第39周 王族の名
研究所に、風が入ってきた。
それは、物理的な風ではなかった。
扉も窓も閉じられているはずなのに、空気の層だけがわずかに揺らいでいる。
まるで誰かが、見えない流れをかき分けながら近づいてくるような――圧倒的な圧迫感だった。
最初にそれに気づいたのは、クリスティーナだった。手元の記録盤から顔を上げ、何かを測ろうとしていた指が恐怖で止まる。
「……来る」
「何が来るんだよ、クリス。それより、あいつはどうなんだ」
食堂での一件以来、不機嫌を隠そうともしないカイが、部屋の隅を顎でしゃくった。
そこには、マリユスがいた。
椅子にただ座っている。黒い手袋をはめた手は膝の上で微動だにせず、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。数式も、黒板も、もう見ていない。彼の側で淡く光っていたはずの少女の姿は、どこにもなかった。
「バイタルは正常。脳波の論理処理パターンも維持されているわ」
クリスティーナは唇を噛み、声を震わせた。
「でも、それだけ。今の彼は、話しかけても『エラー』か『不要』しか返さない。……感情の接続器だったグレイスを奪われて、本当に、心を記述する回路が焼き切れてしまったのよ」
「僕たちのことも、もう分かっていないのかな」
アーロンが悲痛な面持ちで、マリユスの顔を覗き込む。
「僕が声をかけても、一度も目が合わないんだ。今のマリユスを見ていると、世界そのものが削れていくみたいで……」
「当然の結果でしょう。彼は世界の波を記述する中心でした」
今まで沈黙していた神父が、静かに、だが重い声で口を開いた。
「彼が心を失ったことで、この研究所の防衛機構も、位相計算のバランスも崩壊し始めています。外を見てごらんなさい。研究員たちは挨拶の言葉すら忘れ、ただ機械のように彷徨っている。世界各地の破綻は加速する一方です」
「……あいつの言ってたことは、全部本当だったんだな」
カイが拳を握りしめる。
その目には、マリユスをこんな目に遭わせた研究所への怒りが滲んでいた。
「魔法を使う代償も、人間の人間らしさが燃えるってことも。理事会の連中は、取り返しのつかない間違いをしでかしたんだ」
誰も、その言葉を否定できなかった。死んだように座るマリユスが、何より冷酷な真実を証明していた。
重厚な自動扉が、左右に分かれる。
現れたのは、一人の女性だった。黒に近い深い青の衣。余計な装飾はほとんどない。
それでも、一目で分かった。
立っているだけで、空間の重さが変わる存在。
アンジェラ・フォン・ヴァレンティア。
現王国において王権を代行する、摂政。
その背後には、武装した摂政府の護衛兵たちが連なっていた。
アンジェラはゆっくりと室内を見渡す。
狂い始めた観測装置、死んだように座るマリユス、そして集まった面々。
「……手遅れの一歩手前、といったところですか」
低く、冷徹な声が響いた。
沈黙を破り、神父が一歩前へ出る。
「摂政閣下」
わずかに頭を下げる神父を、アンジェラは見つめた。
その険しい眉間が、一瞬だけ痛ましげに和らぐ。
「久しぶりですね。いいえ――本来なら、私がそう呼ぶことすら許されない名でしたね」
カイが、不審そうに神父を見る。
アーロンの胸は、嫌な予感に締めつけられていた。
だがアンジェラはそれ以上彼らの関係に踏み込まず、冷酷なほど淡々と、通達を続けた。
「研究所の機能は麻痺し、世界異常は臨界を迎えています。情緒消費への防衛策として、マリユス・ヘイムから『グレイス』を切り離したのは理事会の決定です。ですが――結果は最悪でした」
アンジェラの視線が、動かないマリユスへ向けられる。
「観測の主軸を失い、システムは崩壊しつつある」
彼女が手を挙げた。
護衛兵たちが、一斉に一歩踏み出す。
「これ以上の混乱を防ぐため、現時刻をもって本研究所を摂政府の完全管理下に置きます。アーロンの身柄、および円環中枢の全データは没収。そして――使い物にならなくなった観測者マリユス・ヘイムは、深部最下層へ永久隔離とします」
