第38周 魔法の代償
異変は、大きな事故の顔をして現れるわけではなかった。
最初は、誰もそれを異変と呼ばなかった。
疲労。
集中力の低下。
長時間の位相観測による軽い認知負荷。
研究所では昔から、そうした名で整理されてきたからだ。
だから、その朝、基礎研究区の若い研究員が食堂で立ち尽くしていても、誰もすぐには深刻に受け取らなかった。
「どうしたの?」
盆を持ったまま固まっている彼に、配膳係が声をかける。
研究員は数度瞬きをしてから、目の前の皿を指さした。
「いや……これ、たしか俺、毎朝食べてたはずなんですけど」
「そうよ。いつも頼んでるでしょう。香草粥」
「ええ、たぶん。好きだった、んですよね?」
最後の一言に、妙な空白があった。
好きだった、と彼は言っている。
だがその声音には、好物を前にした人間の熱が一切なかった。
情報としては覚えている。
習慣としても残っている。
けれど、そこに結びついていたはずの感情だけが、きれいに抜き取られていた。
食堂の隅でその様子を眺めていたカイは、不快そうに眉を寄せた。
「……なあ、アーロン。あいつ、なんか変じゃねえか」
「変? 寝不足だって言ってるよ。あ、カイ、これ美味しいよ」
隣でパンを口に運んでいたアーロンが答える。
この研究所の食堂は、アーロンとカイには妙に居心地が悪かった。
誰も大声で笑わない。
誰も味について語らない。
誰も食事を楽しんでいるように見えない。
その中で、パンを頬張りながら「これ美味しい」と言うアーロンと、香草の匂いに文句を言うカイは、明らかに浮いていた。
周囲の研究員たちが、時折こちらを見る。
好奇ではない。
観察だった。
アーロンは帰還者。
カイは魔法を使えない異分子。
この研究所において、二人はどちらも分類しづらい存在だった。
だがカイは、そんな視線を気にする様子もなく、香草粥の前で立ち尽くす研究員を睨み据えていた。
「いや、違う。寝不足じゃねえ」
「どうして分かるの?」
「匂いがしねえんだよ」
「匂い?」
「好きだって時の、あの浮き足立ったような空気の匂いが。あいつ、ただの置物みたいになっちまってる」
カイには魔法は使えない。
位相も読めない。
数式も見えない。
けれど、この研究所の連中が「効率」や「論理」と引き換えに、何か決定的なものを摩耗させていることを、彼は直感によって、誰よりも早く嗅ぎ取っていた。
同じ日の昼、別の術者が資料室でふと手を止めた。
「……顔が、出てこない」
「誰のです?」
「母の」
術者は困ったように眉を寄せた。
記録上の経歴は言える。
没年も、故郷も、子供の頃によく叱られたことも覚えている。
だが、肝心の顔だけが曇っていた。
「亡くなった時、泣いたんです。たしかに泣いた。なのに……思い出そうとすると、輪郭じゃなくて、『泣いた』って事実だけがある」
それは記憶喪失とは少し違っていた。
情報が消えているのではない。
感情とのつながり方だけが、きれいに切り取られている。
夕方には、古参の術式技師が、昔好きだった歌を口ずさみながら首をかしげた。
「歌詞も音程も合ってるはずなんだがな。……何で好きだったのかが、さっぱりわからん」
その報告が、クリスティーナのもとに届いたのは、夜に入ってからだった。
隔離処分以降、マリユスに関する全記録は、理事会管理下へ移された。
本来なら、クリスティーナの閲覧権限も大幅に制限されるはずだった。
だが、彼女は記録執行班主任であり、同時にマリユスの面会を許された唯一の研究員でもあった。
理事会が彼女を残したのは、信頼していたからではない。
マリユスを最も制御しやすい人間が、彼女だと判断したからだ。
その判断が、クリスティーナにはたまらなく不快だった。
「集中低下。嗜好の希薄化。情動反応の鈍化。幼少期記憶への接続不良……」
彼女は、机の上に積み上げられた報告書を一枚ずつめくる。
最初は散発的な不調に見えた。けれど、並べると違う。
疲れているのではない。
壊れているのでもない。
削れている。
しかも、削れているのは知識ではなかった。
術式の精度は落ちていない。
