのさらに奥底に、かすかだが、確かに消えずに残る、人間の灯。


「……なるほど」


マリユスが呟いた。


「そういうことか」


その声は、マリユスのものだった。

だが、先ほどまでとは響きが違う。


機械の処理音ではない。

完全な観測者の声でもない。

すべてを知ってなお、なお自分の言葉で語ろうとする者の声だった。


「私は、システムによって作られた駒ではなかった」


彼は立ち上がる。


その背後に、アステリオスの残影が一瞬だけ揺らいだ。

だが、それはマリユスを呑み込まない。

ゆっくりと、彼自身の影へ溶け込んでいく。


「私は、この場所へ辿り着くために、断片化され、再構築され、戻されていた」


マリユスは、自らの手を見つめた。

その指先が、空間の法則を書き換えるように微かに震えている。


「六十四回目」


彼は、静かに言った。


「この周回で、ようやく条件が揃った」


その言葉が放たれた瞬間、中枢の空気が一変した。

重苦しい圧迫感が消え、代わりに張り詰めた、研ぎ澄まされた静寂が訪れる。

マリユスの変質は、空間そのものを塗り替えていくようだった。


彼を中心にして、逆流していた黒い泥――崩壊残滓が、目に見えない力に押し留められる。


波が止まる。


異形の群れが、彼へ向かって凍りついたように停止する。


「同期、完了」


マリユスが短く告げた。


「全履歴を、現在座標へ仮固定する」


彼の全身から、淡い光が放射された。


それは神聖な白ではない。

アーロンの空白とも違う。


深く、澄んだ青白い光。


すべてを拒絶する光ではなく、散らばった記録を正しい場所へ戻すための光だった。


迫り来ていた異形たちが、その光に触れた瞬間、粒子へと分解されていく。


消滅ではない。


還元だった。


泥の中で絡まり合っていた複数の人生が、一本ずつほどけ、元のログデータへ戻っていく。


「……すげえ」


カイが呆然と声を漏らした。


先ほどまで手も足も出なかった絶望の群れを、マリユスはただそこに立つだけで止めていた。

異形の一体が、断末魔のようなノイズを上げてマリユスに飛びかかる。

だが、マリユスは視線すら向けない。


軽く指先を振る。

それだけで、異形の周囲の空間が数式のように展開された。


構成要素が分解される。

矛盾した履歴が切り分けられる。

重なり合っていた声が、ひとつずつ別の記録層へ戻されていく。


存在そのものが、静かに整理されていった。


その戦い方は、もはや戦闘ではなかった。管理者による、エラーの修正。


感情を排した最適解に見える。

だが、先ほどとは違う。


無慈悲な削除ではない。

苦しみ続けていた記録を、あるべき場所へ返すための処理だった。


「マリユス……」


ミーティアが、祈るように彼を見つめる。


膨大な記憶を受け入れた彼の瞳には、かつてない深淵が宿っていた。

けれど、その奥底に、彼女の手が伝えた温もりの残滓が、消えずに灯っている。

ミーティアには、それが分かった。


マリユスは、もう一度崩壊残滓の波へ手をかざした。


「崩壊残滓、構成履歴を分離。未確定ログを保存層へ退避。現在座標への侵食を停止」


言葉と同時に、空間全体へ巨大な術式が走る。

青白い線が床を走り、壁を這い、天井の星図へ届く。


黒い泥が押し戻される。


異形たちが悲鳴を上げる。いや、悲鳴ではない。

解放される声だった。


『……戻れるのか』

『終わって、いいのか』

『私たちは……いたのか』


マリユスの瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「記録は確認した」


彼は静かに言った。


「おまえたちは、存在した」


その一言で、幾つもの残滓が光へ変わった。


クリスティーナが息を呑む。


「……今の、あんた」


マリユスは答えない。


けれど、少しだけ視線を彼女へ向けた。

その一瞬だけで、クリスティーナは分かった。


戻ってきたわけではない。完全に元の彼になったわけでもない。

でも、消えてもいない。


彼は、まだそこにいる。


マリユスはゆっくりと、中心構造の核へ向き直った。

先ほどまで彼を拒絶していたエラーログが、彼の接近に呼応して書き換わっていく。




[ SYSTEM NOTIFICATION ]

ADMINISTRATOR IDENTIFIED : ASTERIOS / MARIUS

MEMORY SYNC RATE : 99.9%

STATUS : [ ACCESS GRANTED ]




赤かった警告文字が、青白い承認表示へ変わる。

中心構造が、深く鳴動した。


「もう一度、中枢を開く」


マリユスの鋭い声が、崩壊の轟音を貫いた。


「アーロン、カイ、ミーティア」


三人は一瞬、その覇気に圧倒される。

だがすぐに、覚悟を決めた顔で彼の傍らへ駆け寄った。


アーロンは、自分の中にある余白の意志を研ぎ澄ませる。


観測されても、固定されない。

どこにも完全には属さない。

だからこそ、円環の外側から選ぶことができる。


カイは、王族の血が脈打つ手を握りしめた。


望んだ血ではない。

望んだ運命でもない。


だが今は、その血で守れるものがある。


ミーティアは、胸元へ手を当てた。


恩寵としてではなく。

システムの核としてでもなく。


人が何を残したいかを願う、一人の人間として。


四人は互いの顔を見合わせる。


カイが頷く。

ミーティアが微笑む。

マリユスが、静かに視線を落とす。


最後に、アーロンが言った。


「……行こう」


四人が同時に、中枢の核へ手をかざした。


 王の血。

 巫女の願い。

 統合された観測。

 そして、自由意志の余白。


欠けていた最後のピース――マリユスの統合が嵌まった瞬間。


世界を縛っていた円環の鎖が、音を立てて砕け散った。



PHASE SHIFT : CONFIRMED.

FINAL GATE : OPENING.



中心構造が、眩いほどの白光を放ちながら、ゆっくりと左右に裂けていく。


その奥に広がっていたのは、情報の海でも、記録の層でもなかった。


まだ誰も見たことのない、純粋な無。

そして、そこから生まれる無限の可能性。


円環の心臓部。


光に飲み込まれながら、アーロンは最後の一歩を踏み出す。


円環の謎。

その終焉。


すべての答えが待つ、本当の核心へと。

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