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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
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第57周 崩壊残滓

空間が、断絶した。


地震のような震動ではない。


光の粒子が物理的にずれ、景色が断層のように食い違っている。

床と壁の境目が噛み合わず、天井にあるはずの星図が足元に映り、前方の通路が一瞬だけ過去の市場へ変わって、すぐに黒いノイズへ戻った。


「……音が、おかしいわ」


クリスティーナが耳を塞いだ。


空間に響くエラー音が、不自然に逆再生されている。

高音のノイズが何層にも重なり、耳の奥を掻きむしるような不協和音となって膨れ上がっていく。


中空に浮かぶホログラムが真っ赤に染まり、無機質な警告を吐き出し続けた。


『エラー拡大』

『未確定要素増加』

『再配置不能』

『保存層逆流』

『崩壊残滓、流出』


「来る……!」


クリスティーナの叫びと同時に、中枢の壁面――いや、壁面であるはずの虚空そのものが、ひび割れた。


裂け目から滲み出してきたのは、どろどろとした黒い泥のような質量だった。


それは床を這い、重く、粘りつく音を立てながら広がっていく。

そして、急速に形を成し始めた。


「……なんだよ、これ」


カイが短剣を握り、顔をしかめた。


そこに現れたのは、人の形をしたものだった。


だが、人ではない。


頭部が二つ重なっている。

片方は笑っていて、片方は泣いている。

腕は途中から数式のようにぶれ、膝から下だけが別の時代の兵士の足になっている。

腹部には子どもの顔が浮かび、次の瞬間には老人の皺だらけの手へと変わった。


何層もの異なる人生を、無理やり一つの器に詰め込んだような、悍ましい造形だった。


『……ああ、今日は……良い天気だ……』

『助けて、熱い、誰か、死にたく……』

『位相固定、完了。次は……』

『お母さん、どこ……』

『観測対象、破棄。破棄。破棄……』


複数の声が、同時に漏れ出す。


一瞬だけ、普通の町娘の顔に戻ったかと思えば、次の瞬間には巻き戻された映像のように、首が折れる瞬間だけを何度も繰り返す。

老人の口から赤子の泣き声が漏れ、兵士の胸から祈りの言葉が零れた。


「記録です」


セラフィウスが、悲痛な声で言った。


「円環が、救済のために削り捨て……それでも消しきれなかった、過去の残骸です」


「――排除する」


冷徹な声が響いた。


マリユスだった。


その瞳から、感情の色はほとんど消え去っていた。

ただのレンズのように、無機質に異形を映している。


彼は一歩、前へ出た。


襲いかかる崩壊残滓に対し、マリユスは最短距離、最小限の動きで指先をかざす。


瞬時に幾何学的な術式が展開した。

星図のような円、鋭角に折れ曲がる線、圧縮された光の刃。


それらは一切の迷いなく、異形の核を貫いた。


叫び声すら上げさせない。


黒い泥が裂け、記録の断片が光の粉となって弾ける。

だが、その処理には情念がなかった。


怒りもない。

哀れみもない。

躊躇もない。


ただ、異常値を削除するための効率だけがあった。


マリユスは、次の個体へ向き直る。


「崩壊残滓、情報核を確認。削除」


言葉と同時に術式が走る。


一体、二体、三体。


彼は圧倒的だった。

彼の強さは頼もしいはずなのに、カイの背筋を本能的に冷やした。


「……あいつ、本当にマリユスか?」


「集中して、カイ!」


アーロンが叫び、歪む空間へ踏み出した。


崩壊残滓の一体が、床を這うように彼へ迫る。

首のない身体から無数の手が伸び、アーロンの足首を掴もうとした。


アーロンは横へ跳んだ。


だが、空間がずれる。


避けたはずの腕が、次の瞬間には目の前に現れた。


「っ!」


反射的に身を引く。

黒い指先が頬をかすめ、そこに冷たい痺れが走った。


一瞬、視界が別の場所へ飛ぶ。


燃える村。

泣き叫ぶ子ども。

誰かの手を離した感触。

自分ではない誰かの後悔。


アーロンは歯を食いしばった。


残滓に触れた部分から、存在そのものが別の記録へ引きずり込まれそうになる。


「右よ! アーロン!」


ミーティアの声が飛んだ。


彼女の目には、異形の中心で脈打つ偽りの心臓が見えていた。

それは肉ではない。記録(ログ)の結び目だ。