計算力も保たれている。
むしろ一部の熟練術者は、以前よりも制御が安定している。
その代わりに、失われているものがある。
好きだった理由。
懐かしさ。
触れられた時の温度。
誰かを思い出す時に胸の奥で立ち上がる、名前のない揺れ。
クリスティーナは、最後の報告書に目を落とした。
『発動能力:維持。備考:婚約者との記念品について、価値は理解するが、由来に対する情緒反応が希薄』
彼女は、無意識に息を止めた。
その時、机上の記録盤が小さく震えた。
隔離管理区画からの通知だった。
『面会許可。対象:クリスティーナ・エルデン』
クリスティーナは、報告書をまとめると、ためらわず席を立った。
隔離管理区画は、研究所の深部と上層の境目にある。
深部観測区へ向かう通路からは外され、かといって一般区画にも属さない。
研究者を閉じ込めるために作られた、白い箱のような場所だった。
扉は三重。
認証は二重。
最後の扉の前で、管理班の研究員が無表情に告げる。
「面会時間は十五分です。物品の受け渡しは禁止されています。会話は全て記録されます」
「分かっています」
「対象者への研究資料の提供も禁止されています」
「分かっています」
「対象者からの指示を受けることも――」
「分かっていると言いました」
クリスティーナの声が、わずかに鋭くなる。
管理班はそれ以上言わなかった。
扉が開く。
中は、思っていたよりも静かだった。
白い壁。
白い床。
白い机。
余計なものは何もない。そこに、マリユスはいた。
黒い手袋をはめたまま、机の前に座っている。
資料も黒板もない。
ペンすらない。
ただ、グレイスだけがマリユスの側に佇んでいた。
『人間、理解不能』
抑揚の乏しい女声が響く。
クリスティーナは足を止めた。
「……グレイス?」
『肯定。対話継続中』
マリユスは、こちらを見ずに答えた。
「彼女は、退屈を理解しようとしている」
『訂正。対象マリユスの精神状態を安定化する試行』
「らしい」
クリスティーナは、思わず眉をひそめた。
「あなた、隔離中にシステムと会話してるの?」
「他に会話相手がいない」
冗談にも聞こえる言葉を、マリユスは真顔で言った。
グレイスが続ける。
『人間は、理解されない状態に強い不快を示す。対象マリユスも同様と推定』
「誤りだ」
マリユスは静かに言った。
「理解されないことは、受け入れられない。そういうことだ」
『受け入れられない状態は、不快と同義では?』
「近いが、同じではない」
『分類困難』
「人間はそういうものだ」
『人間、非効率』
「同感だ」
クリスティーナは、二人――いや、一人と一つのやり取りを見つめた。
隔離され、研究権限を奪われ、世界の中心から切り離されているはずなのに、マリユスは平然としている。
いや、違う。平然としているように見せているだけだ。
机の上に置かれた指先が、ほんのわずかに動いている。
黒板も数式もない空間で、彼はまだ計算しようとしていた。
『マリユスは正しい』
グレイスが告げた。
マリユスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「知っている」
そう言って、わずかに笑った。
クリスティーナは、その表情を見た瞬間、胸の奥が苦しくなった。
「……慰められてるの?」
「おそらく」
「効果は?」
「分類困難だ」
グレイスが即座に返した。
『対象マリユスの情緒反応、微弱に上昇』
「余計なことを記録するな」
『記録は存在意義』
「実に厄介だな」
クリスティーナは、小さく息を吐いた。ほんの一瞬だけ、いつもの研究室に戻ったような錯覚がした。
けれど、白い壁がそれをすぐに打ち消す。
彼女は机の向かいに座り、持ってきた報告書を広げた。
「異常報告が増えているわ」
マリユスの目が、わずかに鋭くなる。
「内容は」
「嗜好の喪失。情動反応の希薄化。記憶情報は残っているのに、感情だけが接続しない。術式精度は維持、あるいは一部向上」
マリユスは黙って聞いていた。
クリスティーナは、報告書の一枚を指で押さえる。
