第2周 63回目の世界
「――アーロン、起きなさい」
声がした。
近くて、現実的で、少しだけ呆れた声。
「朝ですよ」
まぶたを開けると、そこには見慣れた木の天井があった。
白い光も、砕ける円環もない。
古びた梁、薄い布のカーテン、その向こうで揺れる朝の気配。
窓から差し込む光は柔らかく、どこかのんびりしている。
アーロンはしばらく瞬きを繰り返した。
「……夢」
自分の声がやけに掠れている。
胸がうるさいほど鳴っていた。手のひらには、何かを掴んでいたような感覚だけが残っている。
「また、ですか」
部屋の入り口に立っていた神父が、肩をすくめる。
黒い法衣の袖を軽くまくり、片手には木の盆。
焼きたての丸パンと豆のスープの香りが、ゆっくりと部屋に広がってくる。
「最近、寝起きの顔が悪いですね」
「ひどい言い方だな」
「実際ひどいです」
神父はいつも通りの顔で言い、盆を机へ置いた。
パンの香ばしさに、少しだけ現実へ引き戻される。
「……変な夢を見たんだ」
アーロンは上体を起こしながら言った。
声にすると、夢は急に遠くなる。それでも胸のざわつきは消えない。
「地下で、知らない場所で、でも知ってる気がして。誰かがいて……」
「誰か?」
神父の手が、盆を置く瞬間にわずかだけ止まる。
だが、彼はすぐに表情を消してアーロンを見た。その眼差しは、心配というより、何か測り難い「数値」を確認するような鋭さが一瞬だけ混じっていた。
「分からない」
言いながら、自分でももどかしくなる。
少年の顔。黒髪の青年。白銀の髪の少女。そして、光の中の男。
どれも輪郭だけが鮮明で、肝心なところが霧に包まれている。
神父は問い詰めなかった。
ただパンをひとつアーロンに渡し、自分も椅子へ腰掛ける。
「夢は夢です。食べて、顔を洗いなさい。今日は風が強いですね」
「風が強いと何かあるの?」
「あなたは外へ飛び出して、余計なものを拾ってきます」
アーロンは吹き出した。
その言い草は少しひどいが、間違っていない。
珍しい石、変な羽根、拾ったはいいが何に使うのか分からない木の枝。
そういうものを、彼は昔からやたらと拾ってくる。
「余計じゃないよ。全部ちゃんと意味があるかもしれないだろ」
「その“かもしれない”で部屋が埋まるのです」
「神父だって捨ててないじゃないか」
返すと、神父は珍しく少しだけ目を逸らした。
その反応にアーロンは笑う。こういう他愛のないやり取りが、いつもの朝だった。
けれど今日は、胸の奥にひとつだけ重いものが残っている。
パンをほおばりながら、アーロンは窓の外を見た。
草原の向こう、風車がゆっくり回っている。
空は高く澄み、雲は薄い。平和な村の朝。見慣れた景色。なのに、少しだけ色が違って見えた。
なにかが始まりそうな朝の色だった。
朝食のあと、アーロンはひとりで村外れまで歩いた。
風はたしかに強かった。丘の草を揺らし、木々の葉を鳴らし、衣の裾を引っぱっていく。
耳を澄ませば、ただの風音なのに、どこか囁きにも聞こえる。誰かが遠くで呼んでいるような、そんな気配。
村の人々はそれをただの季節風だと言う。
神父は、風にはいろいろ混じる、とだけ言う。
アーロンは昔から、風の音を聞いていると少し落ち着かない気持ちになる。
何か大切なことを思い出しそうで、でも思い出せない。そんなもどかしさ。
丘を越えた先、小さな林の手前で、彼は立ち止まった。
「……あ」
足元に、花が咲いていた。
青い花だった。
村の周りでは見たことのない色。紫でも藍でもない、もっと澄んだ、空の深いところを切り取ったような青。細い茎の先で、風に合わせるようにゆっくり揺れている。
アーロンはしゃがみ込んだ。
ただ花を見つけただけなのに、呼吸が浅くなる。指先が少し震えた。
「なんだこれ……」
そう呟きながら手を伸ばす。
触れてはいけない気もした。けれど、触れなければならない気もした。
そっと花弁へ触れた瞬間、風が強く吹いた。
ざわ、と林が鳴る。
青い花がわずかに光った――ように見えた。
アーロンははっとして手を引く。
見間違いかもしれない。朝の光がそう見せただけかもしれない。
けれど、胸の奥では誰かがはっきりと言っていた。
知っている。
この花を、知っている。
「変だな……」
アーロンは呟いた。
「初めて見るはずなのに」
花は黙って揺れている。
風だけがその名を知っているようだった。
しばらくそうして見つめているうちに、胸のざわめきは少しずつ別の感情へ変わっていった。
恐れではない。悲しみでもない。もっと曖昧で、もっと懐かしい何か。
帰る場所を思い出しかけたときのような。
失くしたものの気配を、すぐそばに感じたときのような。
アーロンはそっと、その花を摘まずに立ち上がった。
摘んでしまえば、二度と同じ形では会えない気がしたからだ。
風がまた吹く。
その音の中に、ほんの一瞬だけ、誰かの声が混じった気がした。
――君ならわかるはずだ。
アーロンは振り返る。
もちろん、そこには誰もいない。村へ続く道と、揺れる草原だけがある。
それでも彼はしばらく立ち尽くした。
自分でも説明できない確信が、胸の中で静かに形になっていく。
この世界は、何かを隠している。
そして自分は、たぶんその“何か”を知っている。
知らないはずなのに。
青い花が風の中で揺れた。
その青が、朝の空よりも深く見えた。
なぜか、とても遠い場所を思い出しそうになって、アーロンは目を細めた。
「……また来るよ」
誰にともなくそう言って、彼は村へ向かって歩き出した。
背後で風が吹く。
花は揺れる。
まるで、物語の始まりを知っているかのように。




