第47周 風が読めない世界で
音が、戻ってきた。
それは静寂を切り裂く鋭い悲鳴ではなく、世界という巨大な機構が、長い眠りから目覚めるような、低く重い地鳴りだった。
王立アエリス研究所、地下第四層から第五層へと続く排熱ダクトの奥。導管を流れる魔力が壁面を伝い、生き物の血流のように脈打っている。
青白い光が断続的に明滅するたびに、壊れかけた世界の輪郭が、かろうじて保たれているのだと分かった。
「……あ……」
掠れた声が、すぐ近くで響いた。
アーロンは弾かれたように振り返った。床に横たわっていたミーティアが、ゆっくりと瞳を開いていた。
だが、その瞳はまだ現在を見ていなかった。
深い水底から浮かび上がってきた者のように、彼女の視線は定まらず、何かを――あるいは、誰かを必死に探していた。
「ミーティア……」
アーロンが名を呼んだ瞬間、彼女の視線が震えた。
そして、その青い瞳が彼の姿を真っ直ぐに捉える。
時間が、止まった。
「……アーロン……?」
その声は、形を成す前に霧散してしまいそうなほど弱かった。
けれど、そこには確かに感情があった。
信じたいのに信じきれない、触れればまた消えてしまうのではないかと怯えるような、切実な願いが。
「……僕だ。ここにいる」
アーロンがそう答えると、ミーティアの表情が歪んだ。
安堵ではなかった。
安堵に至る前の、あまりにも深い恐怖の崩壊だった。
彼女の手が伸びる。震える指先が、アーロンの胸元を強く掴んだ。
「……ほんとに……? 本当に、あなたなの……?」
「うん。消えてない。ちゃんと、ここにいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、ミーティアは糸が切れたように崩れ落ちた。アーロンが受け止めるよりも早く、彼女はその胸にしがみついた。
「……よかった……」
声が、壊れた。
「よかった……っ、ほんとうに……よかった……!」
ミーティアの細い肩が激しく震える。
それは静かな涙ではなかった。
ずっと堪えてきたものが、堰を切って溢れ出すような泣き方だった。
「また……いなくなると思った……!」
アーロンの背中に回された手に、痛いほど力がこもる。
「光の中に消えていく背中ばかり見てたの……呼んでも、手を伸ばしても、届かなくて……何度も、何度も……!」
その言葉が、アーロンの胸を激しく締めつけた。
ただの記憶ではない。
彼女の中には、精神体『グレイス』としてマリユスの傍らにいた時の残響がある。
巫女ミーティアとして生きた記憶がある。
そして、システムに組み込まれた後、意識とも記録とも呼べない曖昧な時間の断片がある。
それらが混ざり合い、今この瞬間の涙となって溢れていた。
アーロンは何も言えなかった。
ただ、彼女の背中にそっと腕を回し、その存在を確かめるように強く抱きしめた。
「……ごめん。ごめん、ミーティア」
「謝らないで……」
ミーティアは首を振った。けれど、涙は止まらなかった。
「今ここにいてくれるなら……それだけでいい……」
その言葉が、あまりにも優しかったから。
アーロンは、自分がまだここに生きて存在しているという事実を、初めて体の奥で実感した。
存在している。触れられる。抱きしめられる。誰かの涙を受け止められる。
それは、世界の観測でも記録でもない。確かな、人間の温度だった。
どれほどの時間が過ぎたのか分からなかった。
数分だったのかもしれない。あるいは、失われた数千年分の時間がそこに流れていたのかもしれない。
やがて、ミーティアがゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた青い瞳には、まだ深い混乱の影が残っている。
「……ここは……?」
彼女は周囲を見回した。
金属の壁。青白く明滅する導管。巨大な機構音。
古代王国の白い神殿とも、風の吹く丘とも、あまりにも違う冷徹な場所。
「王立アエリス研究所の地下、排熱ダクトの内部だ」
答えたのは、少し離れた場所に立っていたマリユスだった。
ミーティアの視線が、ゆっくりとそちらへ向かう。
黒髪に金の瞳。
焼けついた肩を押さえながらも、弱さを見せまいとしている不器用な立ち姿。
その青年を視界に収めた瞬間、ミーティアの胸の奥で、古い風が鳴った気がした。
(……あ、なたは……)
声になり損ねた吐息が漏れる。
ミーティアの脳裏に、霧の彼方から無数の「残像」が押し寄せた。
それは、彼女が『グレイス』としてシステムに組み込まれていた時間の記憶。
何度も何度も繰り返される世界……。
気が遠くなるような周回のなかで、いつもシステムの中心で絶望し、傷つき、それでも円環をやり直そうと孤独に足掻いていた、一人の青年。
周回が巡るたびに、彼の記憶は残酷にリセットされ、いつも「初対面」として彼女の前に現れた。
それでもグレイスは、何も覚えていない彼の隣に寄り添い、その心を支え続けてきた。
今、目の前にいる青年は、やはり自分のことを何も覚えていない。
