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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
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3/65

第2周 63回目の世界

「――アーロン、起きなさい」


声がした。

近くて、現実的で、少しだけ呆れた声。


「朝ですよ」


まぶたを開けると、そこには見慣れた木の天井があった。


白い光も、砕ける円環もない。

古びた梁、薄い布のカーテン、その向こうで揺れる朝の気配。

窓から差し込む光は柔らかく、どこかのんびりしている。


アーロンはしばらく瞬きを繰り返した。


「……夢」


自分の声が、やけに掠れていた。

胸がうるさいほど鳴っている。

手のひらには、何かを掴んでいたような感覚だけが残っていた。


「また、ですか」


 部屋の入り口に立っていた神父が、肩をすくめる。

黒い法衣の袖を軽くまくり、片手には木の盆。

焼きたての丸パンと豆のスープの香りが、ゆっくりと部屋に広がってくる。


「最近、寝起きの顔が悪いですね」

「ひどい言い方だな」

「実際ひどいです」


神父はいつも通りの顔で言い、盆を机へ置いた。

パンの香ばしさに、少しだけ現実へ引き戻される。


「……変な夢を見たんだ」


アーロンは上体を起こしながら言った。

声にすると、夢は急に遠くなる。それでも胸のざわつきは消えなかった。


「地下で、知らない場所で、でも知ってる気がして。誰かがいて……」

「誰か?」


神父の手が、盆を置く瞬間にわずかだけ止まった。

だが彼は、すぐに表情を消してアーロンを見る。

その眼差しには、心配というより、何か測り難い「数値」を確認するような鋭さが一瞬だけ混じっていた。


「分からない」


言いながら、自分でももどかしくなる。

少年の顔。黒髪の青年。白銀の髪の少女。

そして、光の中の男。


神父はそれ以上問い詰めなかった。

ただパンをひとつアーロンに渡し、自分も椅子へ腰掛ける。


「夢は夢です。食べて、顔を洗いなさい。今日は風が強いですね」

「風が強いと何かあるの?」

「あなたは外へ飛び出して、余計なものを拾ってきます」


アーロンは吹き出した。

その言い草は少しひどいが、間違っていない。

珍しい石、変な羽根、拾ったはいいが何に使うのか分からない木の枝。

そういうものを、彼は昔からやたらと拾ってくる。


「余計じゃないよ。全部ちゃんと意味があるかもしれないだろ」

「その“かもしれない”で部屋が埋まるのです」

「神父だって捨ててないじゃないか」


返すと、神父は珍しく少しだけ目を逸らした。

その反応にアーロンは笑う。こういう他愛のないやり取りが、いつもの朝だった。


けれど今日は、胸の奥にひとつだけ重いものが残っている。


パンをほおばりながら、アーロンは窓の外を見た。

草原の向こうで、風車がゆっくり回っている。

空は高く澄み、雲は薄い。平和な村の朝。見慣れた景色。


なのに、少しだけ色が違って見えた。

なにかが始まりそうな朝の色だった。



 朝食のあと、アーロンはひとりで村外れまで歩いた。


丘の風はたしかに強かった。

草の海が波のように揺れ、遠くの林がざわざわと低く鳴る。

耳を澄ませば、それはただの風音ではなく、どこか規則を持った流れ――誰かが遠くで呼んでいるような囁きにも聞こえた。


村の人々は、それをただの季節風だと言う。

だが神父は、風にはいろいろ混じる、とだけ言う。


アーロンは昔から、この風の音を聞いていると落ち着かない気持ちになった。

何か大切なことを思い出しそうで、けれど思い出せない。

そんなもどかしさが、胸の奥に残るのだった。


丘を越えた先、小さな林の手前で、彼は立ち止まった。


「……あ」


足元に、花が咲いていた。

青い花だった。


村の周りで、あんな色の花は見たことがない。

この辺りに咲くのは白か薄紫ばかりだ。紫でも藍でもない。

もっと澄んだ、空の深いところを切り取ったような青。


まるで色そのものが光を吸っているかのように、細い茎の先で静かに揺れている。


アーロンはしゃがみ込んだ。

ただ花を見つけただけなのに、呼吸が浅くなり、指先が少し震えた。


単なる好奇心ではない。

もっと痛切で、失くしてしまった半身をようやく見つけた時のような、切ない安堵感があった。


「やっと、見つけた……」


無意識に呟いた自分の声に、アーロン自身が驚いた。


やっと?

