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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
47/67

第47周 風が読めない世界で

音が、戻ってきた。


それは静寂を切り裂く鋭い悲鳴ではなく、世界という巨大な機構が、長い眠りから目覚めるような、低く重い地鳴りだった。


王立アエリス研究所、地下第四層から第五層へと続く排熱ダクトの奥。導管を流れる魔力が壁面を伝い、生き物の血流のように脈打っている。

青白い光が断続的に明滅するたびに、壊れかけた世界の輪郭が、かろうじて保たれているのだと分かった。


「……あ……」


掠れた声が、すぐ近くで響いた。

アーロンは弾かれたように振り返った。床に横たわっていたミーティアが、ゆっくりと瞳を開いていた。


だが、その瞳はまだ現在を見ていなかった。

深い水底から浮かび上がってきた者のように、彼女の視線は定まらず、何かを――あるいは、誰かを必死に探していた。


「ミーティア……」


アーロンが名を呼んだ瞬間、彼女の視線が震えた。

そして、その青い瞳が彼の姿を真っ直ぐに捉える。


時間が、止まった。


「……アーロン……?」


その声は、形を成す前に霧散してしまいそうなほど弱かった。

けれど、そこには確かに感情があった。

信じたいのに信じきれない、触れればまた消えてしまうのではないかと怯えるような、切実な願いが。


「……僕だ。ここにいる」


アーロンがそう答えると、ミーティアの表情が歪んだ。


安堵ではなかった。

安堵に至る前の、あまりにも深い恐怖の崩壊だった。

彼女の手が伸びる。震える指先が、アーロンの胸元を強く掴んだ。


「……ほんとに……? 本当に、あなたなの……?」

「うん。消えてない。ちゃんと、ここにいるよ」


その言葉を聞いた瞬間、ミーティアは糸が切れたように崩れ落ちた。アーロンが受け止めるよりも早く、彼女はその胸にしがみついた。


「……よかった……」

声が、壊れた。

「よかった……っ、ほんとうに……よかった……!」


ミーティアの細い肩が激しく震える。

それは静かな涙ではなかった。

ずっと堪えてきたものが、堰を切って溢れ出すような泣き方だった。


「また……いなくなると思った……!」


アーロンの背中に回された手に、痛いほど力がこもる。


「光の中に消えていく背中ばかり見てたの……呼んでも、手を伸ばしても、届かなくて……何度も、何度も……!」


その言葉が、アーロンの胸を激しく締めつけた。

ただの記憶ではない。

彼女の中には、精神体『グレイス』としてマリユスの傍らにいた時の残響がある。

巫女ミーティアとして生きた記憶がある。

そして、システムに組み込まれた後、意識とも記録とも呼べない曖昧な時間の断片がある。


それらが混ざり合い、今この瞬間の涙となって溢れていた。


アーロンは何も言えなかった。

ただ、彼女の背中にそっと腕を回し、その存在を確かめるように強く抱きしめた。


「……ごめん。ごめん、ミーティア」

「謝らないで……」


ミーティアは首を振った。けれど、涙は止まらなかった。


「今ここにいてくれるなら……それだけでいい……」


その言葉が、あまりにも優しかったから。

アーロンは、自分がまだここに生きて存在しているという事実を、初めて体の奥で実感した。


存在している。触れられる。抱きしめられる。誰かの涙を受け止められる。

それは、世界の観測でも記録でもない。確かな、人間の温度だった。


どれほどの時間が過ぎたのか分からなかった。

数分だったのかもしれない。あるいは、失われた数千年分の時間がそこに流れていたのかもしれない。


やがて、ミーティアがゆっくりと顔を上げた。

涙に濡れた青い瞳には、まだ深い混乱の影が残っている。


「……ここは……?」


彼女は周囲を見回した。

金属の壁。青白く明滅する導管。巨大な機構音。

古代王国の白い神殿とも、風の吹く丘とも、あまりにも違う冷徹な場所。


「王立アエリス研究所の地下、排熱ダクトの内部だ」


答えたのは、少し離れた場所に立っていたマリユスだった。


ミーティアの視線が、ゆっくりとそちらへ向かう。

黒髪に金の瞳。

焼けついた肩を押さえながらも、弱さを見せまいとしている不器用な立ち姿。


その青年を視界に収めた瞬間、ミーティアの胸の奥で、古い風が鳴った気がした。


(……あ、なたは……)