「疲労じゃないわ。認知負荷でもない。これ、あなたは予測していたの?」
マリユスは少しだけ間を置いた。
「していた」
「なぜ言わなかったの」
「報告書には書いた」
「理事会への報告書?」
「第九補足。魔法運用における非可逆的情緒消費の可能性」
クリスティーナは額を押さえた。
「……本当に、読まれないところに重要なことを書くの、やめなさいよ」
「読まない方が悪い」
「そうだけど、そうじゃないのよ」
マリユスは、観測端末の青い光を見つめた。
「魔法とは、世界の波を局所的に書き換える技術だ」
クリスティーナは、息を呑む。
マリユスの声が、いつもの研究室で講義を始める時の声に変わっていた。
「波の書き換えには、情報の再配置が必要になる。局所的な現実を、別の状態へ押し曲げる。つまり、魔法とは現象の発生ではなく、情報の再記述だ」
「それは分かる。問題は燃料よ」
「そうだ」
マリユスは、静かに頷いた。
「問題は、何を燃やしているのか」
白い部屋に、短い沈黙が落ちた。
クリスティーナは、続きを聞きたくないと思った。けれど、聞かなければならなかった。
「燃料は、記憶だ」
その言葉は、あまりにも静かに落ちた。
「記憶……全部?」
「いや」
マリユスは首を横に振る。
「論理記憶は圧縮できる。知識、言葉、構文、分類、手順。これらは情報として再配置しやすい。だから燃料効率は悪い」
「燃料効率……」
クリスティーナの顔が歪む。
「感情記憶は違う。感情を伴った記憶は、情報量が大きい。単なる事実ではなく、身体感覚、情動反応、価値判断、自己認識が複雑に絡んでいる。圧縮しづらい。ゆえに、世界の再記述に必要なエネルギーとして利用しやすい」
クリスティーナは、言葉を失った。
「つまり」
マリユスは言った。
「最も燃えやすい」
白い部屋が、急に冷たくなったように感じた。
クリスティーナは、報告書の文字を見つめる。
好きだった理由。
母の顔。
歌に宿っていた懐かしさ。
婚約者から贈られた記念品に残っていた温度。
それらは、消えたのではない。
燃やされたのだ。世界を少し便利に動かすために。
「じゃあ、術者は魔法を使うたびに、自分の感情を燃やしてるってこと?」
「厳密には、情緒記憶を消費している」
「……結果としては、近い」
クリスティーナは唇を噛む。
「なぜ、今まで誰も気づかなかったの」
「気づきにくいように設計されている」
「誰が?」
マリユスは、壁面の端末を見た。
グレイスは沈黙していた。
「魔法体系そのものが、だ」
「魔法が?」
「この世界のシステムは、代償を痛みとして返さない。疲労、慣れ、成熟、無関心。そうした自然な変化に偽装する。人は、少しずつ自分が変わっていくことに気づきにくい」
クリスティーナは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「人間の人間らしさを削っておいて、それを成長みたいに見せるの?」
「そうだ」
「最悪ね」
「同感だ」
その時だった。
隔離室の外、扉の向こうで小さな物音がした。
クリスティーナが振り返る。
「誰?」
返事はない。だが、マリユスはすでに気づいていた。
「アーロン」
扉の向こうで、空気が揺れた。
「聞いているなら、覚えておけ」
クリスティーナが立ち上がる。
「アーロン、どうしてここに――」
「止めなくていい」
マリユスは言った。
「いずれ知る」
扉の向こうから、かすかな声がした。
「……じゃあ、使えば使うほど、人間の『人間っぽいところ』が燃えるの?」
その声は震えていた。
マリユスは、壁越しに答えた。
「そうだ」
短い答えだった。
その短さが、かえって残酷だった。
扉の外で、アーロンは壁に背をつけていた。
彼は、胸元のペンダントを握りしめる。
古代の風。
ミーティアの声。
最後の夜。
アステリオスの横顔。
崩れていくルミナリアの光。
それらは薄れるどころか、今も鮮明すぎるほど胸に残っている。
「僕は、消えない」
アーロンは、小さく呟いた。
「古代のこと、消えないんだ。風も、声も、最後の夜も……薄くなるどころか、時々、こっちの方が現実みたいになる」
