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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
43/67

第43周 鏡の中の少女

理事会からの監視が強まる中、マリユスが選んだ行動は、潜行だった。


深夜。

人気のない連絡通路を抜け、彼はアーロンとカイを地下第四層へと導いていた。


上層の喧騒は、すでに遠い。

背後では、クリスティーナが警備の目を逸らすために動いているはずだった。

だが、その猶予がどれほど残されているのかは、誰にも分からない。


通路は下へ進むほど狭くなり、空気は冷たく湿っていった。

壁の中を流れる導管の駆動音が、まるで巨大な生き物の鼓動のように低く響いている。


そこは、クリスティーナのような正規の研究員でさえ立ち入りを制限される、アエリスの心臓部に近い場所だった。


「……ここから先は、位相がさらに深くなる」


マリユスが立ち止まり、前方の防壁を見据える。


「覚悟しておけ」


その声はいつも通り冷静だった。

けれど、アーロンには分かった。


マリユスの指先が、ほんのわずかに強張っている。


彼は何かを知っている。

そして、その何かを見せるために、自分たちをここへ連れてきたのだ。


マリユスがカードキーをかざすと、重厚な防壁が低い音を立て、左右に分かれた。


第四層――恩寵管理区。


その先に広がっていた光景は、これまでの清潔で整然とした研究室とはまるで違っていた。


壁一面を、太い導管が血管のように走っている。

その内部を、青い光が脈動しながら流れていた。

床には無数のケーブルが這い、天井からは細い管が垂れ下がっている。


空気は重い。

湿っていて、甘く、腐りかけた花のような匂いがした。

どこか焦げ臭くもある。


研究所というより、巨大な生き物の体内に入り込んだようだった。


「……おい、なんだよここは」


カイが鼻を押さえ、露骨に顔を歪めた。


「研究施設っていうより、巨大な家畜小屋みたいじゃねえか」


その言葉に、アーロンは何も返せなかった。


胸の奥が、嫌な予感で重く沈んでいく。

ここにあるものは、見てはいけないものだ。

けれど、自分はそれを見なければならない。


そんな確信だけが、足元から這い上がってきた。


マリユスの足が止まった。


広大な空洞の中央に、巨大な円筒形の水槽――カプセルが鎮座していた。


周囲には無数の計測器が並び、心音のようなリズムで点滅を繰り返している。

カプセルの下部から伸びる導管は床へ、壁へ、天井へと伸び、まるでそこを中心に研究所全体が繋ぎ止められているようだった。


「ここが、システムの核を維持している場所だ」


マリユスが低く言った。


「アステリオスが設計し、我々が引き継いだ恩寵接続装置。円環を回すために必要なエネルギーを、ここから供給している」


彼の声は淡々としていた。

だが、いつものような鋭さはなかった。


むしろ、声の奥に何かが詰まっているようだった。


マリユスは、ゆっくりとカプセルを指し示した。


「……そして、そこを見ろ」


アーロンは視線を上げた。


カプセルの中に満たされた透明な液体。

その中心に、一人の少女が浮かんでいた。


青白い肌。

細い手足。

長い髪が水中でゆらゆらと広がっている。


そして、何百本もの細い繊維状の管が、彼女の身体に直接縫い付けられていた。

首筋に、背中に、腕に、胸元に、足に。

まるで彼女自身が、巨大な装置の部品として組み込まれているかのように。


アーロンは息を呑んだ。


一歩。

また一歩と、カプセルへ近づいていく。


「……ミーティア?」


その名を口にした瞬間、喉が裂けそうになった。


それは間違いなく、古代で共に笑い、泣き、そして光の中に消えていった巫女の姿だった。


アーロンの脳裏に、あの日のミーティアが蘇る。


風の中で笑っていた。

泣きそうなのに、最後まで笑おうとしていた。

自分を未来へ送り出すために、震える手でペンダントを握らせてくれた。


その少女が、今。


冷たい液体の中で、目を閉じている。


「……違う」


アーロンの声が震えた。


「僕が知ってるミーティアは、こんなんじゃない」


今の彼女に、生気はなかった。

呼吸は機械的な補助によって無理やり維持されている。

身体から吸い上げられた魔力は導管を通じ、研究所全体へ、そしてこの世界の円環へと供給されていた。


救われたのではなかった。


眠っていたのでもなかった。


彼女は、今も使われ続けていた。


数千年もの間。


「これは……ただの器だ」


アーロンはカプセルに両手をついた。


冷たいガラス越しに、ミーティアの顔を見つめる。

けれど、彼女は目を覚まさない。


「お前ら、彼女に何をしたんだ……!」


カイもまた、言葉を失っていた。