声になり損ねた吐息が漏れる。

ミーティアの脳裏に、霧の彼方から無数の「残像」が押し寄せた。


それは、彼女が『グレイス』としてシステムに組み込まれていた時間の記憶。

何度も何度も繰り返される世界……。

気が遠くなるような周回のなかで、いつもシステムの中心で絶望し、傷つき、それでも円環をやり直そうと孤独に足掻いていた、一人の青年。

周回が巡るたびに、彼の記憶は残酷にリセットされ、いつも「初対面」として彼女の前に現れた。

それでもグレイスは、何も覚えていない彼の隣に寄り添い、その心を支え続けてきた。


今、目の前にいる青年は、やはり自分のことを何も覚えていない。

けれど、ミーティアにとっては、何度もその背中を追い、何度も共に世界の終わりを迎えた、あまりにも近すぎる存在だった。


マリユスは、ミーティアのただならぬ沈黙を不審に思ったのか、わずかに眉をひそめた。


「……何だ。私と貴女に、面識はないはずだが」


いつもの冷静な声だった。

だが、その端には隠しきれない動揺が滲んでいる。

先ほど、命を懸けて彼女をシステムから引き剥がした男の、不器用な拒絶だった。


ミーティアは溢れそうになる涙を胸の奥へ押し込み、言うべき言葉を探す。

だが見つからない。何を言うべきか。何を聞くべきか。

少しの沈黙の後、ようやく別の言葉を選んだ。


「……怪我。ひどい……」


マリユスは怪訝そうに視線を逸らした。


「致命傷ではない。必要な処理を実行した結果だ。そこに君から感謝される理由はない」

「そういう意味じゃないよ」

「ならばどういう意味だ」


ミーティアは答えられなかった。

ただ、彼の赤黒く爛れた肩を見て、胸がひどく痛んだ。


アーロンを見れば、胸が温かくなる。消えないでほしいと強く思う。

けれどマリユスを見ると、胸の奥が締めつけられる。遠い昔に失くしたものが、形を変えてそこに立っているように感じるのだ。


「……色々。でも、あなたに会えてよかった」


ミーティアは静かに言った。

マリユスの瞳が微かに揺れる。


「ならば、その発言は論理的に矛盾している」

「そうかもしれないね」

「訂正する気は?」

「ないかな」


横で見ていたカイが、堪えきれずに小さく吹き出した。


「おいおい、主席研究員様。お前、完全に言い負かされてんぞ」

「勝敗の話ではない」


マリユスは即座に返したが、その声にはいつもの鋭さがなかった。

ミーティアは、そんなマリユスをまっすぐに見つめた。

「私は、あなたのことを全部知っているわけじゃない。でも、何も知らないわけでもない気がするの」

「曖昧な言い方だな」


「うん。今の私には、曖昧なことしか言えない。……風が、読めないから」


彼女は自分の胸元に手を当て、寂しげに目を伏せた。


「前は、風の流れの中に、たくさんのものがあった。誰かの気配、未来の揺らぎ、まだ起きていない出来事の匂い……全部ではなくても、少しだけ分かった。でも今は違うの。風が散っている。情報がほどけて、混ざって、どこにも向かわない」


