第42周 選ばれた絆
「カイ!」
冷たい通路に、アーロンの声が響いた。
先を歩いていたカイとクリスティーナの背後から、急ぎ足の靴音が重なる。
振り返るまでもなく、その気配で誰だか分かった。
呼び止めたのは、アーロンだった。
息を少し弾ませながら、彼はまっすぐにカイを見ている。
その隣には、先ほどまでの虚無が嘘のように、いつもの冷徹な表情を取り戻したマリユスが並んでいた。
通路の壁に埋め込まれた淡い灯りが、四人の影を長く伸ばす。
研究所の奥へ続く無機質な廊下は、ひどく静かだった。遠くで鳴る警告音だけが、まだ世界が壊れかけていることを知らせている。
「……なんだよ」
カイは、肩越しに二人を見た。
「お前らまで説教しに来たのか?」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが、先ほどハンカチを巻いてもらった右手は、もう壁を殴ったときのようには震えていなかった。
白い布に滲んだ血の赤を、カイは一瞬だけ見下ろす。
自分の血。
王家の血。
そう考えた瞬間、また胸の奥がざらついた。
けれど、目の前のアーロンは、そんなものなどまるで関係ないという顔で立っていた。
「違うよ」
アーロンは静かに首を振った。
「君を、放っておけなかったんだ」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
カイは目を細める。
いつものように軽口で返そうとした。だが、喉の奥で言葉が引っかかる。
アーロンは一歩、カイに近づいた。
「言いたかったんだ。王族でもなんでも、カイはカイだって」
通路の冷たい空気の中で、その声だけが不思議と温かく響いた。
「立場とか、血とか、隠されていた名前とか……そんなの関係ない。君がどこの誰でも、僕にとっては変わらない」
アーロンは、少し照れたようにはにかんだ。
「君は、僕の親友だ」
カイは、息を呑んだ。
親友。
その言葉が、思っていた以上に深く胸へ落ちてきた。
怒りで固めていた心のどこかが、わずかに軋む。
「……簡単に言うなよ、そういうこと」
カイは視線を逸らした。
「簡単じゃないよ」
アーロンは、すぐに答えた。
「でも、だから言いに来たんだ」
カイは黙った。
アーロンは少しだけ苦笑する。
「それに、僕だって出自の分からない似たようなものだよ。むしろ、ちゃんとこれまで育ってきた記憶があるだけ、カイの方がマシ!」
そのあまりに雑な励まし方に、カイは思わず顔を上げた。
「……何言ってんだ、お前」
呆れたような声だった。
だが、先ほどまでの刺は薄れている。
「お前がどこの誰だろうが、関係ねえよ」
言ってから、カイははっとした。
アーロンが、にこりと笑う。
「ほら。同じでしょ?」
「……っ」
カイは言葉に詰まった。
自分が言われて救われたことと、今、自分が当たり前のようにアーロンへ向けた言葉。
その二つが、同じ形をしていることに気づいてしまった。
「君の言葉と、アーロンの言葉。本質は同じだ」
そこへ、マリユスが淡々と口を挟んだ。
「……そして私も、肩書きや血筋を重要視しない」
カイは眉をひそめる。
「お前が言うと、急に感動が薄れるな」
「事実を述べただけだ」
マリユスは表情ひとつ変えない。
「王族であろうが、孤児であろうが、観測において重要なのは、現在そこに存在している個体が何を選択するかだ」
「言い方」
アーロンが小さく突っ込む。
カイはしばらく二人を見ていた。そして、ふっと息を漏らす。
笑いとも、ため息ともつかない音だった。
「ハッ。お前に慰められる日が来るとか、思ってなかったわ」
「慰めたつもりはない」
「そこは慰めたって言えよ」
カイはバツが悪そうに頭を掻いた。
少し照れくさそうに視線を逸らす。
だが、その表情からは、確実に暗い刺が抜け始めていた。