いつものような軽口は、出てこない。

目の前にいる少女が誰なのか、カイは直接知っているわけではない。

だが、アーロンの声を聞けば分かった。


これは、誰かの大切な人だ。


そして、こんな形で扱われていい人間ではない。


「……胸糞悪い」


カイは奥歯を噛みしめた。


「こんなの、システムでも装置でもねえ。ただの生け贄じゃねえか」


その言葉に、マリユスは反応しなかった。


彼は、カプセルの中の少女を見つめたまま動かなかった。


冷徹なはずの瞳が、揺れている。


マリユスは、この場所の存在を知っていた。

理論上は理解していた。

恩寵接続装置の構造も、礎と呼ばれる存在が何を意味するのかも、記録の上では把握していた。


だが、実物を見るのは初めてだった。


いや。


正確には、初めてではないのかもしれない。

マリユスは、無意識に胸元を押さえた。


痛い。


それは自分の感情ではないはずだった。

もう削られ、ほとんど残っていないはずの情緒だった。


それなのに。

カプセルの中の少女を見た瞬間、何かが焼けるように痛んだ。


「……これが」


マリユスの声が、かすかに掠れた。


「礎……」


その言葉は、説明ではなかった。

まるで自分自身に言い聞かせるような、ひどく弱い声だった。


アーロンが振り返る。


「マリユス……?」


マリユスは、すぐに表情を消した。

いつもの冷たい仮面を貼り直すように、眼差しを硬くする。


「我々がしたのではない」


彼は低く言った。


「アステリオスが、そう決めたのだ」


その声は、かつてないほど冷酷に響いた。


けれどアーロンには、ほんの一瞬見えてしまった。

その冷酷さが、感情を押し殺すためのものだということを。


「彼女を礎にしなければ、この世界は一秒たりとも形を保てない」


マリユスは続ける。


「……そして、アーロン。君がいつも見ているグレイスは、この本体から漏れ出した残響に過ぎない」


その時だった。


マリユスの影から、いつものように半透明の少女が顕現した。


グレイス。


彼女は、カプセルの中の自分を見つめていた。


最初は、何がそこにあるのか分からないようだった。

首をかしげ、ぼんやりと瞬きをする。


そして、ゆっくりと表情が歪んだ。


「……いたい」


小さな声だった。


「……あつい。……くらい」


グレイスは、ふらふらとカプセルへ近づく。


「……マリユス」


その声を聞いた瞬間、マリユスの肩がわずかに震えた。


「……だして」


グレイスが、カプセルのガラス越しに、本体の頬へ手を触れようとする。


だが、半透明の指先はガラスも液体も透過し、決して触れ合うことはなかった。


触れたいのに、触れられない。


自分自身であるはずなのに、届かない。


グレイスは困ったように笑おうとした。

けれど、その表情はすぐに泣きそうに崩れた。


「……わたし、ここにいたの?」


誰も答えられなかった。


マリユスは、唇を噛みしめていた。


いつもの彼なら、すぐに分析を始めるはずだった。

残響の自己認識が本体に接近した際の反応。

位相同期率。

意識断片の逆流。


いくらでも言葉は出てくるはずだった。


だが、出てこなかった。


目の前の少女は、ずっと彼のそばにいた。

彼の孤独に声をかけ、彼の計算を覗き込み、彼を「マリユス」と呼んだ。


ただの残響。

そう定義すれば、楽だった。


けれど今、その残響が本体の前で痛いと言っている。


助けてと、言っている。


マリユスの指先が、強く握り込まれた。


「……ふざけんなよ」


カイが低く呟いた。


次の瞬間、彼はマリユスの胸ぐらを掴み上げていた。


「こんな非人道的なことが許されると思ってんのか!」


怒りで、カイの声が震えている。


「影のアイツが、お前になついてたのは……助けてほしかったからじゃねえのかよ!」


マリユスは抵抗しなかった。

ただ、虚ろな目でカイを見返す。


「……許されるかどうかなど、この末期の世界では何の意味もない」


「意味あるだろうが!」


カイが叫ぶ。


「目の前で苦しんでる奴を見て、意味がないなんて言うな!」


その言葉に、マリユスの瞳がわずかに揺れた。


カイの手を振り払うこともできた。

反論することもできた。


だが、できなかった。


なぜなら、その怒りは正しかったからだ。


マリユスはゆっくりとカイの手を外し、アーロンを見た。


「アーロン」


声は冷静に戻っていた。

けれど、完全ではない。


ほんのわずかに、震えていた。


「君に見せたかったのは、同情を誘うためではない」


マリユスはカプセルの下部を指した。


「……見ろ。カプセルの底を」


アーロンが視線を落とす。


そこには、本体の足元から、無数の青い花が芽吹いていた。


土などない。

