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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第三部 観測者の帰還
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第37周 研究所の陰謀論者

「……また、あの陰謀論者の理屈が燃え上がるな」


廊下の隅で、誰かが乾いた笑いを漏らした。

だが、完全に笑いきれる者はいなかった。


王立アエリス研究所において、マリユス・ヘイムの仮説は、今や無視できない毒素のように、組織の末端まで浸透し始めていたからだ。


真実かどうかを判断する前に、組織の既存言語では処理しきれない。

だから人は、扱いに困る異物に「陰謀論」というラベルを貼る。

それは防衛本能であり、秩序を維持するための、安価で、都合のいい嘲笑だった。


緊急理事会の招集は、午前の第三刻に告げられた。

議題は「位相異常の拡大」と「帰還者アーロンの管理区分」。


だが、参集した理事たちの真の狙いは、その中心にいる一人の研究者――マリユス・ヘイムの処遇であった。


会議室は研究棟上層、外光を遮断した円形の部屋にある。

壁面には歴代理事長の名が刻まれ、中央には白石の長卓。


格式のための沈黙が支配するその場所に、マリユスはいつもの黒い手袋をはめ直し、淡々と足を踏み入れた。


「一応聞くけど」


半歩遅れて歩くクリスティーナが、声を低めて囁いた。


「今日は少しくらい、言い方を丸くする気ある?」

「内容の真偽と語調に相関はない」


「あるのよ、組織では」

「非合理だ」


「知ってるわ。だから聞いたのよ」


クリスティーナは軽く肩をすくめた。


マリユスは答えない。

だが、ほんのわずかに動いた眉が、彼なりの葛藤――あるいは、変える気のない結論を示していた。


席についた理事たちは、観測一筋で生涯を費やした老練な研究者たちだ。

彼らは研究所という秩序を壊しかねない「不確定要素」に、極めて敏感だった。


「では始める」


議長が冷淡に切り出した。


「率直に言おう、マリユス君。君の『位相循環理論』が、内部をいたずらに混乱させている。世界が繰り返しているなどという、証明不能な空想を報告書に並べて、どこが研究だ。それは思想であり、信仰だ」


「思想は証明不能でも成立しますが、仮説は観測と再現を必要とします。私は後者を行っているに過ぎません」


マリユスの声は静かだった。だが、それゆえに反論は鋭く響いた。


「再現だと?」


細身の理事が卓を叩いた。


「青い花が咲き、少年が消えて戻ってきた。それを『円環の証拠』だと言い張るのか。既存理論を無視した暴論だ」


「既存理論では、現在進行中の『世界の摩耗』を説明できません」


マリユスは手元の資料を展開した。

数値表、波形、時間相関図。整然と並んだデータは、むしろ驚くほど堅実だった。


「青い花の発生地点は、位相歪曲点と高い相関を示しています。そして対象アーロンの帰還後、その増幅率は、計算上の臨界点に達しつつある」


「臨界だと……?」


別の理事が、低く呻いた。


「君は我々に、この世界がもうすぐ終わるとでも認めさせたいのか」


「認めさせる必要はありません」


マリユスは表情を変えずに言い放った。


「現象は、我々の承認を待たずに進行します」


会議室の温度が一段、下がった。


理事たちが嫌うのは、仮説の奇抜さではない。

自分たちの権威と理解の範疇を超えた事態を、淡々と突きつけられる瞬間そのものだった。


「……君は、自分が何を言っているのか理解しているのか」


議長の声には、怒りよりも恐怖が混じっていた。


「理解しています」


「ならば、なおさら危険だ」


その言葉に、クリスティーナの視線がわずかに鋭くなる。


議長は続けた。


「君の理論が真実であるならば、それは研究所の根幹を揺るがす。君の理論が誤りであるならば、それは組織全体を混乱させる危険思想だ。どちらにせよ、君をこれ以上、深部観測に関与させるわけにはいかない」


