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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
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第44周 果たされる約束

地響きは、もはや止む気配を見せなかった。


第四層の壁に刻まれた導管が、過負荷によって耐えがたい高音を発している。

青い光が脈打つたび、床が軋み、天井から細かな粉塵が落ちた。


カプセルの中で、ミーティアの本体が激しく痙攣する。


彼女の身体から溢れ出した青い光は、もはや美しい花の色ではなかった。

それは、すべてを焼き尽くす電位のような鋭さを帯び、導管を逆流し、装置全体を内側から破壊しようとしていた。


「……観測限界を突破した!」


マリユスが叫んだ。


彼は操作盤に指を叩きつける。

だが、表示される数値はすべて赤い警告と「ERROR」で塗りつぶされていた。


「恩寵のフィードバックが止まらない。ミーティアの無意識が、円環の維持を拒絶している!」


マリユスの声に、かすかな焦りが混じる。


「このままでは、彼女の精神が焼き切れる前に、アエリスそのものが位相爆発で消滅するぞ!」


「どうすればいいんだ、マリユス!」


アーロンはカプセルのガラスに手をかけた。


熱を帯びた強化ガラスが、掌を焼く。

皮膚が焦げるような痛みが走った。


それでも、手を離せなかった。


ガラスの向こうで、ミーティアが苦しんでいる。

あの日、自分を未来へ送り出してくれた少女が。

世界のために、誰にも知られず、数千年もの間ひとりで耐えてきた少女が。


「ミーティア……!」


呼びかけても、彼女は答えない。


閉じられた瞼が震え、繊維状の管が彼女の身体からさらに光を吸い上げていく。


アーロンの胸の奥で、何かが切れた。


「……干渉しろ、アーロン」


マリユスが顔を上げた。

その瞳には、理論を越えた先にある、賭けに近い光が宿っていた。


「君は不適合者だ。この世界の数式――ルールに縛られない、唯一の例外だ」


「僕が……?」


「そうだ」


マリユスは、崩れかけた操作盤を片手で押さえながら続ける。


「君の波は、既存の魔法体系では記述できない。不純物――ノイズとして、この狂ったシステムに割り込める可能性がある」


「不純物……」


その言葉を、アーロンは低く繰り返した。


不純物。

この世界にとって、本来あってはならない存在。

円環の数式に含まれていない、余計な誤差。


けれど、アステリオスは言った。

お前は誤差ではない、と。


「魔法を使うな」


マリユスの声が、鋭く響く。


「術式で押し込めば、システムに弾かれる。必要なのは演算ではない。君が向こう側から持ち帰った記憶だ」


「記憶……」


「君が彼女と過ごした時間を、彼女に流し込め。この冷たい回路に、人間としての彼女を刻みつけるんだ!」


アーロンは目を閉じた。


服の上から、ペンダントを握りしめる。


ミーティアが託してくれた石。

あの日、古代ルミナリアの風の中で、震える手が自分へ渡してくれたもの。

その石が、脈打つように熱を放っていた。


「……頼む」


アーロンは、額をカプセルへ押し当てた。


「届いてくれ」


それは魔法の詠唱ではなかった。

願いだった。

叫びにも似た、たった一人の少女へ向けた切望。


アーロンは、自分の意識をカプセルの向こう側へ押し出した。



その瞬間、世界から音が消えた。


警報も、振動も、マリユスの声も、カイの叫びも。

すべてが遠ざかっていく。


アーロンの視界に飛び込んできたのは、無機質な研究所の風景ではなかった。


風の王都ルミナリア。


かつて見た、あの穏やかな午後だった。


白い石畳。

高い塔の間を抜ける風。

空を滑るように流れていく雲。

遠くで鳴る鐘の音。


そして、風に揺れる青い花。


『帰る場所が残ってたらね』


ミーティアの声がした。


アーロンは振り返る。


光の渦の中で、彼女が泣きそうな顔で笑っていた。


あの日と同じ笑顔だった。

けれど、その身体は無数の青い花に囲まれていた。


いや、花ではない。


青い茨だった。


数えきれないほどの青い花が茨のように絡み合い、彼女の手足を、胸を、喉を、身体ごと縛りつけている。

花弁は美しいのに、その根は鋭く、彼女の内側へ深く食い込んでいた。


「ミーティア!」


アーロンは駆け出した。


足元の花が、ざわりと揺れる。

近づくたびに、空気が重くなっていく。


そこには、彼女が背負わされてきた時間があった。


何度も繰り返される世界。

何度も壊れかける空。

何度も救われず、何度も使われ続ける孤独。

誰かの祈りを叶えるために、自分の願いだけを置き去りにしてきた痛み。


そのすべてが、青い茨となってミーティアを縛っていた。


「ミーティア!」


アーロンは茨をかき分ける。


手が裂ける。

腕に青い光が食い込む。

それでも進む。


ようやく、彼女の手を掴んだ。


冷たい。


魂が凍りつくような冷たさだった。


「……アーロン?」