水槽の内部であるはずなのに、青い花は根を伸ばし、強化ガラスの内側を静かに侵食していた。

その花弁は、先ほど通路で見たものよりも濃い青を帯びている。


まるで、ミーティア自身の悲鳴が花の形を取ったようだった。


「本体が、拒絶を始めている」


マリユスが言った。


「円環の部品として扱われることに、彼女の無意識が耐えきれなくなっている。青い花は、その拒絶反応だ」


マリユスはカプセルに手を置いた。


ガラス越しの少女を見つめるその横顔は、青白かった。


「世界を支える礎が崩れれば、当然、世界も崩れる」


アーロンは、カプセルの中のミーティアを見つめた。


助けたい。


ただ、それだけだった。


けれど、助けるということは、この世界を壊すことなのかもしれない。

彼女を救うことと、世界を保つことが両立しないなら、自分は何を選べばいいのか。


胸元のペンダントが、熱を帯びたように感じた。


マリユスの視線もまた、そこへ向けられていた。


「君が持ち帰ったペンダント」


彼は静かに言った。


「それが、この死にかけたシステムへの最後の上書きになるのか。……あるいは、引導を渡す刃になるのか」


マリユスは目を伏せる。


「それを決めるために、私は君をここへ呼んだ」


「決めるって……」


アーロンの声が震えた。


「僕に、ミーティアをどうするか決めろっていうのか」


「君にしかできない」


マリユスは答えた。


その声は残酷だった。

だが、逃げのない声でもあった。


「彼女が最後に託したのは、私ではない。アステリオスでもない。君だ」


アーロンは何も言えなかった。


カイは、黙ってアーロンの隣に立った。


いつものように乱暴な言葉はない。

ただ、肩が触れるほど近くに立っている。


一人で決めさせるつもりはない。

言葉にしなくても、そう伝えるように。


マリユスもまた、カプセルから目を逸らさなかった。


彼の横に、グレイスが立っている。

グレイスはまだ、自分の本体へ触れようとしていた。


何度も。

何度も。


届かない指先を伸ばしながら。


「……マリユス」


グレイスが、小さく呼んだ。


マリユスの喉が、わずかに動く。


「……私は」


言いかけて、止まる。


助けると言いたかったのか。

すまないと言いたかったのか。

あるいは、何も言う資格がないと思ったのか。


マリユス自身にも分からなかった。


カプセルの中で、ミーティアの瞼がかすかに動いた。


アーロンが息を呑む。


「ミーティア……!」


ゆっくりと、彼女の瞳が開かれる。


そこに意志はなかった。

光もなかった。


ただ、世界の終わりを予感させるような、冷たい青色だけが宿っていた。


その瞳を見た瞬間、マリユスの身体が強張った。


胸の奥で、何かが砕ける音がした。


それはグレイスの瞳と同じ色だった。

けれど、違う。


いつも彼の隣で瞬いていた、あの不完全で、幼くて、どこか人間らしい光がない。


目の前にあるのは、すべてを奪われ、ただ世界を回すためだけに残された青だった。


マリユスは、無意識に一歩近づいた。


「……ミーティア」


初めて、その名を呼んだ。


研究対象でも、礎でも、残響でもなく、一人の少女の名前として。

グレイスが、彼を見上げた。


アーロンも、カイも、何も言わなかった。

その一言が、マリユスにとってどれほど重いものなのか、分かってしまったからだ。


その時、第四層全体に、これまでとは比較にならないほど激しい振動が走った。


床が軋み、導管が悲鳴のような音を立てる。

警報音が一斉に鳴り響き、青い火花が壁を走った。


カプセル内部の青い花が、いっせいに揺れる。


「……来たか」


マリユスは、はっとしたように顔を上げた。


一瞬だけ崩れかけていた表情が、観測者のそれへ戻る。


だが、完全には戻りきらない。

その瞳の奥には、確かに怒りと痛みが残っていた。


「世界側の強制修復が始まった」


彼はグレイスを背後に庇うようにして身構えた。


その動きは、ほとんど反射だった。

自分でも気づかないほど自然に、彼女を守ろうとしていた。


カイがそれを見て、わずかに目を細める。


「……お前、やっぱりただの冷血野郎じゃねえな」


「黙れ。状況把握を優先しろ」


「はいはい」


カイは腰を落とし、いつでも動けるように構えた。


アーロンはペンダントを握りしめ、カプセルの中のミーティアを見つめる。


助ける。

今度こそ。


あの日、光の向こうへ消えていった少女を。

世界のために一人で置き去りにされた少女を。


今度こそ、この場所から連れ出す。


マリユスは二人を見た。


「アーロン、カイ。ここからは一歩も離れるな」


彼の声が、第四層に響く。


「……今夜、この場所で、円環の理がひっくり返る」

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