「待ちなさい!」
クリスティーナが、悲鳴のような声を上げた。
「マリユスをこれ以上引き離したら、本当に世界の記述が止まるわ!」
「記述するだけの『心』が、今の彼に残っているように見えますか?」
アンジェラの言葉は冷たく、そして、その事実は、鋭利な刃物のように鋭かった。
マリユスは、自分の処分が話されているというのに、ぴくりとも動かない。
ただ、世界の終わりを待つ置物のように、そこに座っている。
カイは、その姿を見た。
それから、沈黙したままの父親を見た。胸の奥から、激しい嫌悪がこみ上げる。
「……何が王族だ。何がシステムだ」
カイは、吐き捨てるように言った。
「どいつもこいつも、人間を人形みたいに削りやがって!」
その時だった。
「――そこまでにしなさい、アンジェラ」
低く、しかし部屋にいるすべての人間を平伏させるような力を帯びた声が、空間を支配した。
神父が、ゆっくりと十字架のペンダントを外す。
それを床へ投げ捨てた。
硬い音が響いた瞬間、彼の身体から青白い光の紋章が爆発的に燃え上がった。
王族の本来の権能。
世界システムへ直接干渉する、絶対的なアクセス権。
「なっ……」
アンジェラが息を呑む。
護衛兵たちが武器を構えようとしたが、その身体は空間ごと固定されたように動かなくなった。
彼は、アンジェラを射抜くように見据えていた。
そこにいたのは、もはや町の片隅で祈りを捧げる神父ではなかった。
かつて円環装置の前に立っていた存在。
そして、正統なる王位継承者。
「私はカイに、この血の呪いを受け継がせたくなかった」
その声には、長い年月の後悔が滲んでいた。
「だから今まで、すべてを泥に塗れて隠してきた。王族であることも、過去も、名も――すべてだ」
神父は、動かないマリユスの前へ歩み出る。
「だが、これ以上の不条理は許可しない」
彼の声が、さらに強く響いた。
「王家として。父親として。そして何より、一人の人間として」
アンジェラの表情が、わずかに強張る。
彼は彼女へ、そして研究所全体に張り巡らされたシステムへ向かって、朗々とその名を宣言した。
「我が名は、セラフィウス・アエテルナ・ルミナリア!」
青白い紋章が、床から壁へ、壁から天井へと走る。
「円環中枢の全管理権限を以て、摂政府の介入を拒絶する。さらに、理事会へ命ずる。――ただちに『グレイス』の封印を解除し、マリユス・ヘイムへ戻せ!」
「セラフィウス、あなたは……!」
アーロンが、絞り出すように声を漏らす。
脳裏を過る、古代のルミナリアの記憶。
崩れかけた空の下、泣きそうな顔で世界の破綻を見つめていた、あの技術責任者。
あの男が、今、目の前にいる。
「今の世界を記述し、この臨界を制御できるのは、私ではない。そこにいるマリユスだけだ。彼の観測眼を、その心を取り戻せ。追放を撤回し、彼を元の席へ戻すのだ。……これは、空位の玉座からの王命である」
部屋を圧するほどの王権の波動が、広がっていく。
カイは、言葉を失っていた。
初めて見る、父親の真実の姿。
自分を守るために神父という偽物を演じ続け、今、他人のために命がけで牙を剥いた男の背中。
怒りは、まだ消えない。
裏切られた痛みも、なくならない。
それでも、その背中から、目を逸らすことができなかった。
「……っ、王命シーケンス、承認されました!」
クリスティーナが、震える手で記録盤を叩く。
「理事会のロック、強制解除! グレイスの再接続プロセス、開始されます!」
部屋の空気が、大きく跳ね上がった。
光が満ちる。
その光の中で、完全に感情を失い、絶望の底に沈んでいたはずのマリユスの指先が――ほんのわずかに動いた。
まだ、その瞳に光はない。
それでも彼の耳には、確かに、世界の駆動音が戻り始めていた。
静かに。
しかし、確実に。
引き裂かれた物語の歯車が、王族の名によって、再び噛み合い始めていた。




