第37周 研究所の陰謀論者
「……また、あの陰謀論者の理屈が燃え上がるな」
廊下の隅で、誰かが乾いた笑いを漏らした。
だが、完全に笑いきれる者はいなかった。
王立アエリス研究所において、マリユス・ヘイムの仮説は、今や無視できない毒素のように、組織の末端まで浸透し始めていたからだ。
真実かどうかを判断する前に、組織の既存言語では処理しきれない。
だから人は、扱いに困る異物に「陰謀論」というラベルを貼る。
それは防衛本能であり、秩序を維持するための、安価で、都合のいい嘲笑だった。
緊急理事会の招集は、午前の第三刻に告げられた。
議題は「位相異常の拡大」と「帰還者アーロンの管理区分」。
だが、参集した理事たちの真の狙いは、その中心にいる一人の研究者――マリユス・ヘイムの処遇であった。
会議室は研究棟上層、外光を遮断した円形の部屋にある。
壁面には歴代理事長の名が刻まれ、中央には白石の長卓。
格式のための沈黙が支配するその場所に、マリユスはいつもの黒い手袋をはめ直し、淡々と足を踏み入れた。
「一応聞くけど」
半歩遅れて歩くクリスティーナが、声を低めて囁いた。
「今日は少しくらい、言い方を丸くする気ある?」
「内容の真偽と語調に相関はない」
「あるのよ、組織では」
「非合理だ」
「知ってるわ。だから聞いたのよ」
クリスティーナは軽く肩をすくめた。
マリユスは答えない。
だが、ほんのわずかに動いた眉が、彼なりの葛藤――あるいは、変える気のない結論を示していた。
席についた理事たちは、観測一筋で生涯を費やした老練な研究者たちだ。
彼らは研究所という秩序を壊しかねない「不確定要素」に、極めて敏感だった。
「では始める」
議長が冷淡に切り出した。
「率直に言おう、マリユス君。君の『位相循環理論』が、内部をいたずらに混乱させている。世界が繰り返しているなどという、証明不能な空想を報告書に並べて、どこが研究だ。それは思想であり、信仰だ」
「思想は証明不能でも成立しますが、仮説は観測と再現を必要とします。私は後者を行っているに過ぎません」
マリユスの声は静かだった。だが、それゆえに反論は鋭く響いた。
「再現だと?」
細身の理事が卓を叩いた。
「青い花が咲き、少年が消えて戻ってきた。それを『円環の証拠』だと言い張るのか。既存理論を無視した暴論だ」
「既存理論では、現在進行中の『世界の摩耗』を説明できません」
マリユスは手元の資料を展開した。
数値表、波形、時間相関図。整然と並んだデータは、むしろ驚くほど堅実だった。
「青い花の発生地点は、位相歪曲点と高い相関を示しています。そして対象アーロンの帰還後、その増幅率は、計算上の臨界点に達しつつある」
「臨界だと……?」
別の理事が、低く呻いた。
「君は我々に、この世界がもうすぐ終わるとでも認めさせたいのか」
「認めさせる必要はありません」
マリユスは表情を変えずに言い放った。
「現象は、我々の承認を待たずに進行します」
会議室の温度が一段、下がった。
理事たちが嫌うのは、仮説の奇抜さではない。
自分たちの権威と理解の範疇を超えた事態を、淡々と突きつけられる瞬間そのものだった。
「……君は、自分が何を言っているのか理解しているのか」
議長の声には、怒りよりも恐怖が混じっていた。
「理解しています」
「ならば、なおさら危険だ」
その言葉に、クリスティーナの視線がわずかに鋭くなる。
議長は続けた。
「君の理論が真実であるならば、それは研究所の根幹を揺るがす。君の理論が誤りであるならば、それは組織全体を混乱させる危険思想だ。どちらにせよ、君をこれ以上、深部観測に関与させるわけにはいかない」
「結論が先にあるようですね」
「結論を出さざるを得ない段階に、君自身が事態を押し進めたのだ」
議長は卓上の決議書に手を置いた。
「提案する。マリユス・ヘイムの位相循環理論に関する研究権限を、即時停止する。あわせて、彼を深部観測および帰還者アーロンの調査から外す」
会議室に、ざわめきが走った。
それは、単なる配置転換ではなかった。事実上の研究者生命の剥奪。
そして、この異常事態の中心から、マリユスを切り離すという宣告だった。
クリスティーナは横目でマリユスを見た。
彼は驚きも怒りも見せず、ただ指先を止め、何かを計算するように視線を落としていた。
「……発言してもよろしいでしょうか」
その声で、空気が切り替わった。
クリスティーナが椅子を引き、静かに立ち上がった。
感情で庇うのではない。そう誰にも理解させる、まっすぐな立ち方だった。
「理事各位。私は彼の理論に全面的に同意しているわけではありません」
