第41周 もう一人では歩かない
古代の記憶。若いセラフィウス。現代の神父。
アーロンは聞きたいことは山ほどあった。
あなたは、僕が古代で見たあの人なのか。どうして今、ここにいるのか。
「……神父様。あなたは、僕が古代で見たセラフィウスと、どう繋がっているんですか」
セラフィウスはしばらく沈黙した。それは否定でも、肯定でもなかった。
「……今は、すべてを語れません」
「……」
アーロンは拳を握った。
以前の自分なら、きっと誰かの答えを待っていた。
マリユスに聞き、神父にすがり、カイの後ろに隠れるようにして、世界が何を意味しているのかを教えてもらおうとしていた。
しかし、それらは、もう誰かに守られているだけでは見えないものだった。
自分で繋がなければならない。
自分で、選ばなければならない。
「語れないなら、今はいいです。でも、僕はカイを一人にしません」
その言葉に、セラフィウスの目がわずかに見開かれる。
アーロンは振り返り、まだ息の荒い観測者を見た。
「マリユス。動ける?」
マリユスは黒い手袋をはめ直し、椅子の背を掴んで立ち上がった。
その足取りはまだ僅かに覚つかない。
だが、その瞳には、世界の終わりを見つめる冷徹な意志が完全に戻っていた。
「問題ない。言ったはずだ、感情の処理には時間がかかるが、円環は待たない、と」
『マリユス、まだ位相波形が不安定です!』
その横で、グレイスが本当に心配そうに彼の袖を引いていた。
その指先は淡く光っているが、確かにマリユスの服の繊維を掴んでいるように見えた。
その姿を見て、アーロンの胸が激しく震えた。
古代で出会った、あの優しく、明るい少女。
世界にただ一人残され、それでもアーロンに未来を託した、ミーティア。
「……グレイス」
アーロンは衝動的に、彼女を名前で呼んでいた。
グレイスが不思議そうに、長い睫毛を揺らしてアーロンを振り返る。
「今の君は……その、人工知能のプログラムじゃなくて、君自身の『意志』とか、そういうのがあるの?」
単なるシステムへの質問としては、あまりに感傷的で、的外れな問いだった。
マリユスなら「無意味な質問だ」と切り捨てるかもしれない。
だが、グレイスは動きを止め、少しだけ小首をかしげた。
『意志、の定義は不明ですが――』
グレイスは、そっと自分の胸に手を当てた。
『マリユスが心を失いかけたとき、わたしの記録領域にはないはずの「痛み」が走りました。彼を失いたくない。消えてほしくない。……それを意志と呼ぶのなら、そうなのかもしれません、アーロン』
そう言って、グレイスはほんの少しだけ、照れくさそうに微笑んだのだ。
その笑顔は、かつて古代の崩壊する世界の中で、アーロンに「ありがとう」と言ったミーティアの笑顔と、完全に重なった。
(やっぱり、君なんだ――)
確信が、アーロンの胸を熱く満たす。
彼女は形を変えても、時を超えても、今もこうして世界を、そしてマリユスを救おうとしている。
「……ありがとう、グレイス。行こう、マリユス!」
「言われずとも」
マリユスは端末を取り上げ、警告赤色灯が回る廊下へと一歩を踏み出した。
「カイの情緒の崩壊は、そのままアエリスの防衛システムのバグに直結する。あいつをあの状態で地下に彷徨わせるのは、文字通り自殺行為だ」
「うん!」
アーロンは頷き、走り出した。
背後で、セラフィウスが悲しげに、だがどこか救われたような目で見送る気配がした。
その頃、冷たい鋼鉄の通路を、カイはあてもなく歩いていた。
頭が狂いそうだった。
自分が「王族の血」を引いていること。
母親が流行り病ではなく、この研究所の犠牲者だったこと。
そして、自分を必死に育ててくれたと思っていた父親が、すべての元凶である研究所の「最高責任者」だったこと。
信じていたものが、砂の城のように音を立てて崩れていく。
「クソッ……! どいつもこいつも、何なんだよ……!」
行き場のない怒りをぶつけるように、カイは拳を壁に叩きつけた。
鈍い金属音が響き、皮膚が裂けて血が滲むが、心の痛みの方が勝っていて気づきもしない。
「そこまでにしなさい、馬鹿」
背後から届いたのは、少し息を切らした、だが凛とした大人の女性の声だった。
振り返ると、クリスティーナが肩を上下させながら立っていた。
「来るなって言っただろ……!」