「結論が先にあるようですね」


「結論を出さざるを得ない段階に、君自身が事態を押し進めたのだ」


議長は卓上の決議書に手を置いた。


「提案する。マリユス・ヘイムの位相循環理論に関する研究権限を、即時停止する。あわせて、彼を深部観測および帰還者アーロンの調査から外す」


会議室に、ざわめきが走った。


それは、単なる配置転換ではなかった。事実上の研究者生命の剥奪。

そして、この異常事態の中心から、マリユスを切り離すという宣告だった。


クリスティーナは横目でマリユスを見た。

彼は驚きも怒りも見せず、ただ指先を止め、何かを計算するように視線を落としていた。



「……発言してもよろしいでしょうか」


その声で、空気が切り替わった。

クリスティーナが椅子を引き、静かに立ち上がった。


感情で庇うのではない。そう誰にも理解させる、まっすぐな立ち方だった。


「理事各位。私は彼の理論に全面的に同意しているわけではありません」


彼女は、あえて最初にそう言った。


「ですが、現時点で最も深く『現象』へ接続している人間が誰かと問われれば、彼をおいて他にいません」


「記録執行班主任、クリスティーナ・エルデン。君は彼の副官だったな。実に嘆かわしい。君は彼の暴走を軽視している」


「いいえ。むしろ、その危険性を最も理解しているのは私です」


クリスティーナは、真っ直ぐに議長を見据えた。


「ですが、理解しづらいという理由で、唯一『深部』へ潜れている人間を排除するのは、研究機関として最も愚かな選択です。彼の理論が間違っているなら、検証の過程で自ずと破綻します。ならば、監視下に置けばいい。実験権限を制限し、記録を義務化し、独断介入を禁じればいい。ですが――」


