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この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
5/14

第4周 兄貴分

 昼の村は、朝とは別の顔をしていた。

丘を越えて吹き下ろす風は少し弱まり、代わりに人の声が広がっている。

市場の小さな広場には野菜の籠が並び、子どもたちが駆け回り、鍛冶屋の槌音が一定の間隔で響いていた。


 平和そのものの風景だった。


なのに、アーロンにはその賑わいの向こうで、何か別のものが鳴っている気がしてならなかった。


井戸の縁に腰を下ろし、汲み終えた水桶を並べる。

ふと空を見上げると、風はまだ高いところを流れていた。

ずっと。

どこか遠くから、何かを運んでくるように。


「またぼーっとしてるな」


背中に重い衝撃が来た。


ごす、と鈍い音がして、アーロンは前につんのめる。


「うわっ!」


危うく井戸に落ちそうになって振り返ると、そこに立っていたのは大柄な青年だった。

茶色の短い髪、日に焼けた肌、広い肩。

腕は丸太みたいに太いくせに、顔だけは妙に少年っぽい。


カイだった。二十一歳。村で一番腕っぷしが強く、一番世話焼きな男でもある。


「落ちてたら笑えたのに」


「笑えないよ。……相変わらず加減ってものがないな」


「お前が軽すぎるんだよ。飯食ってんのか? 親父――」


カイはそこで一瞬だけ言葉を切り、鼻の奥で息を鳴らした。


「……神父の飯、残してんだろ」


そう言って井戸の縁に腰を下ろす。石がぎし、と鳴った。


「で、何考えてた」


「別に」


「嘘つけ」


カイがじっと顔を覗き込んでくる。

こういう時だけ、この男は妙に鋭い。


「また夢か」


「……なんで分かる」


「顔だよ」


カイは自分の目の下を指で叩いた。


「変な夢見た次の日、お前、魂だけどっか遠く行ったみたいな顔するんだよ。……あれ、好きじゃねえ」


アーロンは言葉に詰まった。

図星だった。

あの夢のことを思い出そうとすると、胸の奥がざわつく。

白い空間。

砕ける輪。

青い花。

名前を知っているはずのない誰か。

思い出しかけるたび、指先の温度だけが薄くなっていくようで、気分が悪かった。


「まあいいや。湿っぽいのは抜きだ」


カイはぱん、と膝を叩いて立ち上がった。


「それより手貸せ。荷車」


「一人で運べるでしょ」


「運べるけど、一人だとつまらん。それに――」


そこでカイは、ふっと北の林の方を見た。

いつもの軽口が消え、目つきだけが一瞬で変わる。


「……最近、風が変だろ。お前を一人でうろつかせたくねえんだよ」


その声音に混じっていたのは、冗談ではない本物の警戒だった。

アーロンは反論を飲み込む。


 結局、二人で荷車を押して広場を横切る。

車輪がぎしぎしと鳴り、軋みが石畳に広がっていく。


「そういえば」


「ん?」


「今日、丘の方行ったか」


アーロンの肩がわずかに強張る。


「……行った」


「変なもん見なかったか。たとえば、見たこともねえような色の花とか」


心臓がひとつ、強く跳ねた。


「……なんで、それを」


「神父が言ってた。『北の林には近づくな』ってな。相変わらず、あいつの言うことは意味分かんねえ」


カイは肩をすくめて笑った。

けれど、その横顔には一瞬だけ、笑いでは片付かない影が差した。


「カイも見たの?」


「いや。見てねえ。……でも、あの人がああいう言い方する時は、大抵ろくなことが起きねえ」


その言い方に、アーロンは少しだけ驚く。

カイは神父を雑に扱っているようで、実のところ誰よりもその言葉を重く受け取っている。


 そのとき、遠くから切羽詰まった声が飛んできた。


「おい! カイ!」


広場の向こうから村の男が走ってくる。顔色が悪い。


「林の方に獣が出た!」


「どの辺だ」


「北の林! 炭焼き小屋の近くだ!」


カイの表情が一瞬で狩人のものに変わる。


「でかいのか」


「ああ……いや、でかいっていうか、様子がおかしいんだ。体の周りが霞んで見えるっていうか……輪郭が、変なんだよ!」


カイは荷車から手を離した。


「アーロン、帰れ。家戻って神父のそばにいろ」


「え」


「危ない。あれは普通の野犬じゃねえ」


アーロンは反射的に首を振った。


「いや、行く」


「だめだ」


「僕が見なきゃいけない気がするんだ」


「気がするで動くな」


「でも行く」


「だめ」


「……行く」


数秒、睨み合う。

カイは盛大にため息をついた。


「……ったく。頑固なところまであの人に似てきやがって」


そして、諦めたように眉を寄せる。


「いいか。絶対に俺の後ろから離れるなよ」


「了解、兄貴」


「……兄貴じゃねえっての」


言いながら、カイは乱暴にアーロンの頭を撫でた。

大きな掌の熱が髪越しに伝わってくる。

その温かさに、アーロンは一瞬だけ目を伏せた。


 夢の中にあったのは、もっと冷たい場所だった。

白く、乾いていて、触れるものすべてが遠かった。

けれど、今ここにあるのは違う。汗の匂いがして、息づかいが近くて、腹立たしいほど生きている体温だった。


この温度を、自分は知っている。