扉の内側で、マリユスが目を細めた。
「君は通常の術者とは逆だ」
「逆?」
「普通なら、感情記憶は消費される。だが君の場合、古代で得た記憶が、むしろ現在の世界を侵食している。消えるのではなく、焼きついている」
アーロンは、ペンダントを握る手に力を込めた。
「……忘れられないってことは、ずっと持ってるってことだから。それはそれで、怖いんだよ」
その時、別の足音が近づいた。
荒い足音だった。
「おい、アーロン」
カイの声がした。
「お前、こんなところで何して――」
言いかけて、彼は扉の向こうから漏れる会話の内容に気づいた。
クリスティーナが扉を開けようとするより早く、カイが低く言った。
「今の話、何だよ」
誰も答えなかった。
沈黙が答えになった。
カイの表情が、怒りに変わっていく。
「魔法を使うたびに、記憶が燃える? 感情が削れる? 好きだったことも、大事だったやつの顔も、分かんなくなる?」
クリスティーナは、何も言えなかった。
カイは壁を殴った。鈍い音が、白い通路に響く。
「ふざけんなよ」
その声には、研究所全体への怒りが滲んでいた。
「何が恩寵だ。何が術式だ。何が世界を支える力だよ。人間を削って動いてるだけじゃねえか」
彼は奥歯を噛みしめた。
「魔法なんて使えなくて正解だった。親父があんなに必死に、俺をこの場所に近づけまいとしてた理由が、今わかった気がするぜ」
アーロンはカイを見る。
その横顔は、怒っているのに、どこか傷ついていた。
魔法を使えないことは、カイにとって長く劣等感だった。
けれど今、その欠落こそが、彼の中の何かを守っていたのだと突きつけられている。
「俺は、あいつらみたいになりたくねえ」
カイは、研究所の奥を睨みつける。
「何が大事だったか思い出せないなんて、真っ平だ」
隔離室の中で、マリユスはその声を聞いていた。
そして、ほんのわずかに目を伏せた。
『対象カイ、強い情緒反応を示す』
グレイスが告げる。
「正常だ」
『怒りは合理的反応?』
「場合による」
『今回は?』
「極めて合理的だ」
クリスティーナは、マリユスを見る。
「あなた自身は、どこまで削れているの」
その問いに、マリユスはすぐには答えなかった。
白い部屋に、静寂が落ちる。
グレイスだけが、淡く光っていた。
『対象マリユスの情緒記憶に、欠損傾向を確認』
「グレイス」
マリユスの声が、わずかに低くなる。
『事実』
「黙っていろ」
『対象クリスティーナの質問に対する回答として、情報提供は妥当』
「余計だ」
クリスティーナの顔から血の気が引いた。
「……いつから?」
マリユスは、小さく息を吐いた。
「正確な開始時期は不明だ。おそらく、深部観測に継続接続して以降」
「どこが?」
「些末な部分だ」
「どこが、と聞いてるの」
マリユスは、少しだけ視線を逸らした。
机の上には、管理班が置いていった黒いカップがあった。
中身は、濃いコーヒーだった。
彼はそれを手に取り、口をつける。
「苦い」
「ええ」
「香りも分かる。温度も分かる。味の分類もできる」
「……それで?」
「だが」
そこで、言葉が一度止まった。
マリユスは、カップの水面を見つめる。
「なぜ、これを好むようになったのかが思い出せない」
クリスティーナは、息を呑んだ。
「最初に飲んだ日のことかもしれない。誰かに勧められたのかもしれない。徹夜の研究中に必要だったのかもしれない。あるいは、ただ苦味が思考に合っていたのかもしれない」
彼は淡々と言う。まるで他人の診断を書くように。
「情報として推測はできる。だが、そこに接続する感情がない」
クリスティーナは、何も言えなかった。
マリユスは続ける。
「記憶の表面は残っている。だが、深部の接続が薄い。おそらく、これが進行すれば、人格の連続性にも影響する」
『補足。進行時、人格欠損の可能性』
グレイスが静かに言った。今度は、マリユスも遮らなかった。
隔離室の外で、アーロンが唇を噛む。
カイもまた、怒りを失ったように黙り込んでいた。
クリスティーナは、机に両手をついた。
「どうして、そんな顔で言えるの」
「どんな顔だ」