「そこが情報の起点! 胸の奥、青黒く光ってるところ!」


「了解!」


カイがその指示に合わせて飛び込む。


足元の石畳が波打つ。

カイは崩れかけた床を蹴り、短剣を逆手に持ち替えると、異形の懐へ滑り込んだ。


「うらあッ!」


短剣が黒い胸を貫く。


だが、手応えがない。


肉を裂く感触ではない。

水底に沈んだ記憶を刺したような、気味の悪い空虚な抵抗だけが手に残る。


「くそ、浅い!」


「そのまま押さえて!」


クリスティーナが携帯端末を叩く。

展開された解析窓が、赤い警告で埋まった。


「解析終了! これ、単なるモンスターじゃない。情報の凝集体よ! 通常の物理攻撃じゃ、リソースを削りきれない!」


「先に言えよ!」


「今分かったのよ!」


カイが叫び返すより早く、異形の背中から別の腕が生えた。

槍のように伸びた黒い腕が、カイの脇腹を狙う。


「カイ!」


セラフィウスが古代の封印術式を展開した。


地面から光の鎖が伸び、異形の腕を縛り上げる。

同時に、王家の紋章を模した封印陣が床に刻まれ、崩壊残滓の動きを一瞬だけ止めた。


だが、鎖は黒いログに触れた瞬間、じゅう、と嫌な音を立てて腐食し始める。


「長くは持ちません!」


「十分だ!」


カイが短剣を捻り、異形の胸を割った。

ミーティアが示した偽りの心臓が露出する。


そこへ、アーロンが踏み込んだ。


彼の手の中で、見えない何かが震える。


 虚数魔法。


これまで、それは勝手に起きるものだった。


恐怖した時。

追い詰められた時。

見たくないものを見てしまった時。


世界の方が勝手にほどけ、敵が消えていく。

自分の意思とは無関係に、何かが無へ落ちていく。


けれど、今は違った。


アーロンは逃げなかった。


異形の核を見た。

そこに絡みつく無数の人生を見た。

削られ、捨てられ、存在しなかったことにされたものたちを見た。


消していいのか。


一瞬、手が止まる。


これは敵なのか。

それとも、助けを求める声なのか。


黒い核の中から、幼い声が漏れた。


『……見つけて……』


アーロンの胸が痛む。


だが、その瞬間、彼は理解した。


虚数魔法は、憎しみで撃つ力ではない。

存在を否定するためだけの力でもない。


歪められたものを、これ以上苦しませないために。

固定されるべきでない形を、静かにほどくために。


自分が、選んで使う力だ。


「……ごめん」


アーロンは小さく呟いた。


「でも、これ以上、その形で苦しまなくていい」


彼の瞳の奥に、深い緑の光が灯る。

世界の輪郭が、静かに反転した。


音が消える。

時間が細くなる。

崩壊残滓の核だけが、黒い点として浮かび上がる。


アーロンは手を伸ばした。


「虚数定義――反転」


その言葉は、初めて彼自身の意思で発された。


黒い核が、ぴたりと止まる。


次の瞬間、核の周囲にあった数式が裏返った。

存在を支えていた線が、一本ずつ白く反転していく。


消滅ではない。


ほどける。


無理やり重ねられていた人生の層が、一枚ずつ分離し、青白い光の粒となって空へ昇っていく。


『……ああ』

『やっと……』

『もう、いいの……?』


声が、少しだけ穏やかになる。


異形の身体が崩れ、最後に小さな花弁のような光が残った。


アーロンはそれを見届け、ゆっくりと息を吐いた。


カイが目を見開く。


「お前……今、自分でやったのか?」


アーロンは、震える手を見た。


「……うん」


声は小さかった。けれど、確かな輪郭があった。


「選んで、使った」


ミーティアが、泣きそうに微笑んだ。


「アーロン……」


だが、安堵する暇はなかった。

床の裂け目から、さらに大量の黒い泥が噴き上がる。


倒したはずの異形が、再び黒い泥を吸い上げ、別の形で立ち上がっていく。

一体をほどいても、保存層から次々に残滓が溢れ出してくる。


「……倒しても意味がないわ、これ!」


クリスティーナが悲鳴に近い声を上げた。


「元がログなのよ! ストレージが溢れ出してるんだから、蛇口を閉めなきゃキリがない!」


「終わってないから……」


ミーティアが、悲しげに呟いた。


「彼らの時間が、まだ終わってない。捨てられたままで、ずっとここにいたの」


セラフィウスが重く頷く。


「円環が続く限り、この犠牲は消えません。溜め込まれた無かったはずの過去が、今、現在の時間を食いつぶそうとしているのです」


空間の崩壊は加速した。


