第45周 その定義を知らない
地下第四層「恩寵管理区」の隔離壁が、耳を劈くような金属音を立てて閉鎖された。
それは、単なる物理的な封鎖ではなかった。
空間そのものが位相の壁によって切り離され、出口という概念そのものが薄れていく。
さっきまで確かに存在していた通路の奥行きが、歪み、折り畳まれ、消えていくような感覚だった。
「……くそ、閉じ込められたか!」
カイが短剣の柄に手をかけ、背後の壁を睨みつける。
だが、壁はそこにあるのに、触れようとすると指先が陽炎のように透けた。
冷たい金属の感触はない。
押し返す力もない。
そこにはもう、通り抜けるべき距離そのものが存在していなかった。
「無駄だ」
マリユスが、青白い顔で端末のノイズを睨む。
「第五層のASTRA――アステリオス共振時間観測装置が、この階層の時間を隔離した」
「時間を隔離って……どういう意味だよ」
カイが苛立った声を上げる。
「この区画だけを、世界の連続性から切り離したということだ」
マリユスは早口で続けた。
「システムにとって、目覚めたミーティアと、不適合者であるアーロンは、もはや修復不能な致命的エラーだ。アエリスの守護プログラムは、この階層ごと我々をなかったことにしようとしている」
「なかったこと……?」
アーロンの腕の中で、ミーティアが微かに身じろぎした。
カプセルから解放された彼女の意識は、かつての巫女――ミーティアへと戻りつつある。
だが、長年の接続による負荷はあまりにも深かった。
白い肌からは淡い燐光が絶えず溢れ、床に咲く青い花と微弱に共鳴している。
彼女の呼吸は浅く、まだ自力で立つこともできない。
「……アステリオス……」
ミーティアの唇が、かすかに動いた。
「……ごめんなさい。……私は……」
「謝るな、ミーティア」
アーロンは、彼女を背負い直すように抱えた。
「君は何も悪くない。君を道具になんてさせない」
そして、マリユスを見る。
「マリユス。どこかに穴はないのか。君なら、この世界の裏道を知ってるだろ!」
マリユスは一瞬だけ黙った。
端末の画面には、ほとんど意味をなさないノイズが走っている。
それでも彼は、無数の破損データの中から、かろうじて生きている経路を探し出した。
「……一つだけある」
震える指で、ホログラムの地図を指し示す。
「第四層の排熱ダクトの奥に、かつてアステリオスが緊急時に用意した位相の空白地帯がある」
「位相の空白地帯?」
「ASTRAの観測網から一時的に外れるための死角だ。そこなら、この隔離から逃れられる可能性がある」
マリユスは、苦々しく息を吐いた。
「ただし、そこへ辿り着くには、この死んだ空間を自力でこじ開けなければならない」
その時だった。
カプセルから漏れ出していた拘束術式の残骸が、過負荷によって一気に明滅した。
床に散った青白い術式線が、まるで生き物のように跳ね上がる。
制御を失った光の鞭が、空間を裂きながら走った。
その切っ先が狙ったのは、エラーの根源。
ミーティアを背負ったままの、アーロンだった。
「あ……」
ミーティアの瞳が、恐怖に揺れる。
アーロンは彼女を庇おうと身体を捻った。
だが、彼女を支えたままでは動きが遅い。
光の速度で迫る術式線を、避ける術はなかった。
その刹那。
一人の男が、横から飛び込んだ。
マリユスだった。
「マリユス!」
カイの叫びも、アーロンの息を呑む音も、彼には届いていなかった。
マリユスは、一瞬の迷いもなく二人の前へ割って入る。
その背を盾にするように両腕を広げた。
激しい光が散る。
暴走した術式線が、マリユスの肩と背を深く掠めた。
衣が焼け、焦げた匂いが立ち込める。
「っ……!」
マリユスの身体が大きく揺れた。
だが、倒れなかった。
彼は奥歯を噛みしめ、二人の前に立ち続けていた。
「マリユス!」
アーロンの叫びが、遅れて届く。
なぜ、彼がそうしたのか。
その場の誰にも分からなかった。
マリユス本人にさえ、説明などできなかった。
ただ、補助術式が不安定に点滅した瞬間、嫌な予感などという曖昧なものではなく、もっと明確な衝動が彼を突き動かしていた。
遅れたら、間に合わない。
そこへ行かなければならない。
彼女を。
今度こそ。
その言葉だけが、胸の奥で燃え上がった。
理論でもない。
義務でもない。
研究対象の保護でもない。
アーロンの肩越しに、まだ意識が混濁しているミーティアが、呆然とマリユスを見上げていた。
青い瞳と視線が重なる。
その瞬間、マリユスの胸に、理由のない鋭い痛みが走った。
知らないはずの痛み。
覚えていないはずの後悔。
それなのに、身体だけが知っている。
この少女を、もう二度と見捨ててはならないのだと。
「これ以上……」
マリユスは、焼けた肩を押さえながら低く呟いた。
「彼女を傷つけさせない」