彼女は、あえて最初にそう言った。
「ですが、現時点で最も深く『現象』へ接続している人間が誰かと問われれば、彼をおいて他にいません」
「記録執行班主任、クリスティーナ・エルデン。君は彼の副官だったな。実に嘆かわしい。君は彼の暴走を軽視している」
「いいえ。むしろ、その危険性を最も理解しているのは私です」
クリスティーナは、真っ直ぐに議長を見据えた。
「ですが、理解しづらいという理由で、唯一『深部』へ潜れている人間を排除するのは、研究機関として最も愚かな選択です。彼の理論が間違っているなら、検証の過程で自ずと破綻します。ならば、監視下に置けばいい。実験権限を制限し、記録を義務化し、独断介入を禁じればいい。ですが――」
彼女は一拍、置いた。
「もし彼が正しいなら。今、彼の手を止める損失は、人類にとって取り返しがつかないものになります」
沈黙が落ちた。
理事たちもまた、かつては真実への執着だけで生きてきた研究者なのだ。
その本能が、彼女の言葉に微かに共鳴していた。
「……監視下での継続を提案します」
クリスティーナは続けた。
「深部観測への単独介入を禁じ、すべての実験には私が立ち会います。対象アーロンへの接触記録も、全件提出します。それであれば、組織としての統制は保てるはずです」
議長はしばらく考え込んだ。その表情には、迷いがあった。
ほんのわずかに、決議の天秤が傾きかける。
その時だった。
低い振動が、会議室の床を震わせた。
最初は、遠くの機械音のようだった。
だが、すぐにそれが通常運転の響きではないことを、研究所にいる誰もが理解した。
壁面の灯が、青白く明滅する。
記録盤の表示が乱れ、円形の会議室に、乾いた警告音が連続して鳴り響いた。
『――円環中枢、再起動反応を検出』
機械音声が告げた瞬間、理事たちの顔色が変わった。
「円環中枢……?」
「そんな馬鹿な。あれは休眠状態に――」
「誰が起動した」
「外部介入か?」
混乱する声の中で、マリユスだけが静かに顔を上げた。
その目には、驚きではなく、最悪の仮説が証明された者の冷たい光が宿っていた。
「……やはり、臨界に入ったか」
その一言が、理事たちの恐怖に火をつけた。
「やはり、だと?」
議長が立ち上がった。
「君は知っていたのか」
「予測はしていました」
「なぜ報告しなかった」
「報告書には記載しています。第七項、補足資料三、臨界到達時における円環中枢の自律再起動可能性」
マリユスは淡々と告げた。
「読まれなかったのであれば、それは私の責任ではありません」
正論は、時にどんな暴論よりも人を追い詰める。
理事たちの顔に浮かんだものは、怒りではない。恐怖だった。
自分たちの知らない深度まで、すでにこの男が到達していたことへの恐怖。
そして、世界の終わりに最も近い場所に立っているのが、自分たちではなく、目の前の「陰謀論者」だという事実への恐怖。
「……決議を変更する」
議長の声は、わずかに震えていた。
「マリユス・ヘイムの研究権限を即時停止。全記録を押収。深部観測区への立ち入りを禁止する」
「議長!」
クリスティーナが声を上げた。だが、議長は彼女を見なかった。
「加えて、対象者は円環中枢の異常起動と関連する高度危険因子と判断し、隔離管理下に置く」
その言葉に、会議室から完全に温度が消えた。
隔離。
その二文字が持つ意味を、ここにいる全員が理解していた。
研究者としての停止ではない。一人の人間として、世界の中心から切り離されるということだった。
「待ってください」
クリスティーナの声が、今度は明確に揺れた。
「今、彼を隔離するのは最悪の判断です。円環中枢が動いた以上、彼の知識が必要になる。少なくとも解析権限だけは――」
「これ以上、彼に近づかせる方が危険だ」
議長は、初めて怒鳴るように言った。
「君にも分からないのか。中枢が反応したのは、彼が深く踏み込みすぎたからかもしれない。彼自身が、異常の誘因である可能性もあるのだ」
「可能性だけで、唯一の解析者を封じるのですか」
「可能性だけで十分だ。今は世界が揺れている」
議長の言葉には、研究者の理性ではなく、権力者の防衛本能が滲んでいた。
「マリユス・ヘイム。君を、暫定的に隔離管理区画へ移送する。処分の再審議は、中枢反応の安定後に行う」
「安定すれば、の話ですね」
マリユスが静かに言った。
議長は答えず、会議は、そのまま閉じられた。
会議室を出た廊下は、妙に長く感じられた。
研究員たちの囁きが走る。
「権限停止らしい」
「隔離だって?」
「本当に、そこまで危険なのか」
「……でも、中枢が動いたんだろ」
「もしあいつの言うことが本当なら、どうなるんだ」
