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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
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第46周 まだ名前のないもの

カイの短剣が、空間の「継ぎ目」を両断した。

その瞬間、世界は耳を劈くようなガラスの破砕音を立てて震えた。

本来、そこにあるはずのない「外側」の光が、裂け目から溢れ出す。


だが、それは救いの光ではなかった。


ASTRAが管理する整合性を無理やり抉じ開けたことによって生じた、因果の火花だった。

亀裂の縁では、数式のような光が焼け焦げ、空間そのものが肉を裂かれた獣のように痙攣している。


「走れ!」


カイが叫んだ。


「閉じかけの傷口に指突っ込んでるようなもんだ! すぐ塞がるぞ!」


その声に弾かれ、アーロンは背中のミーティアを抱え直した。

彼女は意識を失ったままだった。

長い睫毛は伏せられ、青白い頬には血の気がない。


けれど、その呼吸はまだある。

かすかに、けれど確かに。

それだけが、アーロンの足を前へ動かした。


「ミーティア……少しだけ、我慢して」


呟きながら、アーロンは光の裂け目へと駆け出した。


背後では、顔のないガーディアンがノイズ混じりの咆哮を上げていた。

実体化した数式の刃が、空間ごと彼らを断ち切ろうと振り下ろされる。


「マリユス、早く!」


アーロンが振り返る。


マリユスは、焼けついた肩を片手で押さえながら、裂け目の前に立っていた。

彼はまだ動こうとしない。ミーティアが通った後の空間を守るように、そこに踏みとどまっている。


その瞳は、計算機のような冷たさを取り戻しているように見えた。


だが違う。

その奥にあったのは、冷静さではなかった。

理性で覆い隠してきた感情が、今にも皮膚を突き破りそうなほど、燃えていた。


「先に行け、アーロン」


「何言ってるんだ! 君も来るんだ!」


「この空間の歪みは、放置すれば即座に閉じる」


マリユスは淡々と言った。

だが、その声はわずかに震えていた。


「誰かが内側から波形を固定し続けなければ、出口は崩壊する」


「だからって、君を置いていけるわけないだろ!」


「合理的判断だと言っている!」


マリユスが声を荒らげた。


アーロンは息を呑んだ。

いつも皮肉と理論で距離を取っていた男が、今、剥き出しの感情で叫んでいる。


「私は、このアエリスの全構造を脳内に展開している唯一の人間だ。私がいなければ、君たちは排熱ダクトの迷宮で一生、位相の残滓として彷徨うことになる」


マリユスの指先が、過負荷で震える。

それでも彼は、空中に複雑な幾何学模様を描き続けた。

展開された光の盾が、ガーディアンの刃を辛うじて逸らす。


「いいから、行け!」


「でも――!」


「彼女を死なせるな!」


その一言に、アーロンの胸が強く揺れた。

マリユス自身も、自分が何を叫んだのか一瞬分からなかったのだろう。

ハッとしたように唇を噛み、顔をわずかに背ける。だが、取り繕う時間はなかった。


「……ミーティアを、ここで失うわけにはいかない」


低く、押し殺した声だった。


「理由は、分からない。だが、それだけは許容できない」


アーロンは歯を食いしばった。


今のマリユスには、どんな正論も届かない。

彼は研究者としてではなく、ただ一人の人間として、意識のないミーティアを逃がそうとしている。

それが理屈ではないことを、きっと本人だけが一番認められずにいるのだ。


「……分かった」


アーロンは叫ぶように言った。


「先で待ってる! 絶対に来い!」


「命令される筋合いはない」


マリユスはいつもの調子で返した。

けれど、その口元には、かすかに笑みに似たものが浮かんでいた。


カイが舌打ちする。


「死んだらぶっ飛ばすからな、陰謀論研究員!」


「不可能だ。死者に対する物理的干渉は成立しない」


「そういう返ししてる余裕があるなら、絶対生きて来い!」


アーロンとカイは、眩い光の渦へと身を投じた。



視界が反転する。


上下の感覚が消える。


肺から空気が吸い出されるような圧迫感が、全身を締めつけた。

アーロンは背中のミーティアを必死に抱え込んだ。


この腕だけは離さない。

