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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
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第45周 その定義を知らない

地下第四層「恩寵管理区」の隔離壁が、耳を劈くような金属音を立てて閉鎖された。


それは、単なる物理的な封鎖ではなかった。


空間そのものが位相の壁によって切り離され、出口という概念そのものが薄れていく。

さっきまで確かに存在していた通路の奥行きが、歪み、折り畳まれ、消えていくような感覚だった。


「……くそ、閉じ込められたか!」


カイが短剣の柄に手をかけ、背後の壁を睨みつける。


だが、壁はそこにあるのに、触れようとすると指先が陽炎のように透けた。

冷たい金属の感触はない。

押し返す力もない。


そこにはもう、通り抜けるべき距離そのものが存在していなかった。


「無駄だ」


マリユスが、青白い顔で端末のノイズを睨む。


「第五層のASTRA――アステリオス共振時間観測装置が、この階層の時間を隔離した」


「時間を隔離って……どういう意味だよ」


カイが苛立った声を上げる。


「この区画だけを、世界の連続性から切り離したということだ」


マリユスは早口で続けた。


「システムにとって、目覚めたミーティアと、不適合者であるアーロンは、もはや修復不能な致命的エラーだ。アエリスの守護プログラムは、この階層ごと我々をなかったことにしようとしている」