マリユスの表情がわずかに変わった。


「アエリス全域のエントロピー増大か。システムの崩壊に伴い、因果の秩序が拡散しているということだ」


「つまり、どういうことだ?」カイが顔をしかめる。

「もっと人間向けに言え」


「これ以上未来の『予見』は不可能であり、世界は未確定の領域に入ったという意味だ」


マリユスが短く吐き捨てると、ミーティアはそのやり取りを観て、ほんの少しだけ笑った。

だが、その笑みはすぐに消える。


「だから……もう、私には分からない。これからどうなるのか。どこへ向かわば正しいのか。誰が生きて、誰が消えるのかも」


未来を読み、世界を導いてきた巫女が、初めて未来を失っている。

けれど、それは絶望だけではなかった。

誰にも決められていない。まだ、何も確定していない。その事実が、この壊れかけた世界の中で、かすかな希望のようにも思えた。


「……今って、いつなの?」

ミーティアが不安げに尋ねた。「私……どれくらい眠っていたの?」


アーロンは答えに詰まった。正確な年月など、彼自身にも分からない。

繰り返されてきた時間、積み重なった残響。

そのどれを基準にすればいいのかさえ、もう分からなかった。


マリユスが静かに言った。

「少なくとも、君が知る古代王国の時代からは、極めて長い時間が経過している。このアエリスが迎えた、六十四回目の回帰の終端だ」


「六十四……」


ミーティアはその数字を、祈りのように繰り返した。


「私の中に、記憶はあるの。ミーティアとして生きていた記憶。グレイスとして、みんなの祈りを受け止めていた記憶。でも、システムの中にいた間のことは……霧みたい。私だったのか、ただの記録だったのか、境目がないの。だから、全部を覚えているとは言えない。でも、全部を知らないとも言えない」


アーロンは、そっと彼女の手に触れた。


「無理に思い出さなくていいよ」

「うん。今は、それでいいと思う」


それから、彼女はゆっくりと視線を巡らせ、少し離れた場所に立っていたもう一人の青年の姿を捉えた。

カイは得体の知れない気恥ずかしさと戸惑いを隠せないまま、所在なさげに佇んでいる。


「……なんだよ」


ぶっきらぼうに言ったカイの声には、わずかな緊張が混じっていた。

ミーティアは、吸い寄せられるように一歩近づいた。


「……不思議。会ったこと、ないはずなのに……懐かしい」


カイの表情が強張る。


「懐かしいって……俺は、あんたのことなんか知らねえぞ」

「うん。分かってる。あなた自身を知っているわけじゃない。だけど……風の荒れ方が、とてもよく似てるの」


「褒めてねえだろ、それ」


ミーティアは、ほんの少しだけ笑った。涙の跡が残る顔に浮かんだ、小さな、温かい笑みだった。


「不器用で、強がりで……でも、本当は誰かを守ることばかり考えてる。……似てるの。セラフィウスに」


その一言で、通路の空気が一変した。カイの目が、鋭く細められる。


「……なんで、親父のことを知ってんだよ」


ミーティアはすぐには答えなかった。

ただ、カイの瞳を見つめていた。

その奥にある怒りも、戸惑いも、寂しさも、まるで昔から知っていたかのように。


「あなたの中に、残ってるから。セラフィウスが、命を懸けて守ろうとしたものが」


カイは言葉を失った。不意に、彼の拳がぎゅっと握られる。


「……勝手に分かったようなこと言うなよ」

「ごめんね」


ミーティアは、素直に謝った。その優しさが、かえってカイの胸を詰まらせた。

カイはぷいと顔を背けた。


「……そういうの、やめろよ。反応に困る」


その不器用な返しに、アーロンが少しだけ笑った。

けれど、ミーティアの表情はすぐに引き締まる。

彼女は最後に、もう一度アーロンの目を見つめた。


「……アーロン。アステリオスは……」


その名が出た瞬間、通路が静かに凍りついた。

カイは何も言わず視線を逸らし、マリユスもまた、彫像のように動かなかった。


「彼は……今も、どこかにいるの?」


アーロンの喉が小さく震えた。言葉が出ない。

彼が何かを言おうとして、結局言えずに俯いた瞬間――ミーティアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。