けれど、ミーティアにとっては、何度もその背中を追い、何度も共に世界の終わりを迎えた、あまりにも近すぎる存在だった。
マリユスは、ミーティアのただならぬ沈黙を不審に思ったのか、わずかに眉をひそめた。
「……何だ。私と貴女に、面識はないはずだが」
いつもの冷静な声だった。
だが、その端には隠しきれない動揺が滲んでいる。
先ほど、命を懸けて彼女をシステムから引き剥がした男の、不器用な拒絶だった。
ミーティアは溢れそうになる涙を胸の奥へ押し込み、言うべき言葉を探す。
だが見つからない。何を言うべきか。何を聞くべきか。
少しの沈黙の後、ようやく別の言葉を選んだ。
「……怪我。ひどい……」
マリユスは怪訝そうに視線を逸らした。
「致命傷ではない。必要な処理を実行した結果だ。そこに君から感謝される理由はない」
「そういう意味じゃないよ」
「ならばどういう意味だ」
ミーティアは答えられなかった。
ただ、彼の赤黒く爛れた肩を見て、胸がひどく痛んだ。
アーロンを見れば、胸が温かくなる。消えないでほしいと強く思う。
けれどマリユスを見ると、胸の奥が締めつけられる。遠い昔に失くしたものが、形を変えてそこに立っているように感じるのだ。
「……色々。でも、あなたに会えてよかった」
ミーティアは静かに言った。
マリユスの瞳が微かに揺れる。
「ならば、その発言は論理的に矛盾している」
「そうかもしれないね」
「訂正する気は?」
「ないかな」
横で見ていたカイが、堪えきれずに小さく吹き出した。
「おいおい、主席研究員様。お前、完全に言い負かされてんぞ」
「勝敗の話ではない」
マリユスは即座に返したが、その声にはいつもの鋭さがなかった。
ミーティアは、そんなマリユスをまっすぐに見つめた。
「私は、あなたのことを全部知っているわけじゃない。でも、何も知らないわけでもない気がするの」
「曖昧な言い方だな」
「うん。今の私には、曖昧なことしか言えない。……風が、読めないから」
彼女は自分の胸元に手を当て、寂しげに目を伏せた。
「前は、風の流れの中に、たくさんのものがあった。誰かの気配、未来の揺らぎ、まだ起きていない出来事の匂い……全部ではなくても、少しだけ分かった。でも今は違うの。風が散っている。情報がほどけて、混ざって、どこにも向かわない」
マリユスの表情がわずかに変わった。
「アエリス全域のエントロピー増大か。システムの崩壊に伴い、因果の秩序が拡散しているということだ」
「つまり、どういうことだ?」カイが顔をしかめる。
「もっと人間向けに言え」
「これ以上未来の『予見』は不可能であり、世界は未確定の領域に入ったという意味だ」
マリユスが短く吐き捨てると、ミーティアはそのやり取りを観て、ほんの少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「だから……もう、私には分からない。これからどうなるのか。どこへ向かわば正しいのか。誰が生きて、誰が消えるのかも」
未来を読み、世界を導いてきた巫女が、初めて未来を失っている。
けれど、それは絶望だけではなかった。
誰にも決められていない。まだ、何も確定していない。その事実が、この壊れかけた世界の中で、かすかな希望のようにも思えた。
「……今って、いつなの?」
ミーティアが不安げに尋ねた。「私……どれくらい眠っていたの?」
アーロンは答えに詰まった。正確な年月など、彼自身にも分からない。
繰り返されてきた時間、積み重なった残響。
そのどれを基準にすればいいのかさえ、もう分からなかった。
マリユスが静かに言った。
「少なくとも、君が知る古代王国の時代からは、極めて長い時間が経過している。このアエリスが迎えた、六十四回目の回帰の終端だ」
「六十四……」
ミーティアはその数字を、祈りのように繰り返した。
「私の中に、記憶はあるの。ミーティアとして生きていた記憶。グレイスとして、みんなの祈りを受け止めていた記憶。でも、システムの中にいた間のことは……霧みたい。私だったのか、ただの記録だったのか、境目がないの。だから、全部を覚えているとは言えない。でも、全部を知らないとも言えない」
アーロンは、そっと彼女の手に触れた。
「無理に思い出さなくていいよ」
「うん。今は、それでいいと思う」
それから、彼女はゆっくりと視線を巡らせ、少し離れた場所に立っていたもう一人の青年の姿を捉えた。
カイは得体の知れない気恥ずかしさと戸惑いを隠せないまま、所在なさげに佇んでいる。
「……なんだよ」
ぶっきらぼうに言ったカイの声には、わずかな緊張が混じっていた。
ミーティアは、吸い寄せられるように一歩近づいた。
「……不思議。会ったこと、ないはずなのに……懐かしい」
カイの表情が強張る。
「懐かしいって……俺は、あんたのことなんか知らねえぞ」
「うん。分かってる。あなた自身を知っているわけじゃない。だけど……風の荒れ方が、とてもよく似てるの」
「褒めてねえだろ、それ」
ミーティアは、ほんの少しだけ笑った。涙の跡が残る顔に浮かんだ、小さな、温かい笑みだった。
