表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
48/67

第48周 残された者

会議室に残された静寂は、もう静寂ではなかった。


最初に異変として現れたのは、音だった。


低く、長く、骨の内側を擦るような警報音が、研究所のどこからともなく響いてくる。


一定の間隔で鳴っているように聞こえる。

だが、よく耳を澄ませると、その周期は少しずつずれていた。


早まっているのか。

遅れているのか。

それすら判然としない。


音そのものが、どこかで位相を踏み外している。


次に、光が乱れた。


会議室の壁面に浮かぶ記録灯が、ひとつ、またひとつと青白く瞬き、正常表示と異常表示を短い間隔で往復する。


窓のない部屋だというのに、天井の隅からは時折、稲妻のような白い線が走った。

床下を流れるはずの魔力導管が、悲鳴を上げている。


クリスティーナには、そう分かった。

そして、遅れて揺れが来た。


机上の記録板が細かく震え、棚の上に重ねられた資料束がぱらぱらと端をめくる。


目に見えるほど大きな振動ではない。

だが、その小刻みな揺れ方が不気味だった。

地震ならば、もっと物理的で、もっと素直だ。


これは違う。


建物ではなく、空間そのものが躓いているような揺れだった。


クリスティーナは、会議卓に片手をついたまま、深く息を吐いた。


「あの三人……まさか本当にやるとはね」


呆れ返ったような声だった。

だが、その声音には、ほんのわずかに笑いが混じっていた。


疲労。

諦め。

そして、半ば予想していたという感情。


それらが複雑に絡み合い、彼女の表情に薄い苦笑を浮かばせている。


部屋の向こうでは、セラフィウスが静かに警報灯の明滅を見つめていた。

そこに立つ彼は、もはや神父ではなかった。


穏やかな仮面の奥に封じ込めていた、古い責任。

長い年月のあいだ沈めていたはずの過去。


それが今、彼の横顔に、はっきりと戻ってきていた。


「ついに、恩寵を取り戻しましたか」


その声は驚きではなく、確認に近かった。

まるで、いつかこの瞬間が来ることを知っていた者の声だった。


「もはや私も、ここに残っている場合ではありません」


クリスティーナは顔を上げる。


「どういう意味ですか?」


机の上の記録板が、また一度だけ大きく明滅した。

表示された数値が乱れ、警告文が何重にも重なって走る。


位相同期率 低下。

補正演算 過負荷。

第四層恩寵接続 喪失。

ASTRA再構成 失敗。


エラー。

エラー。

エラー。


「……位相が乱れています」


クリスティーナは思わず声を張った。


「セラフィウス様も、早く避難してください!」


そう言いながら、彼女は自分が本気でこの男を避難させられるとは思っていなかった。


セラフィウスはもう、退く側の人間ではない。

彼は、終わりを知っている側の人間だ。


「いいえ、クリスティーナ」


セラフィウスは振り返った。

その目には穏やかさがあった。だが同時に、決して曲がらない決意もあった。


「私は、この顛末を見届けなくてはなりません」


会議室の外、通路の向こうから複数の足音が走り抜けていく。


研究員たちだ。誰かが叫ぶ声がした。


「第四層の接続が切れたぞ!」


「そんなはずがあるか! 保全系はどうした!」


「制御室と連絡が取れない!」


「マリユスは!? あいつ、今どこだ!」


その瞬間、クリスティーナは思わず口元を歪めた。


「……皮肉ね」


冷笑に近い声だった。


「今まで散々“陰謀論者”扱いして追放しようとしていたくせに、崩れ始めた途端、真っ先にあいつを探すのね」


吐き捨てるように言って、彼女は会議室の扉の方へ目を向けた。


廊下では、白衣姿の研究員たちが右往左往している。


普段は声を荒げることもなく、整然と記録と数式の中を歩いていた人間たちが、今は完全に統率を失っていた。


誰もが手元の記録板を睨み、浮かんでは崩れる数式を追いかけている。

その表情には、ようやく理解が浮かび始めていた。


青い花の異常発生。

位相の摩耗。

循環の限界。

世界の痩せ。


全部、マリユスが言っていたことだった。


信じなかったのではない。

信じたくなかったのだ。

だが現象がここまで来れば、もう否認はできない。


廊下の向こうで、若い研究員がほとんど悲鳴のような声を上げる。


「第五層の補正値が全部飽和してる! こんなの……こんなの理論上ありえない!」


「ありえないことが起きてるから鳴ってるんでしょ!」


「マリユスを呼べ! あいつなら何か分かるはずだ!」


