第43周 鏡の中の少女
理事会からの監視が強まる中、マリユスが選んだ行動は、潜行だった。
深夜。
人気のない連絡通路を抜け、彼はアーロンとカイを地下第四層へと導いていた。
上層の喧騒は、すでに遠い。
背後では、クリスティーナが警備の目を逸らすために動いているはずだった。
だが、その猶予がどれほど残されているのかは、誰にも分からない。
通路は下へ進むほど狭くなり、空気は冷たく湿っていった。
壁の中を流れる導管の駆動音が、まるで巨大な生き物の鼓動のように低く響いている。
そこは、クリスティーナのような正規の研究員でさえ立ち入りを制限される、アエリスの心臓部に近い場所だった。
「……ここから先は、位相がさらに深くなる」
マリユスが立ち止まり、前方の防壁を見据える。
「覚悟しておけ」
その声はいつも通り冷静だった。
けれど、アーロンには分かった。
マリユスの指先が、ほんのわずかに強張っている。
彼は何かを知っている。
そして、その何かを見せるために、自分たちをここへ連れてきたのだ。
マリユスがカードキーをかざすと、重厚な防壁が低い音を立て、左右に分かれた。
第四層――恩寵管理区。
その先に広がっていた光景は、これまでの清潔で整然とした研究室とはまるで違っていた。
壁一面を、太い導管が血管のように走っている。
その内部を、青い光が脈動しながら流れていた。
床には無数のケーブルが這い、天井からは細い管が垂れ下がっている。
空気は重い。
湿っていて、甘く、腐りかけた花のような匂いがした。
どこか焦げ臭くもある。
研究所というより、巨大な生き物の体内に入り込んだようだった。
「……おい、なんだよここは」
カイが鼻を押さえ、露骨に顔を歪めた。
「研究施設っていうより、巨大な家畜小屋みたいじゃねえか」
その言葉に、アーロンは何も返せなかった。
胸の奥が、嫌な予感で重く沈んでいく。
ここにあるものは、見てはいけないものだ。
けれど、自分はそれを見なければならない。
そんな確信だけが、足元から這い上がってきた。
マリユスの足が止まった。
広大な空洞の中央に、巨大な円筒形の水槽――カプセルが鎮座していた。
周囲には無数の計測器が並び、心音のようなリズムで点滅を繰り返している。
カプセルの下部から伸びる導管は床へ、壁へ、天井へと伸び、まるでそこを中心に研究所全体が繋ぎ止められているようだった。
「ここが、システムの核を維持している場所だ」
マリユスが低く言った。
「アステリオスが設計し、我々が引き継いだ恩寵接続装置。円環を回すために必要なエネルギーを、ここから供給している」
彼の声は淡々としていた。
だが、いつものような鋭さはなかった。
むしろ、声の奥に何かが詰まっているようだった。
マリユスは、ゆっくりとカプセルを指し示した。
「……そして、そこを見ろ」
アーロンは視線を上げた。
カプセルの中に満たされた透明な液体。
その中心に、一人の少女が浮かんでいた。
青白い肌。
細い手足。
長い髪が水中でゆらゆらと広がっている。
そして、何百本もの細い繊維状の管が、彼女の身体に直接縫い付けられていた。
首筋に、背中に、腕に、胸元に、足に。
まるで彼女自身が、巨大な装置の部品として組み込まれているかのように。
アーロンは息を呑んだ。
一歩。
また一歩と、カプセルへ近づいていく。
「……ミーティア?」
その名を口にした瞬間、喉が裂けそうになった。
それは間違いなく、古代で共に笑い、泣き、そして光の中に消えていった巫女の姿だった。
アーロンの脳裏に、あの日のミーティアが蘇る。
風の中で笑っていた。
泣きそうなのに、最後まで笑おうとしていた。
自分を未来へ送り出すために、震える手でペンダントを握らせてくれた。
その少女が、今。
冷たい液体の中で、目を閉じている。
「……違う」
アーロンの声が震えた。
「僕が知ってるミーティアは、こんなんじゃない」
今の彼女に、生気はなかった。
呼吸は機械的な補助によって無理やり維持されている。
身体から吸い上げられた魔力は導管を通じ、研究所全体へ、そしてこの世界の円環へと供給されていた。
救われたのではなかった。
眠っていたのでもなかった。
彼女は、今も使われ続けていた。
数千年もの間。
「これは……ただの器だ」
アーロンはカプセルに両手をついた。
冷たいガラス越しに、ミーティアの顔を見つめる。
けれど、彼女は目を覚まさない。
「お前ら、彼女に何をしたんだ……!」
カイもまた、言葉を失っていた。
いつものような軽口は、出てこない。
目の前にいる少女が誰なのか、カイは直接知っているわけではない。