足元の石畳が砂のように崩れ、空中に浮かんだ記録線が次々と切れていく。

背後からは、さらに巨大な崩壊残滓の波が迫っていた。


それはもう、人の形ですらなかった。


町が燃える映像。

病室で消えていく命。

届かなかった手紙。

生まれるはずだった子どもの産声。

誰かが最後まで言えなかった「ありがとう」。


無数の未完の記録が泥となり、波となり、彼らを飲み込もうとしていた。


「このままじゃ全滅するわ! マリユス、何か方法は……!」


クリスティーナが叫ぶ。


だが、マリユスは答えない。

ただ淡々と、迫りくる敵を排除し続けていた。


「崩壊残滓、再生成確認。再排除」


術式が走る。

異形が砕ける。

泥がまた形を成す。


その繰り返し。

マリユスの姿は、円環を守るための機械そのものに見えた。


「どうすんだよ、このままだとあいつ、本当に機械になっちまうぞ!」


カイが焦燥に駆られて叫ぶ。


「……たぶん、これ。私、知ってる」


ミーティアが、静かに口を開いた。

だが、その声には確かな意志があった。


全員が彼女を振り返る。


「アーロン。私のペンダント……出してもらってもいい?」


アーロンは一瞬躊躇した。

けれどすぐに、ポケットからあのペンダントを取り出す。

ミーティアの手のひらに戻ったそれは、最深部の闇の中で、微かに、だが力強く脈動していた。


ミーティアはそれを見て、優しく微笑む。


「これを渡さなきゃ」


彼女の声は、崩壊の中でもまっすぐだった。


「彼に……心を戻すために」


「時間がありません」


セラフィウスが光の障壁を張り直し、異形の群れを押し留める。

だが、障壁の表面にはすぐに黒い亀裂が走った。


「ここは私が。カイ、クリスティーナ、援護を!」


「言われなくても!」


カイが短剣を構え直す。

クリスティーナが携帯端末の最後のリミッターを解除した。


「過負荷上等よ……! これで落ちたら、あとで全員に謝らせるから!」


端末から青白い補助術式が展開され、セラフィウスの封印陣を一時的に補強する。

三人がかりで崩壊残滓の波を受け止める中、最深部の中心で、ミーティアはゆっくりとマリユスへ向かって歩き出した。


アーロンは、その背中を見つめていた。

これが何を意味するのか、分かっていた。


黒い泥が、彼女の足元へ迫る。

アーロンは反射的に前へ出た。今度は、迷わなかった。


「行かせない」


彼は崩壊残滓の波を見据える。

恐怖はある。けれど、もう呑まれない。

虚数魔法は、勝手に暴れる力ではない。自分が選び、誰かを守るために使う力だ。


アーロンの足元に、薄い円が広がった。


青でも白でもない。

空白の色をした光。


「虚数定義――境界反転」


ミーティアへ伸びていた黒い泥の先端が、見えない線に触れた瞬間、音もなくほどけた。

そこにあったはずの攻撃だけが、存在の座標を失う。


崩壊残滓の波に、一筋の道が開いた。


カイが吠える。


「行け、ミーティア!」


ミーティアは振り返らなかった。

ただ、ペンダントを両手で抱きしめ、マリユスのもとへ進む。


「これは、私が初めてあなたからもらった座標鉤よ」


ミーティアの声が、ノイズだらけの世界に、一点の清流のように響いた。

マリユスの無機質な瞳が、微かに揺れる。


「最初から、全部分かってたのね。これがいつか、あなたへ戻るって」


彼女は、そっと微笑んだ。

悲しみを含んでいる。けれど、それだけではない。


覚悟があった。


「これは、あなたのものよ、マリユス」


ミーティアは、ペンダントを差し出す。

マリユスは動かない。


だが、その指先が、わずかに震えていた。


「……それを接続すれば」


彼の声が、ひどく低くなる。


「私は、全周回の記録と同期する可能性がある」


「うん」


「その結果、私という個体が維持される保証はない」


「うん」


「それでも、渡すのか」


ミーティアは、迷わず頷いた。


「あなたを機械にするためじゃない」


彼女は、ペンダントを彼の胸元へ近づける。


「あなたが、全部を思い出しても、それでも“今回のあなた”でいられるように」


その言葉に、マリユスの瞳の奥で、何かが激しく揺れた。

背後で、アーロンはただ見つめていた。


救済か。あるいは、さらなる地獄の始まりか。

まだ分からない。


光を帯びたペンダントが、マリユスの胸元へと導かれていく。

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