彼女は一拍、置いた。


「もし彼が正しいなら。今、彼の手を止める損失は、人類にとって取り返しがつかないものになります」


沈黙が落ちた。

理事たちもまた、かつては真実への執着だけで生きてきた研究者なのだ。

その本能が、彼女の言葉に微かに共鳴していた。


「……監視下での継続を提案します」


クリスティーナは続けた。


「深部観測への単独介入を禁じ、すべての実験には私が立ち会います。対象アーロンへの接触記録も、全件提出します。それであれば、組織としての統制は保てるはずです」


議長はしばらく考え込んだ。その表情には、迷いがあった。

ほんのわずかに、決議の天秤が傾きかける。


その時だった。


低い振動が、会議室の床を震わせた。

最初は、遠くの機械音のようだった。

だが、すぐにそれが通常運転の響きではないことを、研究所にいる誰もが理解した。


壁面の灯が、青白く明滅する。

記録盤の表示が乱れ、円形の会議室に、乾いた警告音が連続して鳴り響いた。


『――円環中枢、再起動反応を検出』


機械音声が告げた瞬間、理事たちの顔色が変わった。


「円環中枢……?」


「そんな馬鹿な。あれは休眠状態に――」


「誰が起動した」


「外部介入か?」


混乱する声の中で、マリユスだけが静かに顔を上げた。

その目には、驚きではなく、最悪の仮説が証明された者の冷たい光が宿っていた。


「……やはり、臨界に入ったか」


その一言が、理事たちの恐怖に火をつけた。


「やはり、だと?」


議長が立ち上がった。


「君は知っていたのか」


「予測はしていました」


「なぜ報告しなかった」


「報告書には記載しています。第七項、補足資料三、臨界到達時における円環中枢の自律再起動可能性」


マリユスは淡々と告げた。


「読まれなかったのであれば、それは私の責任ではありません」


正論は、時にどんな暴論よりも人を追い詰める。


理事たちの顔に浮かんだものは、怒りではない。恐怖だった。

自分たちの知らない深度まで、すでにこの男が到達していたことへの恐怖。

そして、世界の終わりに最も近い場所に立っているのが、自分たちではなく、目の前の「陰謀論者」だという事実への恐怖。


「……決議を変更する」


議長の声は、わずかに震えていた。


「マリユス・ヘイムの研究権限を即時停止。全記録を押収。深部観測区への立ち入りを禁止する」


「議長!」


クリスティーナが声を上げた。だが、議長は彼女を見なかった。


「加えて、対象者は円環中枢の異常起動と関連する高度危険因子と判断し、隔離管理下に置く」


その言葉に、会議室から完全に温度が消えた。


隔離。


その二文字が持つ意味を、ここにいる全員が理解していた。

研究者としての停止ではない。一人の人間として、世界の中心から切り離されるということだった。


「待ってください」


クリスティーナの声が、今度は明確に揺れた。


「今、彼を隔離するのは最悪の判断です。円環中枢が動いた以上、彼の知識が必要になる。少なくとも解析権限だけは――」


「これ以上、彼に近づかせる方が危険だ」


議長は、初めて怒鳴るように言った。


「君にも分からないのか。中枢が反応したのは、彼が深く踏み込みすぎたからかもしれない。彼自身が、異常の誘因である可能性もあるのだ」


「可能性だけで、唯一の解析者を封じるのですか」

「可能性だけで十分だ。今は世界が揺れている」


議長の言葉には、研究者の理性ではなく、権力者の防衛本能が滲んでいた。


「マリユス・ヘイム。君を、暫定的に隔離管理区画へ移送する。処分の再審議は、中枢反応の安定後に行う」


「安定すれば、の話ですね」


マリユスが静かに言った。

議長は答えず、会議は、そのまま閉じられた。


会議室を出た廊下は、妙に長く感じられた。

研究員たちの囁きが走る。


「権限停止らしい」


「隔離だって?」


「本当に、そこまで危険なのか」


「……でも、中枢が動いたんだろ」


「もしあいつの言うことが本当なら、どうなるんだ」


かつての嘲笑の中には、今や隠しきれない畏れが混じり始めていた。



夕刻。


研究室に戻ったマリユスは、さも些末な手続きを終えたかのように、黒板の前に立っていた。

ただし、いつものように数式を書き足しているわけではない。


黒板の端に書かれた円環図を見つめながら、必要な記録束を選び、机の上に積み分けていた。


持ち出しを許される資料は、ほとんどない。

彼の研究は、彼自身の手から奪われようとしていた。


クリスティーナが入ってきて、机にコーヒーのカップを置いた。


湯気が、静かに揺れる。


「……ごめんなさい」


その言葉は、彼女らしくなかった。

マリユスはカップを一瞥し、少しだけ首を傾げた。


「君が謝る理由はない。君の弁護は、論理的かつ有効だった」


「でも、止められなかった」


「相手が論理で判断していなかった」


「そういう時に勝つための言葉も、必要なのよ」


クリスティーナは、悔しさを噛み殺すように言った。


マリユスはしばらく黙っていた。


それから、淡々と答える。


「君は、未知を組織に残そうとした。それで十分だ」


「十分じゃないわよ」


彼女の声が、少しだけ掠れた。


「あなた、隔離されるのよ」


「一時的な措置だ」


「本気でそう思ってる?」

「いいや」


即答だった。

クリスティーナは、かすかに目を伏せた。


その沈黙が、二人の間に重く落ちる。


扉が二度叩かれ、アーロンが覗き込んだ。


「……入ってもいい?」


「構わない」


アーロンは遠慮がちに部屋へ入った。

彼の視線は、机の上に積まれた記録束と、封印処理のために置かれた黒い収納箱の間を行き来している。


「僕のせいで、面倒なことになったの?」

「違う」


マリユスは即座に言った。


「元からだ」

「元から?」


「私は以前から嫌われやすい」


あまりにも事務的に言うので、クリスティーナが思わず吹き出した。


「自覚はあるのね」


「統計的事実だ」


アーロンも、つられて少しだけ笑った。


ほんの短い間だったが、昨日から胸に張りついていた緊張が少しだけ緩んだ。

けれど、その笑いは長く続かなかった。


廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。

規則正しく、感情のない足音。迎えが来たのだと、誰もが理解した。


マリユスは、黒い手袋の指先を整えた。

そして、アーロンへ向き直る。


「君が戻ったことで、仮説はもはや仮説ではなくなった。古代で起きたことは、アーロン、君の内側だけに閉じていない。世界はもう、後戻りできない段階に入った」


アーロンは無意識に胸元のペンダントを握った。


「僕は……何を持って帰ってきたんだろう」


「まだ断定はできない。だが」


マリユスは黒板の円環図を見つめた。


「君は誤差ではない」


そして、ゆっくりと続けた。


「この世界の解そのものだ」


その言葉が落ちた瞬間、研究所の深部で、再び乾いた警報音が鳴った。

今度は先ほどよりも低く、重い。


長い眠りから何かが目を覚ましたような、あるいは、すべてを終わらせるための秒読みのような音だった。


扉が開く。


隔離管理班の研究員たちが、無言で立っていた。


クリスティーナが一歩、前に出ようとする。だが、マリユスは片手でそれを制した。


「記録を続けてくれ」


「……命令?」


「依頼だ」


その一言に、クリスティーナの表情がわずかに歪んだ。

マリユスが誰かに「依頼」と言うことなど、ほとんどなかったからだ。


アーロンは何かを言おうとした。けれど、言葉が喉で止まる。

何を言えばいいのか分からなかった。


止めたい。けれど、自分に止める力はない。

マリユスはそんなアーロンの沈黙を責めるでもなく、ただ静かに告げた。


「忘れるな。君が見たものは、君だけの記憶ではない」


「……マリユス」

「観測しろ、アーロン」


それは命令ではなかった。

理論を信じる彼からは遠い、願いや希望に近い響きだった。


次の瞬間、隔離管理班が彼を囲む。

マリユスは抵抗しなかった。最後に一度だけ、黒板に描かれた円環を見た。

そして、振り返らずに研究室を出ていった。


扉が閉まる。


その音は、あまりにも軽かった。


一人の研究者が世界の中心から切り離された音にしては、あまりにも。

残された研究室で、黒板の円環図だけが、青白い警告灯に照らされて浮かび上がっていた。


クリスティーナは、机の上に残されたコーヒーを見つめた。

湯気はまだ、消えていない。


アーロンは胸元のペンダントを握りしめる。

その奥で、聞こえるはずのない音がした。


遠く、深く、世界の底から響いてくるような音。


円環中枢が、再び目を覚ましていた。

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