「……うん。ほんとは知ってる」

小さな、吐息に近い声だった。

「やっぱり……そうなんだね」


彼女はそれ以上、何も聞かなかった。

今この世界に、彼女が知っている姿のアステリオスはいない。

それだけは、彼らの沈黙が証明していた。

彼が最後に何を選び、何を失い、どこへ消えたのか。そこまでは、未来の風を失った彼女には届かない。


ミーティアは唇を噛みしめ、胸の奥へ痛みを沈めるように目を閉じた。


「……アステリオスらしいね。最後まで……自分だけで抱えようとするなんて」


その声には、怒りがあった。悲しみもあった。

そして、どうしようもないほどの愛しさがあった。

ミーティアが顔を上げた。

その瞳に映っているのは、予見ではなく、自分で選ぼうとする明確な「意志」だった。


安らぎは一瞬だった。

壁面の導管が、一際高く、不吉な音を立てて鳴り響いた。

空間全体が激しく震え、青白い光が今にも裂けそうなほど明滅する。


「……円環が、崩れかけてるんだね」


マリユスが頷いた。


「そうだ。システムはこれ以上、世界の整合性を維持できない。このまま最深部に到達できなければ、世界は保存ではなく、完全な崩壊を起こす」


カイが短剣を握り直した。


「つまり、のんびり感動の再会してる場合じゃねえってことだな」


アーロンは、ミーティアの体を支えながらしっかりと立ち上がった。

「……行こう」


その一言で、全員の意識が極限まで研ぎ澄まされる。

カイが不敵に口角を上げた。


「どこへだよ、相棒」


アーロンは、最深部に存在する、円環の心臓部を見据えた。


「終わらせる。壊すんだ」


短い言葉だった。

だが、そこに込められた重さは、この世界が積み重ねてきた数万年の歴史に匹敵した。


マリユスが、静かに頷いた。


「地下第七層、円環観測区の最深部だな。そこでシステムを完全停止させる。残された猶予は少ない。……だが、もう戻れないぞ。これを選べば、世界そのものが壊れる可能性すらある」


カイが鼻で笑った。


「ハッ。最初から戻る道なんて探してねえよ。俺は、俺が納得できる方に行くだけだ」


マリユスが淡々と続けた。


「進む以外に、論理的選択肢はない」


ミーティアが、ゆっくりと自分の足で床を踏みしめた。

アーロンが支えようとすると、彼女は小さく首を振った。


「大丈夫。私も、行く。もう、見送るだけは嫌なの。消えていく背中を、ただ見ているだけなんて、もう嫌だから」


その声には、かつて未来を予見した巫女の神託よりも、ずっと確かな力があった。


「未来も読めない。正しい道も見えない。でも、分からないなら……今度は、私も一緒に選ぶ。誰か一人の犠牲で終わらせないために」


そこで、彼女の視線が一瞬だけマリユスへ向かった。

(繰り返される円環の中で、ずっと、一人で全部を背負おうとしていた貴方を……もう、絶対に一人きりにはさせない)


マリユスは、その強い視線の意味を読み取れずに眉をひそめる。

だが、ミーティアは愛おしそうに小さく微笑むと、すぐに視線を前へと戻した。


遠くで、再び巨大な駆動音が響いた。


彼らの足元には、回帰の終端に呼応するように、壁の隙間から「青い花」が群生して咲き乱れ始めていた。失われた歴史の残響を忘れないための花。

かつては風と逆方向に揺れていたその花弁が、今は彼らの進むべき方向――第五層の最深部へ向かって、力強く揺れている。


四人は、並び立った。誰一人、振り返らなかった。

冷たい金属の扉の向こう側。光と闇が渦巻く、真実の場所へ。


アーロンは、胸の奥に残る人間の温度を確かめるように息を吸い、最初の一歩を踏み出した。

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