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この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
3/16

第2周 63回目の世界

「――アーロン、起きなさい」


 声がした。

近くて、現実的で、少しだけ呆れた声。


「朝ですよ」


 まぶたを開けると、そこには見慣れた木の天井があった。

白い光も、砕ける円環もない。

古びた梁、薄い布のカーテン、その向こうで揺れる朝の気配。

窓から差し込む光は柔らかく、どこかのんびりしている。


 アーロンはしばらく瞬きを繰り返した。

「……夢」


自分の声がやけに掠れている。

胸がうるさいほど鳴っていた。手のひらには、何かを掴んでいたような感覚だけが残っている。


「また、ですか」


部屋の入り口に立っていた神父が、肩をすくめる。

黒い法衣の袖を軽くまくり、片手には木の盆。

焼きたての丸パンと豆のスープの香りが、ゆっくりと部屋に広がってくる。


「最近、寝起きの顔が悪いですね」


「ひどい言い方だな」


「実際ひどいです」


神父はいつも通りの顔で言い、盆を机へ置いた。


パンの香ばしさに、少しだけ現実へ引き戻される。


「……変な夢を見たんだ」


アーロンは上体を起こしながら言った。


 声にすると、夢は急に遠くなる。それでも胸のざわつきは消えない。


「地下で、知らない場所で、でも知ってる気がして。誰かがいて……」


「誰か?」


 神父の手が、盆を置く瞬間にわずかだけ止まる。

だが、彼はすぐに表情を消してアーロンを見た。その眼差しは、心配というより、何か測り難い「数値」を確認するような鋭さが一瞬だけ混じっていた。


「分からない」


 言いながら、自分でももどかしくなる。


 少年の顔。黒髪の青年。白銀の髪の少女。そして、光の中の男。

どれも輪郭だけが鮮明で、肝心なところが霧に包まれている。


神父は問い詰めなかった。


ただパンをひとつアーロンに渡し、自分も椅子へ腰掛ける。


「夢は夢です。食べて、顔を洗いなさい。今日は風が強いですね」


「風が強いと何かあるの?」


「あなたは外へ飛び出して、余計なものを拾ってきます」


 アーロンは吹き出した。


その言い草は少しひどいが、間違っていない。

珍しい石、変な羽根、拾ったはいいが何に使うのか分からない木の枝。

そういうものを、彼は昔からやたらと拾ってくる。


「余計じゃないよ。全部ちゃんと意味があるかもしれないだろ」


「その“かもしれない”で部屋が埋まるのです」


「神父だって捨ててないじゃないか」


返すと、神父は珍しく少しだけ目を逸らした。

その反応にアーロンは笑う。こういう他愛のないやり取りが、いつもの朝だった。


けれど今日は、胸の奥にひとつだけ重いものが残っている。

パンをほおばりながら、アーロンは窓の外を見た。


草原の向こう、風車がゆっくり回っている。

空は高く澄み、雲は薄い。平和な村の朝。見慣れた景色。なのに、少しだけ色が違って見えた。


なにかが始まりそうな朝の色だった。



 朝食のあと、アーロンはひとりで村外れまで歩いた。


 風はたしかに強かった。丘の草を揺らし、木々の葉を鳴らし、衣の裾を引っぱっていく。

耳を澄ませば、ただの風音なのに、どこか囁きにも聞こえる。誰かが遠くで呼んでいるような、そんな気配。


 村の人々はそれをただの季節風だと言う。

 神父は、風にはいろいろ混じる、とだけ言う。


 アーロンは昔から、風の音を聞いていると少し落ち着かない気持ちになる。

何か大切なことを思い出しそうで、でも思い出せない。そんなもどかしさ。



 丘を越えた先、小さな林の手前で、彼は立ち止まった。


「……あ」


 足元に、花が咲いていた。

 青い花だった。


 村の周りでは見たことのない色。紫でも藍でもない、もっと澄んだ、空の深いところを切り取ったような青。細い茎の先で、風に合わせるようにゆっくり揺れている。

 アーロンはしゃがみ込んだ。


 ただ花を見つけただけなのに、呼吸が浅くなる。指先が少し震えた。


「なんだこれ……」


そう呟きながら手を伸ばす。

触れてはいけない気もした。けれど、触れなければならない気もした。

そっと花弁へ触れた瞬間、風が強く吹いた。


 ざわ、と林が鳴る。


青い花がわずかに光った――ように見えた。


アーロンははっとして手を引く。

見間違いかもしれない。朝の光がそう見せただけかもしれない。

けれど、胸の奥では誰かがはっきりと言っていた。


 知っている。

 この花を、知っている。


「変だな……」


 アーロンは呟いた。


「初めて見るはずなのに」


花は黙って揺れている。

風だけがその名を知っているようだった。


 しばらくそうして見つめているうちに、胸のざわめきは少しずつ別の感情へ変わっていった。

恐れではない。悲しみでもない。もっと曖昧で、もっと懐かしい何か。


帰る場所を思い出しかけたときのような。

失くしたものの気配を、すぐそばに感じたときのような。


アーロンはそっと、その花を摘まずに立ち上がった。

摘んでしまえば、二度と同じ形では会えない気がしたからだ。

風がまた吹く。


その音の中に、ほんの一瞬だけ、誰かの声が混じった気がした。



 ――君ならわかるはずだ。



アーロンは振り返る。

もちろん、そこには誰もいない。村へ続く道と、揺れる草原だけがある。

それでも彼はしばらく立ち尽くした。

自分でも説明できない確信が、胸の中で静かに形になっていく。


この世界は、何かを隠している。

そして自分は、たぶんその“何か”を知っている。

知らないはずなのに。


青い花が風の中で揺れた。

その青が、朝の空よりも深く見えた。

なぜか、とても遠い場所を思い出しそうになって、アーロンは目を細めた。


「……また来るよ」


 誰にともなくそう言って、彼は村へ向かって歩き出した。


背後で風が吹く。

花は揺れる。

まるで、物語の始まりを知っているかのように。


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