たとえ世界が裏返っても、彼女だけは離さない。


次の瞬間、硬い金属の床に叩きつけられた。


「……がはっ」


肺から息が漏れる。


「ここは……?」


カイが咳き込みながら立ち上がった。

そこは、埃っぽく、機械油の匂いが充満した狭い通路だった。

頭上を巨大な配管が走り、遠くで規則的な排気音が響いている。


マリユスが言っていた、排熱ダクトの内部。

生暖かい風が、一定の間隔で通路を吹き抜けていく。


「アーロン、ミーティアは?」


カイの声には、いつもの乱暴さがなかった。

アーロンはすぐに背中のミーティアを下ろし、そっと床に寝かせた。


「……大丈夫だ」


彼女の口元に手を近づける。


微かな呼吸。


弱いが、確かに生きている。


「気を失ってるだけだ」


ミーティアの寝顔は、奇妙なほど穏やかだった。

まるで、数千年に及ぶ重荷から一時的に解放されたように。


だが、その穏やかさが、かえってアーロンの胸を締めつけた。

彼女が目を覚ました時、何を思い出すのか。何を失ったと知るのか。

そのことを考えると、息が苦しくなった。


その時、背後の空間が水面のように揺れた。


「来るぞ!」


カイが短剣を構える。


次の瞬間、裂け目から何かが転がり落ちた。

ボロボロになり、煤に汚れたマリユスだった。


「マリユス!」


アーロンは駆け寄った。

だが、マリユスは差し伸べられた手を拒むように制した。


「……後でいい」


「後でって、その怪我――!」


「彼女が先だ」


マリユスは這うようにして、ミーティアのもとへ歩み寄った。


右肩の火傷は酷かった。

焼けた衣服の隙間から、赤黒く爛れた皮膚が覗いている。

それでも彼は、自分の傷など存在しないかのように、ミーティアの傍らに膝をついた。


震える指で、彼女の脈を確かめる。


首元。


手首。


呼吸。


ひとつひとつを確認するその手つきは、ひどく慎重だった。

まるで、壊れやすい硝子細工に触れるように。


「……脈はある。呼吸も安定している。魔力反応は不安定だが、臨界は越えていない」


そこで、彼の声がわずかに途切れた。


「……無事か……そうか。よかった」


その声に宿った安堵は、あまりにも深かった。

アーロンの中に溜まっていた疑問が、そこで限界を超えた。


「……マリユス。君、さっきからおかしい」


マリユスの指が止まった。


「業務違反、反逆罪、研究所への背信……君なら、そんな言葉を先に並べると思ってた」


アーロンは静かに続ける。


「でも君は、それを全部無視した。自分の命まで盾にして、彼女を守った」


マリユスは答えない。


「君は合理的だと言った。だけど、今の立ち回りのどこに合理性があるの?」


アーロンの声が、少しだけ震えた。


「まるで……彼女のことを、最初から失いたくなかったみたいじゃないか」


狭い排熱ダクトに、重い沈黙が落ちた。


規則的な排気音だけが、三人の間を通り過ぎていく。


マリユスは、すぐには動かなかった。

計算機のように冷徹だったはずの瞳が、今は迷子のように揺れている。



「……分からない」



ようやくこぼれ落ちた言葉は、彼が普段口にする論理や合理性から、あまりにも遠いものだった。


カイが思わず変な声を出した。


「は?」


そして、呆れたように眉を寄せる。


「おいおい。天下の主席研究員様が『分からない』だと? 頭でも打ったか?」


「……ああ、その可能性は否定しない」

「否定しろよ」


カイが即座に突っ込む。

マリユスは、汚れ、破れた黒い手袋を見つめた。


「なぜあんな真似をしたのか、今の私には説明がつかない」


その声には、苛立ちが滲んでいた。

他人に対してではない。自分自身を理解できないことへの苛立ちだった。


「命令系統を無視した。研究所の規定にも反している。成功確率だけを見れば、あの場に残る判断は極めて非効率だ」


「じゃあ、なんで残ったんだよ」


カイが問う。


マリユスは、すぐには答えなかった。


やがて、彼はミーティアの横顔を一瞬だけ見た。

眠ったままの彼女は、何も知らない。自分のために誰が傷ついたのかも。誰が声を荒らげたのかも。


「……失わせたくなかった」


マリユスの声は低かった。


「何を?」


アーロンが聞く。


「分からない」


マリユスは小さく首を振った。


「彼女個人なのか。彼女が担っている座標なのか。あるいは、私自身がまだ理解していない何かなのか。ただ、あの瞬間……彼女が失われる未来だけは、許容できなかった」