「不器用で、強がりで……でも、本当は誰かを守ることばかり考えてる。……似てるの。セラフィウスに」
その一言で、通路の空気が一変した。カイの目が、鋭く細められる。
「……なんで、親父のことを知ってんだよ」
ミーティアはすぐには答えなかった。
ただ、カイの瞳を見つめていた。
その奥にある怒りも、戸惑いも、寂しさも、まるで昔から知っていたかのように。
「あなたの中に、残ってるから。セラフィウスが、命を懸けて守ろうとしたものが」
カイは言葉を失った。不意に、彼の拳がぎゅっと握られる。
「……勝手に分かったようなこと言うなよ」
「ごめんね」
ミーティアは、素直に謝った。その優しさが、かえってカイの胸を詰まらせた。
カイはぷいと顔を背けた。
「……そういうの、やめろよ。反応に困る」
その不器用な返しに、アーロンが少しだけ笑った。
けれど、ミーティアの表情はすぐに引き締まる。
彼女は最後に、もう一度アーロンの目を見つめた。
「……アーロン。アステリオスは……」
その名が出た瞬間、通路が静かに凍りついた。
カイは何も言わず視線を逸らし、マリユスもまた、彫像のように動かなかった。
「彼は……今も、どこかにいるの?」
アーロンの喉が小さく震えた。言葉が出ない。
彼が何かを言おうとして、結局言えずに俯いた瞬間――ミーティアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……うん。ほんとは知ってる」
小さな、吐息に近い声だった。
「やっぱり……そうなんだね」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。
今この世界に、彼女が知っている姿のアステリオスはいない。
それだけは、彼らの沈黙が証明していた。
彼が最後に何を選び、何を失い、どこへ消えたのか。そこまでは、未来の風を失った彼女には届かない。
ミーティアは唇を噛みしめ、胸の奥へ痛みを沈めるように目を閉じた。
「……アステリオスらしいね。最後まで……自分だけで抱えようとするなんて」
その声には、怒りがあった。悲しみもあった。
そして、どうしようもないほどの愛しさがあった。
ミーティアが顔を上げた。
その瞳に映っているのは、予見ではなく、自分で選ぼうとする明確な「意志」だった。
安らぎは一瞬だった。
壁面の導管が、一際高く、不吉な音を立てて鳴り響いた。
空間全体が激しく震え、青白い光が今にも裂けそうなほど明滅する。
「……円環が、崩れかけてるんだね」
マリユスが頷いた。
「そうだ。システムはこれ以上、世界の整合性を維持できない。このまま最深部に到達できなければ、世界は保存ではなく、完全な崩壊を起こす」
カイが短剣を握り直した。
「つまり、のんびり感動の再会してる場合じゃねえってことだな」
アーロンは、ミーティアの体を支えながらしっかりと立ち上がった。
「……行こう」
その一言で、全員の意識が極限まで研ぎ澄まされる。
カイが不敵に口角を上げた。
「どこへだよ、相棒」
アーロンは、最深部に存在する、円環の心臓部を見据えた。
「終わらせる。壊すんだ」
短い言葉だった。
だが、そこに込められた重さは、この世界が積み重ねてきた数万年の歴史に匹敵した。
マリユスが、静かに頷いた。
「地下第七層、円環観測区の最深部だな。そこでシステムを完全停止させる。残された猶予は少ない。……だが、もう戻れないぞ。これを選べば、世界そのものが壊れる可能性すらある」
カイが鼻で笑った。
「ハッ。最初から戻る道なんて探してねえよ。俺は、俺が納得できる方に行くだけだ」
マリユスが淡々と続けた。
「進む以外に、論理的選択肢はない」
ミーティアが、ゆっくりと自分の足で床を踏みしめた。
アーロンが支えようとすると、彼女は小さく首を振った。
「大丈夫。私も、行く。もう、見送るだけは嫌なの。消えていく背中を、ただ見ているだけなんて、もう嫌だから」
その声には、かつて未来を予見した巫女の神託よりも、ずっと確かな力があった。
「未来も読めない。正しい道も見えない。でも、分からないなら……今度は、私も一緒に選ぶ。誰か一人の犠牲で終わらせないために」
そこで、彼女の視線が一瞬だけマリユスへ向かった。
(繰り返される円環の中で、ずっと、一人で全部を背負おうとしていた貴方を……もう、絶対に一人きりにはさせない)
マリユスは、その強い視線の意味を読み取れずに眉をひそめる。
だが、ミーティアは愛おしそうに小さく微笑むと、すぐに視線を前へと戻した。
遠くで、再び巨大な駆動音が響いた。
彼らの足元には、回帰の終端に呼応するように、壁の隙間から「青い花」が群生して咲き乱れ始めていた。失われた歴史の残響を忘れないための花。
かつては風と逆方向に揺れていたその花弁が、今は彼らの進むべき方向――第五層の最深部へ向かって、力強く揺れている。
四人は、並び立った。誰一人、振り返らなかった。
冷たい金属の扉の向こう側。光と闇が渦巻く、真実の場所へ。
アーロンは、胸の奥に残る人間の温度を確かめるように息を吸い、最初の一歩を踏み出した。