ミーティアが、ゆっくりと顔を上げた。


その瞳は虚ろだった。

かつて風の中で笑っていた少女の光は、ほとんど残っていない。


「どうして……来たの」


その声は、風に消えそうなほど弱かった。


「迎えに来た」


アーロンは、彼女の手を強く握った。


「君を、ここから連れ出す」


ミーティアは小さく首を振った。


「……もう、いいよ、アーロン」


その言葉は優しかった。

優しすぎて、残酷だった。


「私は、ここでいい」


「よくない」


「私は、システムの一部だから」


ミーティアは、青い茨に縛られた自分の身体を見下ろした。


「私が止まれば、世界が壊れてしまう。アステリオスが守りたかったものが、全部消えてしまう」


彼女の声が震える。


「みんなが生きた場所も、みんなが選んだ未来も、全部……」


「違う!」


アーロンは叫んだ。

ミーティアの瞳が、かすかに揺れる。


「そんなふうに一人を犠牲にして回り続ける世界を、アステリオスが本当に望んだと思うのか?」


「でも……」


「君は部品じゃない!」


アーロンの声が、青い花の海に響いた。


「君は礎なんかじゃない。風の巫女でも、システムの核でも、誰かの設計図に組み込まれた装置でもない」


彼は、ミーティアの手を両手で包み込んだ。


「君は、ミーティアだ」


ミーティアの唇が震えた。

その名を、まるで久しぶりに聞いたかのように。


「……ミーティア」


「そうだよ」


アーロンは、泣きそうになりながら笑った。


「古代の街で、僕に道を教えてくれた。風の中で笑ってた。怖いのに、最後まで僕を未来へ送ろうとしてくれた。帰る場所が残ってたらねって、そう言って……」


胸元のペンダントが、熱を増す。


「あの約束を、僕は忘れてない」


ミーティアの瞳に、かすかな光が戻る。


「約束……」


「君が僕にくれたんだ。この石も、言葉も、未来も」


アーロンはペンダントを握りしめた。


「だから今度は、僕が返す番だ」


その瞬間、アーロンの周囲に、記憶が溢れ出した。


ルミナリアの空。

風の音。

ミーティアの笑い声。

アステリオスの真剣な横顔。

円環を調整するセラフィウスの後姿。

古代の街を歩いた時間。

崩れゆく世界の中で、それでも確かに存在した温もり。


そして、未来で出会ったもの。


カイの乱暴な笑い声。

マリユスの冷たい言葉の裏にある不器用な優しさ。

クリスティーナの怒った声。

グレイスが「マリユス」と呼ぶ声。


それらがすべて、白い光となってミーティアへ流れ込んでいく。


「見て、ミーティア」


アーロンは言った。


「世界は、君が一人で支えなくても、まだ誰かが選び続けてる」


ミーティアの頬を、涙が伝った。


「でも……私がいなくなったら……」


「壊れたっていい」


アーロンは、はっきりと言った。


「こんなやり方で守られる世界なんて、間違ってる」


青い茨が、ぎしりと音を立てる。


「アステリオスが言ったんだ。僕は誤差じゃないって」


アーロンは、彼女を縛る茨を掴んだ。


「僕も、君も、ここにいるのは誰かの設計図通りに動くためじゃない」


白い光が、彼の手から広がる。


「生きるためだ!」


アーロンの胸元のペンダントが、眩い純白の光を放った。


それはマリユスが解析した魔力の波形などではなかった。

形を変え、時間を越えても決して摩耗しなかった、純粋な意志の輝きだった。


青い茨が、一本、また一本と焼き切れていく。


ミーティアを縛っていた導管が外れる。

喉に絡みついていた花がほどける。

胸を貫いていた根が、光の中で消えていく。


ミーティアは、信じられないように自分の手を見た。


「……あたたかい」


彼女の声が震える。


「私、まだ……」


「うん」


アーロンは、彼女を抱きしめた。


「まだ、生きてる」


その瞬間、現実の世界で、カプセルを囲む光の膜が激しく弾けた。


「うおっ!」


カイが腕で顔を覆う。


マリユスも衝撃に押されながら、必死に操作盤へしがみついた。


「位相同期率が反転……いや、違う。上書きが始まっている!」


彼の声には、驚愕が滲んでいた。


「アーロンの記憶を媒介に、ミーティアの人格位相が本体へ戻っている……!」


カプセルの中で、ミーティアの瞳に色が戻っていく。


それは設定されたプログラムの再起動ではなかった。

一人の少女としての目覚めだった。


「……あたたかい」


彼女が呟いた瞬間、第四層の振動がぴたりと止まった。


暴走していた魔力流は、アーロンを起点として沈静化していく。

荒れ狂っていた青い光は、柔らかな燐光へと姿を変え、部屋全体を満たした。


アーロンが目を開ける。


カプセルの水が、ゆっくりと抜けていくところだった。


強化ガラスに亀裂が走る。

その音は、まるで長い眠りを閉じ込めていた檻が壊れる音のようだった。


ミーティアの身体が、前へ崩れ落ちる。


「ミーティア!」


アーロンは駆け寄り、彼女を抱きとめた。

重い。

その重さに、アーロンは息を呑んだ。


先ほど意識の中で触れた冷たさは、もうなかった。

腕の中には、確かに生きている人間の重みがあった。