だが、アーロンの声を聞けば分かった。
これは、誰かの大切な人だ。
そして、こんな形で扱われていい人間ではない。
「……胸糞悪い」
カイは奥歯を噛みしめた。
「こんなの、システムでも装置でもねえ。ただの生け贄じゃねえか」
その言葉に、マリユスは反応しなかった。
彼は、カプセルの中の少女を見つめたまま動かなかった。
冷徹なはずの瞳が、揺れている。
マリユスは、この場所の存在を知っていた。
理論上は理解していた。
恩寵接続装置の構造も、礎と呼ばれる存在が何を意味するのかも、記録の上では把握していた。
だが、実物を見るのは初めてだった。
いや。
正確には、初めてではないのかもしれない。
マリユスは、無意識に胸元を押さえた。
痛い。
それは自分の感情ではないはずだった。
もう削られ、ほとんど残っていないはずの情緒だった。
それなのに。
カプセルの中の少女を見た瞬間、何かが焼けるように痛んだ。
「……これが」
マリユスの声が、かすかに掠れた。
「礎……」
その言葉は、説明ではなかった。
まるで自分自身に言い聞かせるような、ひどく弱い声だった。
アーロンが振り返る。
「マリユス……?」
マリユスは、すぐに表情を消した。
いつもの冷たい仮面を貼り直すように、眼差しを硬くする。
「我々がしたのではない」
彼は低く言った。
「アステリオスが、そう決めたのだ」
その声は、かつてないほど冷酷に響いた。
けれどアーロンには、ほんの一瞬見えてしまった。
その冷酷さが、感情を押し殺すためのものだということを。
「彼女を礎にしなければ、この世界は一秒たりとも形を保てない」
マリユスは続ける。
「……そして、アーロン。君がいつも見ているグレイスは、この本体から漏れ出した残響に過ぎない」
その時だった。
マリユスの影から、いつものように半透明の少女が顕現した。
グレイス。
彼女は、カプセルの中の自分を見つめていた。
最初は、何がそこにあるのか分からないようだった。
首をかしげ、ぼんやりと瞬きをする。
そして、ゆっくりと表情が歪んだ。
「……いたい」
小さな声だった。
「……あつい。……くらい」
グレイスは、ふらふらとカプセルへ近づく。
「……マリユス」
その声を聞いた瞬間、マリユスの肩がわずかに震えた。
「……だして」
グレイスが、カプセルのガラス越しに、本体の頬へ手を触れようとする。
だが、半透明の指先はガラスも液体も透過し、決して触れ合うことはなかった。
触れたいのに、触れられない。
自分自身であるはずなのに、届かない。
グレイスは困ったように笑おうとした。
けれど、その表情はすぐに泣きそうに崩れた。
「……わたし、ここにいたの?」
誰も答えられなかった。
マリユスは、唇を噛みしめていた。
いつもの彼なら、すぐに分析を始めるはずだった。
残響の自己認識が本体に接近した際の反応。
位相同期率。
意識断片の逆流。
いくらでも言葉は出てくるはずだった。
だが、出てこなかった。
目の前の少女は、ずっと彼のそばにいた。
彼の孤独に声をかけ、彼の計算を覗き込み、彼を「マリユス」と呼んだ。
ただの残響。
そう定義すれば、楽だった。
けれど今、その残響が本体の前で痛いと言っている。
助けてと、言っている。
マリユスの指先が、強く握り込まれた。
「……ふざけんなよ」
カイが低く呟いた。
次の瞬間、彼はマリユスの胸ぐらを掴み上げていた。
「こんな非人道的なことが許されると思ってんのか!」
怒りで、カイの声が震えている。
「影のアイツが、お前になついてたのは……助けてほしかったからじゃねえのかよ!」
マリユスは抵抗しなかった。
ただ、虚ろな目でカイを見返す。
「……許されるかどうかなど、この末期の世界では何の意味もない」
「意味あるだろうが!」
カイが叫ぶ。
「目の前で苦しんでる奴を見て、意味がないなんて言うな!」
その言葉に、マリユスの瞳がわずかに揺れた。
カイの手を振り払うこともできた。
反論することもできた。
だが、できなかった。
なぜなら、その怒りは正しかったからだ。
マリユスはゆっくりとカイの手を外し、アーロンを見た。
「アーロン」
声は冷静に戻っていた。
けれど、完全ではない。
ほんのわずかに、震えていた。
「君に見せたかったのは、同情を誘うためではない」
マリユスはカプセルの下部を指した。
「……見ろ。カプセルの底を」
アーロンが視線を落とす。
そこには、本体の足元から、無数の青い花が芽吹いていた。
土などない。
水槽の内部であるはずなのに、青い花は根を伸ばし、強化ガラスの内側を静かに侵食していた。