何を探していたというのだろう。

自分はこの村で、神父に拾われてからずっと平穏に暮らしてきたはずなのに。


触れてはいけない気もした。

けれど、触れなければならない気もした。


慎重に花の中心を覗き込んだ瞬間、アーロンは息を止めた。


花粉の模様が、妙に規則的だった。自然の造形というより、まるで小さな紋様のように並んでいる。


頭の奥で、何かが激しく引っかかった。


 遠い記憶。

 夢の残り香。

 地下の光輪。

 砕ける世界――。


「いや、違う。夢の影響だ」


アーロンは慌てて頭を振った。


そっと花弁へ触れる。

その瞬間、ざわ、と林が鳴り、青い花がわずかに光ったように見えた。


見間違いかもしれない。

朝の光がそう見せただけかもしれない。


それでも、胸の奥では誰かがはっきりと告げていた。


知っている。

この花を、知っている。


「神父なら、知ってるかもな」


摘んでしまえば、二度と同じ形では会えない気がした。

けれど、ここに置いていけば、二度と手に入らない気もした。


アーロンはしばらく迷ったあと、意を決して、その細い茎をそっと摘み取った。

驚くほど軽かった。

触れた瞬間、ひやりとした静かな温度が指先に広がる。


「……また来るよ」


誰にともなく、ぽつりと元の場所に語りかける。

それからアーロンは、青い花を手に村へ向かって歩き出した。


自分でも説明できない確信が、胸の中で静かに形になっていく。

この世界は、何かを隠している。

そして自分は、たぶんその“何か”を知っている。



 教会は村の外れにある。


 小さな石造りの建物で、屋根の上の風見鶏が、朝の風を受けてぎい、とゆっくり回っていた。

扉を開けると、木と石の匂いがする。


神父は奥の机で何かを書いていた。


「神父」

「戻りましたか。朝飯は食べましたか」


顔も上げずに答える。


「食った」

「じゃあ働きましょう」

「ひどい」


アーロンは笑いながら机に近づき、そっと青い花を置いた。


「それより、これ」


その瞬間、神父の手が止まった。

ペン先が紙の上で静止する。


本当に一瞬だけ、室内の空気が張り詰めた。

アーロンはその変化を見逃さなかった。


「……知ってる?」


神父はゆっくり顔を上げた。

その目は、いつもの穏やかな彼の目ではなかった。


長い沈黙のあと、落ち着いた声で言う。


「どこで見つけましたか」

「丘の林の前。一本だけ咲いてた」


神父は花を手に取り、指先で軽く回した。

まるで、何かを確かめるように。


「……これは、この辺りでは咲かない花です。というより――咲いてはいけない花、といいましょうか」

「え?」


アーロンは思わず聞き返す。

だが神父はそれ以上説明せず、ただ窓の外を見た。


風が一段と強くなり、風見鶏がぎい、と音を立てて回る。


「アーロン。その花を見つけたとき、何か、思い出さなかったですか」


アーロンは答えに詰まった。


思い出したわけではない。

けれど、思い出しかけた。

それが一番近かった。


「……ちょっとだけ」


「そうですか」


神父は小さく息をついた。

まるで、恐れていたことがついに起きたというような、諦めを孕んだ吐息だった。


「なら覚えておきなさい。その花は、風が運んでくるものです」

「風?」

「そうです。そして風は――」


そこで言葉を止めた。

まるで、言い過ぎたと気づいたように。


アーロンは首を傾げた。


「風は、なに?」


神父は少しだけ笑った。いつもの、どこか誤魔化すような笑い方だ。


「ただの風です」

「絶対違う」

「違わない」

「怪しい」


アーロンが食い下がると、セラフィウスは肩をすくめた。


「あなたは勘がいいから困る」

「じゃあ教えて」

「そのうち」

「今」

「そのうち」


結局、神父はそれ以上話さなかった。

ただ一度だけ、青い花を見つめる。


その視線には、わずかな懐かしさと、深い恐れが混ざっていた。


背後で、風が強く吹いた。


机の上の青い花が、小さく揺れる。

アーロンにはその揺れが、何かの始まりを告げる合図のように見えた。

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