いや、守りたいと思っている。

なぜそんなふうに思うのかは分からない。

だが、その感覚だけは妙にはっきりしていた。


 二人は走り出した。

丘を越え、林の入口に着いたとき、空気は急に変わった。

静かすぎた。

鳥の声がない。

葉擦れもない。

代わりに、耳の奥を引っ掻くような高い音がかすかに響いている。


キィィィィン――


「……変だな」


カイが低く言い、腰の鉈を抜く。

その刃先が鈍く光る。


「獣の気配が――」


そこで止まった。

林の奥で、青い光が走ったからだ。

アーロンは息を呑む。


「……あ」


そこに咲いていた。

青い花。

しかも一本ではない。林の地面を埋めるように、十数輪が円を描いて咲いている。

カイが眉をひそめる。


「なんだ、あれ……。昨日まで、あんな花はなかったはずだぞ」


 アーロンは答えられなかった。

花が揺れるたび、視界がわずかに歪む。空気そのものが薄く削られているみたいだった。

 

そのとき、林のさらに奥で低い唸り声が響いた。


獣。

狼に似た形をしている。

だが、輪郭が絶えずぶれている。まるで、半分だけ別の場所にいるような不自然さ。


「アーロン、下がれ!」


カイが一歩前へ出る。

その背中が、さっきよりずっと大きく見えた。


同時に、青い花が一斉に光を放つ。

風はない。なのに花弁だけが激しく震え、空気を擦り切らせるような音を立てた。


これは偶然じゃない。

アーロンは、理由もなくそう確信した。

影が一歩、踏み出す。


カイが完全にアーロンを庇う形で立ち塞がった。


「下がれ! 噛み殺されたいのか!」


短く、鋭い声。

怖いのに、その背中を見た瞬間だけアーロンは不思議と落ち着いた。

守られている、と分かったからだ。


けれど次の瞬間、獣の向こう側で揺れていた青い花が、ふっと同じ方向へ傾いた。

風は吹いていない。

なのに、すべてが何かを待つように、わずかに静止する。


アーロンは、カイの肩越しに獣を見た。

見た、というより――


()()()()()()()()()


狼の形をしたその異形は、なおもこちらへ踏み込もうとしていた。

だが、次の一歩が地面に触れる直前で、ぴたりと止まる。


「……え?」


カイが低く息を呑む。


獣が動かない。

唸り声だけが遅れて響き、その輪郭がじわじわと揺れ始める。


毛並みに見えたものが細かな粒にほどけ、足先から順に光の砂みたいに崩れていく。

アーロンは瞬きを忘れていた。


見てはいけない。

そんな気がするのに、目を逸らせない。


獣の身体が、形を失っていく。

肉ではなく、最初から別の何かだったみたいに。

黒い輪郭がほぐれ、細い線になり、やがて無数の光る断片(データ)へ変わっていく。


それは花びらにも似ていた。

けれどもっと乾いていて、もっと冷たい。

文字とも、記号ともつかない光の欠片だった。


「……なんだ、これ」


カイの声が掠れる。

いつもの乱暴な調子は消えていた。


断片は空中で一度震え、見えない糸に引かれるように青い花の円へ吸い込まれていく。

花々は一斉に明滅し、それを飲み込むたび、青が深くなった。


アーロンの胸の奥で、何かが軋んだ。

知っている。

これを、自分は知っている。

獣が消えたのではない。

ほどけて、戻っていったのだ。

どこへ。何に。

それは分からない。

なのに、その感覚だけが生々しく残る。


「アーロン」


カイが低い声で呼ぶ。

返事ができない。


「おい、アーロン。見るな」


その言葉に、はっとして顔を上げる。


カイが振り向いていた。

怒っているわけではない。

だが、明らかに怯えていた。


「お前、今……何した」


「……わからない」



それしか言えなかった。


本当に分からない。

ただ見ていただけだ。

けれど、見た瞬間に獣は止まり、崩れ、光になった。


カイはアーロンの顔をじっと見る。

その目に宿っていたのは疑いではなく、もっと切実なものだった。


「お前、顔色やばいぞ」


「僕……」


「喋るな。今は喋るな」


カイはそう言って、ぐいとアーロンの腕を引いた。

乱暴なくせに、掴む手は痛くない。

まるで壊れものに触るみたいだった。


「いいか。何が起きたかは後だ。今は俺の後ろにいろ」


「でも、あれ……」


「見た。十分だ」


カイは言い切った。


「これ以上見るな。嫌な感じがする。……お前まで、ああいうふうにどっか行きそうで」


最後の一言だけが、妙に小さかった。

アーロンは何も返せなかった。

ただ、腕を掴むその手の熱だけが、ひどく現実だった。


 そのときだった。

林の外――村へ続く道の向こうから、別の音が近づいてきた。

規則正しい馬蹄の音。ためらいのない速度。

やがて声が落ちる。


「報告にあった異常はここか。……思ったより早いな」


冷ややかで、透徹(とうてつ)した青年の声だった。

その響きには、驚きも恐れもなかった。

ただ、目の前の異常を既知のものとして扱う冷静さだけがあった。


アーロンが振り向く。

木立の向こう、白い昼の光の中に、王都の紋章をつけた馬が見えた。

村の平穏を切り裂く“客”が、ついにここへ来たのだ。


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