「なかったこと……?」


アーロンの腕の中で、ミーティアが微かに身じろぎした。


カプセルから解放された彼女の意識は、かつての巫女――ミーティアへと戻りつつある。

だが、長年の接続による負荷はあまりにも深かった。


白い肌からは淡い燐光が絶えず溢れ、床に咲く青い花と微弱に共鳴している。

彼女の呼吸は浅く、まだ自力で立つこともできない。


「……アステリオス……」


ミーティアの唇が、かすかに動いた。


「……ごめんなさい。……私は……」


「謝るな、ミーティア」


アーロンは、彼女を背負い直すように抱えた。


「君は何も悪くない。君を道具になんてさせない」


そして、マリユスを見る。


「マリユス。どこかに穴はないのか。君なら、この世界の裏道を知ってるだろ!」


マリユスは一瞬だけ黙った。


端末の画面には、ほとんど意味をなさないノイズが走っている。

それでも彼は、無数の破損データの中から、かろうじて生きている経路を探し出した。


「……一つだけある」


震える指で、ホログラムの地図を指し示す。


「第四層の排熱ダクトの奥に、かつてアステリオスが緊急時に用意した位相の空白地帯がある」


「位相の空白地帯?」


「ASTRAの観測網から一時的に外れるための死角だ。そこなら、この隔離から逃れられる可能性がある」


マリユスは、苦々しく息を吐いた。


「ただし、そこへ辿り着くには、この死んだ空間を自力でこじ開けなければならない」


その時だった。


カプセルから漏れ出していた拘束術式の残骸が、過負荷によって一気に明滅した。


床に散った青白い術式線が、まるで生き物のように跳ね上がる。

制御を失った光の鞭が、空間を裂きながら走った。


その切っ先が狙ったのは、エラーの根源。


ミーティアを背負ったままの、アーロンだった。


「あ……」


ミーティアの瞳が、恐怖に揺れる。


アーロンは彼女を庇おうと身体を捻った。

だが、彼女を支えたままでは動きが遅い。


光の速度で迫る術式線を、避ける術はなかった。


その刹那。


一人の男が、横から飛び込んだ。


マリユスだった。


「マリユス!」


カイの叫びも、アーロンの息を呑む音も、彼には届いていなかった。


マリユスは、一瞬の迷いもなく二人の前へ割って入る。

その背を盾にするように両腕を広げた。


激しい光が散る。


暴走した術式線が、マリユスの肩と背を深く掠めた。

衣が焼け、焦げた匂いが立ち込める。


「っ……!」


マリユスの身体が大きく揺れた。


だが、倒れなかった。


彼は奥歯を噛みしめ、二人の前に立ち続けていた。


「マリユス!」


アーロンの叫びが、遅れて届く。


なぜ、彼がそうしたのか。

その場の誰にも分からなかった。


マリユス本人にさえ、説明などできなかった。


ただ、補助術式が不安定に点滅した瞬間、嫌な予感などという曖昧なものではなく、もっと明確な衝動が彼を突き動かしていた。


遅れたら、間に合わない。


そこへ行かなければならない。


彼女を。


今度こそ。


その言葉だけが、胸の奥で燃え上がった。


理論でもない。

義務でもない。

研究対象の保護でもない。


アーロンの肩越しに、まだ意識が混濁しているミーティアが、呆然とマリユスを見上げていた。


青い瞳と視線が重なる。


その瞬間、マリユスの胸に、理由のない鋭い痛みが走った。


知らないはずの痛み。

覚えていないはずの後悔。


それなのに、身体だけが知っている。

この少女を、もう二度と見捨ててはならないのだと。


「これ以上……」


マリユスは、焼けた肩を押さえながら低く呟いた。


「彼女を傷つけさせない」


通路に、一時的な静寂が戻った。


その中で、ミーティアの青い瞳から、一筋の涙が落ちた。

彼女自身、なぜ泣いているのか分からないようだった。


悲しいのか。

懐かしいのか。

あるいは、ようやく会えたのか。


ミーティアは震える手を伸ばしかけ、けれど力が入らず、その指は途中で落ちた。


「……あなたは……」


声にならない問いが、彼女の唇に滲む。


マリユスは答えなかった。


答えられなかった。


自分がなぜ彼女を庇ったのか。

なぜ、その涙を見て胸が痛むのか。

なぜ、彼女の視線から目を逸らせないのか。


何一つ、説明できない。


その光景を見ていたアーロンの胸にも、激しい疑問が渦巻いていた。


マリユスは、さっきまで彼女を礎と呼んでいた。

グレイスを残響だと定義していた。

ミーティアを、装置の核として語っていた。


なのに、今のあの目は何だ。

あれは、研究者が対象を見る目ではない。


「マリユス、君は……」


だが、その疑問を口にする時間は与えられなかった。

通路の奥から、さらなる絶望が具現化して現れたからだ。


それは、人型をしていた。だが、顔がない。


研究所の防衛用自動人形――ガーディアン。

本来なら、侵入者を制圧するための機械兵に過ぎないはずだった。


しかし今、目の前にいるそれは違う。


位相異常によって変質した半透明の身体には、数式が幾何学的な模様となって浮かび上がっている。

関節は滑らかに動き、輪郭は水面のように揺れていた。


その手には、光の刃が形成されている。


「……数式が実体化してやがる」


カイが短剣を抜き、前に出た。


「魔法の波を直接ぶつけてくる気かよ!」


だが、相手は波そのものだった。


肉体を持つ敵なら斬れる。

装甲を持つ敵なら砕ける。


けれど、目の前のガーディアンは、物理と術式の境界に立っている。

短剣がどこまで通用するかは分からない。


「カイ、合わせて!」


アーロンはミーティアを背負い直し、空いた手でペンダントを握った。


「僕がノイズをぶつける。その瞬間に、空間の固定が緩むはずだ。そこを斬って!」


「……無茶を言うな」


カイは、口の端を上げた。


「だが、やってやるよ!」


ガーディアンが音もなく加速した。


足音はない。

気配もない。


ただ、空間そのものが滑るように近づいてくる。


アーロンは息を止めた。


魔法を使おうとするのではない。

術式を組むのでもない。


ただ、この空間が間違っているという確信を、意志として放つ。


ここにいる者たちは、なかったことにされていい存在ではない。


ミーティアも。

カイも。

マリユスも。

自分自身も。


誰かの都合で消されていい物語ではない。


ペンダントが眩く光った。


アーロンの周囲に、不規則な干渉波が広がる。


ガクン、と世界が揺れた。


整然としていた通路の壁が、一瞬だけ、ノイズ混じりの古い映像のように乱れる。

ガーディアンの輪郭もまた、ぐらりと歪んだ。


「今だ!」


カイが踏み込む。


その動きは、迷いがなかった。

短剣が、空間の継ぎ目を真っ向から両断する。


刃が金属ではない何かを裂いた。

硬い音ではなく、紙を破るような、あるいは水面を割るような奇妙な音が響く。

ガーディアンの身体に走っていた数式が、一瞬だけ乱れた。


「通った!」


カイが叫ぶ。


だが、完全には砕けていない。


斬られた空間の裂け目から、青白い光が噴き出す。

その向こうに、細く暗い通路が見えた。


排熱ダクトへ続く、かろうじて残された逃げ道。


「アーロン、走れ!」


カイが叫ぶ。


「ミーティアを連れて先に行け!」


「でも、マリユスが――」


アーロンが振り返る。


マリユスは焼けた肩を押さえながらも、まだ立っていた。

顔色は悪い。

呼吸も乱れている。


それでも、彼は端末を握りしめ、ガーディアンの再起動を必死に遅らせていた。


「私は問題ない」


「問題ある顔してるぞ!」


カイが怒鳴る。


「黙れ。今は移動が優先だ」


マリユスは、アーロンを見た。


その目には、いつもの冷徹さが戻りつつあった。

だが、その奥にある傷のような感情を、アーロンはもう見逃せなかった。


「彼女を落とすな」


短い言葉だった。


アーロンは、ミーティアを背負う腕に力を込める。


「……分かってる」


ミーティアは、薄れゆく意識の中で、マリユスを見ていた。


「……あなた……」


その声は、かすれていた。


マリユスの背が、わずかに揺れる。

だが彼は振り返らなかった。


「今は喋るな。体力を温存しろ」


いつものような冷たい言い方だった。

けれど、その声には、ほんの少しだけ優しさが混じっていた。


カイは短剣を構え直し、裂け目の前に立つ。


「行くぞ。出口が気まぐれ起こしてるうちにな!」


アーロンは頷いた。


背中のミーティアが、かすかに息を吐く。

その温もりを確かめながら、アーロンは走り出した。


マリユスの中で眠っていた何かが、この瞬間、目を覚まし始めていた。

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