アーロンは言葉を失った。

それは、理屈ではなかった。けれど、だからこそ本物だと理解できた。


カイが、その沈黙を壊すように鼻を鳴らした。


「……嫌なライバル出現だぞ、アーロン」


「え?」


アーロンが目を瞬かせる。


「見て分かんねえのかよ。今の流れ、完全にそういうやつだろ」


「そういうやつって……」


アーロンは思わずミーティアを見て、それからマリユスを見た。


マリユスは眉間に深い皺を刻んでいる。

まるで、未知の数式を突きつけられた研究者の顔だった。


アーロンは少しだけ困ったように笑う。


「エリートだけど、だいぶ人としてはズレてるから……ライバルにはならないよ」


「おいおい、言い方があるだろ」


カイが思わず苦笑いする。


「……何の話だ」


マリユスが低く言った。

そのあまりにも本気のトーンに、カイは一瞬ぽかんとした。

そして、腹を抱えるほどではないが、耐えきれないというように肩を震わせた。


「お前、本当に面倒くせえな」

「説明しろ。文脈が不明だ」


アーロンは、思わず笑ってしまった。

こんな場所で。追われ、傷つき、まだ何ひとつ解決していないのに。


マリユスは自嘲するように息を吐いた。


「どうやら私もまた、君たちと同じく、致命的な誤差を抱えた人間に過ぎなかったらしい」


その笑みは、力なく、しかし憑き物が落ちたようでもあった。


初めて出会った時の傲慢な壁は、もうそこにはない。

自分の中に芽生えた感情の正体を持て余している、一人の不器用な人間だった。


アーロンは、その笑みを見て、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


「……誤差か」


彼は静かに言った。


「それ、僕たちにとっては最高の褒め言葉だよ」


カイが、マリユスの怪我をしていない方の肩を、遠慮なく叩いた。


「お前、いけすかない奴だと思ってたけどさ」


「それは相互認識だ」


「最後まで聞けよ」


カイは少し笑った。


「そういう、わけの分かんねえところがあるなら、まだ救いがある」


マリユスは眉をひそめる。


「救い、だと?」


「ああ」


カイは不器用に視線を逸らした。


「見直したって言ってんだよ。二回言わせんな」


マリユスは一瞬だけ目を見開いた。それから、面倒そうに息を吐く。


「……だから、誤差の大きい人間は嫌いなんだ」


「お前もその仲間入りだろ」


「不本意だ」


「でも否定はしねえんだな」


「……現時点では、反証材料が不足している」


アーロンは眠るミーティアを見つめた。

彼女はまだ目を覚まさない。けれど、その存在は確かにここにある。


マリユスが命を賭けて守ったもの。

カイが道を切り開いて繋いだもの。

アーロンが背負ってきたもの。


それは、ただ一人の少女の命ではなかった。

この壊れかけた円環の中で、それでも誰かを失いたくないと願う、彼ら自身の心だった。


アーロンはミーティアを背負い直した。


「行こう」


その声に、カイが短剣を握り直す。


「おう。ここで油売ってる場合じゃねえしな」


マリユスも壁に手をつきながら立ち上がった。

肩の傷に顔を歪めるが、膝は折らない。


「ここから地下五層の観測区へ抜ける。排熱ダクトを通れば、正規経路より早い」


「また迷宮みたいな道じゃないだろうな?」


カイが疑わしげに言う。


「迷宮だ」


「おい」


「だが、私がいる」


マリユスは振り返らずに言った。


「迷う理由がない」


その背中を見て、アーロンは小さく頷いた。

三人の間にあった見えない壁は、もう消えていた。


説明などいらない。


この狂った円環の中で、彼らは互いの誤差を知った。

理解できない部分を、切り捨てるのではなく、抱えたまま進むことを選んだ。

それだけで十分だった。


排熱ダクトの奥から、生暖かい風が吹いてくる。

それは、地下深くに沈んだ世界の息遣いのようだった。


アーロンは背中のミーティアの重みを確かめる。


彼女はまだ目覚めない。

けれど、その温度は確かにあった。


失わせない。誰の都合でも。どんな理屈でも。


その思いを胸に、三人は地下五層のさらに奥へと歩き出した。

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