微かな鼓動。

浅い呼吸。

濡れた髪から落ちる水滴。

震える指先。


ミーティアは、ゆっくりと瞼を開いた。


「……アーロン」


かすれた声だった。

けれど、それは機械が再生した声ではない。


彼女自身の声だった。


「うん」


アーロンは、涙をこらえきれずに笑った。


「迎えに来たよ、ミーティア」


ミーティアの瞳から、透明な涙がこぼれた。


「……遅いよ」


その言葉に、アーロンは一瞬だけ目を見開く。

そして、震える息を吐きながら笑った。


「ごめん」


「でも……来てくれた」


ミーティアは、力の入らない手で、アーロンの胸元のペンダントに触れた。


「ちゃんと、持っててくれたんだね」


「当たり前だよ」


アーロンは、彼女をさらに強く抱きしめた。


「君がくれたものだから」


その様子を、カイは少し離れた場所で見ていた。


いつものように茶化す言葉は出てこなかった。

ただ、深く息を吐く。


「……やったんだな、アーロン」


その声は、安堵で少し掠れていた。


マリユスが、ふらつきながら歩み寄る。

彼は表示を確認し、信じがたいものを見るように目を細めた。


「……位相が固定された」


それから、すぐに首を振る。


「いや、固定ではない。上書きされたのか。既存の円環を完全には破壊せず、その核だけを君が奪い取った」


マリユスの声は、震えていた。


「あり得ない。理論上は破綻するはずだった。だが……成立している」


彼の背後で、半透明のグレイスが静かに揺らいだ。


マリユスは、はっとして振り返る。

グレイスの輪郭が、薄くなっていた。


「……グレイス」


彼がその名を呼ぶ。


グレイスは、いつものように首をかしげた。

けれど、その表情はどこか穏やかだった。


「……マリユス」


小さな声で、彼女は呼んだ。

マリユスの喉が動く。


「お前は……消えるのか」


グレイスは、ゆっくりと首を振った。


「……かえるの」


その言葉に、マリユスは何も言えなかった。


それは人格フェーズというバグの消滅ではなかった。

本体への帰還だった。


グレイスは最後に一度だけ、マリユスへ微笑んだ。


満足そうに。

そして、少しだけ寂しそうに。


マリユスは手を伸ばした。


だが、その指先が触れる前に、グレイスの姿は柔らかな光となってほどけていく。

光はカプセルの中から救い出されたミーティアへ吸い込まれ、彼女の胸元で淡く輝いた。


マリユスの手が、空中で止まる。


ほんの一瞬。

彼の表情から、すべての冷静さが消えた。


「……そうか」


低く、掠れた声だった。


「戻れたのか」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


グレイスにか。

ミーティアにか。

それとも、救えなかったと思っていた自分自身にか。


カイが、静かにその横顔を見た。


「……お前も、よかったな」


「何の話だ」


マリユスはすぐに顔を背ける。


「泣きそうな顔してるぞ」


「視覚情報の誤認だ」


「はいはい」


ほんのわずかに、空気が緩んだ。


だが、安らぎは長くは続かなかった。


研究所の全階層から、これまでにないほど冷徹な、そして巨大な足音が響き始めた。


それは本当に足音だったのかもしれない。

あるいは、世界そのものが異物を排除するために動き出した音だったのかもしれない。


いずれにせよ、その音には明確な殺意があった。


「……喜んでいる暇はない」


マリユスが、青い顔で上層を見上げた。


「不純物がシステムを書き換えた。……それを、この世界を管理する上位存在――アエリスの守護プログラムが見逃すはずがない」


第五層、ASTRA観測区。


その方向から、逃れようのない圧力が降りてくる。

空気が重く沈み、青い燐光が震えた。


カイが拳を鳴らす。


「今度は世界そのものが敵ってわけか」


「正確には、世界を守るために設計された防衛機構だ」


「どっちでもいい。襲ってくるなら敵だろ」


アーロンは、ミーティアを抱きかかえたまま立ち上がった。


彼女の身体は弱々しく、まだ自力で立てる状態ではない。

それでも、その瞳には確かに光が戻っていた。


ミーティアは、かすかにアーロンの服を掴む。


「……アーロン」


「大丈夫」


アーロンは、上層から迫る気配を見据えた。


「今度は、置いていかない」


その言葉に、ミーティアの指先がわずかに強くなる。


第四層の奥で、壊れかけた装置が静かに火花を散らしていた。

青い花はもう、悲鳴のようには咲いていない。

柔らかな光を宿しながら、まるで目覚めた少女を祝福するように揺れていた。


だが、その上から降りてくる殺意は、容赦なく彼らを包み込もうとしている。


不純物。

誤差。

この世界にあってはならないもの。


それでも彼は、祈った。


世界を正しく回すためではない。

誰かに許されるためでもない。


ただ、目の前の少女を生かすために。


そしてその祈りは、確かに世界の理を書き換えた。



挿絵(By みてみん)

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