先ほどまで胸を焼いていた怒りは、まだ消えたわけではない。
父への不信も、裏切られた痛みも、簡単にはなくならない。
それでも。
少なくとも今、自分の前には、自分を血筋ではなく「カイ」として見ている奴らがいる。
その事実だけで、立っていられる気がした。
「……で」
カイは乱暴に息を吐き、いつもの調子を取り戻すように顎をしゃくった。
「これからどうするつもりだ? マリユス。どうせお前、何か企んでるんだろ?」
「人聞きが悪い」
マリユスは即座に返した。
「これから第四層――恩寵管理区を目指す」
「恩寵、管理区?」
アーロンの背筋に、嫌な予感が走った。
マリユスは構わず、手元の端末からホログラムを展開した。
青白い光の線が空中に浮かび、研究所の断面図がゆっくりと回転する。
「システムを動かすには、膨大なエネルギーが必要だ。第四層には、円環を回すための『礎』が安置されているはずだ」
「礎……?」
アーロンの拳が震えた。
直感が、確信に変わる。
ルミナリアの最期。
光の中に消えていった少女。
世界の重荷を一身に背負わされていた巫女。
あの時、たミーティアは救われたのではなかった。
今も、この足元深くで。
数千年もの間、たった一人で、世界のために縛りつけられている。
「助けに行く」
アーロンは、迷わず言った。
「マリユス、案内して」
「待ちなさい!!」
クリスティーナが、叫ぶように三人の間へ割って入った。
その顔は恐怖で強張っていた。
けれど、それだけではない。
彼女は研究員だった。組織に属し、規則を知り、それが破られた時に何が起こるかも知っている。
「三人とも正気なの!?」
彼女の声が、通路に反響する。
「第四層は完全立ち入り禁止区域よ。記録員や観測者が許可なく侵入すれば、即刻、研究員資格の剥奪。最悪、反逆罪で拘束されるわ」
クリスティーナは、マリユスを睨みつけた。
「業務違反なんてレベルじゃない。人生が終わるのよ!」
「規約など、現象の前では紙屑だ」
マリユスは冷ややかに言った。
「私は、真実を観測する。それが私の唯一の職務だ」
「マリユス、あなたねぇ……!」
クリスティーナは怒りで肩を震わせた。
それから、今度はカイを見る。
「カイ、あなたからも言ってやりなさい! あなたはさっき、頭が冷えたばかりでしょう!?」
詰め寄られたカイは、しばらく黙っていた。
通路の奥から、低い駆動音が聞こえる。
警告灯が赤く瞬き、三人の顔を断続的に照らした。
カイは、自分の右手に巻かれたハンカチを見る。
それから、クリスティーナの顔を見た。
自分を止めようとしている。
本気で怒っている。
本気で心配している。
そのことが、少しだけ胸に痛かった。
「聞いてどうすんだよ、なんてさっきは言ったけどさ……」
カイは、首の後ろをがりがりと掻いた。
「たぶん、違ったんだな」
「違った?」
アーロンが小さく聞き返す。
カイは、苦い笑みを浮かべた。
「答えを聞くのが怖かっただけだ。親父が何を隠してたのかも、自分が何者なのかも、聞いちまったら戻れなくなる気がしてた」
彼は一度、唇を噛んだ。
「でも、もう戻れねえんだろ」
カイは顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまでの刺々しい怒りが消えつつあった。
代わりに、別の静かな熱が宿っている。
「答えなんか、どうせ向こうからやってくる。だったら、他人が用意した規約――レールの上で立ち止まってる方が、今の俺には反吐が出る」
「カイまで……!」
クリスティーナは、絶望的な顔で天を仰いだ。
目の前にいるのは、規律や保身よりも、目の前の真実と仲間のために命を懸けると決めた、引き返せない目をした男たちだった。
アーロンは、ミーティアを助けるために進もうとしている。
マリユスは、世界の真実を観測するために進もうとしている。