「だから、そのマリユスがいないんだよ!」


クリスティーナは目を細めた。


あいつは今どこだ。誰もが、そう思い始めている。

つい先ほどまで異端扱いしていた男を、今になって探し回っている。


その滑稽さに、笑いそうになった。

けれど、笑えなかった。


なぜなら、その異端が今まさに、世界の最も深いところへ降りていることを、彼女だけが知っていたからだ。


「遅すぎるのよ」


小さく呟く。


「あいつはもう、とっくに答えの方へ行ってる」


セラフィウスは何も言わなかった。

ただ、その言葉を否定しなかった。


再び警報が鳴る。


今度は、会議室の壁そのものが薄く唸った。

白い石壁の継ぎ目が、ごくわずかに青く発光している。


クリスティーナが目を凝らす。

その光は、ただの漏電ではなかった。


花弁のような形が、石の隙間から内側へ食い込むように浮かび上がっている。


「……まさか」


彼女は一歩近づいた。


白い壁の継ぎ目に、青い花が咲いていた。


土も水もない場所だ。


研究所の内部。

しかも、会議室の壁面。


そこに花が咲くなど、物理的にはありえない。

だが、その花は確かにそこにあった。


薄い光をまといながら、風もないのに、ごく微かに揺れている。

セラフィウスがその花を見て、静かに言った。


「上まで来ましたか」


「……第四層だけじゃない」


クリスティーナの背中に、冷たいものが走る。


「侵食が始まってる」


「ええ」


セラフィウスは頷いた。


「恩寵が回収された以上、ASTRAは失われた礎の代わりを探して補正を加速させるでしょう」


「でも、補正するための燃料がない」


「その通りです」


セラフィウスの声は、あくまで静かだった。


「燃料を失った補正は、世界そのものを削る。もう、局所異常では済みません」


クリスティーナは記録板を手に取った。


表示された観測数値は、もはやグラフの体をなしていない。

座標は乱れ、時間軸は折れ、比較対象そのものが崩れている。


「……これ、補正じゃない」


自分でも気づかぬうちに、声が漏れた。


「崩壊の初期状態よ」


その言葉が、空気に落ちる。


セラフィウスは目を閉じた。

ほんの一瞬だけ、長い年月を背負ったような沈黙があった。


「そうです」


彼は静かに言った。


「世界はついに、自分を繋ぎ止めるための理屈を失い始めている」


廊下の向こうから、また別の叫びが上がる。


「第三層の保管記録が消えていくぞ!」


「消えてるんじゃない、順番が入れ替わってる!」


「違う! 同じ記録が二重にある!」


「何が本物なんだ!」


誰かが壁を叩いた。

誰かが祈りのような声で、古い保全術式を唱えている。

誰かが、ただ呆然と立ち尽くしていた。


アエリスは、崩れ始めていた。

それは塔が倒れるような、派手な崩壊ではない。


記録と整合性で築かれた巨大な知性の箱が、内側から順番に意味を失っていく。


クリスティーナはその光景を見て、ふいに可笑しくなった。


「ほんと、皮肉だわ」


今度は、もう少しはっきりと笑った。


「“世界は記録で保たれている”なんて、研究所中で誰より本気で信じてた連中が、記録の崩れ方ひとつでこんな顔をするなんて」


「信じていたのではなく、依存していたのです」


セラフィウスが静かに言った。


「記録がある限り、世界は壊れない。そう思い込んでいた」


「でも、壊れる」


「ええ」


セラフィウスは、壁に咲いた青い花を見つめた。


「観測は、永遠ではありません」


その声を聞いて、クリスティーナはようやく、この男の言葉の重さを理解し始めた。


セラフィウスは知っている。

昔から知っていたのだ。

観測者が世界を固定し続けた先に、何が待っているのかを。


「……あなたも、世界の真実を知りたくはありませんか?」


先ほどの言葉を、セラフィウスはもう一度繰り返した。


今度は、より静かに。

クリスティーナは、すぐには答えなかった。


知りたいに決まっている。

研究者になった時から、ずっとそうだった。


未知を見たい。

仕組みを知りたい。

真実に触れたい。


だが今、その願いは単なる知的好奇心では済まない場所まで来ている。


真実を知ることは、そのまま世界の終わりを見ることかもしれない。


それでも。


「……知りたいですよ」


彼女は記録端末を胸に抱えたまま答えた。


「ここまで来て、知らないまま終われるわけないでしょう」


セラフィウスが微かに頷く。


「なら、一緒に行きましょう。彼らのもとへ」


「私にも役目がある、という話でしたね」


「ええ」


「何ですか、私の役目って」