その花弁は、先ほど通路で見たものよりも濃い青を帯びている。
まるで、ミーティア自身の悲鳴が花の形を取ったようだった。
「本体が、拒絶を始めている」
マリユスが言った。
「円環の部品として扱われることに、彼女の無意識が耐えきれなくなっている。青い花は、その拒絶反応だ」
マリユスはカプセルに手を置いた。
ガラス越しの少女を見つめるその横顔は、青白かった。
「世界を支える礎が崩れれば、当然、世界も崩れる」
アーロンは、カプセルの中のミーティアを見つめた。
助けたい。
ただ、それだけだった。
けれど、助けるということは、この世界を壊すことなのかもしれない。
彼女を救うことと、世界を保つことが両立しないなら、自分は何を選べばいいのか。
胸元のペンダントが、熱を帯びたように感じた。
マリユスの視線もまた、そこへ向けられていた。
「君が持ち帰ったペンダント」
彼は静かに言った。
「それが、この死にかけたシステムへの最後の上書きになるのか。……あるいは、引導を渡す刃になるのか」
マリユスは目を伏せる。
「それを決めるために、私は君をここへ呼んだ」
「決めるって……」
アーロンの声が震えた。
「僕に、ミーティアをどうするか決めろっていうのか」
「君にしかできない」
マリユスは答えた。
その声は残酷だった。
だが、逃げのない声でもあった。
「彼女が最後に託したのは、私ではない。アステリオスでもない。君だ」
アーロンは何も言えなかった。
カイは、黙ってアーロンの隣に立った。
いつものように乱暴な言葉はない。
ただ、肩が触れるほど近くに立っている。
一人で決めさせるつもりはない。
言葉にしなくても、そう伝えるように。
マリユスもまた、カプセルから目を逸らさなかった。
彼の横に、グレイスが立っている。
グレイスはまだ、自分の本体へ触れようとしていた。
何度も。
何度も。
届かない指先を伸ばしながら。
「……マリユス」
グレイスが、小さく呼んだ。
マリユスの喉が、わずかに動く。
「……私は」
言いかけて、止まる。
助けると言いたかったのか。
すまないと言いたかったのか。
あるいは、何も言う資格がないと思ったのか。
マリユス自身にも分からなかった。
カプセルの中で、ミーティアの瞼がかすかに動いた。
アーロンが息を呑む。
「ミーティア……!」
ゆっくりと、彼女の瞳が開かれる。
そこに意志はなかった。
光もなかった。
ただ、世界の終わりを予感させるような、冷たい青色だけが宿っていた。
その瞳を見た瞬間、マリユスの身体が強張った。
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
それはグレイスの瞳と同じ色だった。
けれど、違う。
いつも彼の隣で瞬いていた、あの不完全で、幼くて、どこか人間らしい光がない。
目の前にあるのは、すべてを奪われ、ただ世界を回すためだけに残された青だった。
マリユスは、無意識に一歩近づいた。
「……ミーティア」
初めて、その名を呼んだ。
研究対象でも、礎でも、残響でもなく、一人の少女の名前として。
グレイスが、彼を見上げた。
アーロンも、カイも、何も言わなかった。
その一言が、マリユスにとってどれほど重いものなのか、分かってしまったからだ。
その時、第四層全体に、これまでとは比較にならないほど激しい振動が走った。
床が軋み、導管が悲鳴のような音を立てる。
警報音が一斉に鳴り響き、青い火花が壁を走った。
カプセル内部の青い花が、いっせいに揺れる。
「……来たか」
マリユスは、はっとしたように顔を上げた。
一瞬だけ崩れかけていた表情が、観測者のそれへ戻る。
だが、完全には戻りきらない。
その瞳の奥には、確かに怒りと痛みが残っていた。
「世界側の強制修復が始まった」
彼はグレイスを背後に庇うようにして身構えた。
その動きは、ほとんど反射だった。
自分でも気づかないほど自然に、彼女を守ろうとしていた。
カイがそれを見て、わずかに目を細める。
「……お前、やっぱりただの冷血野郎じゃねえな」
「黙れ。状況把握を優先しろ」
「はいはい」
カイは腰を落とし、いつでも動けるように構えた。
アーロンはペンダントを握りしめ、カプセルの中のミーティアを見つめる。
助ける。
今度こそ。
あの日、光の向こうへ消えていった少女を。
世界のために一人で置き去りにされた少女を。
今度こそ、この場所から連れ出す。
マリユスは二人を見た。
「アーロン、カイ。ここからは一歩も離れるな」
彼の声が、第四層に響く。
「……今夜、この場所で、円環の理がひっくり返る」