そしてカイは、自分の血と父の嘘から逃げないために、仲間と共に進もうとしている。
それぞれ理由は違う。
けれど、向かう先は同じだった。
「……はぁ」
クリスティーナは深く、深く溜息をついた。
「どいつもこいつも、本当に大馬鹿野郎ね」
そして、掴んでいたカイの手首をぱっと離す。
「分かったわよ。止めないわ。止めても行くんでしょう、あんたたちは」
「クリス?」
カイが驚いたように目を丸くした。
クリスティーナは、少しだけ目を伏せる。
「私は研究員よ。あんたたちみたいに、すべてを捨てて飛び降りる度胸はないわ」
その声には、悔しさが滲んでいた。
「……だから、私はここまで」
彼女はきっぱりと言い、セラフィウスが待つ会議室の方へと体の向きを変えた。
「私は一旦、全力であんたたちを止めた。だけど説得できず、セラフィウス様に報告へ戻る」
クリスティーナは、ちらりとマリユスを見る。
「上層の警備の目を逸らすように、少しは時間を稼いであげる。だから――」
彼女は振り返り、カイの目をまっすぐに見つめた。
「絶対に、死なずに戻ってきなさい」
そして、視線をカイの右手へ落とす。
「ハンカチ、返してもらうんだから」
カイは一瞬、言葉を失った。
それから、不敵に笑ってみせる。
「……ああ。約束する」
クリスティーナは小さく頷いた。
怒ったような、泣きそうな顔だった。
「アーロン。無茶しすぎないこと」
「うん」
「マリユス。あんたは無茶しかできないだろうから、せめて死なない計算をしなさい」
「善処する」
「それ、信用できない返事ね」
クリスティーナはもう一度だけ三人を見た。
そして今度こそ、迷いのない足取りで上層へと走っていった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、三人はしばらく黙っていた。
最初に口を開いたのは、カイだった。
「……いい女だな、あいつ」
「今さら気づいたのか」
マリユスが淡々と言う。
「うるせえ」
カイは小さく笑った。その笑いは、まだぎこちなかった。
けれど、先ほどまでのような投げやりなものではなかった。
三人は、さらに地下へと続く暗い通路を進む。
下へ行くほど、空気は冷たく湿っていった。
壁の中を流れる配管の音が低く響き、天井の照明は時折、不安定に瞬く。
そして、いつの間にか。
周囲の壁や床の隅に、点々と青い花が咲き始めていた。
研究所の内部に、植物があるはずはない。
土も、水も、陽の光もない。
それなのにその花は、まるで元からそこにあったかのように、静かに根付いていた。
青い花弁は、淡く光を帯びている。
それは研究所の無機質な白い壁の中で、異物のようでいて、どこか懐かしいもののようにも見えた。
カイが足を止めた。
「……おい」
彼はしゃがみ込み、花をじっと見つめる。
「これ、触れるべきかどうか迷うな」
そう言いながらも、カイの指先はゆっくりと花へ近づいていた。
アーロンが息を呑む。
「カイ、待って――」
だが、遅かった。
カイの指先が、青い花弁に触れた。
その瞬間――カイの視界が、激しく揺れた。
高い場所。
開けた場所。
空へ向かって伸びる白い塔。
誰かの笑い声。
知らないはずなのに、肌が覚えている懐かしい風。
青空の下、幼い誰かが走っている。
その背中を追いかける誰かがいる。
風に揺れる花畑。
遠くで鐘が鳴っている。
あたたかい。
けれど、胸が裂けるほど悲しい。
「……っ!」
カイは弾かれたように手を引っ込めた。
呼吸が乱れる。
額に汗が滲んでいた。
「今の……なんだ……」
彼は自分の手を見る。そこには、何も残っていない。
だが、胸の奥には、確かに何かが流れ込んでいた。
「知ってる景色、みたいな……」
「見えたか」
マリユスが静かに言った。
その声は冷淡だったが、どこか確信を帯びていた。
「……血の共鳴だな」
「血の、共鳴?」