セラフィウスは、会議室の壁に咲いた青い花を見つめたまま答えた。


「記録することです」


クリスティーナは眉を寄せる。


「記録?」


「世界が終わるなら、誰かがそれを見て、言葉として残さねばならない」


静かな声だった。

だが、その言葉は奇妙なほどまっすぐ彼女の胸に届いた。

セラフィウスはそこで一度、クリスティーナを見た。


「アーロン、カイ、マリユス 。そして恩寵......ミーティア。彼らは、世界の構造そのものに触れる側の人間です」


「……私は違うってこと?」


「違うのではありません」


セラフィウスは、わずかに首を振った。


「役割が異なるのです」


クリスティーナは黙った。

セラフィウスは続ける。


「構造の中に入ってしまった者は、時に全体を語れない」


「だから、外から見る人間が必要だって?」


「いいえ」


セラフィウスは、静かに否定した。


「外ではありません」


彼の声が、少しだけ深くなる。


「ぎりぎりまで中へ近づきながら、それでも“人間の言葉”で記録できる者が必要なのです」


クリスティーナは、思わず記録端末を強く握りしめた。


「私が、書くの」


「あなたが残すのです」


その一言で、何かが決まった気がした。


研究者としてではない。

補佐役としてでもない。

誰かの理論を整理するためでも、誰かの失敗を記録するためでもない。


最後に、見たものを残す者として。


自分はここにいる。


廊下の向こうで、また大きな悲鳴が上がった。


今度は会議室の天井灯が一斉に消え、次の瞬間、非常灯だけが赤く点灯する。


赤い光の中で、壁の青い花がかえって不気味に鮮やかに見えた。


セラフィウスが外套を整え、一歩踏み出す。


「行きましょう」


クリスティーナは短く息を吸った。


「……ええ」


扉へ向かいながら、彼女は最後に一度だけ会議室を振り返った。


誰もいない長卓。

崩れかけた記録表示。

壁に食い込む青い花。


ここはついさっきまで、研究所の理性が保たれている場所のはずだった。


だが、もう違う。

安全な場所など、どこにもない。


「残された者には、役割がある」


セラフィウスの背中越しに、その言葉が落ちた。


クリスティーナは、ふと理解した。


残されたのは、置いていかれたからではない。

遅れたからでもない。

ここに残った者にも、終わりまで果たすべき役目があるのだ。


廊下へ出る。


研究所は、さらにひどいことになっていた。


白衣の研究員たちが、通路の途中で立ち尽くしている。


壁面の記録灯は正常表示とエラー表示を高速で切り替え、ある区画では保管庫の扉が開閉を繰り返し、別の区画では何もない床から青い花が咲き上がっていた。


その中心で、誰かが叫ぶ。


「マリユスはどこだ!」


「あいつなら止められるんじゃないのか!」


「いや、違う……たぶん、あいつがこの先を知ってるんだ!」


「だったら早く連れてこい!」


クリスティーナは足を止めなかった。


「遅いのよ」


誰に向けるでもなく、低く言う。


「ようやく信じた時には、あいつはもう“次”へ行ってる」


セラフィウスの横顔に、ほんのわずかだけ苦い笑みが浮かんだ。


二人は並んで進む。


研究所の上層から、地下のさらに深い方へ。


人が逃げていく流れに逆らって。

崩れ始めた理屈の中心へ向かって。

最後の観測の場所へ向かって。


足元の石床の継ぎ目から、またひとつ、青い花が顔を出す。


それは、二人の進む方向を知っているように、静かに首を向けていた。


クリスティーナは記録端末を抱え直した。


これから見るものが、世界の真実なのだとしたら。

これから起きることが、誰にも語られない終焉なのだとしたら。


自分は、それを残す。


たとえ世界が崩れても。

観測が壊れても。

記録が意味を失っても。


人間の言葉だけは、最後まで。


赤い非常灯の明滅の中、セラフィウスが低く言った。


「彼らもまた、“最後の観測”へ向かっています」


クリスティーナは頷いた。


「……なら、私たちもね」


彼女は一度だけ、記録端末に目を落とした。

そこには、まだ何も書かれていない。


けれど、これから記されるものが、きっと最後の記録になる。


世界が残るための記録ではない。


世界が終わったとしても、誰かが確かにそこにいたと証明するための記録。


クリスティーナは前を向いた。


そして二人は、アエリスの深部へ続く階段を降りていった。


残された者として。


だが同時に、最後に立ち会う者として。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