通路に、一時的な静寂が戻った。
その中で、ミーティアの青い瞳から、一筋の涙が落ちた。
彼女自身、なぜ泣いているのか分からないようだった。
悲しいのか。
懐かしいのか。
あるいは、ようやく会えたのか。
ミーティアは震える手を伸ばしかけ、けれど力が入らず、その指は途中で落ちた。
「……あなたは……」
声にならない問いが、彼女の唇に滲む。
マリユスは答えなかった。
答えられなかった。
自分がなぜ彼女を庇ったのか。
なぜ、その涙を見て胸が痛むのか。
なぜ、彼女の視線から目を逸らせないのか。
何一つ、説明できない。
その光景を見ていたアーロンの胸にも、激しい疑問が渦巻いていた。
マリユスは、さっきまで彼女を礎と呼んでいた。
グレイスを残響だと定義していた。
ミーティアを、装置の核として語っていた。
なのに、今のあの目は何だ。
あれは、研究者が対象を見る目ではない。
「マリユス、君は……」
だが、その疑問を口にする時間は与えられなかった。
通路の奥から、さらなる絶望が具現化して現れたからだ。
それは、人型をしていた。だが、顔がない。
研究所の防衛用自動人形――ガーディアン。
本来なら、侵入者を制圧するための機械兵に過ぎないはずだった。
しかし今、目の前にいるそれは違う。
位相異常によって変質した半透明の身体には、数式が幾何学的な模様となって浮かび上がっている。
関節は滑らかに動き、輪郭は水面のように揺れていた。
その手には、光の刃が形成されている。
「……数式が実体化してやがる」
カイが短剣を抜き、前に出た。
「魔法の波を直接ぶつけてくる気かよ!」
だが、相手は波そのものだった。
肉体を持つ敵なら斬れる。
装甲を持つ敵なら砕ける。
けれど、目の前のガーディアンは、物理と術式の境界に立っている。
短剣がどこまで通用するかは分からない。
「カイ、合わせて!」
アーロンはミーティアを背負い直し、空いた手でペンダントを握った。
「僕がノイズをぶつける。その瞬間に、空間の固定が緩むはずだ。そこを斬って!」
「……無茶を言うな」
カイは、口の端を上げた。
「だが、やってやるよ!」
ガーディアンが音もなく加速した。
足音はない。
気配もない。
ただ、空間そのものが滑るように近づいてくる。
アーロンは息を止めた。
魔法を使おうとするのではない。
術式を組むのでもない。
ただ、この空間が間違っているという確信を、意志として放つ。
ここにいる者たちは、なかったことにされていい存在ではない。
ミーティアも。
カイも。
マリユスも。
自分自身も。
誰かの都合で消されていい物語ではない。
ペンダントが眩く光った。
アーロンの周囲に、不規則な干渉波が広がる。
ガクン、と世界が揺れた。
整然としていた通路の壁が、一瞬だけ、ノイズ混じりの古い映像のように乱れる。
ガーディアンの輪郭もまた、ぐらりと歪んだ。
「今だ!」
カイが踏み込む。
その動きは、迷いがなかった。
短剣が、空間の継ぎ目を真っ向から両断する。
刃が金属ではない何かを裂いた。
硬い音ではなく、紙を破るような、あるいは水面を割るような奇妙な音が響く。
ガーディアンの身体に走っていた数式が、一瞬だけ乱れた。
「通った!」
カイが叫ぶ。
だが、完全には砕けていない。
斬られた空間の裂け目から、青白い光が噴き出す。
その向こうに、細く暗い通路が見えた。
排熱ダクトへ続く、かろうじて残された逃げ道。
「アーロン、走れ!」
カイが叫ぶ。
「ミーティアを連れて先に行け!」
「でも、マリユスが――」
アーロンが振り返る。
マリユスは焼けた肩を押さえながらも、まだ立っていた。
顔色は悪い。
呼吸も乱れている。
それでも、彼は端末を握りしめ、ガーディアンの再起動を必死に遅らせていた。
「私は問題ない」
「問題ある顔してるぞ!」
カイが怒鳴る。
「黙れ。今は移動が優先だ」
マリユスは、アーロンを見た。
その目には、いつもの冷徹さが戻りつつあった。
だが、その奥にある傷のような感情を、アーロンはもう見逃せなかった。
「彼女を落とすな」
短い言葉だった。
アーロンは、ミーティアを背負う腕に力を込める。
「……分かってる」
ミーティアは、薄れゆく意識の中で、マリユスを見ていた。
「……あなた……」
その声は、かすれていた。
マリユスの背が、わずかに揺れる。
だが彼は振り返らなかった。
「今は喋るな。体力を温存しろ」
いつものような冷たい言い方だった。
けれど、その声には、ほんの少しだけ優しさが混じっていた。
カイは短剣を構え直し、裂け目の前に立つ。
「行くぞ。出口が気まぐれ起こしてるうちにな!」
アーロンは頷いた。
背中のミーティアが、かすかに息を吐く。
その温もりを確かめながら、アーロンは走り出した。
マリユスの中で眠っていた何かが、この瞬間、目を覚まし始めていた。