アーロンが聞き返す。
マリユスは青い花を見下ろした。
「王家の血――正確には、ルミナリアの因子を持つ者には、この花が媒介する過去の記録が流れ込みやすい。おそらく、青い花はただの植物ではない。位相記録媒体だ」
「つまり、俺は……」
カイは息を整えながら立ち上がる。
「この花を通して、昔の記憶を見たってことか」
「断片的にはな」
マリユスは頷いた。
「ただし、それは個人の記憶とは限らない。王家の血に刻まれた記録。あるいは、円環そのものに保存された残響の可能性がある」
カイは周囲を見渡した。
青い花は、ただ無造作に咲いているわけではなかった。
壁の裂け目。
床の継ぎ目。
古い配線の影。
その配置には、どこか規則性がある。
カイの目つきが変わっていく。
「……これ、全部バラバラじゃねえ」
彼は一歩、花の並びを追うように歩いた。
「配置が、さっき一瞬見た景色と繋がってる」
アーロンは、その横顔を見つめた。
先ほどまで、自分の血を呪うように叫んでいたカイ。
けれど今の彼は、その血から目を逸らしていない。
混乱も、痛みも抱えたまま、それでも見ようとしている。
その姿に、アーロンは胸の奥が熱くなった。
「カイ……」
「マリユス」
カイは振り返った。
その目はもう、ただ混乱する青年のものではなかった。
世界の謎を読もうとする者の目だった。
王族の血を持つ者として。
そして、自分の意志で真実に踏み込もうとする者として。
「お前の言ってた『繰り返す世界』ってやつ、デタラメじゃねえな。わかる。……これ、前にも見た」
その言葉に、マリユスの目がわずかに細まる。
「興味深いな」
「そこで興味深がるな。こっちは結構気味悪いんだよ」
カイは肩をすくめた。
けれど、その声にはもう恐怖だけではない。
少しだけ、いつもの軽さが戻っていた。
「……なあ、マリユス」
「何だ」
「お前、さっきから当たり前みたいに業務違反だの反逆だの言ってるけどさ」
カイは、マリユスを横目で見た。
「お前って実は、クソ真面目な堅物なのか? それとも、ただのぶっ飛んだ狂人なのか? どっちなんだよ」
マリユスは一瞬だけ足を止めた。
調整の終わった端末を懐に収める。
「どちらでもない」
「じゃあ何だよ」
「私は、最も効率的な道を選んでいるだけだ」
マリユスは平然と言った。
「……それが組織を壊すことになるとしても」
その答えに、カイは数秒黙った。
そして、声を上げて笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ解けていく。
「あっそ。じゃあやっぱり狂人寄りだな」
「分類に意味はない」
「あるわ。俺の中ではある」
アーロンも、つられて小さく笑った。
ほんの少し前まで、彼らの間にはそれぞれの痛みがあった。
出自の分からないアーロン。
王家の血を突きつけられたカイ。
情緒を削られ、それでも観測者であろうとするマリユス。
誰も、完全ではない。
誰も、自分のすべてを理解できてはいない。
それでも今、三人は同じ方向を向いていた。
「いいぜ」
カイは、青い花の先へ続く通路を見た。
「ぶっ飛んだ計画に付き合ってやるよ。親父の隠し事より、そっちの方が面白そうだ」
「決まりだな」
アーロンが力強く頷く。
「ミーティアを助けよう」
その名を聞いた瞬間、通路に咲く青い花が、かすかに揺れた気がした。
マリユスは端末を閉じ、前方の重い扉を見据える。
「第四層への隔壁だ。ここから先は、研究所の記録にもほとんど残されていない」
「上等だ」
カイが笑う。
「記録にないなら、見に行くしかねえだろ」
三人は、もう迷わなかった。
理解してしまった者の目で。
戻れなくなった者の足取りで。
そして、互いを選んだ者たちの沈黙で。
世界の心臓部――第四層「恩寵管理区」へと続く、下り階段の重い扉を押し開けた。