カイは、傷ついた獣のような目で彼女を睨みつけた。
「俺は子供じゃねえ! 同情なんていらねえんだよ! 独りにしてくれって言ってるのが聞こえなかったのか!」
激しい拒絶。
普段のカイなら、ここまで周囲を怒鳴り散らすことはない。
それほどまでに、彼の心はズタズタに引き裂かれていた。
だが、クリスティーナは怯まなかった。
それどころか、あきれたように溜息をひとつつくと、ヒールの音を響かせて迷いなくカイへと近づいていく。
「な、んだよ……」
気圧されたカイが思わず一歩身を引く。
クリスティーナはカイの目の前で立ち止まると、躊躇なく彼の手首を掴んだ。
そして、自分のポケットから取り出した清潔なハンカチで、彼の拳の傷口を乱暴に、だけど決して痛まないような絶妙な力加減で拭い始めた。
「痛っ……何すんだよ!」
「怒鳴りたいなら私に怒鳴りなさい。でも、壁を殴って自分を傷つけるのはおよしなさい。みっともないわ」
「お前に何が分かるんだよ! 俺の、俺のこれまでの人生が全部嘘だったんだぞ!? 親父が、あの神父が何者かも分からなくなって……!」
叫ぶカイの声を、クリスティーナは静かに遮った。
「分からないわよ」
クリスティーナは、ハンカチをカイの手の甲に優しく巻き付け、結んだ。
「あなたの受けた衝撃も、裏切られたような絶望も、私には分からない。私はただの、一介の研究員だもの。王族の呪いなんて高尚なものは、想像してあげることもできないわ」
「だったら――」
「でもね、カイ」
クリスティーナは顔を上げ、カイの目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、彼を哀れむような「同情」は一切なかった。
あるのは、一人の不器用な青年を包み込もうとする、大人の女性としての、圧倒的な包容力と優しさだった。
彼女はカイの、固く握られたままの拳を、自分の両手でそっと包み込んだ。
ひんやりとした研究所の空気の中で、彼女の手だけが、驚くほど温かかった。
「あの神父様が『研究所の管理者』だったとして、それが何だというの?」
「……え?」
「過去がどうあれ、血筋がどうあれ、彼が辺境の村で、あなたを『カイ』と呼んで育ててきた二十年間の時間は、消えてなくなりはしないわ。あなたが父親の背中を見て、不器用ながらも守られてきたと感じていたあの温もりは、偽物なんかじゃない」
クリスティーナの声は、低く、波立つカイの心に染み渡るように響いた。
「自分を責めて、世界を憎んで、心を閉ざさないで。あなたは、そんなに弱い男じゃないでしょう?」
彼女の、すべてを見透かしたような、それでいて絶対的な味方でいてくれるような温かい言葉が、カイの頑なな盾を粉々に砕いていく。
母親を亡くしたあの日から、ずっと突っ張って、誰にも弱音を吐かずに「強い男」であろうとしてきた。
だが、今、この年上の女性の前でだけは、ただの傷ついた子供に戻っていいような気がしてしまった。
「……クリス、俺、は……」
カイの声が、初めて小さく震えた。拳の力が抜け、彼女の手の中で指が解けていく。
涙が溢れそうになるのを、カイは必死に堪えた。
格好悪いところを見せたくなくて、視線をあちこちに彷徨わせる。
そんなカイの不器用なプライドを察して、クリスティーナはふっと、悪戯っぽく微笑んだ。
「よし。少しは頭が冷えたみたいね」
そう言って、彼女は包んでいた手を離し、ポンとカイの肩を叩いた。
「さあ、行きましょう。いつまでもこんな暗い通路で立ち止まっていたら、あの冷徹な観測者サマに『非効率的だ』って笑われてしまうわ」
彼女がいつもの調子で歩き出す。
残されたカイは、ハンカチが巻かれた自分の右手を見つめていた。
まだ、彼女の手の温もりが残っている。
胸の奥が、今まで感じたことのない、熱い何かで脈打っていた。
怒りでも、絶望でもない。
ただ、彼女の後ろ姿から目を離すことができない、甘酸っぱくも、狂おしいほどの感情。
(……ずるいだろ、あんなの)
カイは小さく呟き、赤くなった顔を隠すように乱暴に髪をかきむしると、彼女の後を追って走り出した。
「待てよ、クリス! 先に行くな!」
二人の足音が、白く冷たい通路に響き渡る。
傷はまだ癒えない。けれど、カイの心には、もう絶望に負けない小さな火が灯っていた。