かつての嘲笑の中には、今や隠しきれない畏れが混じり始めていた。
夕刻。
研究室に戻ったマリユスは、さも些末な手続きを終えたかのように、黒板の前に立っていた。
ただし、いつものように数式を書き足しているわけではない。
黒板の端に書かれた円環図を見つめながら、必要な記録束を選び、机の上に積み分けていた。
持ち出しを許される資料は、ほとんどない。
彼の研究は、彼自身の手から奪われようとしていた。
クリスティーナが入ってきて、机にコーヒーのカップを置いた。
湯気が、静かに揺れる。
「……ごめんなさい」
その言葉は、彼女らしくなかった。
マリユスはカップを一瞥し、少しだけ首を傾げた。
「君が謝る理由はない。君の弁護は、論理的かつ有効だった」
「でも、止められなかった」
「相手が論理で判断していなかった」
「そういう時に勝つための言葉も、必要なのよ」
クリスティーナは、悔しさを噛み殺すように言った。
マリユスはしばらく黙っていた。
それから、淡々と答える。
「君は、未知を組織に残そうとした。それで十分だ」
「十分じゃないわよ」
彼女の声が、少しだけ掠れた。
「あなた、隔離されるのよ」
「一時的な措置だ」
「本気でそう思ってる?」
「いいや」
即答だった。
クリスティーナは、かすかに目を伏せた。
その沈黙が、二人の間に重く落ちる。
扉が二度叩かれ、アーロンが覗き込んだ。
「……入ってもいい?」
「構わない」
アーロンは遠慮がちに部屋へ入った。
彼の視線は、机の上に積まれた記録束と、封印処理のために置かれた黒い収納箱の間を行き来している。
「僕のせいで、面倒なことになったの?」
「違う」
マリユスは即座に言った。
「元からだ」
「元から?」
「私は以前から嫌われやすい」
あまりにも事務的に言うので、クリスティーナが思わず吹き出した。
「自覚はあるのね」
「統計的事実だ」
アーロンも、つられて少しだけ笑った。
ほんの短い間だったが、昨日から胸に張りついていた緊張が少しだけ緩んだ。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
規則正しく、感情のない足音。迎えが来たのだと、誰もが理解した。
マリユスは、黒い手袋の指先を整えた。
そして、アーロンへ向き直る。
「君が戻ったことで、仮説はもはや仮説ではなくなった。古代で起きたことは、アーロン、君の内側だけに閉じていない。世界はもう、後戻りできない段階に入った」
アーロンは無意識に胸元のペンダントを握った。
「僕は……何を持って帰ってきたんだろう」
「まだ断定はできない。だが」
マリユスは黒板の円環図を見つめた。
「君は誤差ではない」
そして、ゆっくりと続けた。
「この世界の解そのものだ」
その言葉が落ちた瞬間、研究所の深部で、再び乾いた警報音が鳴った。
今度は先ほどよりも低く、重い。
長い眠りから何かが目を覚ましたような、あるいは、すべてを終わらせるための秒読みのような音だった。
扉が開く。
隔離管理班の研究員たちが、無言で立っていた。
クリスティーナが一歩、前に出ようとする。だが、マリユスは片手でそれを制した。
「記録を続けてくれ」
「……命令?」
「依頼だ」
その一言に、クリスティーナの表情がわずかに歪んだ。
マリユスが誰かに「依頼」と言うことなど、ほとんどなかったからだ。
アーロンは何かを言おうとした。けれど、言葉が喉で止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
止めたい。けれど、自分に止める力はない。
マリユスはそんなアーロンの沈黙を責めるでもなく、ただ静かに告げた。
「忘れるな。君が見たものは、君だけの記憶ではない」
「……マリユス」
「観測しろ、アーロン」
それは命令ではなかった。
理論を信じる彼からは遠い、願いや希望に近い響きだった。
次の瞬間、隔離管理班が彼を囲む。
マリユスは抵抗しなかった。最後に一度だけ、黒板に描かれた円環を見た。
そして、振り返らずに研究室を出ていった。
扉が閉まる。
その音は、あまりにも軽かった。
一人の研究者が世界の中心から切り離された音にしては、あまりにも。
残された研究室で、黒板の円環図だけが、青白い警告灯に照らされて浮かび上がっていた。
クリスティーナは、机の上に残されたコーヒーを見つめた。
湯気はまだ、消えていない。
アーロンは胸元のペンダントを握りしめる。
その奥で、聞こえるはずのない音がした。
遠く、深く、世界の底から響いてくるような音。
円環中枢が、再び目を覚ましていた。




