第3周 青い花
丘の風は、村の中とは少し違う音をしていた。
草の海が波のように揺れ、遠くの森の木がざわざわと低く鳴る。
耳を澄ませば、それはただの風音ではなく、どこか規則を持った流れにも聞こえた。
アーロンはその音を聞きながら、さっき見つけた花のことを考えていた。
青い花。
村の周りであんな色の花は見たことがない。
この辺りに咲くのは、白か薄紫ばかりだ。旅人が持ち込んだ種でもない限り、突然咲くことはない。
それなのに。
「……なんであんなところに」
自分でもよく分からないが、妙な確信があった。
あの花は、ただの花ではない。
そう思うと、放っておく気にはなれなかった。
アーロンはもう一度丘を越え、森の手前まで戻った。
さっきと同じ場所。
風の通り道。
そこに――
「……あった」
青い花は、まだそこに咲いていた。
風に揺れながら、静かに。
朝よりも少しだけ光を強く受けて、花弁の青がより深く見える。まるで色そのものが光を吸っているようだった。
アーロンはしゃがみ込んだ。
見つめていると、胸の奥が熱くなるような感覚があった。
単なる「珍しい」という好奇心ではない。もっと痛切で、失くしてしまった半身をようやく見つけた時のような、切ない安堵感。
「やっと、見つけた……」
無意識に呟いた自分の声に、アーロン自身が驚く。
やっと?
何を探していたというのだろう。
自分はこの村で、神父に拾われてからずっと平穏に暮らしてきたはずなのに。
今度は慎重に観察する。
茎は細いがしっかりしている。
葉は小さく、やや銀色がかっている。
花弁は五枚。形は普通の野花に近いが、色だけが圧倒的に違う。
そして。
「……これ」
花の中心を覗き込んだ瞬間、アーロンは息を止めた。
花粉の模様。
それが、妙に規則的だった。
自然の模様というより、まるで小さな紋様のように並んでいる。
どこかで見た気がする。
いや。
見たというより――
「……思い出しそう」
言葉が喉で止まる。
頭の奥で、何かが引っかかっている。
遠い記憶。
夢の残り香。
地下の光輪。
砕ける世界。
その断片が、青い花を見た瞬間に胸の奥で揺れた。
アーロンは慌てて頭を振る。
「いや、違う。夢の影響だ」
そう言い聞かせながら、花をそっと摘み取った。
驚くほど軽い。
触れた瞬間、ひやりとした感触が指先に広がる。冷たいというより、静かな温度だった。
アーロンは立ち上がる。
「神父なら知ってるかもな」
村の人たちは植物のことには詳しいが、あの神父は妙にいろんな知識を持っている。
薬草、鉱石、古い言葉、そして時々、誰も知らないような話。
アーロンは花を指でくるくる回しながら、村へ戻った。
教会は村の外れにある。
小さな石造りの建物で、屋根の上には風見鶏がついている。
朝の風を受けて、ぎい、とゆっくり回っていた。
扉を開けると、木と石の匂いがする。 神父は奥の机で何かを書いていた。
「神父」
「戻りましたか」
顔も上げずに答える。
「朝飯は食べましたか」
「食った」
「じゃあ働きましょう」
「ひどい」
アーロンは笑いながら机に近づいた。
「それより、これ」
青い花を机の上に置く。
その瞬間。
神父の手が止まった。
ペン先が紙の上で静止する。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、空気が変わった。
アーロンはそれを見逃さなかった。
「……知ってる?」
神父はゆっくり顔を上げた。青い花を見る。
長い沈黙。
それから、いつもの落ち着いた声で言った。
「どこで見つけましたか」
「丘の森の前」
「一本だけでしたか」
「うん」
神父は花を手に取った。
指先で軽く回す。
まるで何かを確かめるように。
その目は、いつもの神父の目ではなかった。
「……これは」
彼はゆっくり言った。
「この辺りでは咲かない花です」
「やっぱり」
「というより」
神父は少し言葉を選んだ。
「咲いてはいけない花、といいましょうか」
「え?」
アーロンは思わず聞き返す。
神父はそれ以上説明しなかった。
ただ、窓の外を見た。
風が強くなっている。
風見鶏が、ぎい、と音を立てて回る。
「アーロン」
「なに?」
「その花を見つけたとき」
神父は静かに言った。
「何か、思い出さなかったですか」
アーロンは答えに詰まる。思い出したわけではない。
けれど。
思い出しかけた。
それが一番近い。
「……ちょっとだけ」
「そうですか」
神父は小さく息をついた。
まるで、予想していたことが起きたように。
「なら覚えておきなさい」
彼は花を机に戻した。
「その花は」
短く言う。
「風が運んでくるものです」
「風?」
「そうです」
神父の目が少しだけ細くなる。
「そして風は」
そこで言葉を止めた。まるで言い過ぎたと気づいたように。
しばらく沈黙が続く。
アーロンは首を傾げた。
「風は、なに?」
神父は少しだけ笑った。いつもの、どこか誤魔化すような笑い方だ。
「ただの風です」
「絶対違う」
「違わない」
「怪しい」
アーロンが食い下がると、セラフィウスは肩をすくめた。
「あなたは勘がいいから困る」
「じゃあ教えて」
「そのうち」
「今」
「そのうち」
結局、神父はそれ以上話さなかった。ただ一度だけ、青い花を見つめた。
その視線には、わずかな懐かしさと、少しの恐れが混ざっていた。