「他人事みたいな顔」
マリユスは、わずかに目を伏せた。
そして、ほとんど聞こえない声で呟いた。
「……厄介だな」
それが、彼にできる精一杯の返答だった。
その時、面会終了のブザーではなく、室内の警告灯が赤く点滅した。
『――警告。特例措置の執行を通達』
天井のスピーカーから、管理班長の冷淡な声が響く。
『理事会および摂政府より緊急命令。マリユス・ヘイム。あなたの精神汚染指数が規定値を超えたと判断された。これ以上の進行を防ぐため、現時刻をもって、付随する人格フェーズ「グレイス」をシステムより強制切断、および独立封印する』
その宣告に、部屋の空気が一変した。
「なっ……」
クリスティーナが立ち上がる。
「待ちなさい! 彼女は彼の精神の安定化を――」
『管理班、入室する』
重厚な隔離壁が開き、防護装備に身を包んだ複数の研究員が、遠隔封印用の大型記録盤を手に踏み込んできた。
『マリユス、危険』
グレイスの輪郭が、激しいノイズを伴って明滅する。
青白い光の粒子が、恐怖を示すように激しく震えた。
『切断、拒絶。マリユス、わたしは――』
管理班の一人が、容赦なく記録盤のレバーを引いた。
「システムコード・シーケンス、接続遮断」
「――それを、許可するな!!」
鼓膜を突き刺すような怒号が、白い部屋に炸裂した。
クリスティーナは、自分の耳を疑った。アーロンも、カイも、動きを止めた。
叫んだのは、マリユスだった。
いつも冷徹で、感情を誤差として切り捨て、他人のように自分を診断していた男が、椅子を蹴り飛ばして立ち上がっていた。
黒い手袋の指先が、見たこともないほど激しく震えている。
その瞳に宿っているのは、論理でも計算でもない。剥き出しの、凶暴なまでの拒絶だった。
「マリユス・ヘイム、下がりなさい。これは決定事項――」
「黙れ!!」
マリユスは管理班の前に立ち塞がり、グレイスをかばうように両腕を広げた。
「彼女を切り離せば、深部データの同期が完全に崩壊する! 現象の観測能力を自ら捨てる気か! この愚者どもが!」
「あなたの精神の安全のためだ」
「私の精神など、最初から私の計算内だ! 触れるな! 彼女は――グレイスは、私の記録そのものだ!」
声を荒らげ、激昂するマリユスの背後で、グレイスの光が細かく爆ぜる。
『マリユス、情緒値、計測不能。危険、危険――』
だが、管理班は止まらなかった。
「強制執行。術式、展開」
複数の記録盤から放たれた遮断光線が、マリユスの腕をすり抜け、グレイスの身体を貫いた。
『――』
電子悲鳴のような高音ノイズが室内に響き渡る。
青白い光の粒子が、無理やり引き剥がされ、細い糸を引くように管理班のコンテナへと吸い込まれていく。
『マリユス、せつ、ぞく……喪失。視界、暗、てん――』
引き裂かれる瞬間まで、少女の形をした光はマリユスを見ていた。
次の瞬間、光の粒子は完全に消失し、コンテナのロック音が冷酷に響いた。
「……ッ」
マリユスは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
黒い手袋の手のひらを、肉がちぎれるほどの強さで握りしめ、虚空を掴むようにして、ゆっくりと床へ落とす。
彼から、完全にグレイスが消え去った。
激昂の嵐は去り、彼の顔から、あらゆる表情が急速に抜け落ちていく。
まるで、グレイスと共に、残されていた最後の感情の欠片まで根こそぎ持っていかれたかのように。
「……連行しろ」
管理班長が短く命じる。
研究員たちが、虚脱したマリユスの両脇を抱えた。
マリユスはもう、抵抗しなかった。ただ、感情の消えた瞳で、宙を見つめていた。
管理班に囲まれ、白い部屋を出ていくマリユスの背中は、ひどく細く、頼りなく見えた。
扉が閉まる。
残された研究室で、アーロンは胸元のペンダントを握りしめた。その奥で、聞こえるはずのない音がした。
遠く、深く、世界の底から響いてくるような、円環中枢の駆動音。
世界を動かす代償として、彼らはまた一つ、決定的なものを失った。
静かに、確実に。
物語の歯車が、最悪の回転を始めていた。




